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過去の礼拝説教

「小さな者への大きな救い」

2020年12月20日 聖書:ルカによる福音書 2:8~12

世界中の教会で、多くの人に愛されている、「たいせつなきみ」という絵本があります。
この絵本の著者は、マックス・ルケードという、アメリカ人の牧師です。
この人が、「天使ガブリエルの戸惑い」、という小さなエッセーを書いています。
天使ガブリエルは、ミカエル、ラファエルと並んで、三大天使の一人とされていますが、新約聖書では、特に、主イエスの誕生の場面で活躍しています。
ルケードは、エッセーの中で、このようなことを書いています。
神が人となって、地上に降りて行かれると聞いたとき、ガブリエルは心躍った筈だ。
恐らく彼は、こんな情景を、頭に描いたことだろう。
救い主が、燃える火の戦車に乗って、世に下って行かれる。或いは、偉大な王が、雲に乗って、天の軍勢と共に降りて行かれる。
しかし、彼が受け取ったのは、ナザレという田舎の村の住所と、一人の女性の名前だった。
そして、その女性へのメッセージが書かれた、一枚の紙を託された。
そこには、こう書かれていた。「恐れるな、マリア。あなたは身ごもって、男の子を産む。」
ガブリエルは、今まで、神様の考えを疑ったことはなかった。しかしこの時、彼は初めて、その目を疑った。「神が、小さな赤ちゃんの姿をとって、マリアという田舎の娘から生まれる」。
どういうことだろうか?ガブリエルは、釈然としないまま、ナザレのマリアの所へ出かけた。
きっとマリアは、特別に高貴な女性に違いない。ガブリエルは、秘かにそう期待していた。
でも、彼を待っていたのは、ごく普通の田舎娘だった。
神は、一体、何を考えておられるのか、ガブリエルは戸惑った。
このガブリエルの戸惑いは、聖書には記されていません。すべてルケードの創作です。
ルケードによれば、天使ガブリエルは、クリスマスという、史上最大の出来事を担った人々が、余りにも小さな人々であったことに、戸惑ったに違いない、というのです。
今朝は、クリスマスを担った、その小さな人々。その中でも、特に羊飼いに目を留めたいと思います。
救い主誕生の知らせを聞いて、最初にお祝いに来たのは、羊飼いたちでした。
当時、羊飼いは、ユダヤ人社会から疎外され、人間扱いされていませんでした。
彼らは、経済的には、最下層に属する人たちで、殆どの者が、貧しいために結婚もできず、生涯独身で過ごしました。
羊に食べさせる牧草を探して、転々と移動するために、定住する居場所も持てず、社会から離れて住み、安息日に礼拝に行くこともできませんでした。
そのため、ユダヤ人社会では、一人前の人間として認められず、裁判でも証人にはなれなかった、と言われています。
天使は、社会から疎外され、人間扱いされていなかった、この羊飼いたちに、主イエスの誕生を、真っ先に知らせたのです。
ところで、私たちは、大切な知らせを、誰に、真っ先に伝えるでしょうか。
大きな喜びの知らせ。志望校に受かったとか、結婚するとか、子どもが生まれたとか。
そういう知らせは、その喜びを共にしてくれる人に、真っ先に伝えるのではないでしょうか。
神様は、独り子イエス様の誕生という、重大なニュースを、羊飼いに、最初に伝えました。
祭司にでも、律法学者にでも、権力者にでも、ありませんでした。
この世の闇の中に、肩を寄せ合ってうずくまっている、名も知れぬ羊飼いたち。
彼らに、真っ先に知らせたのです。なぜでしょうか。
それは、彼らが、自分の貧しさや汚れを、良く知っていたからです。ですから、貧しく、小さな、幼な子として、汚れた飼い葉桶に生まれた救い主を、素直に喜ぶことができたからです。
神様は、貧しく、小さな、幼な子として生まれた救い主を、素直に喜ぶことができる者を、求めておられたのです。
それは、羊飼いのように、自分自身の貧しさや汚れを、知っている者です。
彼らなら、天使の語る知らせを、受け入れることができるに違いないと、思われたからです。
天使は、羊飼いたちに、こう告げました。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
救い主が、ベツレヘムの家畜小屋に生まれ、飼い葉桶に寝かされている。
それが「しるし」だというのです。何ともみすぼらしい「しるし」です。
この言葉を聞いた途端に、殆どの人が、「何だ、馬鹿らしい。救い主が、飼い葉桶に寝ている筈がないじゃないか」と言って、天使の言葉を、真剣に受け止めようとしなくなります。
