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過去の礼拝説教

「子よ、あなたの罪は赦される」

2020年12月13日 聖書:マタイによる福音書 9:1~8

主イエスは、ガダラ人の地で、二人の人を、悪霊の支配から解放されました。
しかし、そのために、多くの豚を犠牲にしました。それを怒った土地の人々から、「出て行ってもらいたい」と言われ、再びガリラヤ湖を渡って、ご自分の町、カファルナウムに戻って来られました。
主イエスが、帰って来られた。この知らせを聞いて、人々が、中風の人を、床に寝かしたまま、主イエスの許に連れてきました。
人々が、床に寝かせたまま、わざわざ運んできたほどですから、恐らくその人は、元気な時には、バリバリと仕事をして、人々から尊敬されていた人なのだろうと思われます。
そうであれば尚更、体が動かなくなって、その人は、どれほど落ち込んでいたことでしょうか。
多くの人の先頭に立って、大切な仕事を担い、人々からも尊敬されていた。
そんな自分を誇りとして、活き活きと働いていた。それなのに、突然、体が動かなくなった。
今まで、多くの人を助けて来たのに、逆に、人に助けてもらわなければ、何もできない体になってしまった。この人は、すべてを失ったように感じたと思います。
もう自分には、何の価値もない。こんなになってしまっては、生きていても仕方がない。
そんな思いに覆われて、生きる気力を失っていたかもしれません。
この人は、自分で、主イエスのところに、来た訳ではありません。
また、是非、主イエスのところに行きたい、と熱心に願っていた、とも書かれていません。
もしかしたら、主イエスの所に行く気も起こらないほどに、落胆していたのかもしれません。
その人を、人々は、床に寝かせたまま、主イエスのもとに連れてきたのです。
主イエスは、中風の人ではなく、担いで来た人たちの信仰を見て、癒しの業をなされました。
中風の人を運んで来た人たちの熱心さを、主イエスは、信仰と認められたのです。
主イエスは、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい」、と励ましの言葉をかけられました。
私たちも、よく、「元気を出してね」と、互いに、励ましの言葉を掛け合います。
しかし、この時は、誰も、この中風の人に、「元気を出して」と言えなかったと思います。
この人は、全く希望を失っていたのです。「もう、どうにでもなれ」、という投げやりな気持ちになっていたのです。それほど深い悲しみの中に、この人はいたのです。
そんな時、私たちは、何とか励ましたいと思っても、励ましの言葉が見つかりません。
本当に深い悲しみの中にいる人には、私たちは、励ましの言葉を持つことができません。
安易に、「元気を出して」と言おうものなら、「こんなになってしまって、どうやって元気を出せばいいんだ」と、食って掛かられてしまうかもしれません。
「もう、私たちでは、何もしてあげられない。励ましの言葉すら、掛けることができない」。人々は、そういう思いの中で、最後の望みを託して、主イエスの許に、この人を連れてきました。床に寝かせたまま、担いできたのです。
「主イエスなら、何とかしてくださるかもしれない。もうここにしか、希望はない」。そんな思いを持って、この人を連れてきたのです。
自分たちは、もう何もできない。主イエスの許に行くしかない。そう思ったのです。
主イエスは、そこに信仰を見られたのです。
そして、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい」、と声を掛けられました。
誰一人として、この人に、「元気を出しなさい」、と言うことができなかった。
そういう中で、ただ一人、主イエスだけが、「元気を出しなさい」、と言われたのです。
「元気を出しなさい」。この言葉を言うことができたのは、主イエスただお一人でした。
では、主イエスは、何の根拠があって、この言葉を言われたのでしょうか。
この言葉には、どういう意味があったのでしょうか。
あなたは元気を出すことができる筈だ。なぜなら、「あなたの罪は赦される」からだ。
主イエスは、そう言われたのです。
あなたが元気を出せる根拠。それは、あなたの罪が赦されるからだ、と言われたのです。
だから、元気を出しなさい、と言われたのです。
では、主イエスは、「あなたの罪は赦される」、というお言葉を通して、何を示しておられるのでしょうか。
一体「罪が赦される」ことが、どうして「元気を出す」ことに、つながるのでしょうか。
「罪が赦される」ということは、「神様はあなたを受け入れてくれていますよ」ということです。
