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過去の礼拝説教

「内なる光に照らされて」

2020年09月13日 聖書:コリントの信徒への手紙二 4:16~18

今朝は、ご高齢の方々に賜った、神様の祝福を感謝する礼拝を、ご一緒に守っています。
ノーベル文学賞を受賞した英国の劇作家、 バーナード・ショーは、少々皮肉を込めた、しかし、ズバリと核心をつくような、数々の名言を遺しています。
例えば、「人は、年をとったから遊ばなくなるのではない。遊ばなくなるから年をとるのだ」。
この言葉なども、「もう年だから」と言って、消極的な生き方に逃げ込もうとする人を、叱咤激励するような言葉です。
彼は、こんな言葉も遺しています。「長生きしてくれる人がいないと、現代のような複雑な文明を、発展させていくことができない。」
これは、100年近く前に語られた言葉ですが、現代にも当てはまる言葉です。
いえ、現代においてこそ、私たちが、もっと真剣に、聞かなくてはならない言葉です。
このバーナード・ショーの作品の中に、「思想の達し得る限り」、という戯曲があります。
5部8幕からなる大作です。この戯曲の原名は、「メトシェラ時代に帰れ」、という題です。
バーナード・ショーは、メトシェラの時代に帰れ、と呼び掛けています。
皆さん、メトシェラって、何のことだかご存知ですか。メトシェラというのは、聖書に出て来る人物の中で、最も長生きした人の名前です。
この人のことは、創世記5章25節~28節に出て来ます。
彼の父親はエノクという人です。エノクは、生涯を通して神様と共に歩み、死を見ずして神様の許に引き上げられた、と伝えられている人です。
そして、彼の孫が、あの箱舟を造ったノアです。
聖書には、メトシェラは969年生きた、と書かれています。最も長く生きた、信仰の勇者として、登場しているのです。
バーナード・ショウは、彼の戯曲の中で、人間が、まことに円熟した年齢に達するためには、少なくとも、数百年の寿命が必要だと言っています。
そして、それが得られなければ、理想社会の実現は不可能だ、と言っているのです。
先ほどご紹介した、「長生きしてくれる人がいないと、現代のような複雑な文明を、発展させていくことができない」、という言葉も、同じ考えから生まれたものだと思います。
彼の、この主張の背景には、第一次世界大戦に対する、激しい怒りがありました。
あのような悲惨な戦争を避けるためには、人生を長く生きた、高齢者の知恵と視点が必要だ、という思いに至ったのです。
今日の週報の【牧師室より】にも書かせて頂きましたが、歳を取っていきますと、今まで手にしていたものを、一つ一つ捨てていかなければなりません。
若い時は、何でも取り入れて、貯めていくことが仕事でした。しかし、高齢者の仕事は、要らないものを、捨てていくことなのです。
不要なものを、一つずつ捨てて行った先には、本当に大切なものだけが残ります。
高齢者が尊ばれるのは、そのことを、知っておられるからではないでしょうか。
バーナード・ショウは、ますます複雑化する現代においては、そのことをわきまえておられる、高齢者の知恵と視点が大切なのだ、と言っているのです。
ある人が、こんなことを言っています。「歳を取るということは、山登りに似ている。登れば登るほど、疲れて息切れがする。しかし、視界はますます開けていく。」
山道を登っている時は、目の前の一本一本の木だけが、目に入ります。一本一本の木の違いが目につきます。木を見て、森を見ない、ということが起きます。
しかし、登り切った先では、視界が開け、森全体を眺めることができるようになります。
そうすると、一本一本の木の違いなどは、気にならなくなります。
バーナード・ショウは、悲惨な世界大戦を目の当たりにして、視界を広げることの大切さを、痛感しました。ですから、こんな言葉も遺しています。
「愛国心とは、自分が生まれたという理由で、その国が他よりも優れているという思い込みのことである。」
自分がどこに生まれたかとか、どんな言葉を話しているかとか、肌の色は何色かとか、そのような違いばかりに目を留めていては、世界の悲惨な状況は改善しない。
全ての人は、神様によって造られた尊い存在であり、神様の限りない愛の対象なのだ。
この視点に立たない限り、世界の悲惨な状況は、変わらない。
そして、人間が、この視点に達するには、長く生きることが必要なのだ。メトシェラの時代に帰ることが必要なのだ。バーナード・ショウは、そう言っているのです。
