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過去の礼拝説教

「どこまでも尽くしてくださる主」

2020年11月22日 聖書:マタイによる福音書 8:14~22

私たちは、この礼拝において、マタイよる福音書を、ご一緒に読み進んでいます。
マタイによる福音書の文脈に従いますと、5章1節から、今朝の御言葉の8章17節までは、一日の出来事として書かれています。それは、とても長く、また中身の濃い一日でした。
それでは、これから、主イエスのその日の歩みを、ご一緒に、辿ってみましょう。
5章から7章にかけては、有名な山上の説教が語られていました。その説教において、主イエスは、弟子としての生き方について、渾身の思いを込めて、尊い御言葉を語られました。
そして、長い説教を語り終えられた後、人々と共に、山を下りて行かれました。
説教を語るということは、相当のエネルギーを要します。あれだけの長い、そして、内容の濃い説教を語られて、主イエスは、かなりお疲れであったと思います。
疲れたお体をいたわりつつ山を下りられ、カファルナウムの村に入ろうとされた主イエスは、村の手前で、重い皮膚病の人に出会いました。そして、その人に手を置いて癒されました。
村に入ると、更にそこには、百人隊長が待っていました、主イエスは、百人隊長の願いに応えられて、彼の僕の病をも癒されました。
弟子のペトロは、そんな主イエスのお姿を、ずっと見ていて、「あー、主は、さぞかしお疲れだろうな。早く休んでいただきたい」と、気を揉んでいたと思います。
主イエスは、カファルナウムにあった、ペトロの家に、その晩泊ることになっていました。
ペトロは、自分の家で主イエスをもてなし、少しでもお疲れを癒して頂こうと思っていました。
ところが、家に入ろうとすると、ペトロの妻が、「どうしましょう。お母さんが、急に熱を出して、寝込んでしまったの」、と伝えたのです。
ペトロは、準備万端整った家に、主イエスをお迎えしたかったのです。しかし、姑の突然の病によって、家の中はそれどころではなくなっていたのです。ペトロは焦ったと思います。
どうしようかと思案しているペトロを、優しく見つめられた主イエスは、静かに病人に近寄られ、その手に触れられました。主が、手を触れられると、熱は去っていきました。
信仰を持って生きる、ということは、主イエスを、ありのままの日常生活の中にお迎えする、ということです。
きれいに掃除して、完璧に準備して、お迎えするのではありません。
このときのペトロのように、家族が病気で苦しんでいる、というようなこともあります。
私たちは、様々な困難や、思い煩いが渦巻く、生活の只中に、主イエスをお迎えするのです。
完璧に準備を整えることができたら、主イエスをお迎えしよう、などと考えていたら、いつまでたっても、お迎えすることはできません。ありのままの生活の中に、お迎えするのです。
主イエスは、そんな私たちの所に、喜んで来てくださいます。
苦しみや、悲しみや、様々な問題を、主イエスに包み隠さず申し上げて、「主よ、助けてください」とお願いするのです。その時そこに、主イエスの慈しみの御手が、差し伸べられます。
さて、日が暮れると、大勢の人々が、病人を主イエスのもとに連れてきました。
主イエスは、くつろぐ間もなく、それらの人々の病を、すべて癒されました。
同じ出来事を記したルカによる福音書によれば、「イエスはその一人一人に手を置いていやされた」とあります。ここでの手は複数形です。つまり両手です。
主イエスは、一人一人に両手を置いて、癒しの業を行われたのです。
主は、「病人を皆いやされた」、と書いてあります。単に病を癒されただけではありません。
病に捕らわれている一人一人の、心も体も、その全体を癒されたのです。
一人一人と出会ってくださり、それぞれの抱えている問題を聞かれ、深い魂の交わりの中で、癒しを行なわれたのです。
ですから、時間が掛かりました。深夜まで、この癒しの御業は、続けられたと思います。
このように、一人一人に手を置かれるところに、主イエスの愛があります。
何とかして、一人でも多くの人を、救いたいと願われる、激しい愛があります。
こうして、主イエスの一日は終わりました。それは、少しの休む間もない一日でした。
その一日を締めくくる言葉として、マタイはイザヤ書53書4節の御言葉をもって、主イエスのことを賛美しています。「彼は私たちの患いを負い。私たちの病を担った」。
マタイは、この御言葉を書き記すことなく、主イエスの一日を書き終えることが、できなかったのだと思います。
