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過去の礼拝説教

「主よ、救い出してください」

2020年08月16日 聖書:マタイによる福音書 6:13

戦国時代山陰地方に、武芸・教養の両面に秀でていた、山中鹿介という武将がいました。
この山中鹿介は、「願わくば、我に七難八苦を与えたまへ」、と三日月に祈ったと伝えられています。自分を鍛え、もっと強くなるために、七難八苦を与えたまえ、と祈ったのです。
この鹿介の祈願は、今朝の御言葉と、正反対です。今朝の御言葉はこう言っています。
「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。 私たちがいつも祈っている文語体では、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」となっています。
山中鹿介は、自分をもっと鍛えるために、七難八苦を与えたまへ、と祈りました。
それに対して主は、「私たちを試みに遭わせないでください」、と祈るように勧めています。
世の人々は、こう言うかもしれません。主の祈りは、弱々しくて、消極的ではないか。
人生は、所詮、戦いなのだから、困難と正面から戦う気概を持つべきだ。
だから、鹿介のように、「我に七難八苦を与えたまえ」、と祈るべきなのではないか。
そこまでいかなくても、「我らを試みに負けない者とし、悪に勝たせたまえ」、と祈るべきではないだろうか。そんな声が聞こえてきそうです。
しかし、主イエスは、「試みに遭わせず、救ってください」、と祈りなさいと教えられました。
「主よ、助けてください」、と叫んで良いのだ。いえ、そう叫びなさい、と言われたのです。
これは、主の祈りの最後の願いの言葉です。最後に、主イエスは、「助けてください、救ってください」、と祈るように教えられたのです。
「負けるな!がんばれ!悪に打ち勝て!」と命じられたのではなく、苦難に遭った時には、「助けてください、救ってください」と叫びなさい、と教えられたのです。
私は、助けを求める、あなたの祈りを聴こう。そして、それを受け止めよう。主は、そう言われたのです。
そう言われた主イエスご自身は、荒野で悪魔の誘惑に、敢然として立ち向かわれ、勝利された、神の独り子です。
私たちは、そのお方に、「助けて下さい」と祈ることが出来るのです。何と心強いことでしょうか。私たちの主は、試みの只中において、まさに私たちの救い主でいて下さるのです。
ところで、主イエスは、何故、「弱々しくて、消極的だ」と、非難されかねないような祈りを、私たちに教えられたのでしょうか。
何故、もっと力強くて、勇ましい祈りを、教えられなかったのでしょうか。
主イエスは、ご存じだったのです。私たちの弱さを。私たちが、いかに弱い者であるかを、よく知っておられたのです。
「どんなことがあっても、決してあなたから離れません。あなたを見捨てることなど、絶対にありません」と豪語しながら、その直後に、主を見捨てて逃げてしまうような弟子たち。
嵐の海で、船が沈みそうになると、主イエスが、直ぐ傍におられるのに、恐怖に駆られて、「あぁ、どうしよう、おぼれてしまう」、とうろたえてしまう弟子たち。
この弟子たちの姿は、私たちの姿でもあります。主イエスは、そんな私たちの弱さを、私たち以上に知っておられたのです。
そしてまた、私たちを誘惑する、悪の力の強さをも、良く知っておられたのです。
その悪の力は、私たちが頑張って、努力すれば、打ち勝てるような、生易しいものではないのです。それは、私たちの想像を遥かに超えて強力で、そして巧妙な力なのです。
ですから、神様の御力によってしか、打ち勝つことが出来ないのです。
最後の晩餐の席で、ペトロは、主イエスに対して、「たとえ他の者があなたを裏切っても、私は決してあなたを裏切りません」、と勇ましく言い放ちました。
そのペトロに、主イエスはこう言われました。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」
シモンというのはペトロの別名です。そして、サタンというのは、悪魔のことです。
主は言われました。「ペトロよ、あなたは、風に吹かれる一粒の小麦のように、いとも容易く、サタンの餌食になってしまう。
だから私は、あなたの信仰がなくならないように祈った。そして、これからも祈り続ける。
だから、あなたが、信仰を失うことはないのだ」。
ペトロにこう言われた主は、私たちにも言われています。
