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過去の礼拝説教

「私たちのために苦しまれる主」

2021年01月24日 聖書:マタイによる福音書 9:27~38

今朝の御言葉には、二つの癒しの奇跡が、書かれています。
二人の盲人が癒され、目が見えるようになった奇跡と、口の利けない人が、話せるようになった奇跡です。
聖書では、主イエスがなされた奇跡は、「しるし」とも言われています。
「しるし」という言葉は、原語では、「セーメイオン」という言葉です。
これは、英語の「サイン」の元になっている言葉です。
野球などで、よくコーチがサインを出します。これは、味方には分かりますが、敵には分かりません。
また味方であっても、このサインを見間違うと、何の役にも立たず、むしろ悪い結果をもたらしてしまいます。サインは、正しく受け止められなければならないのです。
主イエスの奇跡というサインも、正しく受け止められなければなりませんでした。
主イエスの奇跡は、単に病を癒すことに留まらず、その心も新たにされ、新たな命に生かすためになされました。
癒された後、主イエスに従って、永遠の命の救いに入れられる。その喜びの内を生きること。それが、主イエスの奇跡の目的でした。
しかし、人々は、主イエスのサインを、誤解して受け取ってしまったのです。
初めの奇跡では、二人の盲人は、主イエスに対して、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」、と叫んでいます。
「ダビデの子」、という呼びかけは、救い主・メシアに対する言葉です。
二人は、主イエスこそ、待ち望んでいた救い主・メシアである、と言っているのです。
この当時、人々が期待していたメシアとは、ローマ帝国の支配からユダヤ民族を解放してくれる、政治的、軍事的指導者でした。
しかし主イエスが、この世に来て下さった目的は、私たちを罪の中から贖い出すことでした。
私たちの罪を、代わって負って下さり、身代わりとなって、十字架で死んでくださる。
この私たちの思いを遥かに超えた、尊い救いを成し遂げるために、主イエスは来て下さったのです。
ですから、主イエスが来られた第一の目的は、癒しの奇跡を行ことではありません。
まして、ローマとの戦いに勝利する、政治的・軍事的リーダーとなることではありません。
そのようなメシアであると誤解されることを、主イエスは避けたかったのです。
では、主イエスは、どうされたでしょうか。ご自身のことを誤解し、間違ったメシアのイメージで捉え、自分勝手な願いをぶつけてくる人々のことを、退けられたのでしょうか。
そのような人々に、背を向けられたのでしょうか。そうではありません。
主イエスは、それらの人々を退けられずに、彼らの願いを受け入れ、癒されたのです。
ただ、間違ったメシアのイメージが広がることは、何としても避けたいと思われました。
ですから、「このことは、誰にも知らせてはいけない」、と厳しくお命じになったのです。
それなのに、癒された二人は、直ぐに、そのことを言い広めてしまいました。
これは、主イエスのお心を全く理解していない、愚かな行為です。サインの読み違いです。
続いて、口の利けない人が癒される、という奇跡が起きました。ものを言い始めました人を見て、群衆は驚嘆して、主イエスの御業を、褒め称えたと書かれています。
しかし、この群衆も、主イエスのことを、正しく捉えていません。誤解しています。
ただ奇跡の素晴らしさだけに、目を奪われています。主イエスのサインを、正しく読み取っていません。
私たちの罪を贖うために、人となって来られた、神の御子を理解しようとはしていません。
主イエスが、どのようなお方で、何をするために来てくださったのか。この癒しの奇跡を通して、何を示そうとしておられるのか。そのことを本当に知ろうとしていません。
この主イエスの奇跡に対して、人々から、二つの反応が寄せられました。
一つは、誤解に基づく称賛です。為された御業の、素晴らしさのみに目を奪われ、ただ驚嘆して、喜んでいるだけという反応です。
主イエスの御心を理解することなく、自分勝手な思いで興奮している、群衆の反応です。
ですから、この群衆も、やがて主イエスを、十字架につけてしまうことになるのです
もう一つは、ファリサイ派の人々の反応です。ファリサイ派の人々は、主イエスが、悪霊の力によって、病を癒しているのだ、と言いました。
何ということでしょうか。主イエスが、悪霊と結託している、とまで言い放ったのです。
これも、主イエスから見れば、愚かさそのものであると見えたと思います、
