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過去の礼拝説教

「澄んだ目は何を見るか」

2020年08月30日 聖書:マタイによる福音書 6:19~24

キリスト者は、この世にあって、どのように生きるべきなのか。また、そのことについて、聖書はどのように語っているのか。これは、クリスチャンにとって、大切な問いです。
クリスチャンは、世の中の様々な問題や困難から離れて、自らの救いを全うするために、ひたすらに信仰の世界に閉じ籠もって、生きるべきだという考えが昔からあります。
しかし、それは、プロテスタント教会の信仰ではありません。
クリスチャンとは、世の中の様々な不幸や不条理の只中に身を置き、それらと真剣に向き合い、悩み苦しみつつ、しかし主を見上げ、喜びと希望をもって、生きていくべき者なのです。
生活の面においても、クリスチャンとは、自分のなすべき仕事、果たすべき責任を、きちんと担い、しっかと自立した生き方を目指していくのです。
この世の富や財産も、それをいたずらに否定するのではなく、積極的に捉えていくのです。
聖書は、この世の富、それ自体を、悪であるとは言っていません。また、富を蓄えることも、決して否定してはいません。
人に迷惑をかけないために、しっかりと働き、自活することは、当然の務めとされています。
使徒パウロは、テサロニケの教会に宛てた手紙の中で、こう言っています。
「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。」
この茅ヶ崎恵泉教会の、元々のルーツを辿ると、メシジスト教会の伝統に行き着きます。
そのメソジスト教会の創立者、ジョン・ウェスレーという人は、このような言葉を残しています。
「できるだけ儲けなさい。できるだけ貯めなさい。そして、できるだけ与えなさい。」
ウェスレーは、こう言っただけでなく、自らも、その言葉を、見事に実践しました。
牧師になった最初の年のウェスレーの収入は、年30ポンドでした。彼は、28ポンドで生活し、2ポンドを献げました。
翌年、収入は60ポンドに増えましたが、同じく28ポンドで生活し、32ポンドを献げました。
3年目、収入は90ポンドになり、4年目には120ポンドになりましたが、やはり28ポンドで生活し、残りはすべて伝道と福祉のために献げました。これは生涯変わりませんでした。
ウェスレーが言ったように、お金を稼ぐこと、それ自体は、悪いことではありません。
生活していくためにお金は必要だからです。問題は、そのお金をどう使うかということです。
日本にも、多くのクリスチャン実業家がいました。
「そろばんを抱いた宗教家」と言われた、株式会社ライオンの創業者、小林富次郎。
会社のロゴマークに天使を用いた、森永製菓の創業者、森永太一郎。
先週もお話した、クリーニング会社白洋舎の創業者、五十嵐健治、などなど。
これらの人たちは、事業に成功して、多くの富を蓄えました。しかし、それを、自分の楽しみや、贅沢のために使うことなく、伝道や福祉のために使ったのです。
繰り返しますが、聖書は、お金を稼ぐことを禁じてはいません。聖書が禁じているのは、お金を必要以上に愛することです。
今朝の御言葉の24節は、こう言っています。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
「一方を憎んで他方を愛する」、とありますが、ここにある「愛する」、という言葉は、原語では「アガペー」という言葉です。
皆さんもご存知のように、この「アガペー」とは、神様の愛、まことの愛を表す言葉です。
そのような愛をもって、富を愛する。それは、言い換えれば、神を神とせずに、富を神として愛する、ということです。主イエスは、そのように富を愛することを、禁じられたのです。
更に、ここには、「仕える」、という言葉も出て来ています。ここにある「仕える」という言葉は、奴隷が主人に仕える、という意味の言葉です。
奴隷は、同時に二人の主人に、仕えることはできません。神か富か、どちらか一方の主人にしか、仕えることはできないのです。
聖書が禁じているのは、お金を神として、自分がその奴隷になって、仕えることなのです。
そもそも、お金とは、私たちが、生活を支えるために、使うものです。それなのに、逆に、私たちが、お金に使われてしまうことがある。そうならないように、聖書は戒めているのです。
ある豪華客船が難破して、沈没しました。救助に向かった潜水夫は、海底で死んでいる一人の男の人を見つけました。
