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過去の礼拝説教

「良い実を結ぶ生き方とは」

2020年10月11日 聖書:マタイによる福音書 7:15~23

皆さんは、グリム童話にある、「狼と7匹の子山羊」の話を、ご存知だと思います。
お母さん山羊が町に出掛けるので、7匹の子山羊が留守番をすることになりました。
お母さんは、「誰が来ても、決してドアを開けてはいけませんよ」、と注意して家を出ました。
そこに狼がやって来ました。狼が、がらがら声で「お母さんですよ」と言っても、子山羊たちは、すぐに見破ってしまいました。
そこで狼は、声をよくする薬を飲んで、再び子山羊たちの家へ行きました。そして、優しい声で、「お母さんですよ」と言うと、子山羊はドアの隙間から、足を見せて欲しいと言いました。
狼の足は真っ黒だったので、またも見破られてしまいました。
そこで狼は、小麦粉を塗って足を白くして、もう一度子山羊たちの家へ行きました。
そして、ドアの隙間から白い足を見せました。それを見た子山羊たちは、大喜びでドアを開けました。
狼は、柱時計に隠れた末っ子を除いて、6匹の子山羊を丸呑みにしてしまいます。
お腹一杯になった狼は、そのまま眠りこけてしまいます。
そこへお母さん山羊が帰って来て、末っ子から話を聞きます。お母さん山羊は、寝ている狼のお腹から6匹の子山羊を助け出し、代わりに石を詰め込みます。
目が覚めた狼は、井戸で水を飲もうとしますが、お腹に詰め込まれた石の重さで、井戸の底へ転落して死んでしまった、というお話です。
この話の原型は、グリム童話よりもずっと前から、教会において語り伝えられていました。
日本にも戦国時代に、宣教師たちによって、既に伝えられていたそうです。
何故、この話が、教会において、古くから語り伝えられていたのでしょうか。
それは、この話が、今朝の御言葉を土台としているからです。
主イエスは言われました。「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。」
教会は、昔から、人々に語り続けて来ました。
この童話の狼のように、偽預言者は敬虔な信仰者を装い、如何にもキリストを信じているような顔をして登場する。見るからに、狼と分かるような顔をして、やっては来ない。
だから、あなた方は、偽りの優しい声や、小麦粉で白くなった手足によって、惑わされてはならない。偽預言者は、羊の皮を身にまとって、あなた方のところに来るのだ。
いえ、それどころではありません。22節には、こう書かれています。
「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。」
偽預言者たちは、終末の裁きの場で、主イエスに向かって、このように言うというのです。
「私は、あなたの名によって、神の言葉を語って来ました。あなたの名によって、力ある業を行って来ました。あなたの名によって、悪霊を追い出し、奇跡すら行って来ました。」
果たして、私たちは、主イエスの前で、このような言葉を、堂々と言えるでしょうか。
特に、牧師は問われてしまいます。私は、主イエスの前で、果たして言えるだろうか。
私は、あなたの名によって、正しい説教を語って来ました。愛の業を行って来ました。恵みに満ちた教会を立て上げて来ました。そう言えるだろうか。とても言えないと思います。
むしろ、「私は、あなたのご期待に応えるようなことは、何一つなし得ませんでした。御心を悲しませるばかりでした。どうかお赦しください」。このようにしか言えないと思います。
それに引き換え、偽預言者たちは、まことに堂々としています。
そして、人々は、堂々として、立派に見える、偽預言者の方に、魅かれていくのです。
ですから、偽預言者との戦いは、教会にとって、極めて困難な戦いとなるのです。
預言者エレミヤが、最も苦しめられたのは、イスラエルの民に、耳触りの良い言葉を語る、偽預言者との戦いでした。
パウロも使徒言行録20章において、エフェソの長老たちに対して、自分が去った後に、教会に凶暴な狼が入り込んで、群れを荒らし回ることを予告しました。
偽預言者の方が、人々に受け入れられ易いのです。偽預言者の方が、本物らしく見えてしまうのです。
その上、彼らは、「羊の皮を身にまとっている」ので、なかなかその実態を、見分けることが出来ません。
しかし、主イエスは、「私は、彼らを退ける」、とはっきりと言われています。
