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過去の礼拝説教

「主がご存知なら」

2020年08月23日 聖書:マタイによる福音書 6:16~18

私たちは、大事な事に備える時に、好きなものを断って、気持ちを整えることがあります。
スポーツの世界でも、好きなものを断って、勝利を誓うということが、時々なされます。
昔から人間は、好きなものを断って、大事な事に備える、ということをしてきました。
その代表的なものが、食を断つ、つまり断食です。今朝はその断食の話です。
ところで、皆さんは、断食という言葉を聞かれて、どう思われるでしょうか。普段、断食を、身近に感じておられるでしょうか。
メタボを解消するために、食事を制限するとか、健康診断のために、一食抜くということは、よくするけれども、精神を集中するために、食を断つということはしたことがない。
そういう方が多いのではないかと思います。現代の日本において、断食という行為は、日常生活には、直接関係のない事柄になっています。
しかし、主イエスの時代、断食は、ユダヤの人々の日常生活に直結した、大変身近なことであったのです。それどころか、大変大切な業とされていたのです、
私たちは、6週間かけて、「主の祈り」の御言葉を、1節1節、丁寧に聴いて来ました。
そのため、マタイによる福音書6章全体の流れから、少々逸れてしまいました。
しかし、今朝から、また、全体の文脈に沿って、マタイによる福音書6章の御言葉を、味わっていきたいと思います。
マタイによる福音書6章は、1節から18節まで、一つの主題によって纏められています。
その主題が1節に書かれています。それは、信仰の業を行う時には、人からの称賛を求めるのではなくて、隠れたことを見ておられる、神様の報いを求めなさい、ということです。
そして2節から4節までが、「施し」について、5節から15節までが「祈り」について、そして、今朝の御言葉の16節から18節までが、「断食」について語られているのです。
施し、祈り、断食。これら三つは、当時のユダヤの人々にとって、最も大切な宗教的徳目とされていました。
主イエスも、これら三つの徳目を、神様と人とが結び合う業として、大切にされました。
しかし同時に、主イエスは、これら三つに、共通する問題点がある、と言われました。
それは、これら三つは、大切であるが故に、私はこんなに一生懸命にやっているぞ、こんなに立派に守っているぞ、と人に見せようとすることがある、ということです。
それが、これら三つに共通する、問題点であると、主イエスは指摘されました。
当時、ファリサイ派の人々は、週に二度、月曜日と木曜日に、断食をしていました。
何故、月曜日と木曜日であったのかと言いますと、モーセが、一度打ち砕いた、十戒の板を、再び授かるために、シナイ山に登ったのが、木曜日であった。
そして、40日 40夜、断食をした後、十戒を再び授かって、山を下りてきたのが、月曜日であったとされていたからです。
神の言葉である十戒を、40日間の断食の後に、再び賜ったことを、深く心に刻み込むこむために、木曜と月曜に断食をしたのです。
断食は、そのように、神様との交わりを、深めるためのものでした。
しかし、週二回の断食を、きちんと守っていたのは、ファリサイ派の人たちなど、ごく少数でした。ですから、彼らは、それを誇るようになっていったのです。
そのことは、ルカによる福音書18章にある、「ファリサイ派の人と徴税人の譬え」の中でも語られています。そこで、ファリサイ派の人は、祈りの中で、こう言っています。
「神様、私はこの徴税人のような者でないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」
このファリサイ派の人の祈りは、神様に語り掛けているのではなくて、人に聞かせるための祈りです。全てをご存知の神様には、自分の業を報告する必要など、ない筈なのです。
この人は、自分が週に二度断食していることを、人々に聞かせて、誇りたかったのです。
主イエスは、このように、人の目を意識して、自分の業を誇ることで、断食本来の意味を失ってしまうことを警告されました。
そもそも断食とは、神様と真剣に向き合い、神様とより深く結びつくための業なのです。
食事を断つということは、すべてを集中して神様に向かうために、心も思いも、そして胃袋さえも、明け渡すことなのです。
余計な思いを捨て去って、身も心も空にして、神様のみに、思いを集中させていく業。
