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過去の礼拝説教

「共に歩もう、命に至る道を」

2020年10月04日 聖書:マタイによる福音書 7:13~14

ある人が分かれ道に来た時に、どちらの道を行ったら良いか、分からなくなりました。
そこで、一本の棒を倒して、倒れた方に行こうと決めました。
ところが、その人は棒を倒しては拾い、また倒してはまた拾いと、同じことを繰り返しました。
何故でしょうか。その人は、自分の行きたい方に、棒が倒れるまで繰り返していたのです。
これは、人間の心理を良く表しています。選ぶと言っても、多くの場合、既に決めているのです。結局は、自分の気に入る方を、選んでしまうのです。
私たちの人生は、様々な決断の連続です。何を食べるか、何を着るか、どの学校に行くか、何の職業に就くか、誰と結婚するか…などなど。
何を食べるかとか、何を着るか、という位のことでしたら、それ程でもありませんが、大きな決断する時には、いつも恐れが伴います。不安が付いて回ります。
ですから、大切な決断をする時には、誰かに頼って、意見を求めたくなります。
先週お話ししたように、100日祈祷をして、神様の御心を尋ねるなら、確実です。
でも、多くの人たちは、身近なところにいる、信頼できそうな人に相談に行ったり、姓名判断や占いなどに、頼ったりします。
そういう私たちに、主イエスは、語り掛けられます。「狭い門から入りなさい。」
この言葉も、先週の、「求めよ、さらば与えられん」と同じように、世間一般で、よく知られています。日常的に使われている言葉です。
でも、多くの人は、それが、聖書から取られた言葉だとは、知らないで使っているのではないかと思います。
「狭い門から入りなさい。」 この言葉は、一体、どのような意味を持っているのでしょうか。
一般には、苦労すれば、後で報われるから、辛くても、今は頑張りなさい、という人生訓として使われています。
私は、若い頃、ラグビーに熱中していましたが、その頃、「泣くなら練習で泣け、試合では泣くな」、とよく言われました。これも、同じような教訓の言葉です。
人生には二つの門、二つの道がある。そのどちらかを選ばなくてはならない。
一方は、辛そうな道です。もう一方は、楽そうに見える道です。
楽そうな道を選びたくなる誘惑に勝って、辛そうな道を選ぶ方が、最後には本当の幸福を得ることができる。だから、狭い門から入りなさい。
主イエスは、そういう人生訓を、ここで語られたのでしょうか。
そうではありません。この言葉は、「山上の説教」のまとめのような言葉なのです。
「山上の説教」において、主イエスは、主の弟子としての生き方を示されました。まことの命に至る生き方を、示されました。
天国の幸いは、自分の心の貧しさを、知ることから始まる。
自らの罪に対する深い悲しみ、救いに対する激しい渇き、隣人に対する心からの憐み。それらがなくしては、神の国の幸いを得ることはできない。
また、復讐せずに、敵のために祈る愛。諦めずに求め続ける祈り。自分の罪を誰よりも大きいものと認める眼差し。この世ではなくて、天に富を積むことを願う心。
それらが、あなたを、まことの幸せへと導くのだ。活き活きとした命の道へと導くのだ。
主イエスは、このような弟子としての生き方を、「山上の説教」を通して語られました。
それに続いて、今朝の御言葉では、そのような生き方を、しっかりと選び取りなさい、と言われているのです。
あなたは、私の弟子として生きるために、狭い門から入りなさい。命に至る細い道を歩みなさい、と言われているのです。
あなたは、滅んではならない。死に至る道を歩んではならない。命に至る、救いの道を選び取りなさい。いえ、是非、選び取って欲しい、と言われているのです。
山上の説教において、神の国について、解き明かされた後で、主イエスは、神の国で生きる生き方を、選び取りなさい、と決断を迫られたのです。
それは「あれか、これか」の、二者択一の選択です。滅びか命か、二つに一つの決断です。
神様と共に生きるか、神様なしで生きるか、どちらかを選ばなければならないのです。
主イエスは、「狭い門から入りなさい」、と言われました。ハッキリと決断を迫る命令です。
しかし、その命令を、憐れみに満ちた眼差しをもって、迫られたのです。
どうか、命に至る道を、歩んで欲しいという、切なる願いをもって、命令されたのです。
皆さんにも、そのような選択の時があったと思います。
