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過去の礼拝説教

「平和の種が蒔かれた町 ー 前茅ヶ崎教会 櫻井重宣牧師」

2020年11月08日 聖書:ゼカリヤ書8章1~17節

 今年は戦後75年です。8月6日は広島で、9日は長崎で原爆投下75年の記念式典が行われ、8月15日には敗戦75年の記念式典が行われました。
 実は、今から2600年も前ですが、イスラエルの民はバビロンという大きな国との戦いに敗れ、戦争のためたくさんの人が亡くなり、国土は荒れ果て、大切にしていたエルサレムの神殿が崩壊し、それだけではなく千キロ以上離れたバビロンに多くの人が捕虜として連れて行かれました。そのイスラエルの民がいつしか敗戦記念日になりますと、エルサレムの神殿の廃墟に集まって敗戦記念日の礼拝をささげるようになりました。
 今耳を傾けたゼカリヤ書はバビロンとの戦争に敗北してから70年近く経った頃活躍した預言者ゼカリヤの書です。今日の箇所の少し前には、自分たちは戦後70年、敗戦記念日の礼拝を守ってきた、これからもこの礼拝を守り続けるのか、と言う人々のことが記されています。そうした人々に対してゼカリヤは、わたしたちは戦後70年、敗戦記念日の礼拝を守ってきたが、今の時代は平和と言うことできるか、と問うのです。わたしたちの国はいかがでしょうか。戦後75年経ちました。今の時代は本当に平和でしょうか。
ゼカリヤは、わたしたちの国は、今は平和とは言えない、けれども神さまはエルサレムに、この世界に激しい熱情を注いでおられる、近い将来神さまがエルサレムの真ん中にお住みになるというのです。神さまご自身がエルサレムの真ん中に住むとき、エルサレムは信頼に値する都と呼ばれ、平和な社会が到来するというのです。
それでは、ゼカリヤが預言する信頼に値する平和な社会はどういう社会なのでしょうか。
今お読み頂いた8章の4節と5節にこう記されています。「エルサレムの広場には 再び、老爺、老婆が座すようになる それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。都の広場はわらべとおとめに溢れ 彼らは広場で笑いさざめく。」
ゼカリヤは平和な社会には、お年寄りたちと子どもたちが広場で、楽しそうに遊び、語り合い、笑い合っている、そういう光景があるというのです。

旧約聖書に哀歌という書があります。哀歌はこの敗戦記念日の礼拝の式文です。哀歌をていねいに読み進みますと、イスラエルの民は毎年行われる敗戦記念日の礼拝で、わたしたちのおごり、高ぶりが戦争を行ってしまい、あの戦争でたくさんの若者が死んだ。それだけでなく、女性や乳飲み子、子どもたちそして高齢の人たちも死んだというのです。こういう一節があります。「幼子は母に言う パンはどこ。ぶどう酒はどこ、と。都の広場で傷つき、衰えて 母のふところに抱かれ、息絶えてゆく。」わたしは茅ヶ崎に参ります前、広島の教会で奉仕しましたのですが、原爆が投下された後この哀歌で歌われていたことと同じような悲しみが数多くあったことを聞きました。お母さんが死んでしまったのに赤ちゃんがお母さんのおっぱいにすがりついて泣いていた、反対に死んでしまった乳飲み子に必死にお乳を含ませようとしている重傷の母親がいた、語る人も聞く人も涙でした。哀歌もそうです。「昼も夜も、川のように涙を流せ」、また「わたしの目は休むことなく涙を流し続ける」という一節もあります。イスラエルの民は敗戦記念日の礼拝で、かつての戦争で弱い立場にある人々を数多く犠牲にしたことを、涙を川のように流しながら思い起こし、心に刻み続けたのです。
ゼカリヤは戦後70年経過した今、あっちでは子どもたちがおじいさんおばあさんと一緒にかごめかごめをしている、こっちでは子どもたちがおばあさんにおてだまを教えてもらっている。向こうでは、おじいさんやおばあさんが子どもたちに昔々・・と言ってお話しを聞かせている、そういう光景があるかというのです。そしてゼカリヤは、神さまが町の真ん中に住む、神さまは近い将来、救い主を贈ってくださる、神われらと共にいます、インマヌエルの世界を望み見て平和の種を蒔こうというのです。
 
