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過去の礼拝説教

「空の鳥、野の花のように」

2020年09月06日 聖書:マタイによる福音書 6:25~34

「思い悩むな」、と今朝の御言葉は、繰り返して語り掛けています。
「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで充分である。」 
この御言葉に、どれほど多くの人々が、慰められ、力を与えられてきたことでしょうか。
作家の太宰治は、この御言葉について、こんな文章を遺しています。
「一日一日を、たっぷりと生きて行くより他は無い。
明日のことを思い煩うな。明日は明日みずから思い煩わん。きょう一日を、よろこび、努め、人には優しくして暮したい。…私はきょう一日を、出来るだけたっぷり生きたい。
明日の事を思うな、とあの人も言って居られます。
朝めざめて、きょう一日を、十分に生きる事、それだけを私はこのごろ心掛けて居ります。」
ここで、太宰が言っている「あの人」とは、イエス・キリストのことであることは明らかです。
太宰は、主イエスが言っているように、明日のことを思い煩うことなく、今日一日を、精一杯生きていきたい、と願っています。これは太宰だけでなく、誰もが願っていることです。
主イエスは、空の鳥を見なさい、と言われました。空の鳥が、大空を軽やかに舞うように、自由で伸び伸びとした生き方を、生きて見なさいと言われました。
鎌倉東慶寺に作家高見順のお墓がありますが、その墓碑にこんな言葉が刻まれています。
『空をめざす 小さな赤い手の群(むれ) 祈りと知らない 祈りの姿は美しい』。
この赤い手の群とは楓の葉のことだと思いますが、私はなぜか、空を飛ぶ鳥の群れを連想してしまいます。鳥の飛ぶ姿も、「祈りと知らない祈りの姿」を思わせます。
一途に、目的地を目指して飛んでいく。その鳥の祈りの姿に、美しさを感じさせられます。
また、主イエスは、野の花を見なさい、と言われました。野の花のように、置かれたその場で、神様の恵みを讃えるかのように、精一杯美しく咲いて見なさい、と言われました。
クリスチャン詩人の八木重吉はこう詠っています。『花はなぜ美しいか。ひとすじの気持ちで咲いているからだ。』
花は、人が見ている、いないに関わらず、黙って咲き、黙って散っていきます。
置かれたその場で、喜んで咲いています。その姿が美しい、と八木重吉は言っています。
確かに花は、主のご計画を信じて、主に委ね切っています。
「球根の中には」という讃美歌にあるように、寒い冬の間でも、必ず、主が温かい春をもたらせてくださると信じて、暗い土の中でじっと待っています。
以前、何百年も前の種を植え、水を注いだら芽を出した、というニュースを聞いたことがあります。その種は、何百年もの間、ひたすらに神様の時を待ったのです。
それなのに、私たちは、少しの間も待つことが出来ずに、直ぐに、不平・不満を言ってしまいます。そして、神様などいないのではないかと、疑ってしまいます。
でも、そんな私たちのことを、神様は尚も愛して下さり、あなた方は、花や鳥よりも、優れたものなのだ、と言って下さっているのです。
花も鳥も、思い悩むことなく、主の恵みを、顕わそうとして、一生懸命に生きている。
あなた方は、その空の鳥や、野の花よりも、更に価値あるものとして造られたのだ。
そうであれば、それらに優って、神様を顕わす生き方を、精一杯生きて見なさい。
主イエスは、そう言われているのです。
でも、ここで、ちょっと立ち止まって、考えてみたいと思います。果たして、私たちは、主が言われているように、空の鳥や野の花よりも、優れたものなのでしょうか。
空の鳥や野の花は、主のご計画を信じて生きています。
その姿は、そのまま、ありのままで、主を証ししています。
翻って、私たちはどうでしょうか。私たちは罪を犯して、御心を悲しませてばかりいます。
それにも拘らず、主は、私たちのことを、空の鳥や野の花よりも、優れたものだと言ってくださっているのです。どうしてでしょうか。なぜそんなことが言えるのでしょうか。
それはこんな私たちを、主イエスが尚も、高価で尊いものと見做して下さっているからです。
そして、私たちを救うために、十字架の上に、その尊い命を、ささげて下さったからです。
この愛の故に、罪深い私たちが、空の鳥や野の花よりも、優れたものとされているのです。
そうであれば、私たちは、この主の愛に応えて、空の鳥や野の花にも優って、主の恵みを、証ししていくべきなのではないでしょうか。
