「あなたの倉には何が入っていますか」
2021年04月25日 聖書:マタイによる福音書 12:33~37
ある礼拝でのことです。司式者が礼拝の順序を間違えてしまいました。
司式者は、祈って、万全の注意を払って、司式に当たるのですが、経験を積んだ司式者でも、そのような間違いを、時に犯してしまうものです。
間違いに気付かされたその司式者は、思わず後ろの十字架を見上げて、「あぁ、神様ごめんなさい」、と言いました。
このような時に、ほとんどの人は、会衆に向かって、「失礼いたしました」、とお詫びします。
しかし、この司式者は、礼拝は神様に献げるものだから、心は会衆ではなくて、神様に向けていなければならない、ということを、いつも心掛けていたのだと思います。
ですから、会衆ではなくて、先ず神様にお詫びしたのです。
いつも心にあることが、とっさの時に、自然に口から出て来たのだと思います。
私たちは、「いやー、つい心にも無いことを言ってしまって、すみません」と言うことがあります。
しかし、主イエスは、そんなことは無い筈だ、と言われています。
言葉というものは、「心にあふれていることが出てくる」ものなのだ、と言われているのです。
泉から水が自然に湧き出るように、心の中にあるものが、言葉として溢れ出てくるのだ。
そのように、主イエスは、言われているのです。
そのことを、主イエスは、33節では「木とその実」、35節では「倉とその中にしまってあるもの」、に譬えて教えられています。
「木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」。「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出す。」
ここで、主イエスが言われた、木の実や、倉から取り出すものとは、言葉のことです。
36節では、気を許して、うっかり漏らしたような、「つまらない言葉」であっても、それは、心に満ちているものの、正直な現れである。
だから、神様の前に、きちんと申し開きをしなければならない、と言われています。
確かに、うっかり語った言葉が、実は、本音だったということがあります。
予め用意した言葉よりも、不用意に語った言葉で、人は真実を語るということがあるのです。
一般に、日本人は、言葉について、少々甘いところがあります。
「あいつは、口は悪いけれど、根は良い奴だから許してやって」とか、「悪気はなかったんだから、気にしないで」と言って、言葉による失敗を、軽く捉える傾向があります。
でも、心にも無いことを語る、などということはあり得ないのです。
私たちの言葉には、私たちの心が映っているのです。
木の善し悪しを、その実で判断できるように、私たちの言葉も、私たちの心そのものが、自然に実を結んでいるのです。
それでは、ペトロが大祭司の庭で、三度も主イエスを知らないといった、あの言葉はどうだったのでしょうか。
あの時ペトロは、異常な緊張の中にいたので、ペトロ自身の弱さも手伝って、つい「自分は主イエスなんか知らない」、と心にも無いことを、言ってしまったのでしょうか。
私は、そうではないと思います。やはりあの時、ペトロの心の中には、主イエスを知らない、という思いが、あったのではないかと思います。
立派で、尊敬すべき指導者としての、主イエスなら知っている。しかし、今ペトロが見ているのは、縛り上げられ、叩かれ、つばをかけられ、罵られている主イエスです。
そんな主イエスなんか知らない。あの人は、私が知っている主イエスではない。
そのように、心の中で思っていたのではないでしょうか。
そのような思いが、心にあったから、出て来た言葉であったと思うのです。
だからこそ、ペトロは、その後で、主を裏切った思いに責められて、激しく泣いたのです。
主イエスは、私たちが話した、つまらない言葉の一言一言についても、全て神様の前で、責任を問われるのだ、と言われました。
この言葉は、少し厳し過ぎるのではないか、という思いがします。
でも、自分の話した、ほんの些細な一言が、人を深く傷つけたり、逆に、人の些細な言葉で、深く傷つけられ、長く悩んだ、という経験は、誰もが持っていると思います。
青山学院大学の宗教部長をされている塩谷直也牧師が、ご自身の若き日の体験を、その著書に記しておられます。
塩谷先生は、地方の高校から、東京の一流大学に入学しました。地元では秀才の誉れ高く、多くの人から注目されていました。
しかし、東京に出てみると、周りは誰もが優秀です。自分がいなくても、誰も気にしない。
塩谷青年は、挫折と孤独で、打ちひしがれそうになりました。