本日は茅ヶ崎恵泉教会の創立69周年の記念礼拝です。茅ヶ崎の町に初めて教会が誕生したのは、今から93年前の1927年・昭和2年10月30日です。この教会と歴史を共にする茅ヶ崎教会です。茅ヶ崎における最初の教会はまさにこのところで誕生しました。そして茅ヶ崎恵泉教会は69年前にやはりこのところで誕生しました。
実は、茅ヶ崎に教会が誕生したのは93年前ですが、教会が誕生する前から、すなわち明治、大正の時代からこの茅ヶ崎にはイエスさまを信じる人がいて、神さまがこの世界に一人子イエスさまを贈ってくださった、その恵みにお応えして平和の種を蒔き続けていました。
 
具体的にいくつかのことを紹介しますと、先ず、1899年・明治32年、今から121年前にこの茅ヶ崎に結核サナトリウムの南湖院が開設されました。開設したのは高田畊安というキリスト者の医師です。今、コロナにかかった人が偏見や差別で苦しんでいますが、結核という病は、高田畊安先生がこの町に南湖院を開設したときもそうでしたが、戦後に至るまで全国どこででもおそれられ、病気になると町にいることができない状態でした。けれども茅ヶ崎の町は結核の人を受け入れました。
 わたしが子どもの頃お世話になった北海道の方がおられます。その方にわたしが茅ヶ崎に赴任してまもなくお会いしたとき、その方は、自分は茅ヶ崎小学校の卒業生だというのです。どうしてですかとお尋ねしますと、兄が結核になったので、家族で北海道の小樽から茅ヶ崎に移り住んだ、そのため自分も茅ヶ崎小学校に転校し、卒業した、けれども兄が死んだので、家族でまた北海道に戻ったというのです。
 この南湖院の副院長で、この茅ヶ崎恵泉教会の創設に深い関りがある高橋誠一さんと奥さんでお医者さんの美也さんは南湖院の職員の子どもたちや、家族が結核になり茅ヶ崎に移り住んだ子どもたちのために日曜学校を開設しました。高橋誠一さんと美也さんは日曜学校の生徒全部がわたしたちの子どもだといって生徒たちを大変可愛がりました。美也さんは病気なのに貧しさのため十分な食事がとれない子どもさんには自らお粥を作って届けました。
お母さんが結核になったため横浜から家族みんなで茅ヶ崎に移り住んだご家族がいました。そのご家庭の三人の娘さんたちも高橋誠一さん・美也さんに日曜学校で大変可愛がって頂きました。その美也さんが1937年・昭和12年に病気のため亡くなりました。その時のことを書いた三人の娘さんたちの文章が茅ヶ崎教会の六十年史にあります。こういうことが書かれています。
美也さんが亡くなった時、その三姉妹を初め日曜学校の子どもたちは、南湖院に出入りしていた八百屋やパン屋のおばさんたちから「美也先生が亡くなって悲しいね、寂しいね、あなた方はどんなに悲しいのだろう」とお悔やみの言葉をかけられたというのです。美也さんがどれだけ日曜学校の子どもたちを愛していたか、それを南湖院に出入りしていた人はみんな知っていたのです。
 
 二つ目は1917年・大正6年、今から103年前ですが、茅ヶ崎駅の北側に作られた純水館という従業員300名の製糸工場です。長野の小諸の小山房全(ふさもち)さん、喜代野さんというご夫妻が開設しました。品質の良さは日本で一、二の工場でした。純粋館の特徴は働く人と小山さんのご家族が同じ食事でした。女工哀史という言葉があった時代です。妻の喜代野さんは若い頃、小諸で内村鑑三先生の教えを受けた方でした。小山さんご夫妻は働く人の健康管理のため高橋誠一先生を招き、さらに工場で働く人の子どもたちが心豊かに成長して欲しいと願い、日曜学校を始めました。働く人たちや子どもたちへの優しさが純水館にありました。この純粋館は1923年・大正12年9月1日の関東大震災で大きな被害を受け、館長夫人の喜代野さんが建物の倒壊で亡くなるという大きな試練に直面しました。小山さんの長女の泰子さんは、後に、お父さんが妻を亡くすという悲しみの中でもお預かりした300人の娘さんたちが一人残らず無事であったことを感謝していた姿が忘れられない、とおっしゃっています。   
  