もし、サタンの誘惑に遭った時は、「主よ、助けてください。救ってください」、と祈りなさい。
その祈りの中で、サタンの方に向いているあなたの顔を、私の方に向けなさい。
あなたの罪のために、十字架で、今もまた、新たな血を流している私を見なさい。
サタンの誘惑の眼差しから目を逸らし、私の愛の眼差しを見つめなさい。
そして私が、あなたのために祈っていることを、想い起しなさい。
あなたは、サタンと戦おうとしないで良いのだ。サタンとの戦いは、この私が担うから。
あなたがなすべき事は、向きを変えて、サタンの許から、私の許に逃げて来ることなのだ。
そして、この私から、目を逸らさないようにすることなのだ。
それが、誘惑から身を守る、唯一の方法なのだ。主イエスはそう言われているのです。
主イエスは、「悪から救い出したまえ」、と祈ることを教えています。
「悪から」という言葉は、「悪しき者から」とも、訳せる言葉です。主イエスは、悪しき者から、つまり、悪魔の誘惑から逃れさせてください、と祈るように教えられたのです。
「悪より救い出したまえ」、という祈りは、ただ「悪いことをしませんように」、という祈りではありません。悪魔の強力な力から、助け出してください、という切実な祈りなのです。
では、悪魔とは、どのような存在なのでしょうか。
分かり易く言えば、悪魔というのは、私たちを、神様から、引き離そうとする「力」です。
その姿を、具体的に示すことはできませんが、そういう力が、確かに存在することを、私たちは知っています。そして、それは、恐ろしく強力で、巧妙な力なのです。
この悪魔は、決して、悪魔の顔をしては近づいてきません。極めて巧妙に、如何にも私たちの見方であるかのように、優しく近づいて来て、私たちを神様から引き離すのです。
初めは、小さな悪へと誘いこみます。「これ位なら大丈夫だよ。いつでも後戻りできるよ。神様も、これ位は大目に見てくれるよ」。
そう言って誘い込んでおいて、次第により大きな悪へと、私たちを陥れていくのです。
マルティン・ルターは、「悪魔の誘惑は、二つの方向からやって来る」と言っています。
一つは、病気や、挫折や、失敗などの、人生の逆境を利用して、やって来ます。
私たちが、苦難や逆境にあって、思い悩んでいる時に、悪魔は近付いて来ます。
そして、こんな時に、助けてくれない神なんか信じることないよ。大体、こんな辛い目に遭うのは、神なんかいないということだよ。神は愛である、なんて嘘だよ。
そう囁いて、神様の存在を疑わせ、私たちを神様から引き離そうとするのです。
ルターがこういうことを言った背景の一つに、ペストの大流行という出来事がありました。
ルターの時代の少し前に、ヨーロッパの人口の約1/4が死亡するという、ペストの大流行が起きました。
ルターは、そんな時、悪魔が、「ほらご覧、神なんかいないよ」と囁くのを知っていました。
ですから、そういう悲惨な時こそ、悪魔の声に惑わされずに、今も生きておられる主イエスに、「どうか助けて下さい」、と叫ぼうではないか、と呼び掛けたのです。
これは、コロナの、恐れと不安の中にいる私たちが、今、聞くべき言葉でもあります。
ルターが指摘した、悪魔の誘惑がやって来る、もう一つの方向は、そのような悲惨な状況とは全く逆で、成功と繁栄の中で、有頂天になっている時です。
物事すべてが順調なため、自分の力を過信し、神様なしでもやっていける、と思う時です。
思いがけない成功に浮かれている時、私たちは、往々にして、神様を見失うのです。
クリスチャン作家の三浦綾子さんは、「氷点」という小説で、1千万円懸賞小説に当選し、作家として華々しくデビューしました。
当選発表の当日、旭川の三浦さんの自宅には、大勢の報道陣が詰めかけました。
ご主人の三浦光世さんが、帰宅すると、家の周りは大勢の人でごった返しています。
それを見た光世さんは、綾子さんの手を引いて2階に上り、静かに言いました。
「綾子、祈ろう。大勢の人に褒められると、神様を忘れて、愚か者になりかねない。
サタンは、サタンの顔をしては来ないよ。今、綾子は、サタンに狙われているのだよ。」
光世さんの言う通りです。得意の絶頂で、有頂天になっている時、サタンは、囁きます。
「お前はたいした者だ。神などに頼らなくても、自分の力だけで、立派にやって行ける。
もう、神などを信じる必要はないよ。」
サタンは実に、巧妙です。失意の時も、得意の時も、すーと私たちの心に忍び込んで、私たちを神様から引き離そうとするのです。これが誘惑であり、試みなのです。
皆さん、今、「これが誘惑であり、試みです」、と申しましたが、今朝の御言葉について、よく問われることがあります。