私たちの主はこのようなお方である、という熱い思いを込めて、この言葉を引用したのです。
私たちもまた、この主イエスのお姿を、いつも心に刻みつつ、歩んでいきたいと思います。
私たちの主は、一人一人に寄り添ってくださり、休む間もなく、私たちの悩み、苦しみを癒してくださるお方なのです。
ここに、「患いを負う」とありますが、この言葉は、「背中に負って、持って行ってしまう」、という意味を含んでいるそうです。
主イエスは、私たちの病や患いのすべてを、その背中に負って、持って行って下さるのです。
ある牧師が、この箇所を読んで、こんなことを示された、と書いています。
それまで、その牧師は、主イエスが癒してくださると、病がどこかにスーと消えていくのだと思っていました。しかし、この御言葉から、そうではないということが示されたというのです。
病は、どこかに消えてなくなるのではなく、主イエスが、代わって負ってくださるのだ。
主イエスが、病の苦しみを、その身に担ってくださるのだ。
そのことに気づかされた時、そんなに気安く、「主よ、癒してください」、と祈ることができなくなった。その牧師は、そう書いています。
勿論、私たちは、「主よ、御心ならば癒して下さい」と、素直に祈って良いのです。そう祈ることは許されています。
しかし、そう祈る時、私たちは、どのようなお方に祈っているのかを、しっかりと捉えていたいと思います。
私たちの主は、私たちの苦しみや、悩みを、その身に負ってくださるお方なのです。そのことを、しっかりと覚えていたいと思います。
さて、長い一日が終わり、次の日の朝、ある律法学者が近づいてきて、主イエスに、こう言いました。「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」。
誇り高き律法学者が、ナザレの田舎から出て来た主イエスに、「先生」と呼び掛けたのです。
それは、勇気のいることであったと思います。
恐らく、この律法学者は、主イエスがなされた、数々の癒しの奇跡を見て、激しく感動したのだと思います。そして、この方に、どこまでも付いて行きたい、と思ったのだと思います。
主イエスに従って、どこまでも付いて行く。まさに、弟子として模範的な言葉です。
ところが、主イエスは、「よく決心した。付いていらっしゃい」、とは言われませんでした。
厳しいお言葉を、この律法学者に返されたのです。
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
どこへでも、とあなたは言うが、私には、枕する所もないのだよ。心の休まる暇もない歩みをしていくのだ。余計なものを捨て去る覚悟が必要なのだ。
その覚悟をもって、本当に、私に従えるのか、と言われたのです。
主イエスは、奇跡を見て感動した律法学者に、一時的な感情の高ぶりを抑えて、厳しい現実を直視させたのです。その上で、主に従う決断をさせようとしたのです。
主イエスに従っていく信仰の歩みは、自分の決意や努力という、人間の力によって実現できるものではないのです。
まして、一時的な感情の高ぶりによって、できるものではありません。
自分の力や意志によって、主イエスに、どこまでも従って行くことができる、などと思うのはとんでもない傲慢です。
今あるは、ただ神の恵みなのです。従うことも神様の恵みなのです。自分の力ではないのです。そのことを、よく心に刻み付けておきたいと思います。
続いて、他の弟子の言葉が紹介されています。「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」。
この弟子は、主イエスの招きに応えて、従って行こうとしていました。
しかし、まず、父の葬りを済ませたい、と言っているのです。父親の葬式を出すことは、当時のユダヤ人社会では、子供としての最大の義務とされていました。
しかし、主イエスは、この弟子に、驚くような言葉を語られました。
「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」
この御言葉は、昔から、キリスト教に対する、非難や攻撃の根拠とされてきました。
自分の父親の葬式にも出させないとは、何という酷い教えなのか。特に、親に対する忠孝を重んじる日本においては、この御言葉は、伝道する際の大きな足かせになってきました。
しかし、聖書は、父の葬りなど、どうでもよい、などとは言っていません。
十戒でも、人に対する戒めの最初に、「汝の父と母を敬え」と教えています。
では私たちは、この御言葉を、どのように読むべきなのでしょうか。
昔から、この難解な御言葉を、受け入れ易くするために、様々な解釈がなされてきました。