そんな時、あるデパートの食品売り場に、アルバイトに行きました。
そこで、一生懸命に働いていると、やがて、塩谷青年の客の呼び込み方が、とても上手だと評判になりました。
お客さんの中にも、「あなたの顔が見たかったのよ」、と言ってくれた人がいました。
それを見た上司が誉めてくれて、朝礼で挨拶の見本をすることもありました。
ここでは、自分は必要とされている。そんな思いに、満たされた日々を送っていました。
年末大売出しの大切な時、扁桃腺が腫れて、高い熱が出ました。
我慢できず、早退を申し出ました。しかし、上司から、「君がどうしても必要なんだ。
君しかいないんだ」、と言われて、何とか頑張って、午前中の仕事を終えました。
休み時間に、地下の休憩室のソファーに、横になって休みました。
しかし、体の節々が堪らなく痛いのです。「もう、これ以上無理です」 と上司に伝えました。
すると、彼は、目を逸らして、ボソッと言いました。「使えねえなぁ」。
その一言を聞いて、血の気が引きました。「なんだ、俺はあんたにとって道具だったのか」。
無性に悔しい思いが、こみ上げてきました。結局、誰も自分を、本当には必要としていない。
自分が、何か利益を運んでくる時だけ、自分は必要とされているんだ。
必要とされるために、僕は、あの人の幸せに、ずっと奉仕しなければならないんだ。
塩谷青年は、そのことを、思い知らされたのです。
「あなたの顔が見たかったのよ」、というお客さんの一言。
「君がどうしても必要なんだ。君しかいないんだ」、という上司の一言。
これらの言葉は、塩谷青年を励まし、生きがいを与えました。
しかし、「使えねえなぁ」。この一言が、塩谷青年を失望のどん底に、落としたのです。
一言の言葉は、それほどの重みを、持っているものなのです。
主イエスは、だから、あなた方は、良い言葉を話すように、話す前によく考えて、十分注意して、一言一言を語りなさい、とここで諭しておられるのでしょうか。そうではありません。
主イエスは、言葉そのものよりも、その言葉が出てくる心を、問題としておられるのです。
実よりも、実を結ぶ木が、どのような木なのか。それが大切だ、と言われているのです。
心の倉に、何が入っているか。それが大切だ、と言われているのです。
だから、心の倉に、良いものを、蓄えなさい、と言われているのです。
私たちの心の倉が、良いもので満たされていなければ、どんなに事前に準備しても、また、どんなに注意しても、良い言葉を語ることはできない、と言われているのです。
そうであるなら、私たちは、自分の心の中に、何が蓄えられているか。自分の心の中が、何によって満たされているか。
それを、問わざるを得なくなります。
今朝の御言葉を、一般論ではなく、自分のこととして、聞いていく時に、私たちは、厳しい問いの前に立たされます。
私は、普段、どのような言葉を、語っているだろうか。
私の口から出る言葉が、私の心の中にあるものの現れであるなら、私の心の倉には、どのようなものが、収められているのだろうか。そのように、問わざるを得なくなります。
私の心には、良いものが収められているので、良い言葉が、自然に口から溢れ出て来ます。
そのように言えるなら、まことに結構です。しかし、そんな人は、いるでしょうか。
私たちが、自分自身を、真摯に顧みた時、そんなことは、とても言えない、という思いに、導かれるのでないでしょうか。
私たちだけではありません。人間は、皆そうなのではないでしょうか。
そこで、想い起されるのは、創世記のノアの箱舟の物語です。
神様は、罪に満ちたこの世を、深く嘆かれ、大洪水を起こして滅ぼされました。
僅かにノアとその家族だけが助かりました。その洪水の後で、神様はノアに言われました。
「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。」
神様は、人間は皆、幼い時から悪いのだ、と言われています。だから、その故に、人を滅ぼすことは、二度としない、と約束されたのです。
人間の、心の倉には、初めから悪いものが入っているのだ。
だから、そのままでは、そこから良いものを取り出すことはできない、と言われたのです。
では、神様は、その人間をどうされようとしたのでしょうか。
人間の心の倉には、幼い時から、悪いものが蓄えられている。
そんな人間に、神様は、どのように立ち向かわれたのでしょうか。
そんな人間を見限って、もう勝手にしろ、と言われたのでしょうか。そうではありません。
それでも神様は、様々な手段を尽くして、人間を罪の中から救い出そうとされました。
