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「祈りは成長する」

2020年09月27日 聖書:マタイによる福音書 7:7~12

「求めよ、さらば与えられん」。この言葉は、教会の中だけでなく、世間一般でも、よく知られています。しかし、この言葉の本当の意味が、理解されている訳ではありません。
医者から減量を指示されている人が、ご飯のお代わりをしました。奥さんが、「駄目です。お医者様の言うことを守ってください」、と断ります。
すると、その人は、「お前は、クリスチャンだろう。聖書に「求めよ、さらば与えられん」、と書いてあるではないか。だから、もう1杯」、と言って尚も頼みました。
この人も、御言葉の本当の意味を理解しないままに、御言葉を悪用しています。
一般には、この御言葉は、「熱心に求めるなら、必ず与えられる。だから努力して求めることが、大切なのだ」。そういう教えだと、解釈されています。
或いは、「やればできる」と、人々に勇気を与える言葉だと、捉えている人もいます。
でも、この御言葉は、そういう一般的な教訓を教えている言葉ではありません。
皆さんは、この御言葉を、どのように捉えておられるでしょうか。
実は、主イエスは、ここで、祈りについて、教えておられるのです。この御言葉は、私たちに、祈りとは何か、どのように祈るべきか、ということを教えてくれているのです。
ルカによる福音書にも、同じ御言葉が11章9節以下に書かれています。そこでは、「主の祈り」の後に続いて、この御言葉が語られています。
祈りについての、一連の教えの中で、今朝の御言葉が語られているのです。
ですから、この御言葉は、明らかに、祈りを励ますための、御言葉なのです。
「求めなさい」というのも、ただ闇雲に求めるのではなく、「祈りなさい」ということなのです。
祈りにおいて、神様の恵みを求めなさい、ということなのです。
また、「探す」という言葉も、神様の御顔を、尋ね求める時に、用いられる言葉です。
自分の欲しいものを、探すのではないのです。神様を、探し求めるのです。
実際には、神様の御言葉を探しなさい、ということになると思います。
聖書を通して語られている、神様の御言葉を、祈りをもって探しなさい、ということです。
そして、祈りとは、御国の門をたたくようなものなのです。「主よ、どうか門を開けて、私に御姿を示してください」。
そのように祈っていくことを、主イエスは、教えておられるのです。
求めることも、探すことも、門をたたくことも、すべて祈りの行為を示しているのです。
そして、その祈りは必ず聴かれる、と主イエスは約束されています。
祈りつつ求めていけば、必ず、主イエスの恵みが与えられます。
祈りつつ探していけば、聖書から、必ず必要な御言葉を、見付けることができます。
そして、祈りつつ門をたたいていけば、必ず御国の門は、開かれるのです。
今朝の御言葉から、私たちは、祈りについて、いくつかの大切な事を、教えられます。
御言葉は、「求めよ」、「探せ」、「門をたたけ」、と言っています。これは、単なる勧めの言葉ではありません。はっきりとした命令です。
ギリシア語の現在・命令形は、動作の継続を求めています。続けなさいという命令なのです。
主イエスは、ここで、私たちに命じられています。諦めずに、根気よく、求め続けなさい、探し続けなさい、門をたたき続けなさい。
与えられるまで、熱心に主の恵みを、求め続けなさい。あなたが今、本当に必要としている御言葉を、探し続けなさい。
御国の門が開かれて、主の御懐に飛び込んで行けるまで、門をたたき続けなさい。
主イエスは、そう命じておられるのです。
私たちは、「どうせ応えられないさ」、と諦めてしまって、直ぐに祈りを止めてしまうことが、多いのではないでしょうか。
しかし、主イエスは、「1回や2回祈って、応えられなからと言って、祈るのを止めてしまってはならない」、と言われているのです。
「失望せずに、諦めずに、祈り続けなさい。そうすれば、祈りは必ず応えられる」、と約束されているのです。
以前、100日祈祷のことを話させて頂きました。私が恩師から、教えられた祈りです。
「何か大きな決断をする時には、せめて100日くらい祈りなさい」、という勧めです。
私は、これまでに三度しか、100日祈祷をしたことがありません。三度だけですが、いずれにも共通していたことがあります。
それは、祈っても、祈っても、なかなか答えが与えられなかった、ということです。
三度とも主の答は、100日目ぎりぎりに与えられました。しかも、求めていたものは、全く違った答えでした。