メトシェラは、神様の祝福を頂いて長寿を全うした人の典型として、聖書に出てきています。
この茅ヶ崎恵泉教会にも、多くのメトシェラが居られます。この茅ヶ崎恵泉教会も、多くのメトシェラによって、支えられています。
今朝、高齢者の祝福を受けられる方々は、茅ヶ崎恵泉教会の誇りです。教会の宝です。
聖書は、ご高齢の方々の尊さを、繰り返して語っています。
その中の一つ、レビ記19章32節には、こう書かれています。
「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。」
ここには、ご高齢の方々を敬いなさい。敬うことによって、神を畏れなさい、と書かれています。
ご高齢の方々を敬い、神様を畏れる。これは、積極的に捉えるべき御言葉だと思います。
若い方が、ご高齢の方を敬う。それは、勿論、大切な事です。
しかし、ご高齢の方も、そのようにして示された尊敬を、素直に受け入れて頂きたいのです。
例えば、電車で席を譲られた時、「私は未だそんな歳では」ない、という思いを滲ませながら、「いえ、結構です」、と言って断るのではなく、素直に好意を受け入れて頂きたいのです。
いたわられていると思うから、「私には、未だ、そんないたわりは不要です」とばかりに、断ってしまうのです。でも、いたわられているのではなくて、敬われていると受け止めるのです。
尊敬されていると思うなら、受け入れられるのではないでしょうか。
今日は、80歳以上の教会員の方々に、高齢者祝福のカードが贈られます。
毎年、教会員の方の絵や作品をカードにしていますが、今年は、去る5月22日に召された、和田扶實子姉の絵に、今朝の礼拝の御言葉を記したカードです。
ご奉仕下さった方々が、心を込めて作って下さったカードです。このカードを、いたわりのカードだと思うと、「そんないたわりは、未だ要りません」、と言われるかもしれません。
でも違うのです。このカードは、尊敬のしるしなのです。ですから、是非、素直に受け取って頂きたいと思います。
では何故、ご高齢の方々は尊敬を受けるのでしょうか。難しく考える必要はありません。
それは、長く生きられたからです。神様によって、長く生かされたからです。
ある老牧師が質問されました。「長い牧会生活の中で、一番心に残る御言葉は何ですか」。
その老牧師が答えました。「それは、コリントの信徒への手紙一10章13節です。」
この御言葉です。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。
何故、この御言葉であったのでしょうか。
それは、長生きすれば、それだけ多くの試練を、体験されて来られたからです。
そして、その試練を通して、それに耐える力と、それから逃れる道を、神様が備えてくださるという、神様の真実をも、同時に、体験されたからです。
長生きした分だけ、そのような神様の恵みを、より多く味わうことができたからです。
でも、大きな苦しみに出会った時に、こんな試練に遭うぐらいだったら、長生きしない方が良かった、と思わず呟くこともあるかも知れません。
確かに私たちの人生には、とても耐えられないと感じるような、厳しい試練があります。
こんなことなら、長生きしなければ良かった。生きていても、苦しいだけだ。そんな思いに捕らわれることもあるかも知れません。でも、決して、そうではありません。
長生きしなければ良かった、などということは、決してありません。
その試練に耐える力と、そこから逃れる道を、神様は、必ず備えていて下さいます。
そして、そのことを知った時に、私たちは、神様が真実なお方である、ということを改めて知らされるのです。
ですから、そのような人生の荒波を何度も体験し、それに耐えて、それを乗り越えて来られたご高齢の方々を、私たちは尊敬するのです。
そういう試練や苦しみが、すべて相働いて、最後には益となった。そのような神様の真実に出会い、その中を歩まれた方々を、私たちは尊敬するのです。
さて、今朝の御言葉で、パウロは、たとえ私たちの「外なる人」が衰えていっても、私は「落胆しません」、と言い切っています。
なぜなら、私たちの「内なる人」は、日々新たにされていくからだ、と言っています。
ここに、「外なる人」と、「内なる人」という言葉が、出てきています。
これは、何を意味しているのでしょうか。私たちが、直ぐに想い起すのは、「肉体と魂」という言葉です。外なる人を「肉体」と捉え、内なる人を「魂」と捉えるのです。
