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柏牧師:過去の礼拝説教

「平和を告げるために」

2021年01月31日 聖書:マタイによる福音書 10:1~15

先週、私たちは、「収穫は多いが働き手が少ない」という、主イエスの御言葉を聞きました。
弱りはて、打ちひしがれている人たちに、神様の憐れみを届ける働き手が少ない、と主イエスは言われたのです。
そこで、主イエスは、ご自分を取り囲んでいる群衆の中から、これと思う12名を呼び寄せて、弟子となさいました。人々に神様の憐れみを届けるためです。
そのようにして、呼び寄せられた12人を見ますと、実に様々な人たちが混じっています。
特に、驚かされるのは、徴税人のマタイと、熱心党のシモンがいることです。
徴税人は、ローマの手先になって、ユダヤ人から、税金を取り立てていた人たちです。
これに対して、熱心党とは、ローマの支配からの解放を願う、国粋主義者の集まりでした。
主イエスに従う以前であれば、熱心党のシモンは、徴税人のマタイなどと、決して同席することはなかったと思います。そんなことは、我慢がならないことであった筈です。
そのような二人が、主イエスの招きに応じて、一つの群れとなって、お互いの主義・主張を超えて、一つとされたのです。
12人の弟子たちは、その性格においても、考え方においても、実に様々でした。
しかし、福音を宣べ伝え、愛の業を行うという、使命においては、一致していました。
一つの使命と多様な在り方。これは、教会の姿を表しています。
12人の弟子たちには、見解や意見の相違がありました。しかし、それらの相違を超えて、一つとなったのです。
なぜ、そのようなことができたのでしょうか。それは、主イエスが共におられたからです。
主イエスの愛があったからです。
今日の教会にも、様々な人が、主イエスによって、呼び集められています。
様々な意見を持つ人々が、共に礼拝をしています。多様な人々が、一つとされています。
これは不思議なことです。でも、主イエスが共におられるなら、そこに主イエスの愛があるなら、それは可能なのです。
自分と意見が違う人も、同じように主イエスに招かれた、主イエスの大切な客の一人だとして、受け入れることができるのです。
もし、教会に分裂や不調和があるなら、それは、主イエスがそこにおられないからです。
かつて、この教会を牧会された、大門先生が書かれているように、教会は、気の合う者同士が、マイカーでドライブするようなものではありません。
教会は、主イエスが運転される、「乗り合いバス」なのです。そこには、実に、様々な人々が乗り込んできます。
でも、一人一人が、主イエスによって招かれた、主イエスの大切なお客様なのです。
乗り合いバスで隣に座った人も、偶然そこに座ったのでなく、「あなたの隣に座るように」と、主イエスが招かれた客なのです。
もし、私たちが、自分もまた、そのように、主イエスに招かれた客であることを忘れて、恰も、自分が、教会の主であるかのように振舞うならば、教会は、本来の姿を失ってしまいます。
それぞれが、「あなたも主イエスに呼ばれて、このバスに乗ったのですね。本当に良かったですね」と、お互いに声を掛け合っていく。これが教会のあるべき姿なのです。
もし乗客同士が、お互いを受け入れず、いがみ合っているなら、せっかく招いて下さった主イエスは、どれほど悲しまれるでしょうか。
その時、教会というバスは、運転できなくなって、前に進めなくなります。
私たちは、主イエスに、喜んで頂ける乗客になりたいものです。
呼び寄せられた人は、特に頭の良い者でも、力強い者でもありませんでした。
ごく普通の人でした。自分には、誇るべき物は何もない、と思っている人たちでした。
選ばれる必然性など、全く持っていなかった人たちでした。
ですから、これは他の福音書に書かれていることですが、これらの人を選ぶために、主イエスは、夜を徹して、熱心に祈られました。
そのように、呼び集められた者の中には、主イエスを三度も知らないと言った、ペトロが入っています。そんな弱いペトロを選ぶために、主イエスは、どれだけ祈られたでしょうか。
それどころか、主イエスを裏切った、イスカリオテのユダも、選ばれています。
このユダを選ぶために、主イエスは、どんなに熱心に祈られたか、想像もつきません。
他の弟子たちも、主イエスが、十字架にかかられる時に、皆、逃げて行ってしまうという、弱さを持った者たちでした。これらの弟子たちは、同じように弱い、私たちの代表です。
そんな弟子たちでしたが、主イエスの復活の後に、大きく用いられ、激しい迫害の中でも、信仰の生涯を全うしました。どうして、そんなことができたのでしょうか。
