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過去の礼拝説教

「招きに応えて立ち上がる」

2020年12月27日 聖書:マタイによる福音書 9:9~13

アメリカで、黒人が、今よりももっと激しい、差別を受けていた時の話です。
ある白人が、馬に乗って道を進んでいくと、道端に一人の黒人が、うずくまって何やら本を読んでいます。よく見ると、それは聖書でした。
黒人が本を読むことなど、歓迎されない時代でした。まして、聖書を読むなんて、分不相応で、許されないことだとされていました。
ですから、その白人は、馬の上から怒鳴りました。「おい、お前。何を読んでいるんだ。聖書を読んでいるではないか。それは、お前たちが、読むようなものではない。」
すると、その黒人が、顔を上げて、その白人に、静かに言いました。
「でも、ここに、私の名が呼ばれていますので。」
驚いた白人が、馬から降りて、黒人の指さす聖書の箇所を見ました。
それは、マタイによる福音書9章13節でした。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
「この罪人という箇所に、私の名が記されているのです」、とその黒人は言ったのです。
この短いエピソードの中に、福音の本質が、単純・明快に示されています。
今朝の御言葉は、マタイが、主イエスの弟子とされた、出来事を伝えています。
主イエスの弟子とされることを、「命を召す」と書いて、召命と言います。
ある人が、このマタイ召命の出来事を理解することは、福音全体を理解することである、と言っています。
この物語の、まことの意味が分かれば、主イエスが、私たちに与えてくださる、救いの喜びが分かる、というのです。皆さんは如何でしょうか。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
この御言葉にある、「罪人」という言葉を、先程のエピソードの黒人のように、ご自分の名前に置き換えて、読むことができるでしょうか。
もし、この「罪人」という言葉を、自分の名前に置き換えることができるなら、この御言葉は、私たちへの、大いなる恵みの言葉として、迫ってくると思います。
教会は、古くから、ここに出てくる徴税人マタイは、十二使徒の一人のマタイであり、またこの福音書を書いた聖書記者である、と捉えてきました。
そうであれば、マタイは、ここで、自分が使徒として召された体験を、自ら記していることになります。
でも、それは、9節に記されている、たった4行足らずの、極めて短い記述です。
マタイは、自分の召命の証を、長い言葉で語ることも出来たと思います。
その時の、喜びと感動を、綿々と語ることもできた筈です。でも、そうしていません。
主イエスが、十分に準備されて、弟子の候補者を選んだ。そして、選ばれた候補者が、熟慮に熟慮を重ねた末に、弟子として従うことを決意した。
そうは書かれていないのです。
御言葉は、不思議なほど簡単に、そのことを記しています。
主イエスに従うとは、考え抜いた末に、なされることではないからです。
主イエスが、通りすがりに、収税所に座っているマタイを見られて、「わたしに従いなさい」と言われ、マタイが立ち上がって従った。ただそれだけです。
当時、徴税人は、ユダヤの人々から、恨まれ、嫌われていました。
自分たちを支配している憎きローマの手先となって、ローマに収める税金を取り立てている。
それだけでも十分に嫌われていましたが、その上、彼らの殆どの者は、規定の税より多くの額を徴収して、差額を自分の懐に入れていたのです。
ですから彼らは、お金持ちでしたが、人々からは、赦しがたい罪人と見做されていました。
その時も、マタイは、収税所で、いつものように税を徴収していました。
特に、人生に行き詰って、仕事から離れて、一人黙想していた訳ではありません。
徴税という、同胞のユダヤ人から、罪ある行為と見られていた、仕事をしていたのです。
その現場で、主イエスのまなざしに、捕らえられたのです。
日常の仕事をしていたマタイに、主イエスの方から近づかれて、彼を招かれたのです。
マタイの方から、弟子にしてくださいと、近づいたのではありません。
聖書の中には、自分の方から、「弟子にしてください」と言って、主イエスに近づいた人のことも書かれています。
しかし、その人たちは、皆、断られています。弟子にしてもらえていません。
弟子になったのは、自分では弟子になるなどとは、思ってもいなかった人たちばかりです。
そういう人たちが、「わたしに従いなさい」、と言われて、弟子になっているのです。
これは不思議なことです。でも、翻って、私たちのことを、振り返ってみましょう。