三つめは、白十字会林間学校です。1917年・大正6年に体の弱い子に日光と空気と栄養の十分な環境で過ごしてほしいという願いでキリスト者のお医者さんたちが開設しました。けれども白十字会林間学校は、太平洋戦争が終わる数か月前、海軍の将校が大勢やってきて、本土決戦に備え、ここは自分たちが使用すると言って占拠してしまい、林間学校で学ぶ体の弱い40人近い子どもたちは新潟へ移り住まざるを得なくなりました。

四つめは家庭学校です。留岡幸助という牧師が間違いを犯した少年少女たちが立ち直ってほしいと願い、少年教護施設「家庭学校」を東京の巣鴨に開設しました。そして留岡牧師は二つ目を北海道に、三つめを茅ヶ崎に開設しました。1923年・大正12年1月、今から97年前です。場所は南湖院の近くの西浜です。分校長は小塩高恒(たかひさ)牧師です。小塩力牧師の父、ドイツ文学者の小塩節さんの祖父です。開設して8ケ月目に発生した関東大震災で家庭学校は全壊という試練に直面しました。必死の思いで再建した小塩高恒牧師は、後に茅ヶ崎の家庭学校は「経費一人当たり日本一軽少、職員の少ないことも日本一、逃亡者を一年に一人もださざるも日本一」だった、とおっしゃっていました。けれども日本の国が戦争にまっしぐらに進むさなか家庭学校は閉鎖されました。
  
南湖院も戦争が激しくなるにつれ、町の人々から白い目で見られるようになり、ついに1945年・昭和20年、敗戦直前、海軍に全面的に接収されてしまいました。戦争は強い者だけに関心があり、病気の人や子どもたちには関心を示さないのです。

もう一つ、茅ヶ崎教会の木下芳次牧師は赴任して一年もたたないうちに戦争に召集され辞任されました。戦後復員され、再び招聘されたのですが、戦時中の牧師は高田彰牧師でした。高田牧師は、東京から神奈川に疎開していた子どもたちや農繁期のとき親が忙しく長時間子どもたちだけで過ごす子どもたちを励ますためご自分で作った人形劇や紙芝居を携えて、神奈川県内を本当によく巡回されました。戦争で不安を覚えている子どもたちに夢を、希望をと願ったからです。
今から31年前に国連総会で採択され、わたしたちの国もそれから5年後に批准した「子どもの権利条約」の基を作ったのはコルチャック先生というユダヤ人の小児科のお医者さんでした。コルチャック先生は第二次大戦下、ポーランドのユダヤ人収容所で戦争のため親がいなくなった子どもたちのホームを作り、子どもたちと生活を共にし、子どもたちに夢を、希望を与え続けていたのですが、
ついにナチスの命令に抵抗できず、ホームの200人の子どもたちはガス室に送られることになりました。コルチャック先生は優れた小児科医でしたので、世界中の多くの人が先生を助けようとしたのですが、コルチャック先生はそれを断り、最後まで子どもたちと行動を共にしました。ガス室に送られるその朝、コルチャック先生は子どもたちにピクニックに行くようなこざっぱりとした服装をさせ、水筒をもたせ、ホームで一番小さい子を抱っこして次に小さい子の手を引いて、ホームの旗を掲げ、ホームの歌をみんなで歌いながら、先頭に立ってガス室行きの貨車に乗り込みました。こうした時にも子どもたちの心に不安を、恐怖を与えないように努力されたのです。
茅ヶ崎でも高田先生は戦争のため不安を、さびしさを覚えている子どもたちに夢を、希望を与えようとされました。

