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過去の礼拝説教

「人生を決定づける決断」

2020年11月15日 聖書:マタイによる福音書 8:1~13

ガリラヤの風薫る丘で、渾身の思いを込めて、山上の説教を語られた主イエスは、大勢の群衆と共に、山を下りて行かれました。
一行が山を下りた時、彼らを迎えた二人の人がいました。
一人は、重い皮膚病の人、もう一人は、百人隊長です。これらの二人は、いずれもユダヤ人社会からは、締め出されていた人たちでした。
重い皮膚病と訳されていますが、以前の口語訳聖書や新共同訳聖書の初期の版では、「らい病」と訳されていました。「らい病」、今は「ハンセン病」と言われていますが、主イエスを迎えた一人は、この病気に罹った人だと、以前の翻訳は書いていました。
しかし、旧約聖書が書かれたヘブライ語では、この病気は「ツアーラト」と書かれています。
このツアーラトという言葉は、ハンセン病だけを指しているのではなく、もっと広い意味での皮膚病全般を表す言葉でした。
ですから今は、「重い皮膚病」、或いは「既定の病」、と訳されています。
この重い皮膚病の人は、ユダヤ人であっても、社会から追放され、共同生活をすることが許されない人でした。つまり、人間扱いされていなかったのです。
旧約聖書レビ記13章45~46節には、こう記されています。
「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」
もう一人の百人隊長は、神様の祝福の外にいる、と見做されていた、異邦人でした。
重い皮膚病の人も百人隊長も、ユダヤ人社会から締め出されていた人たちだったのです。
そんな二人が、山を下りてきた一行を待っていました。
そして主イエスは、何とついてきた大勢の群衆ではなく、人々から厭われ、軽蔑されていた、この二人の中に,まことの信仰が見られる、と言われたのです。
一生懸命に探しても見つからなかった物が、思いがけない所にあって、びっくりした。
私たちは、よくそのような経験をします。それと同じような驚きをもって、主イエスは、二人の中に、信仰を発見されたのです。
「あー、こんなところに、まことの信仰があった」とびっくりされて、喜ばれたのです。
翻って、私たちはどうでしょうか。
私たちの中に、主イエスがびっくりされるような、信仰があるでしょうか。
私たちは、主イエスから、「これほどの信仰を見たことがない」という、10節のお言葉を、いただけるでしょうか。この御言葉を読むとき、そのことが、問われます。
では、一体、この二人の信仰とは、どのようなものであったのでしょうか。
これから、ご一緒に、御言葉から、尋ねてまいりたいと思います。
まず、思い皮膚病を患った人です。この人は、村の中で暮らすことが出来ませんでした。
ですから、山を下りて来られた主イエスが、村に入られる前に、真っ先に会うことができたのです。疎外されていたが故に、主イエスに、真っ先に会うことができたのです。
そして、主イエスも、その人を目指して、近づいて行かれました。皆さん、私たちの主は、弱い者、疎外されている者、孤独な者に、真っ先に目を止められるお方なのです。
この重い皮膚病の人は、「主イエスに近寄り、ひれ伏した」、と書かれています。
また、この後に出てくる百人隊長も、主イエスに「近づいてきて懇願した」と書かれています。
「近寄り」とか、「近づいて」、と訳されていますが、これらの言葉は原語では同じ言葉です。
原語はもっと積極的な意味を持っていて、「前に一歩踏み出す」という意味を含んでいます。
どこに向かって、一歩踏み出すのでしょうか。もちろん、「主イエスに向かって」です。
主イエスに向かって、一歩踏み出す。これが信仰にとって、決定的に大切なことなのです。
長く教会に来られて、熱心に礼拝に出られても、信仰を持つに至らない方がおられます。
そういう方に共通しているのは、この「前に一歩踏み出す」、ということをせずに、ずっと同じところに立ち止まってしまっている、ということです。
信仰とは、主イエスに向かって、一歩踏み出すことから始まるのです。立ち止まっていては、何も起こりません。
「前に一歩踏み出す」。これは、重い皮膚病の人にとっては、特に深い意味を持っていました。
汚れた人間である、と見做されていたこの人は、もし健康な人が近づいてきたら、「私は汚れています」と言って、退かなくてはならなかったのです。
一説には、2メートル以上離れなければならなかった、と言われています。今で言う、ソーシャル・ディスタンスを取らなければならなかったのです。