大きな壁のように、あなたと神様の間を隔てていた罪。それが取り除かれたのです。
ですから、あなたは、もう、神様に受け入れられているのですよ、ということなのです。
言い換えれば、「今や、神様は、あなたの味方になってくださっていますよ」ということです。
罪とは、神様に敵対することです。その敵対する罪が取り除かれたのです。
ですから、もはや、あなたは、神様の敵ではない。神様の味方とされたのです。
神様は、あなたを、受け入れ、ご自身の味方として、愛してくださっていますよ。
あなたの味方として、共にいて、助けてくださいますよ、ということなのです。
だから、あなたは、どんな状況にあっても、決して一人ではありません。
神様という心強い味方が、共にいて守ってくださっているのです。
あなたは、神様に愛されているのです。
あなたが、自分自身をどのように見ようとも、神様は、あなたを、大切な味方として、いえ、かけがえのない友として、愛してくださっているのです。
今、あなたは、こんな自分に、尚も、生きる価値があるのだろうか、と悩み、疑っています。
でも神様は、そうは見てはおられません。神様は、あなたの命を、大切なものとして受け入れ、愛しておられるのです。ですから、あなたには生きる価値があるのです。
だから、元気を出しなさい。主イエスは、そう言われているのです。
これは、主イエスしか言えない言葉です。なぜなら、主イエスが十字架にかかってくださったから、私たちは、罪赦され、神様の味方とされたからです。
主イエスが十字架にかかってくださったから、私たちは、神様に愛される者とされたからです。
主イエスの十字架の贖いなしに、私たちの罪は、決して赦されません。
ですから主イエスの十字架こそが、私たちが、どんなときにも元気を出せる根拠なのです。
主イエスは、この時、すでに、十字架に上られることを、決意されていました。
私たちを、罪あるままに、神の子としてくださる、十字架の恵み。それを、この時、既に決意されていたのです。
ですから、「子よ、あなたの罪は赦される」、と言われたのです。
この「子よ」という呼びかけは、「神に愛されている子よ」、という意味です。
この「子よ」という呼び掛けには、主イエスの無限の愛が込められています。主イエスの十字架の恵みが、凝縮されています。
クリスマスは、この恵みをもたらす救い主が、この世に来られたことを、感謝する時です。
6節で、主イエスは、「人の子が、地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」、と言われました。ここで、わざわざ「地上で」と言われています。
全能の神様が、天上で罪を赦す、と言われているのではないのです。
天の高みくらに鎮座ましましたままで、地上で苦しんでいる私たちを眺めながら、罪を赦してやろう、というのではないのです。
天の高みにおられた神様が、私たちと同じ人間となって、この地上に来てくださり、私たちの苦しみを共に苦しんでくださり、私たちの身代わりとなって、十字架についてくださった。
そのように、この「地上で」、罪の赦しの御業を実行されたのです。
クリスマスは、この救いの御業が、この地上で、実現した出来事なのです。
御言葉に戻ります。人々は、中風の人を、床に寝かせたまま、主イエスの許に、連れてきました。ここには、教会の姿が、表されています。
教会が、このような、執り成しの祈りをささげ、具体的な愛の業に踏み出すとき、主は、私たちの思いを遥かに超えた、御業をなされるのです。
このカファルナウムの出来事を、世々の教会は、受け継いできました。
そして、今、それを、私たちが、受け継いでいます。執り成しの祈りと、愛の実践。
そこに、教会の歴史があります。
これを見失ったなら、教会は、活き活きとした、生命に生きている、とは言えなくなります。
8節に、「人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した」、と書かれています。
この御言葉で、一つ気になることがあります。それは、原語では、ここにある「人間」という言葉が、複数形になっていることです。すると、この人間とは、一体誰のことなのでしょうか。
話の流れから、主イエスのことである、と捉えるのが自然です。
しかし、ここで、あえて複数形の「人間」が使われているのは、教会のことが、示唆されている、と見ることもできます。
主イエスの御業は、使徒たちに引き継がれました。そして、使徒たちの業は、教会によって引き継がれていったのです。
教会に、執り成しと、癒しと、罪の赦しの業が、委ねられていったのです。
私たちは、主イエスの十字架の贖いによって、罪を赦され、神様との交わりを回復することができました。では、私たちは、それを、どこで体験するのでしょうか。