鳥のように、主の恵みを、高らかに歌い、花のように、主の恵みを、美しく咲かせる。
そのような生き方を、目指すべきなのではないでしょうか。
ところが私たちは、「いえ、とんでもありません。そんなこと、とても無理です」、と言って尻込みをしてしまうのです。でも、そんな私たちに、主は言われます。
野の花は、自分で花びらに色を塗っているか。野の花は、自分でお化粧しているか。
明日は枯れて、炉に投げ入れられる野の花でも、神様は、こんなに完璧に、装ってくださっているではないか。それなのに、あなた方は、何を、思い悩んでいるのか。
空の鳥は、上手く歌うために、発声練習をしたり、マイクの調節をしたりしているか。
彼らは、そんなことに心を使うことなく、自然に歌っているではないか。思い悩むことなく、主の恵みを歌っているではないか。
花や鳥ができるなら、あなたたちにもできる筈ではないか。
主の恵みによって、今日の一日も、生かされているこの喜びを、そのまま、ありのままの姿で、証ししていける筈ではないか。
なぜ、思い煩うのか。主は、そう言われているのです。
本当に、私たちは、直ぐに思い煩います。
思い煩うという言葉は、心がバラバラになってしまう、という意味の言葉です。
神様という扇の要が外れてしまうと、私たちの心は、直ぐにバラバラになってしまいます。
主イエスは言われています。神様は、あなたに必要なものを、全てご存知なのです。そして時に応じて、それを与えてくださいます。
だから、神様という、扇の要をしっかりと保って、思い煩うことを止めなさい。
そうなのです。私たちが、本当に、神様のことを信頼しているなら、思い煩いから解放される筈なのです。
幼な子は、母親がいれば、心配しません。母親がいれば、思い煩うことはしません。
なぜなら、母親は、自分のことを良く知っていて、必要を満たしてくれると信じているからです。
私に、2歳になる孫がいますが、この子が、母親である私の娘に、「お母さん、家には、貯金はどれ位あるの。私の育児資金は十分なの」、等と聞くことはありません。
母親さえいてくれれば、何も心配することはないと、信頼し切っているのです。
幼な子にとっての母親は、私たちにとっては神様です。
では、私たちは、神様さえいて下されば、何も心配することはない、と信じ切っているでしょうか。幼な子が、母親を信じ切っているように、神様を信じているでしょうか。
私たちが思い煩うのは、神様の愛と、神様のご配慮を、信頼していないからです。
幼な子が、母親の愛、母親の配慮を、信頼していないなら、生きていけないように、私たちも、神様の愛、神様のご配慮を、信頼しなければ、生きていかれません。
詩編23編の作者は、こう詠っていました。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」
主が、私の羊飼いでいて下さるなら、私には、何も、不足することがない、と言っているのです。
これが、主に全く信頼し、思い煩いをしない生き方です。
何故、そこまで、神様に信頼できるのでしょうか。そこまで信頼して大丈夫なのでしょうか。
大丈夫なのです。使徒パウロは言っています。
「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」
皆さん、神様は、最も大切な独り子さえも、私たちに与えて下さったお方なのです。
ですから、全てのものを、私たちに賜らない筈がない、とパウロは言っているのです。
最も大切なものは、手放さずに、しっかりと自分の手元に残している。そういう人を、私たちは、信じ切ることができません。
しかし、神様は、そういうお方ではありません。最も大切なものさえ、惜しまずに、私たちのために与えて下さるお方なのです。私たちは、このお方を信頼していくのです。
このお方は、私たちを、瞳のように愛して下さり、私たちに対して、最善以下は、なされないお方なのです。
神様は、最善以下を、なされません。しかしそれは、私たちの考える最善ではありません。
神様の考えられる最善です。母親も、幼な子にとっての最善をなそうと努めます。
しかし、それは、幼な子の言うことを、何でも聞くということではありません。幼な子に、最も善いと思われることを、なしていくのです。
ですから、主イエスは、言われているのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