その人は、服のポケットに、金塊を沢山詰め込んだまま、溺れて死んでいました。
それを見た潜水夫は、「一体この人は、お金を持っていたのだろうか。それとも、お金に持たれていたのだろうか」、と呟いたそうです。
皆さんは、お金の奴隷となって、お金に使われる人生を送りたいと望まれるでしょうか。
それとも、神様を主人として、主なる神様のために、お金を使う人生を望まれるでしょうか。
テモテへの手紙一6章10節は、こう言っています。
「金銭の欲は、すべての悪の根です。」 すべての悪の根は、金銭そのものにあるのではなく、金銭を必要以上に欲して、追い求めることにある、と言っているのです。
ですから、今朝の御言葉で、主イエスは、言われています。「あなたがたは地上に富を積んではならない。…富は、天に積みなさい。」
この言葉は、単なる勧めではありません。「地上に富を積んではならない。富は天に積みなさい」、という積極的な命令です。どうして、主イエスは、このように強く命令されたのでしょうか。
それは、この御言葉は、守るのが極めて難しいからです。
ここにある「富」とは、原語では、「宝」を意味する言葉です。私たちが、大切にし、信頼を置いているもののことです。私たちが、それによって、生きようとしているもののことです。
それは、一体何でしょうか。必ずしも、お金だけではないと思います。
それは、名誉であったり、地位や身分であったり、学歴や資格であったりします。
それらの宝に対して、私たちが、どのよう態度を取るか。それは、信仰生活の死活問題です。
主イエスは、それらの宝を、地上に積むのではなく、天に積みなさい、と命じられました。
天に積むとは、どういうことでしょうか。「天に」と言っても、どこかに「天」という、具体的な場所がある訳ではありません。
天とは、主イエスが、父なる神様と共におられるところです。そこに、私たちが、大切にし、より頼んでいるものを、積みなさいというのです。
言い換えれば、それは神様に対して積みなさい、ということです。しかし、神様に対して積む、というのも分かりづらい表現です。
もう少し分かり易く言えば、それらの宝を、神様のために用いなさい、ということです。
なぜでしょうか。なぜ、私たちが、汗を流して得た宝を、自分のためではなく、神様のために用いなければならないのでしょうか。なぜ、私たちの勝手にしてはいけないのでしょうか。
それは、私たちが、宝として大切にしているもの。それらは、すべて、神様から与えられたものだからです。神様から託され、管理を委ねられているものだからです。
この世のすべては、神様によって造られ、神様によって所有され、支配されています。
神様は、それらを、私たちに預けて下さっているのです。あのタラントンの譬えのように、夫々に相応しい形で、託して下さっているのです。
私たちが持っているものは、自分のものではなく、実は、神様のものなのです。
ある牧師が、こんな体験談を書いています。その牧師が、アメリカに旅行し、かつての恩師である、神学校の教授の家にお世話になった時のことです。ある時、車が必要になったので、その恩師に相談したところ、即座に、「私の車を使いなさい」、と言ってくれたそうです。
そして、更に、こう付け加えたそうです。「この車は私のものではない、主のものだ。だから君は、全く遠慮しなくていいんだよ。必要ならいつでも使ったら良い。」
私たちが、今、所有しているものは、すべて神様から一時的に託されたものなのです。
ですから私たちは、やがて、それをどのように用いたかを、神様に報告しなければなりません。
その時、「良い忠実な僕だ、よくやった」、と言って頂ける僕になりたいと思わされます。
では、神様から委ねられたものを、神様にお返しした時、私たちには、一体何が残るのでしょうか。神様から、委ねられたものを、神様にお返した時に、私たちに残された宝。
それは、神様ご自身です。私たちは、神様に富む者となるのです。神様を自分のものとすることができるのです。それこそ、最高の宝ではないでしょうか。
詩編16編で詩人はこう詠っています。「あなたは私の主。あなたのほかに私の幸いはありません。…主はわたしに与えられた分、わたしの杯。…主は右にいまし、私は揺らぐことがありません。私の心は喜び、魂は踊ります。からだは安心して憩います。」
詩人は喜びに満たされて詠っています。神様、あなたこそが私の幸いです。あなたこそが私の宝です。あなたがいてくだされば、私は揺らぐことがありません。
あなたによって、私の心は喜び、魂は踊ります。からだは安心して憩います。