それは、彼らの背後に、いつも、主イエスの切なる祈りがあったからです。
それなら、私たちが、キリスト者として選ばれるためにも、主イエスは、祈られた筈です。
私たち一人一人も、主イエスの、切なる祈りの中に、覚えられているのです。
一体、私たちの中に、自分が選ばれるために、ペトロよりも少ない祈りで十分です、と言える人がいるでしょうか。
イスカリオテのユダよりも、少ない祈りで結構です、と言える人がいるでしょうか。
ユダ以上に、ペトロ以上に、この私のために、主が祈ってくださったからこそ、自分は今こうして、教会に繫がっているのではないでしょうか。
この様な者のために、祈ってくださり、選んでくださった、主イエスに感謝せざるを得ません。
主イエスは、この12人に、福音を宣べ伝える務めと、病気を癒される務めを委ねられました。
つまり、主イエスご自身がなさったことを、そっくりそのまましなさい、と言われたのです。
言ってみれば、12人の弟子たちは、主イエスの御言葉を語り、主イエスの御業を行っていく、全権大使とされたのです。ここに、教会伝道の基本的な姿勢が、示されています。
宗教改革者マルティン・ルターは、「キリスト者は、皆、小さいキリストになる」、と言いました。
「えー、小さいキリストになる」。そんなこと、私には無理です。そんな途方もないこと、とても出来ません。恐らく私たちは、即座にそう言い返すと思います。
しかし、良く考えてみますと、当時のペトロやヤコブは、主イエスの弟子になって、僅か1~2年でした。信仰暦からすれば、私たちの方が、遥かに長いかも知れません。
そういう、いわば新米の人たちに対して、主イエスは、私の全権大使になりなさいと言われたのです。びっくりするようなことを、言われたのです。
そして今、主イエスは、私たちにも、小さなキリストになりなさい、と言われています。
その言葉を聞いて、私たちは、尻込みをしてしまいます。
確かに、私たちには、死者を生き返らせるような、賜物は与えられていません。
しかし8節には、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と書かれています。
「ただで」と訳された言葉は、「賜物として」、とも訳せる言葉です。
私たちに与えられた救いは、とても値を付けることなど、できないほど高価で尊いものです。
その限りなく高価なものを、私たちはただで、賜物として、与えられているのです。
相応しい資格があるからでもなく、また、自分の力で手に入れたのではなく、相応しくないままで、神様が、ただで与えてくださったのです。
そのように、神様から一方的に、ただで与えられた賜物を、同じように、ただで与えていけばいいのだよ、と主イエスは言われたのです。
神様が働いて下さるのですから、私たちは、その恵みを通すだけの管になればよいのです。
私たちには、その人でなければ出来ないような賜物が、それぞれに、恵みとして与えられています。
それは、語ることであったり、書くことであったり、お世話することであったり、と様々です。
そのように、一人一人に与えられた、固有の賜物を用いて、与えられた恵みを、分かち合っていく。
それが、私たちのなすべき伝道なのです。
私たちには、病を癒すような、大きなことは、できません。しかし、主イエスが共にいて下さるなら、私たちも、小さな、小さなキリストとして、小さな、
小さなことができる筈です。
私たちは、小さなことを、大きな愛をもって、なしていけば良いのです。
では、そのようにして遣わされた者は、一体何を語ればよいのでしょうか。
主イエスは、「天の国は近づいた」、と宣べ伝えなさい、と言われました。
語るべきこと。それは、「天の国は近づいた」ということだ、と主イエスは言われたのです。
私たちが、語るべきメッセージは、究極的には、ただ一つなのです。
「天の国は近づいた。いや天の国はもう来ている。あなた方のために、天の国が来ている。」これが福音です。福音とは、主イエスが来て下さっている、ということなのです。
主イエスが来て下さって、共にいて下さる。これが、伝えるべき、最も大切なメッセージです。
すべてに優先するメッセージです。他のことは、第二、第三のことなのです。
ある人が言っています。多くのキリスト者が犯している間違いがある。
それは、私たちが、既に得ているものを、尚も、何とかして得ようとしていることである。
何とかして、神様と、もっとお近づきになりたい、と思っている人が多い。
或いは、どうすれば、神様と、もっとお近づきになれるかと、あれこれ模索している人が多い。