日本メソジスト教会の初代監督で、青山学院の第二代院長を務めた本多庸一は、アメリカ留学中に、時の明治政府から、政府の要人として迎えたい、との申し出を受けました。
伝道者になるか、政治家になるか深く考えていた時、不思議な体験をしました。
何時しか、彼は、鉄橋の上で佇んでいたのです。すると、列車が近づいて来ました。
思いに沈んでいた本多は、列車が間近に迫るまで、気が付きませんでした。
危機一髪で気が付いて、とっさに枕木に身を伏せました。
列車は本多の頭をかすめて、上着の端を引き裂きましたが、命は助かったのです。
この体験がきっかけで、本多は政界に進出することを止めて、キリスト教の伝道者として生きていく事を決心をしたということです。
このように、劇的な選択もあれば、静かで、密やかな選択もあると思います。
いずれにしても、入るべき門を、歩むべき道を、正しく選ぶことが大切です。
そして、一旦選択したならば、困難があろうとも、その道を歩み通して行きたい、と願わされます。
信仰生活においても、洗礼を受けた、という所に留まっていないで、信仰の道を、生涯かけて歩んで行きたいと思います。
せっかく洗礼を受けたのに、途中で信仰を失ってしまい、命に至ることが出来ない人が多いのです。何とももったいない話です。
以前、洗礼を受けた後に、信仰を捨ててしまった人が、そのことを批判されたら、「それなら」と言って、バケツに水を汲んで、洗礼の水を返しに来た、という話を聞いたことがあります。
笑い話のようですが、笑って済ませることが出来るような話ではありません。
これは、命か、滅びか、の選択の話なのです。
何故、命に至る門を、見つけることが、難しいのでしょうか。それは、狭いからです。
狭いから、見つけることが、難しいのです。
でも、神様の救いは、全ての人に、差し出されている筈です。すべての人の前に、救いの門は開かれている筈なのです。それなのに、狭くて、見つけるのが難しいというのは、おかしな話です。なぜなのでしょうか。どういう意味で狭いのでしょうか。
それは、すべての人の前に、門は開かれているのに、多くの人には、それが見えないからです。ですから、入るのが難しい、狭き門だと感じるのです。
有名大学に入るのは、狭き門だと言われます。しかし、その門は、皆に見えています。
見えているから、多くの人が殺到するのです。そのために、狭き門になるのです。
しかし、御言葉が言っている門の狭さとは、大勢の人が押し寄せて、競争が激しいために、狭くなるのではありません。
その門は、私たち一人一人に専用の門なのです。そして、その門は、いつも、私たち一人一人の前に、用意されているのです。でも、多くの人は、それを見付けることが出来ません。
主イエスは、私たち一人一人を、かけがえのない存在として、愛してくださっています。
ですから、私たちをひとくくりにせずに、一人一人の名前を呼んでくださいます。
その主の御声を聞き取った時に、初めて、自分の前に用意されている門を、見いだすのです。「あー、ここに門があったのだ」、と気が付くのです。
そして、私たちは、自分を呼ばれる、主の御声に応えて、その門を通るのです。
つまり、自分を呼ばれる、主の御声を、聞き取った人だけが、通ることができるのです。
でも、この主の招きの御声を、しっかりと聞き取り、それに応える人が少ないのです。
そういう意味で、その門は狭いのです。決して通りにくい門、ということではありません。
名前を呼ばれて、それに応えた人にとっては、狭くはないのです。
自分を呼んでくださる主の御声を、しっかりと聞き取る時、そこに門があることに、気付かされます。そして、その門をくぐり、細い道を歩んでいく決断をするのです。
もう一つこの門の特色があります。それは、この門は、自分一人のために作られた、専用の門なので、自分の姿に、ぴったりと合わせて、作られているということです。
ちょうど、自分一人が入れるような大きさの門なのです。ですから、何か余計な荷物を持って、通り抜けることはできないのです。
大きなカバンに、たくさんの物を詰め込んで、持って入ろうとしてもできないのです。
この世の富や名誉など、余計なものはかなぐり捨てて、自分の身一つで、ただ救いの恵みだけを握り締めて、入らなければならないのです。
この門を通るのに必要なことは、救いの恵みを携えている、ということだけなのです。
それ以外のものを持ち込もうとしても、邪魔になって、入れないのです。そういう意味でも、狭い門なのです。
ですから、それは、難行苦行をしなければ通れない、という意味での狭い門ではありません。
難行苦行すれば、命に至ると考えるのは、実は、広い道を歩むことなのです。