常識で考えれば、その通りです。冒頭のルケードのエッセー、「天使ガブリエルの戸惑い」も、そのような人間の常識を、言い表していると言えます。
しかしクリスマスは、常識では理解できない出来事なのです。私たち、人間社会の物差しで測れば、あり得ないような、非常識な出来事なのです。
神が、人となって、この世に降って来られる。何のために。
ご自身に背いて、罪の中にどっぷりと浸かり、滅びに向かって歩んでいる人間を救うために。
その人間の罪を、一身に背負って、身代わりとなって、十字架にかかられるために、人となって降って来られる。神の御座から降りて、最も貧しい、最も惨めな者となられる。
これは、私たちが、安っぽい地位や、名誉を捨てるのとは、訳が違います。
創造主が、その立場を捨てて、罪と汚れに満ちた、被造物の立場に、立たれたのです。
まさに、天と地が、ひっくり返るようなことを、されたのです。
ですから多くの人たちは、この常識を超えた出来事を、受け入れることができませんでした。
でも羊飼いたちは、この「飼い葉桶」という言葉を聞いて、大いに喜びました。
もし、救い主が、立派なお屋敷や宮殿に、お生まれになったのなら、自分たちのような者は、とても入れてもらえない。
なぜなら、彼らは、汗と埃と羊の匂いが染み付いた、ボロボロの服を着ていたからです。
もし、入って行こうとしても、「ここはお前たちの来る場所じゃない」、と言われるに違いありませんでした。ですから、初めから、行こうとしなかったと思います。
でも、飼い葉桶のある家畜小屋なら、自分たちは、ありのままの姿で、入っていける。
なぜなら、飼い葉桶の匂いは、彼らの服と同じ匂いだったからです。
飼い葉桶に寝ている赤ちゃんなら、自分たちでも拝みに行ける。
羊飼いたちは、急いで行って、飼い葉桶の主イエスを礼拝しました。
安息日も守らずに、神様から離れていた羊飼いたちが、喜んで立ち上がったのです。
それは、羊飼いたちが、この天使の知らせを、自分のための言葉だと受け止めたからです。
あなたのために、救い主がお生まれになった。あなたのために、神様が、最も弱く、最も貧しく、最も小さな者の姿を取って、飼い葉桶に生まれてくださった。あなたのために。
この言葉を、羊飼いたちのように、自分への言葉として、受け入れるかどうか。
そこに、クリスマスの恵みを、自分のものとすることができるかどうか、が掛かっています。
もし私たちが、自分の心の貧しさや汚れを、自覚しているなら、神様は、私たちに、救い主を送ってくださいます。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになった。」
この愛のメッセージを、送ってくださいます。
今も、神様は、私たち一人一人の心に、呼び掛けておられます。
「今日、あなたのために、救い主がお生まれになった。飼い葉桶のように、貧しく、汚れた、あなたの心に、救い主がお生まれになった。」
この天使の言葉を、自分の出来事として、聞くことができるなら、クリスマスは、私たちにとって、まことの恵みの時となります。
主イエスは、私たちが、ありのままの姿で、お会いすることができるために、私たちの、ありのままの日常の中に、来てくださいます。
私たちは、よそ行きの格好を、整える必要はないのです。
天使が現れた時、恐らくマリアは、いつものように、家事にいそしんでいたと思います。
羊飼いたちも、彼らの日常の仕事である、羊の群れの番をしていました。
主イエスは、特別な場所や、特別な時間に、来られるのではありません。ごく日常の生活の営みの中に、来てくださるのです。
今、私たちは、コロナ禍のために、新しい日常を過ごしています。その中で、戸惑いつつ、悩みながら、日常生活を営んでいます。その只中にも、主イエスは来てくださるのです。
私たちは、そのようにして来てくださる救い主を、私たちの心の飼い葉桶に、お迎えするだけで良いのです。主イエスは、喜んで来てくださいます。
その夜、主イエスを礼拝したのは、この貧しい羊飼いたちだけでした。
羊飼いたちは、疑うこともできた筈です。他の人のように、招きを断ることもできた筈です。
しかし彼らは、素直に招きを受け取りました。それは、彼らが、心の奥底で、神様に近づくことを、待ち望んでいたからです。神様に愛されることを、願っていたからです。
果たして、私たちはどうでしょうか。神様の招きを、心から待ち望んでいるでしょうか。
神様の愛を、切なる飢え渇きをもって、慕い求めているでしょうか。
クリスマスのこの時、今一度、自らに尋ねたいと思います。