皆さんは、教会に来た時、初めから洗礼を受けるつもりで、来られたでしょうか。
そう問われた時、恐らく殆どの方が、「いえ、教会に初めて行った時には、まさか自分が、洗礼を受けるなんて、思ってもいませんでした」、と答えられるのではないでしょうか。
家族や友人や学校の先生に勧められて、確たる思いもなく、教会に行った。
その私に、主イエスの方から近づいてきてくださった。
そして、いつしか洗礼へと、導かれた。そういう方が、殆どなのではないでしょうか。
聖書に書いてあることも、同じなのです。
自分の方から、「弟子にしてください」、と言った人は、結局、弟子にはなれなかったのです。
主イエスの方から近づかれて、「わたしに従いなさい」、と声をかけてくださり、思ってもみなかったのに、弟子とされたのです。
「わたしに従いなさい」、と言われて、マタイはびっくりしたと思います。
主イエスの名前くらいは、聞いていたかもしれません。
でも、人々から、罪人と言われている、この自分とは、関係のない人だと思っていたのです。
ですから、マタイは、いつものように、収税所で仕事をしていました。
人々から恨まれ、嫌われていた、徴税人の仕事を、いつも通りにしていたのです。
そんなマタイを、主イエスが、通りすがりに見られ、近づいて来られたのです。
そして、いきなり、「わたしに従ってきなさい」、と言われたのです。
そう言われてマタイは、「この人は、頭がおかしいのではないか」、と思ったかもしれません。
或いは、自分をからかっているのではないか、と思ったかもしれません。
仕事中の、見ず知らずの人を見て、いきなり「わたしに従いなさい」と言う。
これは、常識ではあり得ないことだからです。
マタイは、主イエスのお顔を、じっと見つめました。でも、その人は、頭がおかしいようには、見えませんでした。また、自分をからかっているようにも、見えません。
真剣なまなざしで、「わたしに従いなさい」、と言っている。
この人は、本気で言っている。この人は、本気なんだ。それが分かりました。
「わたしに従いなさい」。この言葉は、そんなに簡単に、言える言葉ではありません。
「従ってくるなら、私は、あなたの人生に、責任を持つ」。この覚悟がなければ言えません。
このお方は、私の人生に責任を持つ、と言っておられる。人々から、恨まれ、嫌われ、罪人のように扱われている、この私の人生に、責任を持つ、と言われる。
一体この人は、どういうお方なのだろうか。どのように、責任を取ってくれるのだろうか。
マタイは、じっと、主イエスのお顔を見つめました。
マタイは、「わたしに従いなさい」、と招かれました。ですから、返事をしなくてはなりません。
立ち上がって、この人に従うか。或いは、これまで通り、罪の中に座り込んで、税金を取り立てるか。どちらかを選ぶ、決断を迫られました。
その時、マタイに、何が起きたのか。聖書には書かれていませんので、分かりません。
でも彼は、この主イエスというお方を、信じてみようと思ったのです。
通りすがりに見かけた私に、いきなり、「わたしに従いなさい」、というのは非常識です。
でも、そういう常識外れのことを、平然としてやってのける、このお方に、自分の人生を賭けてみようと、マタイは思ったのです。これは、本当に奇跡のような話です。
罪の只中にいた人間が、突然、神様の声に打たれて、「あぁ、自分は、今、罪の中から呼び出されている」、という思いに導かれたのです。
そして、思わず立ち上がって、従って行ったのです。
この福音書の8章と9章で、マタイは、10の奇跡物語を記しています。
そして、その真ん中に挟みこむようにして、自分の召命記事を、記しています。
マタイは、このような自分が、弟子として召されること。それこそが、奇跡中の奇跡である、と言いたかったのではないでしょうか。
ですから、敢えて、ここに、挿入したのではないでしょうか。
主イエスが、この私を、収税所から呼び出すために、来てくださった。この罪人の私を、呼び出すために、近づいて来られた。
それは、本当に喜ばしい奇跡だ。奇跡中の奇跡だ。
重い皮膚病の人や、百人隊長の僕や、中風の人が癒されたこと以上の奇跡だ。
マタイは、そう言いたかったのではないでしょうか。
マタイは、決断し、立ち上がって、従っていきました。
十二弟子の中で、ペトロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネは、ガリラヤの漁師でした。
彼らは、家や家族を捨てて、主イエスに従いました。これも大変な決断であったと思います。
しかし、私は、親子代々の漁師よりも、マタイのほうが、より大きな決断を、必要としたのではないかと思います。