ですから、この人は、人々から非難されるのを覚悟の上で、主イエスの前に一歩踏み出したのです。
今でも、主イエスに向かって、一歩前に踏み出すには、覚悟が必要とされます。
生き方を変える覚悟。今まで持っていたものを捨てる覚悟。人々の無理解を受け入れる覚悟。
それらを乗り越えて、一歩踏み出すためには、「何としても、このお方に近づきたい」、という強い思いが必要です。
この人は、人々の非難をも甘んじて受けるという、強い思いをもって、一歩踏み出しました。
そして、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」、と言いました。
この「御心ならば」と言う言葉は、より正確には「あなたが欲してくだされば」という意味です。
「主よ、あなたがそうしようと欲してくださるなら、私は清められます」、と言っているのです。
興味あることに、この人は、「癒してください」とは言っていません。
癒すも、癒さぬも、主よ、あなたの御心に、全てが掛かっています、という信仰を告白しているのです。「私の願い」や、「私の意志」の問題ではない、というのです。
主イエスの願い、主イエスのご意志に、全てが掛かっています、と言っているのです。
ここには、主イエスのご意志に対する、徹底的な信頼があります。
この人は、こう言っているのです。「もし、清くすることが、あなたのご意志であるなら、どうか清くしてください。あなたはそれが、おできになられます。
しかし、もし、あなたが、別のご計画をもっておられるなら、そのご計画に委ねます。」
まことに素直で、徹底した信頼の姿です。
この願いに対して、主イエスは、「よろしい。清くなれ」と答えられました。
そして、主イエスはこの人に、手を触れられました。
汚れているとされている人に、手を伸ばされ、触れられたのです。
掟では、重い皮膚病の人に触れると、触れた人も汚れるとされていました。
触れた人も、社会から追放されるのです。ですから、誰も、この人に手を触れませんでした。
しかし、主イエスは、近寄られて、そして手を触れられたのです。
手を触れる、ということは、その人と一体になる、ということです。
主イエスは、この人と一体となられたのです。あなたが追放されるなら、私も一緒に追放されよう。私は、そのために、この世に来たのだ、と言われたのです。
そうなのです。主イエスが罪に汚れた私たちと一体になられた出来事。それが十字架なのです。
どこまでも、弱い者、孤独な者に、寄り添ってくださる、主イエスのお姿が、ここにあります。
この重い皮膚病の人は、どれほど嬉しかったでしょうか。
主イエスは、今も、罪に汚れた私たちに、手を置いてくださり、「私の意志だ、清くなりなさい」と言ってくださっています。
その主イエスを素直に受け入れ、触れてくださる御手を、喜んで握り返していくとき、私たちは清くされます。
なぜなら、触れてくださる主イエスの御手には、私たちの罪を贖うためにつけられた、あの十字架の釘の跡が、刻印されているからです。
主イエスが、十字架で傷付いた手で、私たちに触れてくださり、私たちがその手を受け入れ、握り返していくとき、私たちは、主イエスと一体とされ、十字架の血潮で、清くされるのです。
そのようにして、私たちが清くされることが、主イエスの御心,ご意思なのです。
主イエスは、私たちを、一人残らず清くされたいのです。誰一人として、失いたくないのです。
私たちが信じている救い主とは、そういうお方なのです。
次に、百人隊長の信仰を見てみましょう。ルカによる福音書を読みますと、この異邦人は、愛に満ちた人で、人々から尊敬されていた人であったようです。
この人は、自分の僕が病で苦しんでいることを、主イエスに訴えました。
しかし、この百人隊長も、「私のところに来て、僕を癒してください」、とは頼んでいません。
ただ、僕の苦しみを伝えただけです。どうされるかは、主イエスに委ねています。
それを聞いて、主イエスが言われました。「わたしが行って、いやしてあげよう」。
なんという優しい言葉でしょうか。主イエスの愛が、滲み出てくるようなお言葉です。
この時、百人隊長は、主イエスの愛、主イエスの優しさに、すっぽりと覆い包まれました。
自分の僕の病のために、わざわざ主イエスに会いに来た、百人隊長の愛。
それに応えて、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた、主イエスの愛。
ここでは、人間の愛と、主イエスの愛とが、一つに溶け合って、響き合っています。
もし、私が百人隊長であったら、嬉しさのあまり、有頂天になって、きっとこう言うと思います。