しかし、どんな手段を講じても、人間の心の倉には、悪いものが、次々に蓄えられました。
でも神様は、そんな人間を、尚も、愛してくださり、決して見捨てられなかったのです。
そして、人間の罪を赦す、最後の手段として、主イエスを遣わしてくださいました。
私たちの罪を解決するために、最愛の独り子を、この世に遣わして下さったのです。
そして、私たちのすべての罪を、何の罪もない独り子が、代わって負ってくださったのです。
私たちの罪を贖うために、神の御子が、十字架について、傷ついて下さったのです。
私たちは、元々、良い木ではありません。悪い木なのです。
でも、そんな私たちが、良い木になる道が、一つだけ残されています。
それは、良い木に、接ぎ木されることです。罪の根から切り取られて、主イエスという良い木に接ぎ木されるのです。
主イエスという良い木には、そのために、既に、傷がつけられています。
十字架でつけられた傷です。その傷口に、私たちが、さし込まれて、接ぎ木される。
そして、良い木の根から、豊かな養分を吸収していくのです。
その時、初めて、私たちは、良い木となることができ、良い実を結ぶことができるのです。
神様の愛の根に、しっかりと繋がって、そこに土台を置いて生きていく時に、初めて一言一言の言葉を、正しく語ることができるようになるのです。
倉についてはどうでしょうか。私たちの心の倉も、元々は、悪いもので満ちています。
その倉を、明け渡すのです。空にして、神様から頂くものと、入れ替えるのです。
日本にアシュラム運動を紹介された、スタンレー・ジョーンズ先生は、集会において、よくこのようなデモンストレーションをされました。
口までいっぱいに水が入っている、二つのコップを見せて、右のコップの水を、左のコップに移すには、どうしたらいいでしょうか、と尋ねるのです。
どちらのコップにも、水がいっぱい入っています。そこに、水を足せば、溢れてしまいます。
答えが分からずにいる会衆の前で、先生は、左のコップの水を、さっと打ち捨てて空にして、そこに右のコップの水を移しました。
そして、同じように、私たちの心を、明け渡して、中のものを捨てて、そこに、神様の恵みを注ぎこみなさい、と言われました。
私たちの倉には、悪いものが入っています。それを、神様の恵みの力で、押し出して頂いて、空にするのです。
悪いものを追い出して、神様の恵みで、満たしていただくのです。
そうすれば、その倉から、良い言葉を、引き出してくることができます。
今朝の御言葉で、主イエスが、言われている「良いこと」とは、道徳的に、或いは倫理的に、良い、と言うことではありません。
ここで言われている良いこととは、神様との正しい関係に立つ、ということです。
神様と正しく向き合っている、ということです。
この神様との正しい交わりから、心が養われ、良い言葉が生まれてくるのです。
いつも神様と正しく交わっている。いつも心の中に、主イエスがおられる。いつも心の中に、御言葉が蓄えられている。
そのことによって、私たちの言葉は聖められ、整えられていきます。
その時、私たちは、心の倉から、人を傷つける、無益な言葉ではなく、人を生かす、有益な言葉を、取り出すことが、できるようになるのです。
神様と、正しく相対する時、私たちの心は、どうなるのでしょうか。
その答えが、詩編16編8~9節にて、語られています。そこで、詩人はこう詠っています。
「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。」
神様と正しく相対して、愛の交わりの中を歩む時、心は喜び、魂は踊り、体は安心して憩うのだ、と言っているのです。何という幸いでしょうか。
心は喜び、魂は踊り、体は安心して憩っている。そのような者の口から出てくるのは、感謝の言葉です。喜びの言葉です。平安の言葉です。
デンマークの優れた思想家、キルケゴールという人が、このようなことを言っています。
「良い実とは、人を愛の温かさで包む言葉であり、悪い実とは、何の愛の温かさも与えない言葉のことだ」。
私たちは、愛の花束を贈るような思いで、祝福を込めて、一言一言の言葉を語りたいと願わされます。
とても難しいことです。私たちにできるでしょうか。
そのような言葉を語れるように、主イエスという木に、しっかりと接ぎ木され、神様の恵み、神様の聖さ、神様の愛を、その根から思い切り吸収して、心を満たしたいと思います。
主イエスは、十字架で傷ついた手を広げて、私たちを待っていて下さいます。
ご一緒に、その手の中に、飛び込んでいきましょう。