ガリラヤの漁師には、いざとなれば、戻るところ、つまり父の家があったのです。
でも、徴税人マタイは、徴税人の立場を失えば、全くの無一文になってしまいます。
徴税人としての権利は、一度失えば、それは他の人に与えられてしまい、戻ることは出来なかったのです。
マタイは、それでも良い、と思ったのです。一度捨てれば、二度と戻れない、徴税人の権利を捨てても良いと思って、立ち上がったのです。
ナザレのイエスというお方に、自分の人生を賭けたのです。そして、新しい歩みを始めました。
徴税人として、お金をかき集めていた生き方から、主の弟子として、主の愛と恵みを、分かち合う生き方へと、人生をリセットしたのです。
かき集める生き方から、分かち合う生き方への、大転換がなされたのです。
この物語は、マタイ自身が、語り伝えたものです。マタイが、この福音書を書いている時は,もう既に、マタイが決断した賭けの答えは、出ていました。
マタイは、あふれる喜びと感謝で、この記事を書いたと思います。
あの時、主イエスに従って行って、本当に良かった。私の賭けは、大正解だった。
この思いに包まれて、喜んで自分の召命の出来事を、書き記したに違いありません。
そして、その思いは、今朝、この礼拝に来ている、私たちすべての者の思いと、重なっていると思います。
私たちも、あの時、主イエスに従って行って、本当に良かった、という思いに、満たされているのではないでしょうか。
この後、主イエスは、マタイと食事をされました。その食卓には、他の徴税人や、人々から罪人と見做されている人たちも、大勢招かれていました。
ユダヤ人にとっては、食事を共にするということは、信頼の証でした。また、それは、神様の恵みを、分かち合うという意味も持っていました。
主イエスは、徴税人たちや、世間から罪人と見做されている人たちを、信頼され、彼らと、神様の恵みを、分かち合ったのです。
そのことを、マタイは、どれほど喜んだことでしょうか。そこにいた、他の徴税人や罪人たちも、同じでした。
彼らは、今まで、こんなに恵まれた食事を、したことがなかったのです。
皆が、感動と喜びに満ちて、食事をしました。
しかし、それを見た、ファリサイ派の人たちが、文句を言いました。
彼らは、主イエスに、直接言う勇気がないので、弟子たちに言いました。
「なぜ、あなたたちの先生は、徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。
それを聞かれて、主イエスが答えられました。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
この主イエスのお言葉の、一言一言が、マタイの心に、深く響いたと思います。
マタイは、生涯に亘って、この御言葉を、自分の宝として、大切に持ち続けたと思います。
「あー、私は、本当に病人だった、自分でも気づいていなかったけれど、深く病んでいた。
その私を癒し、解放するために、主は来てくださった。
主は、ご自身の命をもって、私の罪を赦してくださり、病を癒してくださった。そして、罪人の私を、御許へと招いてくださった。
マタイは、この時の主イエスの御言葉を、終生忘れることなく、人々に語り伝えたと思います。
主イエスは、ファリサイ派の人たちに、彼らの過ちに気づかせようと、旧約聖書のホセア書6章6節の御言葉を示されました。
「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」。
ここにある、「憐れみ」という言葉は、「愛」を意味する言葉です。そしてその愛とは、私たち人間が、神様を愛する愛のことを言っています。
神様は、形式的な儀式や、そこでささげられる、形ばかりのいけにえを、喜ばれない。
神様が求めておられるのは、神様を心から愛する愛なのだ。
形式的に掟を守ることよりも、心から神様に感謝し、神様を愛することを、神様は喜ばれる。
この時のマタイは、まさにそうでした。マタイの心は、救われた喜びで満たされていました。
「神様ありがとうございます」という、神様への感謝、神様への愛で、満たされていました。
このような心こそを、神様は、喜ばれるのだ、と主イエスは言われたのです。
マタイは、自分の召命記事の最後に、締めくくりとして、主イエスの御言葉を書き記しました。
「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
今朝私たちは、この御言葉を、自分に対して語られた言葉として、受け入れたいと思います。
主イエスが来られたのは、罪人であるこの私を、招くためなのだ。
この喜びの知らせを、心から感謝し、形だけの信仰生活ではなく、心から神様を愛する愛に、生きていきたいと思います。