「神の国と神の義を求める」とは、最善をなしてくださる、神様が、この私を支配してくださることを求め、神様の御心がなりますように、と祈り願うことです。
神様がご支配くださるなら、たとえ自分の求めているものが、得られなくても、より良い物が与えられる。神様が、最善のものを、用意して下さる。そのことを信じて、与えられるものを、感謝して受け入れなさい。
私たちの真の必要を知っていてくださり、そのことに愛の配慮をして下さる神様が、共にいて下さるなら、明日のことを思い煩わなくても良い筈ではないか。
主イエスは、そう言われているのです。
思い煩うな、ということは、最善をなして下さる神様を、信じ切りなさいということなのです。
讃美歌460番、「やさしき道しるべの 光よ」は、多くの人に愛されています。
その2節は、こう歌っています。「行くすえ遠く見るを 願わず。よろめくわが歩みを 守りて ひと足、またひと足 導き 行かせたまえ。」
主よ、遠くを見ることは願いません。ただ一歩でよいのです。
ただ一歩で充分です。英語の歌詞では、「one step enough for me.」です。
この讃美歌の作者ジョン・ヘンリー・ニューマンは、英国の牧師で、宣教師としてイタリアのシシリー島に派遣されました。しかし、そこで病に倒れ、使命を果たすことが出来ずに、失意の内に帰国しました。その船の上で、暗い夜の海を見つめつつ作ったのが、この讃美歌です。
ただ一歩で充分です。「one step enough for me.」 主よ、あなたが手を引いて、一歩一歩を、歩ませてください。あなたが、共にいて下さるなら、明日のことは、思い悩みません。
私たちは、直ぐに明日のことを、思い煩います。明日も、神様は、今日と同じ恵みを、与えてくださるか、思い悩みます。
でも、想い起してください。イスラエルの民が、エジプトを脱出し、何もない荒野を、40年間も旅した時、神様はどうされたでしょうか。
毎日、天からのパンであるマナを降らせて、民を養ってくださったのです。
しかし、明日のことが心配だからと言って、そのマナを、明日の分まで取っておくと、腐ってしまったのです。
ですから、彼らは、明日も、神様が養ってくださることを、信じるほかはありませんでした。
文字通り、明日のことを思い悩むな、ということを、信じざるを得なかったのです。
あなた方は、この荒野での主の養いを、想い起しなさい。今日、与えられている主の愛は、明日も、あさっても変わらないと、信じて歩みなさい。主は、そう言われているのです。
冒頭で、太宰治の言葉を紹介しました。その太宰治の次女で、やはり作家として活躍した津島佑子さんは、試練に満ちた人生を送りました。
1歳の時に、父親の太宰が、母とは別の女性と入水自殺をし、父を知らずに育ちました。
結婚生活にも破れ、離婚しました。そして、9歳になった息子の、突然の死も経験しました。
その息子の死の翌年、彼女は、「幼き日々へ」という本を書きました。
その中で、彼女は、こう語っています。
「明日のことを思い煩うな。一日の苦労は一日にて足れり。
私は、気持ちが不安定になると、この言葉をつむぎ出す。刹那主義に走るのでもなく、明日を不安に思わず、一日一日過ごしていくこと。これはとても難しいことだ。
けれども私は、キリストの言葉から、美しい楽観主義というものがあることを教わり、それで一番大事なところで、慰めを感じてさせてもらっている。
空の鳥、野の花で始まるキリストの言葉は美しい。この言葉があるから、私は生きている。
私はイエス・キリストなる人物に、深い愛着を覚えざるを得ない。」
この本を書いた翌年に、彼女は受洗しています。
信仰を持った時、彼女は、美しい楽観主義が、単なる希望ではなく、キリストの命がけの愛によって支えられていることを、信じたのではないかと思います。
イエス・キリストというお方が、どんな時も、共にいて下さり、命懸けで私を守ってくださっている。それ故、明日のことを、思い煩わなくても良い。この信仰に導かれたのだと思います。
私たちは、直ぐに心配します。でも心配すれば、物事は解決するでしょうか。
もし、そうなら、一生懸命に心配しなければなりません。でも、いくら心配しても、物事は解決しません。
そうであれば、全てを支配しておられ、私たちを最善へと導いて下さる、主に委ね、思い煩いから解放されたいと願います。
今日を生かして下さり、明日も必ず共にいてくださる主を信じて、一日一日を歩ませて頂きたいと思います。
空の鳥、野の花よりも、私たちを自由に、そして美しく、養い育ててくださる主の愛を、しっかりと握り締めつつ、感謝して歩んで行きたいと思います。