 このように病気の人、家族の病気に心を痛める子どもたち、親が病院や工場で働く人の子どもたち、体の弱い子どもたち、間違いを犯した青少年の再出発のため、そして戦争のため不安を覚えている子どもたちのため、この地のキリスト者は平和の種を蒔き続けたのです。

茅ヶ崎美術館の入り口に詩人の八木重吉の「蟲」という詩が記された碑があります。「蟲が鳴いてる いま ないておかなければ もう駄目だというふうに鳴いている しぜんと 涙をさそわれる」という詩です。八木重吉は結核になり、千葉から南湖院に入院しました。まもなく妻の登美子さんと4歳の桃子さんと2歳の陽二さんが茅ヶ崎に来られ、八木重吉は南湖院を出て、ここからもう少し駅寄りにある家を借りて家族で生活していたのですが、1927年・昭和2年10月26日に29歳の若さで召されました。翌27日葬儀が行われ、葬儀には高橋誠一さんと美也さんも参列しました。葬儀の後、家族数人が遺体の車に付き添い、遠い田舎道を火葬場に向かいました。そこでは薪を積んで焼くので時間がかかるので明日朝お骨を取りにくるようにと言われ、夕暮れの淋しい田んぼ道を登美子さんや遺族は心残りのままいったん家に戻りました。夜、家に戻ると、登美子さんは夫を一人だけにして火葬場から帰ってきたことが切なく、二人の子を抱きしめて泣きに泣いたことをご自分の著書に書いておられます。茅ヶ崎に初めて教会が誕生した4日前にこうした悲しい出来事があったのです。

わたしは今まで紹介した茅ヶ崎のキリスト者の働きを心に留めるとき、八木重吉の「私の詩」という詩に心深い思いにさせられます。こういう詩です。    

私の詩 
(私の詩をよんでくださる方へささぐ)

裸になってとびだし
基督のあしもとにひざまずきたい
しかしわたしには妻と子があります
すてることができるだけ捨てます
けれど妻と子をすてることはできない
妻と子をすてぬゆえならば
永劫の罪もくゆるところではない
ここに私の詩があります
これが私の贖(いけにえ)である
これらは必ずひとつびとつ十字架を背負うている
これらはわたしの血をあびている
手をふれることもできぬほど淡淡しくみえても
かならずあなたの肺腑へくいさがって涙をながす

茅ヶ崎のキリスト者たちは小さな子、病気の子、間違いを犯した少年少女たち、病院や製紙工場で働く若い人、家族の病気で遠い地から家族ぐるみで引っ越してきた子どもたちのため心を砕きました。戦争はそうした弱い立場にある人を蹴散らしてしまいました。茅ヶ崎のキリスト者たちは強い人から見ればもたもたした歩みであったのでしょうが、そうした子どもたちを大切にした歩みをしました。平和の種をまき続けました。八木重吉の言葉でいえば、弱い子どもたち、病気の子どもたち、間違いを犯した少年少女たちを捨てることができなかったのです。それが茅ヶ崎のキリスト者たちの歩みでした。

イエスさまが十字架にお架かりになる一週間前、エルサレムにろばの子に乗って入城され、最初にされたことはエルサレムの神殿で商売をする人たちを追い出し、礼拝する場所、祈りの家とすることでした。マタイ福音書には、イエスさまがエルサレムの神殿から商売人を追い出されたあと、目の見えない人、足の不自由な人や子どもたちがイエスさまのそばにやってきて、ホサナ、ホサナと賛美したことが記されています。お金もうけをする人や強い人がのさばっていたとき、目の見えない人や体の不自由な人や子どもたちは礼拝をささげる神殿から排除されていたのです。

本日はこの教会の創立記念日です。教会が創立される前から茅ヶ崎の町の信仰の先人たちが平和の種を蒔き続けてきたことを心に留め、あとに続く一人一人も平和の種を蒔き続ける歩みをと願うものです。