主イエスは、誰よりも、そのような人間の愚かさを、よく見ておられました。
言わば、人々の愚かさと無理解に、取り囲まれておられました。
「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」。
聞くに堪えないような、この言葉を聞かれて、主イエスは一体、どうされたでしょうか。
「何を言うのか、愚かな者たちよ」と、怒りの言葉を投げられても、良かったと思います。
でも、主イエスは、誰に対しても、「あなた方は愚かだ」、とは言われませんでした。
誰をも罵ったり、怒ったりされませんでした。
また、私は、こんなに、寝る間も惜しんで、あなた方のために愛の業をなしてきた。
それなのに、そんなことを言うなら、もうよした。こんなばかばかしいことは、もう止めた。
そう言われたのでもありません。
私なら、そうするかもしれません。すべてをささげて、人々のために尽くして来たのに、誰も私のことを理解しない。誤解したり、批判ばかりしている。
こんなばからしいことは、もう止めよう。きっとそう思うと思います。
しかし、主イエスは、それでも、お止めにならなかったのです。
そして、依然として、町々、村々を行き巡られ、救いの御言葉を語り、愛の御業を続けられたのです。
人々の無理解と、「悪霊の頭」だと罵られるような、心ない非難の中でも、相変わらず、弱り果てた人々、打ちひしがれた人々を訪ね、慈しみの御手を伸ばされていったのです。
神であられるお方が、そこまでしてくださったのです。
何という主イエスの愛でしょうか。何という主イエスの謙遜でしょうか。 
人々の無理解と、心ない罵りの中で、尚も、黙々として働かれる、この主イエスのお姿は、あまりに悲し過ぎます。そのお姿を想像すると、お可哀そうで涙が出そうになります。
神にそこまでさせてしまう、人間の罪の深さを、改めて、思い知らされます。
でも、主イエスは、そんな人々に失望され、見捨てたりすることをされませんでした。
どこまでも、人々の救いのために労してくださり、すべてをささげて下さいました。
私たちは、この主イエスの愛の御業によって、救われて、今こうしているのです。
主イエスが、二人の盲人を癒されたのは、彼らの、「私たちを憐れんでください」という叫びを聞かれたからです。
「主よ、憐れみたまえ」。この叫びは、人類共通の叫びです。
私たちは、たとえ外見上は、元気に見えても、誰もが、心のうちに悩みを持っています。
自分の望んでいる生き方ができていない。自分が一体、どこにいるのか分からない。
これから、どこに向かっていくのか分からない。私たちは、そういう不安の中にいます。
誰もが、主に、憐れんでもらわなければならない、悩みを持っています。
「主よ、憐れみたまえ」。ラテン語では、「キリエ・エレーソン」です。
この言葉は、その後、教会における、最初の祈りの言葉となりました。
「主よ、憐れみたまえ」。主イエスは、この叫びを聞かれました。
そして、この二人を憐れんでくださったのです。しかし、この二人は、主イエスの憐れみの、本当の深さを知らずに、ただ自分の願いだけを、主イエスにぶつけました。
では、主イエスの憐みの深さとは、どれほどのものであったのでしょうか。
今まで、何度か申し上げてきましたが、ここで敢えて、繰り返させていただきます。
この「憐れみ」という言葉は、「内臓」とか「はらわた」を意味する言葉です。
主イエスの憐れみは、ご自身のはらわたが、よじれるような痛みを伴うのです。
ご自身の肉体が、切り刻まれるような、痛みをもって、憐れまれたのです。
この二人の盲人に対してだけではありません。
主イエスは、町や村を巡り歩かれて、群衆が、飼い主のいない羊のように、弱り果て、打ちひしがれているのを見られて、深く憐れまれました。
私たちも、人に同情します。悲しむ人を見て、胸を痛めます。
しかし、はらわたがよじれるような痛みを、覚えることはしないと思います。
そこまで、相手の人と一体化すると、自分自身がそれに耐えられなくなってしまうからです。
私たちは、無意識の内に、もうこれ以上は無理だと、自分の気持ちをコントロールします。
ですから、私たちの同情には、一定の限度があります。でも、主イエスは違います。
主イエスは、人々の痛みを、ご自身の痛みとして、どこまでも引き受けられたのです。
それほどまでに、深い憐れみに生きることができたのは、神様だけでした。
主は、今も苦しまれています。私たちが、自分を見失って、苦しんでいる時。私たちが愛を失って、渇いている時。私たちが主イエスを見失って、暗闇の中をさまよっている時。