今朝の御言葉に続く14節に、御使いの賛美があります。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
「いと高きところに栄光、神にあれ」。これは、素直に理解できます。
しかし、目を転じて、地上を見た時、そこには、一体何があるのでしょうか。
地の上は、醜い、悲惨な出来事で満ちています。主の平和とは、程遠い現実があります。
でも、神様の御心は、私たちが、この地上で、つまり日常の生活の只中で、主の平和を生きていくことなのです。
主の平和が、主イエスを信じる人の上にいつもあるように。これが神様の御心なのです。
そのために、私はいつも、あなたと共にいる。主イエスはそう言って下さっています。
主は、私たちの心に平和をもたらすために、どんな時も、私たちと共にいてくださいます。
天の御座にあって、「私はいつも、あなたと共にいるよ」と言われているのではありません。
天の御座から降りて、私たちの、ありのままの日常の中に来てくださり、いつも共にいてくださるのです。これが、クリスマスの恵みなのです。
羊飼いは、この救い主と出会って、このお方なら、貧しく、汚れた私たちと、いつも共にいてくださる、と信じることができました。そして、神様をほめたたえながら、帰って行きました。
旧ソビエト連邦崩壊直後に、こんな小さな出来事がありました。
旧ソ連では、長くキリスト教が禁じられていたので、子どもたちは、クリスマスの物語を知りませんでした。
そこで、外国から来たクリスチャンたちが、子どもたちに、クリスマスの物語を語って聞かせました。幼子イエス様が、家畜小屋の飼葉桶に、寝かされたことを話しました。
話が終わってから、厚紙と布きれを、子供たちに配って、「さあ、みんなで赤ちゃんイエス様と飼葉桶を作ってみよう」、と呼びかけました。
子どもたちは、一生懸命に想像力を働かせて、楽しみながら飼葉桶のモデルを作りました。
6歳のミシャという男の子が、珍しい飼葉桶を作りました。
その飼葉桶には、なぜか、二人の赤ちゃんが寝かされているのです。
「どうして二人いるの」、と聞かれて、ミシャは答えました。
「マリアさんが、赤ちゃんのイエス様を、飼葉桶に寝かせると、イエス様は僕を見て、『ミシャ、君には泊まる所があるのかい』、と僕に聞いたんだよ。
僕は、『ううん、僕にはパパとママがいないから、自分の家はないんだ』と言ったんだ。
するとイエス様が、『一緒に暮らそうよ』、と言ってくれた。
でも、『僕には、お礼のプレゼントが何もないから、一緒に住めないよ』、と言ったんだ。
でも本当は、イエス様と住みたかった。だから考えて、やっとプレゼントを思いついたんだ。
僕は、イエス様に、『きみのからだを温めてあげるのは、プレゼントになる』、と聞いたんだ。
するとイエス様は、『もちろんだよ。一番嬉しいプレゼントになるよ』、と言ってくれた。
それで僕は、イエス様と一緒に、飼葉桶に入ったんだ。そしたら、イエス様は僕を見て、言ってくれた。『きみはいつまでもぼくと一緒だよ。』」
ミシャは、話し終わると、目から涙を流し、肩を震わせて大声で泣きました。
羊飼いが、そして、私たちが、主イエスから聞くメッセージも、これと同じです。
主イエスを、私のための救い主として、日常生活の中に受け入れるとき、主イエスは、「きみはいつまでもぼくと一緒だよ」、と約束してくださるのです。
ミシャが作った飼い葉桶のように、私たちの、心の飼い葉桶には、いつも二人がいるのです。主イエスと私の二人です。
幼いミシャは、いつも、どんな時でも、共にいてくださるお方に出会いました。それが嬉しくて、涙を流したのです。
それは羊飼いも同じでした。そして、今朝クリスマス礼拝に来た私たちも、同じです。
私のために来てくださった救い主は、布にくるまれて、飼葉桶で寝ておられます。
貧しいマリアを母として生まれ、飼い葉桶に寝かされ、人々から蔑まれていた羊飼いだけが、お祝いに駆け付けたクリスマスの出来事。
それは、本当に、小さな、小さなクリスマスです。小さな、小さな出来事です。
でも神様は、小さな私たちを選ばれました。そして、大きな喜びで、包んでくださいます。
小さなクリスマス。でも、小さな私たちは、大きな喜びに満たされています。
私のための救い主が、飼葉桶のように汚れた私の心に、その身をゆだねられたからです。
その救い主は、こう言われています。「私は、どんな時も、あなたと共にいる。決して、あなたを見捨てることはない。」
今も、そして、これからも、この方と共に生きる者でありたいと思います。