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過去の礼拝説教

「ひたすらに主を待ち望む」

2021年02月28日 聖書:マタイによる福音書 11:1~6

戦前から戦後にかけて、40年間も日本で伝道をされた、ローラ・ジョセフィン・モークというアメリカ人の女性宣教師がいました。
太平洋戦争が勃発し、多くの宣教師がアメリカへと帰国する中で、モーク宣教師は、愛する日本に留まりました。
しかし、彼女は、敵国人として捕らえられ、収容所に入れられてしまいました。
やがて空襲が激しくなり、収容所でも防空壕を掘り始めました。
モーク宣教師は聞きました。「誰の為の防空壕を掘っているのですか」。「あなた方のためですよ」。
「私のためなら防空壕は要りません。私は毎晩、雨のように降ってくる爆弾を見て、あの下で皆さんが苦しみ、ことに幼い子供たちが死ぬかと思うと、どうか、あの爆弾が、私の上に落ちてくるようにと祈っているのです。ですから、私には、防空壕は要りません」。
それを聞いた収容所の所長は、「もしキリスト教がこのようなものであるなら、私も信じたい」、と思ったそうです。
このような、堅い信仰の持ち主のモーク宣教師でしたが、終戦の時に、大きな迷いを経験しました。
終戦の知らせと共に、収容所にいる者は、全員、明日銃殺されるという、噂が流れたのです。
モーク宣教師は、この噂にひどく恐れ、脅えて、うろたえました。爆弾を自分の上に落としてください、と言い放った信仰の勇者でしたが、この時は恐れと不安に襲われ、うろたえてしまったのです。
その時、モーク宣教師は、ガランとした部屋の隅に、一人の男の人が立っているのを見ました。
女ばかりの収容所に、男の人がいるはずはありません。モーク宣教師は、ぞっとしました。
その男の人は、顔を上げて、静かにモーク宣教師の方を見ました。その時、彼女は、その人が主イエスであることを知ったのです。
『どうぞ私から目を離さないでください』、と彼女が言うと、『いや、あなたが私から目を離さないでいればよいのだよ』、と主は言われたそうです。
その時、彼女の心は、やっと落ち着きを、取り戻したそうです。
確固とした信仰の勇者であっても、このような恐れと不安に、突然、襲われることがあるのです。
今朝の御言葉に出てくるヨハネもそうでした。このヨハネは、洗礼者ヨハネのことです。
ヨハネは、人々に、神様の裁きを逃れるために、悔い改めの洗礼を受けることを勧めました。
そして、主イエスこそ、来るべきメシアで、自分はそのお方の、履物をお脱がせする値打ちもない者なのだ、と宣言しました。主イエスの先触れとして、道備えの役目を担ったのです。
彼は、この世の権力者にも、堂々と立ち向かい、ガリラヤの領主ヘロデの、不道徳の罪を厳しく糾弾しました。そのためヘロデの怒りを買い、牢に入れられてしまいました。
主イエスが、御言葉を宣べ伝え、人々の病を癒していた時、ヨハネは獄中にあったのです。
獄中のヨハネは、弟子たちから、主イエスの教えや御業について、様々な報告を受けました。
それを聞いたヨハネから、一つの問いが、主イエスのもとに、届けられました。
それは、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」、という問いでした。
この「来るべき方」という言葉は、より正確には「来たりつつある方」、という意味だそうです。
ヨハネは、私が 預言した、来るべき方として、あなたは、今、まさに、来ておられるのですか。
あなたは、まことに「来たりつつある方」として、ここにおられるのですか。
あなたの素晴らしい御業は、来たりつつある、救いのしるしなのですか。
私は間違っていなったのでしょうか。それとも、誰か別の方を、待たなければならないのでしょうか。どうかそのことを、はっきりと仰ってください。
このヨハネの問いは、まことに真剣な問いでした。ヨハネは、主イエスに、自分のすべてを賭けていたため、誰よりも真実な問いを、発せざるを得なかったのです。
ヨハネは今、牢獄にいます。権力者ヘロデによって捕えられ、監禁され、いつ殺されてしまうか、分からない状況にいるのです。無力な、一人の人間として、牢にいるのです。
実際、これから、ほどなくして、ヨハネは殺されてしまいます。
そのような現実の中で、ヨハネは、主イエスの活動について、伝え聞きました。
ヨハネは、主イエスのことを、この世の悪を裁き、罪を糾弾するお方であると捉えていました。