主イエスは、私たちを見て、悲しんでくださっています。ご自分のこととして,苦しんでくださっています。はらわたが切り刻まれるような痛みをもって、憐れんでくださっています。
皆さん、私たちには、そのような羊飼いが与えられているのです。
私たちは、飼う者の無い羊ではないのです。
私たちには、私たちと一つとなって、悲しみも苦しみも、共に担ってくださる羊飼いがいてくださるのです。そのことを、心から感謝したいと思います。
ギリシアの人たちは、この「憐れみ」という言葉を、神には使いませんでした。
神が、人間のように、苦しむことは、神らしくないと思ったからです。
しかし、福音書記者マタイは、そのことを良く承知した上で、この言葉を、敢えて、主イエスに使いました。神らしくない言葉を、主イエスに使ったのです。
主イエスが、神であられるのに、神でなくなってしまう程に、痛みと悲しみをもって、私たちのことを愛してくださっている。そのことを、是非とも伝えたかったからです。
考えてみれば、神らしくないと言うなら、神が人となってこの世に来られ、苦しみを受けて、十字架につけられて殺される。これほど神らしくないことはありません。
それにもかかわらず、ご自身の体を八つ裂きにされてまで、私たちを救おうとされた神様。
私たちの主は、この愛に生きることで、神であられることを、貫かれたお方なのです。
その主イエスは、群衆が、飼い主のいない羊のように、弱り果て、打ちひしがれているのを見られて、働き手が少ない、と言われました。
弱り果てている羊を、羊飼いの許に導く、働き手が少ないと言われたのです。
主イエスは言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
収穫は多い、と主イエスは言われています。では、ここで言う収穫とは、何でしょうか。
ここでの収穫とは、神様の救いの御手の中に、人々を捕らえることです。
神様の恵みの中に、人々を招き入れることです。
その収穫が多いと、主イエスは言われています。でも現実には、人々は、まだ捕らえられていません。まだ恵みの中にいません。
未だに多くの人が、弱り果て、打ちひしがれて、暗い闇の中にいたのです。
でも、その人たちを見て、主イエスは、収穫は多いと言われました。どういうことでしょうか。
今、人々は弱り果てて、打ちひしがれている。けれども、必ずそこから救われて、神様の恵みの中に導かれる。主イエスは、そう確信されていたのです。
ですから、ここでの収穫の豊かさとは、神様がなさる御業の大きさを、示している言葉なのです。
これから神様が、その大きな御業を、進めようとしておられる。
それなのに、そのための働き手が少ない、と主イエスは、痛切に感じられていたのです。
恥ずかしながら、私は、この38節の御言葉を、ずっと誤解していました。
ここで、主イエスは、「あなたが働き手になりなさい」、と言っておられると、ずっと思っていました。私たちが、働き手になることを、求めておられる御言葉だと思っていました。
しかし、ここで主イエスは、「願いなさい」と言われています。
働き手を送ってくださるように、祈りなさい、と言われているのです。あなたがすることは、祈ることなのだ、と言われているのです。
なぜなら、収穫は神様の御業だからです。ですから、私たちにできることは、その神様の御業のために、祈ることだけなのです。
「主よ、どうか、この日本の国を憐れみ、日本の宣教のために、働き手を送ってください。」
私たちがこのように祈るとき、その祈りの中で「では、お前はどうか」という声を聞くのです。
「私にはそのような力はありません。私は相応しくありません」、と私たちは答えます。
その時、「私は、お前の力など期待していない。私が遣わすのだから、必要な知恵と力は、私が、その時々に与えよう」、という御声を聞くのです。
その時、初めて、私たちは、働き手として立つことができるのです。
一人の人が、キリスト者となって救いに入れられるために、どんなに多くの人の祈りがあることでしょうか。
一人の伝道者が起こされるために、また一人の働き手が生まれるために、どんなに多くの祈りがささげられていることでしょうか。
今、日本の伝道が力を失っているのは、この祈りが足らないからではないでしょうか。
このような時こそ、私たちは祈っていきたいと思います。
誤解や、心ない非難や、耳を覆うような罵りの只中へと、黙々として進んで行かれた、主イエスのお姿を見つめながら、祈っていきたいと思います。
その尊い御体が、切り刻まれるような痛みを覚えてまで、私たちのことを憐れんでくださった主を信じて、ひたすらに祈っていきたいと思います。