神様を、私の宝とした時に、このような幸いを得られる、と詠っているのです。これこそが、私たちが求めるまことの宝ではないでしょうか。
中世を代表する神学者、トマス・アクイナスは「神学大全」という大作を書き上げました。この本は、今でも、カトリック教会の神学の基盤となっています。
彼はある日、神様の声を聞いたそうです。「お前は、私の栄光を表す多くの著作をした。その報酬に何を与えようか」。
彼は驚いて叫んだそうです。「主よ、あなたご自身のほかには何も要りません」と。
この後、讃美歌522番を賛美します。この讃美歌は、こう歌っています。
「キリストにはかえられません/世の宝もまた富も、/このおかたがわたしに/代わって死んだゆえです。/キリストにはかえられません、/世のなにものも。」
トマス・アクイナスは、この讃美歌をもって、神様に応えたと言っても良いと思います。
主イエスは命じておられます。「あなたがたは地上に富を積んではならない。富は天に積みなさい」。
先程も申しましたが、富とは、私たちが頼りにしているもの、より頼んでいるものです。
それをどこに置くか、が問われているのです。
それを天に積むとは、神様ご自身を、自分の富とすることです。
地上に積んだ富は、錆びつき、虫に食われ、盗人に奪われる恐れがあります。
運良く、それらを免れたとしても、死によって、すべては失われていまします。
しかし、天に積んだ富である、神様ご自身は、死を超えて、永遠に共にいてくださるお方です。
神様という天の富は、どんな時にも確かな、まことの支えとなってくださるのです。
主イエスは、この天の富である神様を、しっかりと見つめつつ、歩みなさいと言われているのです。
22節、23節に、「澄んだ目」と、「濁った目」という言葉が出て来ます。目が澄んでいれば、全身が明るいが、目が濁っていれば、全身が暗い、と言われています。
主イエスは、ここで、何を言われているのでしょうか。「澄んだ目」とは、どのような目なのでしょうか。
原語では、「澄んだ目」とは、「単一な目」という意味の言葉です。ですから、ある英語の聖書は、この言葉を「Single Eye」と訳しています。「Beautiful Eye」とは訳していません。
「澄んだ目」とは、一つのことを、ひたすらに見つめる目、という意味なのです。
二つのまなこをもって、一つのことを直視するのです。ただ神様だけを見つめるのです。
そうであれば、「濁った目」とは、どっちつかずの目、ということになります。
神様も、そして富をも見つめようとする。つまり、二股をかけようとする目です。
信仰とは、二つのことではなくて、一つのことを見つめることです。
「あれもこれも」ではなくて、「あれかこれか」の選択を生きる、ということです。
私たちの目が、ただ一つのもの、神様だけを見つめていく時に、神様の愛の光が、私たちの澄んだ目を通して差し込み、心を明るく照らしてくれます。
そして、その心の内の光は、今度は、目を通して、外へと輝きを放っていくのです。そうすることによって、私たちは、世の光となることができるのです。
その光が消えてしまっている時、私たち全体が、闇で覆われてしまいます。
内なる光が明るいか、暗いか。目が単一で澄んでいるか、二つのものを追いかけて、濁っているか。それが、私たちの人生を決定します。
アブラハムとロトの僕たちが争いをした時、アブラハムはロトと別れることを提案しました。
アブラハムは叔父でありながら、選択権を若いロトに譲りました。
ロトは欲に満ちた目で、豊かそうに見えるソドムとゴモラの低地を見て、そこを選びました。
ロトと別れたアブラハムに、主は言われました。「さあ、目を上げて、…見渡しなさい。見える限りの土地をすべて、あなたとあなたの子孫に与える」。
アブラハムは、主に示された地に進み、豊かな人生を全うしました。
ロトが選んだ、ソドムとゴモラは、その後滅亡し、ロトは財産も、そして妻さえも失ってしまったのです。
皆さん、私たちは、どこに宝を置くべきでしょうか。宝のある所に私たちの心もあります。
では、私たちは、どこに、心を置くべきでしょうか。
決して滅びることのない、決して失われることのない、死をも超えて、私たちを支えてくれるもの。そこに、私たちの心を置きたいと思います。
それは神様ご自身です。私たちは、このお方を宝とし、このお方の許に、私たちの心を置きたいと思います。
その時、私たちの心は喜び、魂は踊ります。からだは安心して憩うことができます。
神様を、私たちの宝として、この幸いに生きていきたいと、心から願います。