それなのに、聞くところによると、主イエスは、相変わらず、病人や、苦しむ者や、悩む者たちに、寄り添ってばかりいる。一向に、社会変革のために、立ち上がろうとしない。
そのことを聞いたヨハネの中に、一抹の疑問と動揺が生じたのです。
信仰の勇者モーク宣教師が、突然、恐れと不安に襲われ、我を忘れて脅えたように、堂々と権力に立ち向かった、ヨハネの心の中にも、疑いと迷いが生じたのです。
この時のヨハネの本当の問い。それは、眞の救い主は誰なのか、ではなかったと思います。
そうではなくて、主イエスよ、あなたは、この「私の」、本当の救い主なのですか、という問いではなかったでしょうか。
主イエスよ、もしあなたが、期待していた救い主であるならば、なぜ私をいつまでも、この理不尽の中に放っておくのですか。なぜいつまでも、この無力さの中に閉じ込めておくのですか。
ヨハネは、こういう疑問を、抱いたのではないか、と思うのです。
ヨハネは、主イエスこそ救い主である、と信じました。このヨハネの信仰は正しかったのです。
そうであるなら、その救い主は、今、牢獄に捕えられ、いつ殺されるか分からない、この自分に対して、何をして下さるのだろうか。
今、自分は獄中にあり、殺されようとしている。この自分の現実の苦しみと、救い主がこの世に来られた、という喜びの知らせとは、どう結びつくのか。
このギャップを、どう理解したらよいのか。このような思いが、ヨハネの問いの根底に、あったのではないでしょうか。これは、ヨハネにとって、非常に切実で、非常に深刻な問いです。
ヨハネは、強い信仰を持っていた人です。でも、そのヨハネでさえも、このような動揺を体験しているのです。そして、それは、私たちも、同じなのです。
私たちも、ヨハネと同じ問いを、しばしば持つのではないでしょうか。
主イエスの御言葉や御業は、確かにすばらしい。力ある方だということも分かる。
しかし、その主イエスは、この私に、今、何をしてくれるのだろうか。
この私が、今、苦しんでいること。今、抱えている問題。今、背負っている悲しみ。それらに、どのような救いを、与えてくれるのだろうか。
人々のための救い主であっても、今、切実に苦しんでいる、この私に、救いを与えてくれないならば、私のための、救い主とは言えないではないか。
主イエスよ、あなたは、本当に「私の」救い主なのですか。そういう問いを、私たちも、心の片隅に、抱くことはないでしょうか。
疑いや迷いは、一旦生じると、心の内で次第に膨らんでいき、大きくなってしまうものです。
このヨハネの問いは、私たちにとっても、非常に身近な、自分自身の問いとなります。
ヨハネは、メシアとは、こういうお方であるべきだ、という思いに捕らわれていました。
メシアはこうあって欲しい、と思い込み、自分の持つメシア像に、主イエスをはめ込もうとしていました。これは、私たちも、よく犯す過ちです。
宗教改革者マルティン・ルターはこう言っています。「偶像礼拝とは、キリスト以外の様々な像を拝むことではなく、自分が造り上げたイエス・キリストを拝むことである。」
ヨハネは、罪を厳しく糾弾し、神の裁きを実行する人物として、主イエスを捉えていました。
ヨハネの持っていたメシア像は、裁きの主であったのです。
しかし、主イエスは、罪を赦すメシアとして来られました。福音とは、罪の裁きではなく、罪の赦しのメッセージなのです。喜びのメッセージなのです。
さて、ヨハネの切実な問い。「あなたは、本当に来るべきメシアなのですか」。
このヨハネの問いに対して、主イエスは、どうお答えになったのでしょうか。
4節、5節に、主イエスのお答えがあります。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」。
ここで主イエスは、ヨハネの問いに、真正面からは、答えてはおられません。「来るべき方はあなたでしょうか」という問いに、「そうだ」とも、「違う」とも、お答えになっていません。
その代わりに、主イエスが、ヨハネに伝えなさい、と言っておられるのは、この弟子たちが、見聞きしたことです。
苦しみや悲しみの中にある人に、癒しの御手が差し伸べられ、人々を支配している、死の恐怖が打ち砕かれ、貧しい人には、福音が語られている。
これらのことが、主イエスによって、実現している。
このことを、ヨハネに伝えなさい、と主イエスはおっしゃったのです。
しかし、処刑を目前にしたヨハネにとっては、人々の病が癒されたり、死んだ者が復活したりすることが、この自分にとって、どういう意味があるのか、という問いは残ってしまいます。