最初の100日祈祷は、転職をする時にしました。「主よ、今の職場に留まるのが御心でしょうか。それとも、新しい職場に移ることが御心でしょうか。どうか教えて下さい。」
この祈りを100日続けましたが、一向に答えは与えられませんでした。
しかし、100日経った時、私の心にある思いが、強烈な勢いで迫って来ました。
それは、こう言っていました。「お前は、どちらの職場で働くべきか、私に、選択の責任を投げている。しかし、どこで働くか、何をするかが、それ程大切な事なのだろうか。
もっと大切な事は、どこで働こうとも、何をしようとも、遣わされたその場所で、お前が、キリスト者として、どう生きるべきか、ということでないか。」
この言葉が、100日祈祷の末に与えられたのです。求めていた答えではありませんでした。
しかし、私にとって、本当に必要な答えを、主は与えて下さったのです。
神様は、人の求めているものを、そのまま与えて下さるとは限りません。
人間が勝手に、商品棚から「これをください」と言って、物を取り出すように、願いが聞かれる訳ではありません。
願いを聞き届けて下さるのは、神様の方なのです。ですから、たとえ願った通りにならなくても、その人にとって、最も良いものが、与えられるのです。
こんな実話があります。最愛の一人娘が、交通事故で、命の危険に、晒されました。長時間に及ぶ大手術が行われました。
手術室の前で、その母親は、祈る言葉も見つからず、ただ「神様助けてください。憐れんでください」、と心の中で、叫び続けました。涙を流しつつ、何時間も叫び続けました。
やがて、涙も枯れ果て、叫ぶ言葉も出なくなった時、この母親の口から出て来た一言。
それは、「神様、あんなに素晴らしい娘と、17年間も、共に暮らせたことを、感謝します」。
この祈りでした。どんな祈りでも、最後に感謝の言葉が出れば、それは勝利です。
このように、真実の祈りは、変わっていくものなのです。そして、祈りが変わっていくに連れて、祈る人自身も、変えられていきます。
例えば、事ある毎に敵対し、直ぐに攻撃してくる人と、一緒に働くことになったとします。
そういう時、初めの内は、「神様、どうかあの人を変えてください」、と祈ります。
しかし、その祈りを、祈り続けている内に、「どうかあの人を受け入れることができますように」、という祈りに変えられていきます。
そして、更に祈っていく内に、その祈りは、「どうかあの人を愛せますように、愛を増してください」、という祈りに変えられていきます。
相手が変わることを願っていた祈りが、自分が変えられることを願う祈りへと、変わっていきます。
そして、最後には、「主よ、どうか、愛の足らない私を憐れんで下さい。そして、こんな私をも見捨てずに、愛して下さる主に感謝いたします」、という祈りに導かれていきます。
繰り返しますが、どんな祈りでも、最後に感謝の言葉が出れば、それは勝利なのです。
そのように、私たちの祈りは、初めは、ただ求めるだけの祈りです。
しかし、ひたすらに願い求めていくうちに、私たちは、ただ求めているだけでなく、神様の御心を探すように、祈りの中で導かれていきます。
そして、祈りの中で、御心を示されたなら、それを行っていく行動へと、促されていきます。
門をたたくという、具体的な行動へと、導かれていくのです。
真実の祈りとは、そのように、ただ求めることから、御心を探すことへ、そして、示された御心を行う、具体的な行動へと、成長していくものなのです。
天の父なる神様は、求める者に、必ず良いものを、くださいます。
そうであるならば、あなた方も、人に対して、一番良いことを、してあげなさい、と主イエスは言われました。それが、黄金律と言われている12節の御言葉です。
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」
これと似たような言葉は、色々なところで聞かれます。ただ、似てはいますが、全く輝きが違っています。なぜなら、それらは、すべて否定的な形で、語られているからです。
例えば、「人の嫌がることをするな」、「人からされたくないことを、人にするな」、という戒めとして語られています。仏教でも、「己の欲せざることを、人に施すなかれ」、と教えています。
しかし、主イエスの教えは、これらと違って積極的です。他人の立場に自分を置いて、自分であったら何をして欲しいかを尋ね、そのことを人々にしなさい、と言われているのです。
あの「善きサマリア人の譬え」を、想い起してください。瀕死の怪我人を見ても、祭司とレビ人は、何もせずに通り過ぎてしまいます。否定的な態度です。