神様以外のものから、自分を解き放つための業。それが断食なのです。
ですから、折角断食していても、人の称賛を得ようと、人の目ばかりを意識しているのでは、何にもならないのです。それでは、断食の本来の目的は、見失われてしまっています。
繰り返しますが、断食本来の目的とは、心を研ぎ澄まして、神様のみに思いを向け、神様との交わりを深めることです。
神様との活き活きとした交わり。それが、断食によって与えられる、本来の報いなのです。
でも人々の称賛を得る時、その人はもう、人からの報いを受けて、満足してしまっています。
ですから、もう、神様との交わりを深めるという、本来の報いを、求めなくなってしまっているのです。せっかく苦労して、断食しているのに、それほど勿体ないことはありません。
断食は、人の目ではなく、神様の目を意識しなくてはできません。
空腹の時、自分の目の前に食べ物があっても、神様との約束を守って、それを口にしない。
もしその時、家の中で一人きりであったなら、人の目だけを意識しているなら、食べてしまうかもしれません。
しかし人の目ではなく、神様の目を気にしている人は、神様との約束を大切にして、断食を守るのです。
「主よ、私を試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」、と祈りつつ断食を守るのです。
そして、そういう体験を通して、神様との交わりを、深めていくのです。
現代でも、一部のクリスチャンは、時々断食をしています。
ある神学校では、後期の授業が始まる前に、三日間の断食祈祷会を持っています。新学期に備えて、精神を集中して、祈りに専念するためです。
私の信仰の友にも、度々断食する方がいます。本人はそのことを隠しますが、断食をしていることは直ぐ分かります。いつもペットボトルを持ち歩き、頻繁に水を飲んでいるからです。
私たちは、普段、食事を通して、多くの水分を取っています。ですから、断食している時は、沢山の水を飲まないと、脱水症状になる恐れがあるのです。
先程、施し、祈り、断食。この三つは、主イエスの時代、ユダヤ教の三大徳目であったと申しました。実は、この三つは、バラバラの事ではなく、お互いに繋がっているものなのです。
施しは、他者のために、祈りを込めて行うものです。そして祈りは、それに集中して、精神を研ぎ澄ましていく時に、断食に結び付いていくのです。
そして、断食することによって、心と思いが純化され、施しへと向かって行きます。
まことの施しは、祈りなくしては成し得ません。祈りは、それを集中していく時に、断食という行為に繋がっていきます。そして断食は、施しを生んでいくのです。
施しと祈りと断食の三つが、一つのこととなって神様に受け入れられ、用いられていくのです。そして、それが、信仰者を生かすことになるのです。
しかし、それら三つが、神様に尊ばれ、またその人を生かすのは、見えないところで、見えない神様に対してなされる時である、と主イエスは言われました。
人に知られないで、神様のみに知られる時に、これら三つは、本来の尊さを持つのだ、と言われたのです。
人の目につくならやるけれど、人が見ていないならやらない。これが人間の姿です。
誰も見てくれない、誰も評価してくれない。それなら、いくら善いことをしても、無意味だ。
そう言って、神様から示されたことを、しようとしない。
そのようにして、神様との交わりを断ってしまう。それでは、信仰は育たないではないか。
神様と関係においてなされる業であれば、人が見ていようと、見ていまいと、そんなことは問題にならない筈ではないか。
人からの称賛を得るために、神様との生きた交わりという、最高の報いを得られなくなってしまっては、もったいないではないか。そのように、主イエスは警告されているのです。
さて先程、断食は施しに繋がると申しました。そう聞かれて、不思議に思われる方がいるかもしれません。
しかし、まことの断食は、施しへと繋がっていくのです。どうしてでしょうか。
それは、まことの断食は、食を断つことによって節約したものを、貧しい人や、恵まれない人に与える、という行為へと向かっていくからです。
断食は、自分の精神を研ぎ澄ますということだけでなく、他者への愛の行為に及んでいくものなのです。
今でも、恵まれない人々のために、あなたの一食分を献げてください、コーヒー1杯分を献げてください、という呼びかけが、多くのキリスト教関係の団体からなされています。