でも聖書が語っていることは、主イエスが、私たちの所に、来て下さったということなのだ。
来て下さって、私たちと共にいて下さる、ということなのだ。
神の御子が、私たちと同じ人間となって、私たちの所に来て下さった。そして、私たちが救われるために、全てをなして下さった。
だから、どうやって神様とお近づきになれるか、と案ずる必要はもうないのだ。
その人はそう言っています。
そうなのです。私たちのために、もう主イエスは、来て下さっているのです。
私たちは、共にいて下さる主イエスを、しっかりと見つめ、その御懐に飛び込んでいけば良いのです。その恵みに堅く立って、安心して、信仰生活を続けていって良いのです。
人を癒す奇跡も、この「天の国は近づいた」、というメッセージと、無関係ではありません。
天の国がもう来ている。主イエスが来て下さり、共にいてくださる。
このことを、本当に受け入れ、信じていくとき、人は、病の中でも平安でいることができます。
癒しの奇跡とは、病が癒されることではなく、病の中にあっても、平安でいられることです。
病に打ち勝ち、平安に病むことなのです。
癒しの信仰とは、神様には、癒し得ぬ病はない、ということを信じることで、病が必ず癒さる、と信じることではありません。
癒す、癒されないは、ただ神様のご計画によるのです。しかし、主イエスが共におられることによって、病に打ち勝つことができるのです。死に打ち勝つことができるのです。
病が癒されること自体が、福音なのではありません。病が癒されたとしても、主イエスが共におられないなら、それは福音ではありません。まことの救いではありません。
どんなに長寿であっても、そのことだけで、その人が救われている、とは言えません。
病気にならないことや、死なないことが、救いなのではありません。
主イエスが共にいて下さるなら、たとえ病気であっても、死に直面していても、平安がある。
それが、救いであり、福音なのです。
牧師として私は、しばしば病人を訪ねます。死に直面している人を、訪ねることもあります。
そこで、度々経験するのは、私が語る言葉は、その人の慰めにはならない、ということです。
しかし、聖書の御言葉を読み、祈るとき、深い慰めが、その人を包みます。
なぜでしょうか。御言葉と祈りの中に、主がおられるからです。主がおられることが、慰めと平安をもたらすのです。
主イエスは、弟子たちに、「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。」と命じられました。
今でもそうですが、当時から、ユダヤの人たちの挨拶は、お互いに抱き合って、「シャローム」と言い合うことでした。このシャロームと言う言葉は、「平和がありますように」と意味です。
また、この言葉には、「神が共にいますように」、という意味も含まれています。
まことの平和は、神様が共にいなければ、実現しないからです。神様が共にいるとき、まことの平和の内を生きることができます。
ですから、この「平和があるように」という挨拶も、「天の国は近づいた」という御言葉に、裏付けられています。
まことの平和とは、神様が支配しておられる状態のことです。そして、主イエスが来られたことによって、神様のご支配が、もう始まっているのです。
主イエスが来られたことによって、まことの平和が、もう来ているのです。
主イエスが来られた。天の国が来ている。まことの平和がきている。
そのことを、あなたは受け入れますか。弟子たちの挨拶は、そう問い掛けているのです。
その平和を受け入れるか、受け入れないかに、その家の全てがかかっているのです。
11節の「ふさわしい人」とは、そのような平和の挨拶を、受け入れる心がある人のことです。
平和の挨拶にふさわしい家とは、そういう挨拶を、必要としている人々の家のことです。
病や死によって苦しめられ、平和を失っている家。だからこそ、神様のご支配による平和を、切に願い求めている家に、使徒たちは派遣されたのです。
教会の歴史は、このような派遣の御言葉から始まっています。
教会は、そして私たちキリスト者は、そのような家に、主によって派遣されていく者なのです。
今朝の御言葉は、私たち一人一人に対して、語られている御言葉です。私たちを、教会の本来の使命へと、引き戻す御言葉です。
今年、茅ヶ崎恵泉教会は、創立70周年を迎えます。しかし、私たちの教会の歴史は、本当の意味では、70年ではありません。2千年の歴史なのです。
そのことを、心に刻みつつ、天の国は近づいた。あなたのために、主イエスは、もう来ておられますよ、という平和のメッセージを携えて、愛する人たちに接していきたいと思います。