ルカによる福音書18章にある、ファリサイ派の人と徴税人の譬えを、想い起してください。
神殿に、この二人が、祈るために上りました。ファリサイ派の人は、自分の立派な行いをとうとうと述べて、自分が徴税人のような罪人でないことを、感謝しますと祈りました。
それは、祈りというよりも、自己PRです。
偽預言者が、終末の裁きの場で、自分のなした業を、堂々と報告したのと似ています。
一方、徴税人の方は、自分の罪深さを嘆き、胸を叩いて悔い改めの祈りを献げました。
そして、主イエスは、この徴税人の方が、神様に受け入れられた、と言われたのです。
一体、何が問題であったのでしょうか。
ファリサイ派の人は、神様に向かって、堂々と祈っています。立派な信仰者に見えます。
しかし、今朝の御言葉で、主イエスは、こう言われました。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」。
誤解しないで頂きたいのですが、ここで、主イエスは、「主よ、主よ」と、信仰告白をすることがいけない、と言われているのではありません。
ただ「主よ、主よ」と言う者が皆、つまり全員が、天の国に入る訳ではない、と言われたのです。実際には、「主よ、主よ」と言う者の多くは、天国に入るのです。
ですから、どうか心配しないで、「主よ、主よ」と告白し、「主よ、主よ」と祈ってください。
でも、中には、入れない者もいる、というのです。では、どういう人が入れないのでしょうか。
一体、何が問題なのでしょうか。天の父の御心を行っていない、ということが問題なのです。
神様は、表面的な行為ではなくて、その心を見られるお方です。口先だけで、「主よ、主よ」という、形だけの信仰を、受け入れられないお方なのです。
大切な事は、神様の御心を、行っているかどうか、ということなのです。
では、神様の御心とは、何でしょうか。神様の御心を、極めて大胆に、一言で言い表すなら、それは「愛」である、と言うことが出来ると思います。
神様の御心である、愛を動機とした言葉と行いは、神様に受け入れられるのです。
しかし、偽預言者の内側は、貪欲な利己主義に満ちています。彼らは、羊の皮をまとっているので、外側は信仰深く見えます。そして、熱心に教え、立派な業を行います。
しかし、それは、神様と人々を愛するからではなく、自分の利益のためなのです。
「主よ、主よ」、と口では言いながら、心の中では、「自分が、自分が」、と言っているのです。
神様の名を利用してまでも、自分を高め、自分の利益を求めているのです。
外側がどんなに敬虔で、信仰深そうな行為であっても、動機が自分の利益を求める、欲望に満ちているようであれば、その言葉も行いも、神様に受け入れられません。
偽預言者たちは、主の御名によって預言し、悪霊を追い出し、多くの奇跡を行いました。
22節を見ますと、偽預言者たちは、三度も「御名によって」と、繰り返して言っています。
「私の名によって」ではなく、「主の御名によって」語り、行なってきた、と言っているのです。
それなのに、それは、天の父の御心を行なったことにならない、と主は言われるのです。
何故でしょうか。何とも厳しい言葉の様に聞こえます。
でも、私たちは、ここで、コリントの信徒への手紙一の13章の御言葉を、想い起こしたいと思います。有名な「愛の賛歌」と呼ばれている箇所です。
ここで使徒パウロは、「たとえ私が、全財産を貧しい人に施しても、また福音のために自分の命をささげても、愛がなければ全く空しい。何の益にもならない」、と言っています。
この言葉は、今朝の箇所で、主イエスが言われた御言葉と重なります。
偽預言者の、どんなに立派な言葉や行いも、愛を動機とせず、自分の利益を求める欲望が動機であるならば、御心を行った事にはならないのです。
彼らは、主の御名を利用して、自分の業を行っていたに過ぎないのです。それは空しく、何の益にもならないのです。
主イエスを愛する愛が、あるか、ないか。主イエスの愛の内を、歩んでいるか、いないか。
それが、問われているのです。
言い換えれば、それは、主イエスと結ばれているか、いないか、ということです。
主イエスと結ばれて、主イエスの愛に内にいるなら、どこにいようとも、そこは天の国です。
天の国に生きるとは、主イエスと共に生きるということです。
天の国は死んでから行く所ではありません。生きている今、主エスと共に生きること。主イエスの愛の内に生きること。それが天の国に生きるということです。