それは、聖書では、「誘惑」と訳されているけれども、文語体の祈りの言葉では、「試み」となっている。一体、どちらが正しいのか、という問いです。
実は、原語の「ペイラスモス」という言葉は、「誘惑」とも「試み」とも、どちらにも訳せる言葉なのです。
ですから、この言葉を、「誘惑」と訳すべきか、「試み」と訳すべきか、昔から議論がなされてきました。しかし、そのような議論は、あまり意味がないと思います。
実際、私たちが、悪魔の攻撃を受けている時に、「これは誘惑だ」、「これは試みだ」、等といちいち分析してはいられないと思います。そんな余裕はないのです。それ程、悪魔の攻撃は、激しく、また巧妙なのです。
ですから、私たちは、悪魔の誘惑に負けてしまうことが多いのです。
主は、悪魔の誘惑を感じたら、悪魔から目を逸らして私を見つめなさい、と言われました。
でも、目を逸らす間もなく、悪魔は私たちを捕らえて、神様を見えなくしてしまうのです。
そして、私たちは、主が、祈ってくれているにもかかわらず、誘惑に負けてしまうのです。
その時、私たちは、自分の弱さに打ちのめされ、絶望的な気持ちになります。
主の前に、ひざまずき、悔い改めの涙を、流すしかなくなります。
でもその時、私たちに示されるものがあります。胸に迫って来るものがあります。
それは、十字架の主イエスです。私たちが誘惑に負けて、罪を犯す毎に、主イエスは、十字架の上で、新たな血を流されます。その主イエスのお姿です。
そして、私たちは、主の御声を聞くのです。「あなたの罪は、私が十字架の血潮で贖った。あなたは、この私の痛みが分かるか。分かるなら、これからはもう罪を犯さないように。」
私たちは、この主の御声に励まされて、再び、立ち上がって歩き出します。
でもまた誘惑に負けて、主に新たな血を流させてしまいます。そして、また悔い改めます。
何度も何度も、そんなことを繰り返しながら、私たちは、少しずつ聖められていくのです。
皆さん、私たちの信じる主は、私たちのために祈って下さるお方です。
その祈りにもかかわらず、私たちが悪魔の誘惑に負けた時には、私たちを責めるのではなく、ご自身が十字架で血を流されて、私たちを赦して下さるお方なのです。
ですから私たちは日毎に祈るのです。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」。
皆さん、悪魔は神様を否定します。悪魔は愛を否定します。神などどこにいるのか。この世のどこに真実の愛が見られるのか、と囁きます。
神を信じて生きているお前は、そのお蔭で、損ばかりしているではないか。愛そうとしても、裏切られて、苦しむばかりではないか。
もうそんな生き方は、止めてしまいなさい。その方が楽に生きられるよ。悪魔はそう囁くのです。
しかし、そういう声に対して、聖書は叫びます。
いや、神は愛なのだ。神にこそ愛があるのだ。あなたは、この愛の中を生きなさい。
あなたは弱い。しかし、主は強いのだ。その主が、あなたの信仰がなくならないように、祈ってくれている。
だから、その主に向かって、こう叫びなさい。「どうか、悪しき者から救い出して下さい。どうか、私の信仰がなくならないようにお守りください」。
この叫びに、主は応えて下さいます。
私の許に来なさい。そして、私の翼の影に身を寄せなさい。雛が親鳥の羽の下で安らぐように、私の羽の下で安らぎなさい。私は、あなたを、瞳のように守ってあげよう。
私たちは、この主の御声を聴きつつ、主の御手の中に、逃れていきたいと思います。
主イエスは、十字架で傷ついた手を広げて、私たちを迎え入れてくださいます。
皆さん、私たちは6週間に亘って、主の祈りから、ご一緒に御言葉に聴いてまいりました。
主の祈りは、「御名があがめられますように。御国が来ますように」、という願いから始まりました。初めに、聖なる神様のご支配が、この地に行き渡りますように、と祈りました。
そして、終わりでは、この私が悪魔に支配されることなく、神様によって支配されますように、と祈っています。
初めは、この世に、神様のご支配がなりますようにと祈り、最後は、この私に、神様のご支配がなりますように、と祈っているのです。これこそが、私たちが祈るべき祈りなのです。
6週間に亘って、私たちは、主の祈りに込められた、深い恵みを味わってまいりました。
これからも、この主の祈りを祈る度に、その恵みに満たされていきたいと願います。
そして、この祈りを与えてくださった主に、心からの感謝を献げていきたいと思います。