難行苦行の道を歩んで、救いに到達しようとする人は、大勢います。多くの人が、その広い道を歩もうとしています。
主イエスの当時の、ファリサイ派の人たちも、そう考えていました。
彼らは、自分の生活を厳しく律していました。そうすることによって、自分たちは、命に至る、狭くて厳しい道を、知っているつもりになっていました。
自分は、狭い門を通って、命に至る細い道を歩んでいる、と思っていました。
でも、人間は、自分自身の業によっては、救われないのです。私たちの罪は、そんな軽いものではないのです。私たちの罪は、神の独り子、主イエスが、十字架の上で、代わって負ってくださったことによって、初めて贖われるのです。
人間は、この主イエスを信じる信仰によってのみ、救われるのです。
さて、ここまでお話ししてきて、もう皆さんは、薄々感じておられると思います。
ここで、主イエスが言われている、「門」と「道」とは、実は、主イエスご自身のことです。
主イエスは、ヨハネによる福音書10章9節で、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」、と言われます。
私の羊であるあなた方は、私という門を通って、牧草を見つけることができる、と言われているのです。
ここで主イエスが言っておられる牧草とは、主イエスによって与えられる、永遠の命という、救いの恵みです。
あなた方は、私という門を通って、永遠の命という、牧草を食べたらよい。
いや、是非食べて欲しい。それが、私の願いであり、私の心なのだ。主イエスは、そう言ってくださっているのです。
また、主イエスは、ヨハネによる福音書14章6節で、このように言われました。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。
ここでは、主イエスは、ご自身のことを、道であると、はっきりと仰っています。
私は、父なる神様に通じる道だ、と言われているのです。
主イエスこそが、私たちが、父なる神に近づくことができる、唯一の道なのです。
この道によってのみ、私たちは、父なる神様のもとに、行くことができるのです。
主イエスの十字架こそが、私たちと神様の間にある、深い溝に架けられた道なのです。
主イエスは、神様と私たちの間にある、決して越えることのできない深い溝に、ご自身を投げ出してくださり、道を作ってくださいました。
そこを通らなければ、私たちは、神様の御許に行くことは、決してできないのです。
私たちは、主イエスの十字架という道を渡って、神様に許に行かせて頂いているのです。
私たちだけではありません。今までに、何億、何十億、いや何百億という人たちが、この、主イエスの十字架という道の上を歩いて、神様の御許に行きました。
その全ての人の足の下に、主イエスは、尊いその身を投げ出して、支えて下さったのです。
そして今も、支えてくださっています。
私たちは、罪に汚れた足で、その道を踏みしめながら、神様の御許に、近づいて行きます。
何十億、何百億という人たちの汚れた足が、ご自身を踏みつけていくのを、限りない愛と忍耐をもって、支えていてくださるお方。それが、私たちの救い主、イエス様なのです。
命に通じる狭い門から入り、細い道を歩んで行くとは、招きの御声に応えて、この主イエスの上を、歩んで行くということなのです。
主イエスは言われています。「私の体を踏みしめて、父の御許に行くがよい。私は、あなた方に踏まれるために、この世に来たのだ。」
主イエスが、道であるとは、そういうことなのです。
そして、私たちが、この道を歩もうとする時、私たちは主の御声を聞くのです。
『あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け/右に行け、左に行け」と。』
イザヤ書30章21節の御言葉です。皆さんは、この御言葉を、覚えておられるでしょうか。
この御言葉は、私が、この教会に赴任した年、2013年度の主題聖句でした。私にとっては、忘れられない御言葉です。
私たちが、狭い門から入り、命の道を歩もうとする時、この主の御声が聞こえてきます。
主は、いつも後ろにいて、「ほら、そこに道がある。あなたの行くべき道が」と言ってくださるのです。私たちは、この後ろから聞こえて来る、主の御声に、耳を傾ければよいのです。
ですから、私たちは、その道が、どんなに狭くて、厳しそうに見えても、恐れずに、主の御声を聞きつつ、その御声に励まされて、示された道を歩んで行くことが出来るのです。
この恵みに、感謝しつつ、命に至る救いの道を、共に歩んでまいりたいと思います。