その代表的なものは、こういう解釈です。
当時のユダヤ人社会では、父親の権威が強くて、父の存命中は、息子は父に従って生きなければならなかった。父を葬ってからでないと、自由に行動することができなかった。
だから、それまで待ってください、と言っているのだ。この弟子の父親は、実際には、この時まだ生きていたのだ。
でも、そうなると、主イエスに従うのは、一体いつになるのか分かりません。
この弟子は、直ぐに従えない言い訳として、父親の葬儀を持ち出している。
主イエスは、その思いを見抜いて、「あなたは、いつになるか分からないことを持ち出して、私に従おうとしない。今、思い切って、私に従ってきなさい」、と言われたのだ。
このような解釈です。これも心惹かれる解釈です。
確かに、私たちは、様々な言い訳をして、主に従うことを、先送りしようとします。
まず、これをさせてください。それが終わったら従います、と言い訳をすることが多いのです。
まず、息子の入学。まず、娘の結婚。まず、家の新築。まず、老後の貯え。延々と続きます。
しかし、「いつか、その内、近い内」、「やがて、必ず、折を見て」、などと言っているうちに、「とうとう、やっぱり、だめだった」、ということになりかねないのです。
「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」という御言葉。これは、そのような言い訳を、戒めるための言葉なのでしょうか。
もう少し深い意味があると思います。主イエスは、こう言われているのではないでしょうか。
今まで、あなたが知っていた葬儀は、ただ死に塗りつぶされた、悲しみと嘆きだけの葬儀であった。死が、絶望であることを、思い知るような葬儀であった。
しかし、大切なのは、その死の闇を突き抜けて、まことの命に生かされて、救いの光の中で、葬儀を行うことなのだ。
私は、愛する者を失った、あなたの悲しみがどれほど深いかを、よく知っている。
あなたを支配している、死の暗闇の深さも、よく知っている。
だからこそ私は、その死の暗闇を打ち破るために、十字架に向かって歩みを進めるのだ。
そして、その死に勝利する、甦りの命へと、進んでいくのだ。
死の暗闇の中に光を、死の絶望の先に希望をもたらすために、十字架と復活の道を、歩んでいくのだ。主は、そう言われているのです。
主イエスは、ご自分がどこへ行かれるのかを、はっきりと知っておられました。
主イエスは、死の絶望の壁を突き破り、永遠の命の光を目指して、歩まれていたのです。
そして、あなた方も、そこへついて来なさい、と言われているのです。
どこへでもついて行く、とあなたは言った。しかし、そこで見えていたのは、何であったのか。
果たして、死の暗闇と絶望をも、打ち破る程の、光と希望の世界であったのであろうか。
神様の救いのご計画は、あなたが考えているよりも、遥かに大きく、もっと確かで、もっと明るいのだ。
だから今は、共にそこに急ごう。主イエスは、そう言われているのです。
十字架に死なれた主イエスを、復活させて下さった神様が、死の力を打ち破り、今や私たちを、支配して下さっているのです。
ですから、もはや、私たちを支配しているのは、死の力ではありません。
それが私たちに与えられている、救いの御言葉、福音です。
主イエスに従うとは、この福音を信じ、この福音に生きることなのです。
この福音を信じる時こそ、私たちは、愛する者の、そして自分自身の死と、真実に向き合うことができるのです。
単なる一時的な慰めではなく、まことの慰めと希望のある葬りは、そこでこそできるのです。
そのことを、この御言葉は告げているのです。
主イエスは、死に打ち勝つことなしに、どんなに盛大な弔いをしても、それは空しいことではないか、と言われたのです。
天国での再会の確信なき葬儀は、ただ悲しみと嘆きと絶望だけではないか、と言われたのです。
そのような葬儀は、まことの命に生かされていない、霊的に死んだようになっている人に、任せておきなさい、と言われたのです。
私についてくる以外に、死に打ち勝つ道はない。そして、正しく死人を葬る道もない。
私の許にこそ、命がある。いや、ここにしかないではないか、と言われているのです。
この主に従って、まことの命、まことの光、まことの希望の中を、歩んでいきたいと願わされます。
自分の力では、主に従うとこなど、とてもできないような者ですが、私たちが手を差し伸ばす時、主は、その手をしっかりと握って、導いてくださいます。
疲れた時、苦しい時には、私たちの苦しみ、悩みを、背負って運んでくださいます。
それが、私たちの主です。どこまでも、その主に、従ってまいりましょう。