しかし、サマリア人は近寄って介抱し、出来る限りの事をしました。主イエスが、教えておられるのは、このサリア人のような、積極的な愛の行動を取る事なのです。
ですから、この黄金律は、「あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさい」という、主イエスが最も大切な教えとされた御言葉と、重なっているのです。
12節の冒頭に、「だから」と書かれています。この「だから」は、山上の説教全体との関わりの中で、書かれていると考えられます。
この黄金律は、山上の説教全体の結論、ともいうべき言葉なのです。
山上の説教では、多くのことが語られてきました。では、ここで、主イエスが仰っておられることは、要するに何なのだろうか。
そんな疑問に答えられるかのように、主イエスは、ここで言われているのです。
あなたが、人にして欲しいと思うことがあるだろう。それを、人にしてあげれば良いではないか。それが出来れば、あなたは、山上の説教全体を、生きていく事になるのだ。
主イエスは、ここで、そう言われているのではないでしょうか。
私たちが、人に何かをして欲しいと、切実に思うのは、どのような時でしょうか。
それは、辛い時、苦しい時、耐え難い悲しみに覆われている時、ではないでしょうか。
そういう時に、誰かにこうしてもらいたい、と思うのではいでしょうか。
愛する人を亡くして、深い悲しみと喪失感の中で、苦しんでいる人がいたとします。
「誰かに慰めてもらいたい。誰かに一緒に泣いてもらいたい。」
そう思っている時、主イエスは、言われるのです。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、人にしてあげなさい。」
悲しんでいるあなた、苦しんでいるあなた、辛さにじっと耐えているあなた。
そのあなたこそが、他の人の悲しみを慰め、苦しみを共に味わい、辛さを担ってあげることができるのです。
あなたと同じように、深い悲しみの中にいる人がいる。苦しんでいる人がいる。辛さにじっと耐えている人がいる。
その人を慰め、助け、苦しみを共に担うことが出来るのは、あなたしかいない。
もちろん、苦しみ、悲しみの只中にいる今は、とてもそんなことはできないだろう。
慰めや助けを必要としているのは、他ならないあなたなのだから。
しかし、あなたは、いずれ立ち直る。私が手を取って、立ち直らせてあげる。
だから立ち直ったら、今度は、悲しみや、苦しみの中にいる人を、慰め、助けてあげなさい。
同じ様に悲しみ、苦しみ、辛さに耐えているあなただからこそ、それができるのだ。
「主よ、そんな、厳しいことを言わないでください」、と思わず言いそうになる私たちに、示される姿があります。それは、十字架を背負って、ゴルゴダへと向かわれる主の御姿です。
黙々として、苦しみを受けられ、辛さを担われ、悲しみを背負って、歩まれている救い主の御姿です。
罪の縄目に捕らわれて、苦しんでいる私たちが、「どうか救ってください」、と願っている。
私たちが願っていることを、ご自分の方から、進んでしてくださった主の御姿。
私たちは、この主イエスをお手本として、後に続いていくのです。
主イエスは、満ち足りている人に、あなたは、人から、十分に良くして貰ったのだから、今度はお返しをしなさい、と言っておられるのではないのです。
欠けだらけの私たちに、語り掛けられているのです。
あなたは欠けに満ちている。でも、欠けを知っているからこそ、自分が何をしてもらったら、嬉しいかを知っている筈だ。人のために、何をすべきかを知っている筈だ。
そういう者として、して欲しいと思うことを、人にしてあげなさい、と言われているのです。
でも、私たちは、自分でも嫌になる程、自己中心的です。とても、主イエスの呼び掛けに、応えるような愛を持ち合わせていません。
そんな私たちに、主イエスは、命令されているのです。「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。諦めずに祈り続けなさい。」
私たちは、主イエスの御言葉に励まされて、祈り続けて行きたいと思います。
「主よ、どうか、私の心をあなたの愛で満たしてください。そして、自分がして欲しいと思うことを、人にもすることができますように、私を導いてください。」
私たちが諦めずに祈り続ける時、主はその祈りに応えて、私たちを造り変えて下さいます。その時、この⒓節の御言葉は、本当の意味で、私たちの黄金律となるのです。
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」