外なる人である肉体は、歳と共に衰えていく。しかし、信仰を持っている人は、その魂において、いつも若々しい。
この御言葉を、そう捉えると、すんなりと理解できます。また、そのように読むことは、必ずしも間違ってはいないと思います。
でも、ここでパウロが言っていることは、それだけではありません。
「外なる人」とは、肉体のことだけでなく、キリストによって救われる前の、古い人をも意味しています。生まれながらに持っている、人間の欲望に、捕らわれたままの人のことです。
そうしますと、内なる人とは、キリストによって救われて、新しい命を宿した、新しい人を意味していることになります。キリストによって、新しい命に、生かされている人のことです。
古い人が携えている、生まれながらの欲望は、試練に出会うと挫折し、歳と共に衰えていきます。
でも、キリストによって、与えられた命の光は、日々新たにされていく、というのです。
18節には、「見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ」という御言葉があります。
そして、「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続する」と続いています。
御言葉は、聖霊なる神様が、新しい命に生かされた、内なる人の心の目を開いて下さり、見えないもの、つまり、キリストによる救いの光を、見させてくださると言っています。
内なる人とは、この見えないものを見る、眼差しを持っている人のことなのです。
やがて過ぎ去ってしまう、目に見える世界ではなく、永遠に存続する、神様の真実を見る眼差しによって、生かされている人のことです。
信仰によって生かされ、信仰によって、この世の現実を見つめている人のことです。
ですから、「外なる人」というのは、信仰によって生きていない人のことを言っているのです。つまり、古いままの人のことです。
そうしますと、「外なる人」が衰えるというのは、単に肉体が衰える、ということだけではないことが分かります。
御言葉は、肉体は衰えても、精神は元気だ、ということを語っているではないのです。
そうではなくて、信仰によらないことは衰えていくとしても、信仰はますます健やかに成長していく、ということを語っているのです。
パウロは、生まれながらの欲望に捕らわれた、古い人を脱ぎ捨てて、新しい命を内に宿した、新しい人を身に着けなさい、と勧めているのです。
ですから、この御言葉は、歳を取った者だけに当てはまる言葉ではなく、若い人にも語り掛けられている言葉なのです。
パウロは、自分は、日毎に元気を増すのだ、とは言っていません。日毎に新しくされる、と言っているのです。
信仰によらない「外なる人」は、試練や困難に出遭って、衰えていくとしても、信仰に生きる「内なる人」は、主から力を与えられて、日々新しくされていくのです。
ですから、このように生きる者にとっては、歳を取るということは、恵みを増し加えていくということなのです。
神様は、今日一日を、新たな恵みとして、私に与えて下さった。このような感謝をもって、日々生きていく、ということなのです。
このような感謝と恵みに生きたある人が、こういう言葉を書いています。
「私から年齢を奪わないでください。これは、私が年月を掛けて作った財産なのですから」。
歳を取ることは自分の財産を増すことだ、と捉える生き方。素晴らしい生き方だと思います。
しかし、それは、決して不幸や、苦しみとは、無縁の人生ではないと思います。
たとえ、苦しみや試練に出会ったとしても、与えられた一日一日を、逃げることなく、しっかりと受け止め、その日一日を、丁寧に生きて行く。
そして、一日の終わりに、苦しみや試練の中でも、尚も与えられた恵みを一つ一つ数え、どんな時も共にいて下さる主に、感謝の祈りをささげていく。
そうした日々の積み重ねによって、実現する生き方のことだと思います。
もし、老いて与えられる日々を、自分のかけがえのない、まことの財産と呼ぶことが出来るなら、それは本当の意味で、豊かな人生である、と言えるのではないでしょうか。
新しい命に生きる内なる人は、日々新たにされていく。
私たちは、老いの一日一日を、新たなに増し加えられた、尊い財産だと言うことが出来るような、歳の取り方をしたいと願わされます。
ただ老いるだけの日々ではなく、一日一日、一時一時に、感謝と喜びを見出し、尊い財産としての日々を、過ごして行きたいと願います。