教会に於いて、ではないでしょうか。教会は、罪の赦しが起こる場所なのです。
教会は、私たちが、自分の罪をはっきりと認めて、その罪が赦される体験をする所なのです。
その関連で言えば、2節の「罪」も複数形です。一つの罪ではなく、もろもろの罪のことです。
教会において、私たちは、あなたのすべての罪は赦されていますよ、という主イエスの御声を聴くのです。
「あなたは、すべての罪から解き放たれている。だから、元気を出しなさい」。
私たちは、教会において、この主の御言葉を聴いて、慰められ、励まされて、再びそれぞれの場へと遣わされて行くのです。
教会の頭である主イエスが、私たちに、慰めと励ましの言葉を語ってくださり、魂の癒しと、罪の赦しの御業をなしてくださるのです。
信仰生活とは、教会において、「元気を出しなさい」という、主イエスのお言葉を聞きつつ、歩むことなのです。
そして、もう一つ大切なことは、悩みや悲しみの中にいる人を、床に寝かせたまま担いで、主の御許に運んでいく信仰です。
悩みや悲しみの中にいる人と、一緒に主の御許にひざまずく信仰。それが伝道です。
「私は、あなたを励ますことができません。私は、あなたを慰めることができません。
でも、一緒に教会に行きましょう。教会に行って、主イエスから、元気を出しなさい、と励ましてもらいましょう。
神様はあなたを受け入れてくださっています。あなたを味方として、愛してくださいます。
そして、どんな時も、共にいてくださいます。
教会で、この御言葉を聞くことができるのです。ですから、一緒に、教会に行きましょう。」
私たちは、愛する人たちに、このように呼びかけていきたいと思います。
主イエスは、「あなたの罪は赦される」、と言われました。
この「罪の赦しの宣言」を聞いていた人々の中に、律法学者たちがいました。彼らは、この主イエスのお言葉に、腹を立てました。
何たることだ。「罪を赦す」、などということは、神様にしかできないことだ。どうして、一介の人間に過ぎないこの男が、そんなことを言うのか。この男は、神を冒瀆している。
口に出す勇気は、ありませんでしたが、彼らは、心の中で、ぶつぶつ言っていました。
主イエスは、この律法学者たちの、心の中にある、呟きを聞き取られました。
そして、彼らに問い掛けられました。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいと思うか。
もし、この問いが、私たちに対して、問われたとしたら、皆さんは、どう答えるでしょうか。
内容的には、罪を赦す方が難しいと思います。でも、罪の赦しの結果は、外側からは、見えません。ですから、言いっ放しで済んでしまいます。
そうすると、見える形で結果が現れる、病の癒しの方が、難しいとも思えます。
主イエスは、どちらの方が難しいとは、答えておられません。実際は、どちらも難しいのです。
どちらも、神様としての、権威がなければ、出来ないことなのです。
そして、主イエスは、そのどちらも、なされたのです。そのために、ご自身の命を、ささげられたのです。
しかし、あなた方には、今は、そのことが分からないだろう。だから、あなた方が分かるように示してあげよう。『起き上がって、床を担ぎ、家に帰りなさい』。
主イエスは、その大きな愛の御力によって、中風の人を癒して、家に帰しました。
それでは、この赦された人は、それから、どう生きていけば、よいのでしょうか。
起き上がり、床を担いで、家に帰るのです。
今まで、自分を、縛り付けていた床。自分自身の欲望や、様々なしがらみ。
それらを、自分で担いで、自分の足で、しっかりと歩いて行くのです。
そして、家に帰るのです。帰るべき、まことの故郷である、神様の御許に、帰っていくのです。
これが、主イエスによって、罪赦され、救われた者の生き方なのです。
主イエスにとっては、病を癒す、と言うことは、単に元の形に戻す、ということではありませんでした。
単に、時計の針を、元に戻すことではないのです。むしろ、時計の針を、更に進めることであったのです。
いくら病が癒されても、また罪の中に戻るだけなら、それは、無意味なことです。
主イエスがなさることは、元へ戻ることではなく、前に進むことなのです。
主イエスは、死を超える希望へと、私たちの人生を、引き上げてくださるお方です。
その希望の光は、私たちの人生の、暗い部分を、明るく照らしてくれます。
その希望の光は、どんな時も、元気を出すことができる力を、与えてくれるのです。
そのために主は来てくださいました。あのベツレヘムの飼い葉桶に、生まれてくださいました。
この後、讃美歌241番を歌います。私たちは、心からの思いをもって、歌いたいと思います。
「来たりたまえ、我らの主よ、主を待ち続ける民に」。