天の父の御心を行う者が、天の国に入る、と主イエスは言われました。
しかし、私たちは、天の父の御心を行うことは、とてもできません。
ただ、「主よ、私は罪深い者です。あなたの御心を行うことが出来ません。どうか、私を憐れんでください」。そのように、祈り願うことしかできません。
しかし、そのように心から願う時、主イエスの十字架は、この私のためであったことが、分かって来ます。
主イエスの十字架なくしては、とても御心に適う者ではない、ということが、本当によく分かります。そして、この主イエスと共に生きていきたい、と心から願わされます。
それが、天の国に生きるということなのです。
マザー・テレサは、こう言いました。「天国には、どのような人が入るのですか、と聞くあなたに答えましょう。この世で天国を味わっている人が入るのです。あなたは、この世で、天国を味わっていますか」。
私たちは、神様の御心を行うことが出来ない者です。そのような者であるからこそ、主イエスと、しっかりと結びついていなければならないのです。
今朝の御言葉で、主イエスは、良い木は、良い実を結ぶ。だから、あなた方は、良い木となりなさい、と言われました。
でも、生まれながらの私たちは、良い実を結ぶような、良い木ではありません。
では、どうすれば良いのでしょうか。
ヨハネによる福音書14章5節で、主イエスは、このように言われました。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」
この御言葉は、命令形ではありません。「実を結べ」、と命令しているのでは、ないのです。
「実を結ぶ」、と言われているのです。ごく自然のこととして、実を結ぶ。
ぶどうの木が、自然に実を、結ぶように、あなた方は、私につながり続けるなら、必ず実を結ぶのだ。主イエスは、そう言われたのです。
大切なことは、主イエスに、つながり続けることなのです。どんなことがあっても、主イエスに、つながり続けることなのです。
でもどうすれば、汚れた私たちが、聖なる主イエスに、つながり続けることが出来るのでしょうか。そんなこと不可能に思えます。しかし、不可能を可能にする、驚くべき道があるのです。
それは、主イエスに、接ぎ木されることです。自然に生えた枝ではなく、後から接木された枝。
そんな枝になれば良いのです。私たちは、生まれながらに、主イエスという木に、つながっていた訳ではありません。元々は、罪の中に生まれ、滅ぶべき者であったのです。
そんな、汚れた私たちが、主イエスという、聖なる木に、接木されるのです。
接ぎ木をするときは、土台となる親木に、刃物で切れ目を入れて、そこに枝を差し込みます。
土台となる親木を、傷つけなければ、接ぎ木することは、できません。
この傷こそが、主イエスの十字架です。主イエスという親木が、十字架によって、傷つけられなければ、枝は差し込めないのです。
主イエスという木に刻まれた、十字架の傷に、私たちという枝が差し込まれて、初めて私たちは、主イエスという木に、つながることが出来るのです。
それによって、罪ある者が、救われ、聖められて、新しい命に、生きる者とされるのです。
罪の中にあった私たちが、主イエスという、命の木に接木されて、土台である親木から、命の樹液をいただいて、生かされる。これが、私たちの救いです。
生まれながらの私たちは、良い木ではありません。良い木になろうとしてもできません。
良い木は、主イエスだけなのです。この木に、結ばれていなければ、良い実は実りません。
ですから、主イエスという良い木に刻まれた、十字架の傷口に、接ぎ木されることが、どうしても必要なのです。
しかし、せっかく接木されても、親木から養分を吸収しないなら、接木は成功しません。
接木された枝が、親木から豊かな養分を吸収しているか、どうかが問題となります。
主イエスという、良い木につながれているのに、良い実を結ばないというのは、接木されても、親木から注がれる養分を、吸収していないからです。
形だけがつながっていても、命の樹液が流れ込んでいなければ、それは枯れ枝なのです。
それでは、せっかく、自らの身を傷つけて、枝を受け入れてくださった、主イエスという、親木を、悲しませてしまいます。
私という良い木につながって、良い実を結びなさい。貪欲な狼のような偽預言者につながるのではなく、私にしっかりとつながり、愛の実を結びなさい。
主イエスは、そう願われて、私たちを招いてくださっています。
その主の招きを喜び、感謝して、主の愛の内に招き入れられたいと、心から願います。