あなたは、本当に、私が期待しているメシアなのですか、という問いは残ってしまうのです。
主イエスは、「わたしにつまずかない人は幸いである」、と言われました。
ここにある「つまずく」という言葉は、「腹を立てる」とも訳せる言葉です。
私たちは、物事が、自分の思うようにいかない時に、腹を立てます。「こんな筈ではなかった」、と腹を立てます。
神様の御業とは、こんなものではない筈だ。救い主とは、こんな方ではない筈だ。
そう思った人たちは、主イエスにつまずきました。主イエスに腹を立てました。
そして、主イエスを十字架につけて殺してしまったのです。
自分に都合のよいことだけを、神様の御旨だと、勝手に捉える者にとっては、主イエスの御業も、主イエスの御言葉も、腹立たしいものでしかありませんでした。
今、ヨハネは、主イエスを、自分の救い主として、受け入れ、信頼することができなくなる、という、つまずきの瀬戸際に、立っています。
ある人が、「ヨハネがつまずいたのは、主イエスの低さであった」、と言っています。
主イエスは、徹底的に、低くなられました。「貧しい人々は、福音を聞かされている」、と告げられた主イエスご自身が、本当に貧しくなられました。
あのように貧しくて、あのように低くて、本物の救い主と言えるのだろうか。
主イエスは、色々なことをなさったというけれども、結局は、ただの人間なのではないか。
ヨハネも、危うく、主イエスに、つまずきそうになりました。
そのヨハネに、主イエスは、言われたのです。
私は、この人たちと同じように、低い者となった。貧しい者となった。苦しみ、悲しむ者となった。何故だか分かるか。それは、彼らと、共にいるためである。
どんな時も、どこにおいても、私は、苦しむ者、悲しむ者と、共にいる。
今、牢獄にあって、死の恐怖に、脅えているヨハネよ。あなたの傍らにも、私はいる。
私の力は、弱さの中に現れる。私の救いは、苦しみ、悲しみの中で、実現する。
それだけではない、私は、彼らのために、命をささげる。そのために私は来たのだ。
私の、この低さ、この貧しさに、どうかつまずかないで欲しい。腹を立てないで欲しい。
つまずくのではなくて、そこにこそ、救いを見て欲しい。この低さ、この貧しさから、永遠の命の救いが、生まれるのだ。
やがて十字架の死にまで、降って行くことになる私の低さ、私の貧しさから、病や苦難や死をも超える、永遠の命の救いが、生まれるのだ。
その福音が、今、貧しい者に語られている。貧しい者たちは、その福音を聞いて、希望を与えられている。
あなた方は、それをヨハネに伝えなさい、と主イエスは言われたのです。
あなた方は、自分が、今、抱えている問題が、自分の願うように、解決されることにしか、救いはないと考えるのか。
しかし、もし、私の業の中に、私の言葉の中に、自分の救いがある、と信じるなら、あなた方は、つまずきを乗り越えて、救いに与ることができるのだ。主イエスは、そう言われたのです。
主イエスが成し遂げて下さったこと。それは、罪の赦しの福音を、告げ知らせることです。
その印として、病が癒されたり、死者が復活するという、奇跡が起きました。
しかし、最大の御業、最大の奇跡は、神様の独り子である主イエスが、私たちの全ての罪を背負って、十字架にかかって、死んで下さったことです。そして、父なる神様が、その主イエスを、復活させて下さったことです。
この主イエスの、十字架と復活において、神様の救いの恵みが、実現しているのです。
この救いを、見つめることが、できる者は幸いなのです。
事故で、首から下が、全く動かなくなり、口に筆を銜えて、美しい絵や詩を作っている星野富弘さん。その富弘さんが、ツルバラの花に寄せて詠んだ、「当てはずれ」という詩があります。
『あなたは私が/考えていたような/方ではなかった
あなたは私が/想っていたほうからは来なかった
私が願ったようには/してくれなかった
しかしあなたは/私が望んだ何倍ものことを/して下さっていた』
ヨハネも、最後には、この詩の言葉を、握り締めることができたと、私は信じています。
ヨハネは、獄中で、首を切られて死にました。
しかし彼は、どこまでも、低くなられた主イエスが、この牢獄の中にも、共にいて下さるという恵みを知らされました。
そして、その主が、死の壁を打ち破り、死の先までも、共にいて下さるという、救いに入れられました。
その救いを握り締めて、幸いな者として、生涯を終えることができただろうと、私は信じています。
私たちも、どんな時も、共にいて下さる主が与えて下さる、まことの救いへと招かれていることを、感謝したいと思います。