断食という行為は、恵まれない人々と連帯することへと、繋がっていくのです。
イザヤ書58章には、旧約聖書が、断食をどのように捉えていたかが、記されています。
6節、7節はこう言っています。『わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。』
ここには、神様が喜ばれる断食とは、人々に愛を伝える行為である、と書かれています。
断食は、神様に心を集中する業であるだけでなく、人々の飢えや苦しみを、共有する愛の行為でもある、というのです。
同じ様に、旧約聖書を土台としているイスラム教に、ラマダンという断食の時がある事は、よく知られています。ラマダンとは、イスラム暦の「9月」を意味する言葉です。
イスラム教では、9月を「聖なる月」として、その一か月間は、日の出から日没までは、一切の飲食を断つことによって、アラーの存在を常に意識し、アラーへの信仰を強めるのです。
それと同時に、この時期は、飢えた人や貧しい人への共感を、養い育む時なのです。
この期間中、金持ちは、貧しい人々のひもじさを味わいます。そして、苦しい体験を分かち合うことで、連帯感を強め、多くの寄付や施しが行われるのです。
日没後、初めて取る食事の時には、街角やモスクで、無料の食事が振舞われるそうです。
先程、後期の授業の始めに、三日間の断食祈祷会をする神学校がある、と申しました。
この神学校では、断食によって節約した食費を、飢えに苦しむ人々へ献金しています。
このように、正しい断食は、施しという愛の行為に、結び付いていくものなのです。
クリーニング会社白洋舎の創始者の五十嵐健治さんは、熱心なクリスチャンでしたが、奥さんの五十嵐ぬいさんも、健治さん同様、篤い信仰に生きた人でした。
ぬいさんは、家の中に、「レプタ」と書いた箱を置いて、先ず収入の十分の一を入れました。
そして、人から何か頂いた時には、その金額を見積もって、その十分の一を入れました。
子どもたちがどこかに行く特は、必ず往復切符を買わせて、その割引運賃を「レプタ箱」に入れさせました。そのように、事ある毎に節約して、「レプタ箱」に入れました。
白洋舎が大きくなり、大会社の社長夫人となっても、自分のためには、何一つ贅沢をせず、相変わらず「レプタ箱」に献金し、教会や、貧しい人々に献げたそうです。
広く言うなら、これも、一種の断食ではないかと思います。断食とは、必ずしも、食を断つということに限らないと思います。
心を、いつも神様の方に向けて、自分のしたいことや、欲しいものを抑えて、神様と他者のために献げる。これが、現代の日本における断食ではないでしょうか。
そのように捉えるなら、私たちにとっても、断食は、極めて身近な行為となる筈です。
主イエスは、今朝の御言葉で、断食をする時の私たちの姿勢について、語っておられます。
断食をする時には、顔を見苦しくするのではなく、むしろ髪を整え、顔を洗いなさい、と言われました。
如何にも辛そうにするのではなく、軽やかに、爽やかに行いなさい、と言われたのです。
断食は、神様との交わりを深めるために、行うものです。そうであるなら、それは、喜びである筈です。それなら、苦しそうに行うのではなく、爽やかに行いなさい、と言われたのです。
それは、また、断食していることを、人に気づかれないようにするためでもあります。
人には知られずに、ただ神様のみが知っておられるところで、喜びをもって断食をする。
そうすることによって、初めて、断食は偽善から解放され、本来の意味を持つのです。
人の目の前での行為から、神様の前での行為になるのです。人の称賛ではなく、隠れたことを見ておられる、神様からの報いを待ち望むものとなるのです。
私たちは、本当に嫌になる程、人の目を気にしてしまいます。人に良く見られようと、いつも、あくせくしてしまいます。
しかし、主イエスは、隠れた所で、隠れた行いを見ていてくださる、神様の目だけを意識して、軽やかに、爽やかに生きていきなさい、と言われています。
それは、水の上を静かに泳ぐ白鳥のような姿です。軽やかで、爽やかに、水の上に浮かんでいるように見えます。しかし、水面下では、懸命に足を動かして、水をかいているのです。
そのように、神様との生きた交わりを、見えない心の内では、必死に求めつつも、決して辛そうでも、苦しそうでもなく、軽やかに、爽やかに、信仰生活を生きる。
そこには、人の目を気にする偽善的な行為もなく、主との交わりを喜ぶ姿だけがある。
私たちは、そのような、祝福された信仰生活を生きていきたいと、心から願います。