「やったー、主イエスが来てくださる。ご案内します。どうか私の家に来てください」。
しかし、百人隊長が言ったことは、信じられないような、謙遜の言葉でした。
「主よ、私はあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、私の僕はいやされます。
私も権威の下にある者ですが、私の下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
百人隊長は、律法によれば、自分は神の選びから漏れている異邦人であり、神の恵みに与る資格がない者だと見られている。そのことを、よく分かっていたのです。
主よ、ユダヤ人であるあなたは、異邦人の家に入ることが出来ません。そのことは、よく分かっています。
ですから、ただあなたのお言葉をください。それで十分なのです。
あなたのお言葉には権威があります。どうかその権威あるお言葉を下さい。そうすれば、僕は癒されます。
百人隊長はそのように願ったのです。これは彼の堂々とした信仰告白です。
百人隊長として、彼は、軍隊において、自分の命令が、どんな重みを持っているかということを、よく知っていました。自分の命令に、百人の部下たちが直ちに従うのです。戦場では、自分の言葉が、その百人の部下の命を左右するのです。
しかし同時に、この百人隊長は、知っていました。
この主イエスというお方は、自分が軍隊の中で持っている権威よりも、遥かに確かで、遥かに大きな、神様の権威を持っておられる。
そのことを、彼は知っていたのです。
百人隊長は、自分の愛する僕の病を前にして、自分の無力さを知らされました。
そして、主イエス以外に、頼るものがないと、深く知ったのです。
主よ、あなた以外に、私の愛する僕を救うことはできません。
しかし、異邦人の私には、あなたを呼び寄せる資格などありません。せめて、御言葉を頂きたいのです。御心ならば、どうぞ一言仰ってください。
この百人隊長の中にあったのは、そういう思いでした。
しかし、資格を問うならば、誰も主イエスを、呼び寄せる資格など持っていません。
私たちは皆、救いに与るのに、相応しくない者なのです。私たち自身の中には、この救いに与る資格など、何もありはしません。
私たちが、救いに与ることができるのは、ただ主イエスの十字架の恵みによるだけなのです。
「私の中には、救いに与るのに、相応しいものなど、何一つありません。ただ、お言葉を下さい」、と告白する。それが、信仰を持つということなのです。
主イエスは、百人隊長の信仰に驚かれました。そして、振り向いて、群衆に言われました。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。
主イエスは、イスラエルの民の中に、まことの信仰を、見出そうとなさっていました。
けれども、ついに、そのような信仰を、見出すことができなかったのです。
その探していた信仰を、イスラエルの民の外に、見出されたのです。そして、驚いておられるのです。その信仰の持ち主は、異邦人でした。
この人は、今日の私たちに当てはめれば、教会の外にいた人です。
こう考えてみると、分かり易いと思います。
今、ここに、求道中の方が、一人おられるとします。主イエスが、その人の心の中を、ご覧になって、これほどの信仰を、茅ヶ崎恵泉教会の中に、とうとう見つけることができなかった、と言われたようなものです。
それほどの信仰が、この人の中にある。神の民イスラエルに属しているか、属していないか、異邦人であるかないか、教会員であるかないか。
そういう区別を越えて、この百人隊長の信仰が、主イエスによって、見出されたのです。
重い皮膚病の人と百人隊長。主イエスは、これら二人の信仰を見て、びっくりされました。
では、主イエスを驚かせた、この二人の信仰に共通していたものは何であったでしょうか。
二人とも、このお方なら、必ず何とかしてくださるという、揺るぎない確信をもっていました。
また、「主よ、私は汚れた者です。あなたの御救いに与るのにふさわしい者ではありません」、という謙遜さを持っていました。
そして、主イエスの権威に対する、心からの畏敬の念を持っていました。
確信、謙遜、畏敬の念をもって、主の前に進み出る。これが、信仰者が礼拝する姿です。
私たちも、この二人に倣って、主の救いに対する揺るぎない確信をもって、どこまでもへりくだりつつ、そして心から畏れ敬いつつ、礼拝を献げていきたいと願わされます。
そして、探していた信仰がここにあったと、主イエスに喜んでいただけるような、茅ヶ崎恵泉教会とならせていただきたいと思います。
そのことを目指して、ご一緒に、助け合い、励まし合いつつ、歩んでまいりましょう。