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柏牧師:過去の礼拝説教

「真実に御言葉に生きる」

2021年07月11日 聖書:マタイによる福音書 15:1~9

主イエスが語られた愛の教えと、数々の素晴らしい奇跡は、驚きと感動の波を起こし、その波は、遂にエルサレムの都にまで達しました。
そこで、エルサレムの指導者たちが、はるばるガリラヤまでやってきて、主イエスの活動の、本格的調査と弾圧に乗り出しました。
彼等は、主イエスと弟子たちの落ち度を探し出して、罪状を暴くために、180キロもの道を旅して、わざわざやってきたのです。
彼らは、「何か問題はないか」と、主イエスと弟子たちの言動を、注意深く監視しました。
そして、一つの重大な問題を発見しました。それは、弟子たちが、昔の人の言い伝えに背いて、食事の前に手を洗わない、ということでした。
弟子たちが、手を洗わなかったということは、恐らく、主イエスご自身も、手を洗うことなく食事をなさったのだろうと思います。
もし、主イエスが手を洗っていたなら、従う弟子たちが手を洗わない、ということは考えられないからです。
主イエスが、手を洗わなかったから、弟子たちも洗わなかったのです。
学校や幼稚園では、食事の前には、必ず手を洗うように躾ています。
ですから、食事の前に手を洗わないと聞くと、「わぁー、汚い」と言われてしまうと思います。
特に、今、コロナ禍の中では、なお更、手を良く洗って、食事をすることが求められています。
しかし、ここで問題になっているのは、そのような衛生上の問題ではありません。
宗教的な儀式の問題なのです。公衆衛生の問題ではなく、信仰の問題なのです。
恐らく、主イエスも、弟子たちも、手の汚れは、きれいに洗ってから、食事をしたと思います。
しかし、ファリサイ派の人たちが問題としているのは、昔の人の言い伝えに従った仕方で、洗わなかったということなのです。
「昔の人の言い伝え」とは、旧約聖書に書かれた律法の、追加説明として付け加えられた、細かい口伝えの、決まりごとのことです。
旧約聖書に書かれている「成文律法」に対して、「口伝律法」と呼ばれていたものです。
ファリサイ派の人たちは、この口伝律法も、成文律法と同じ権威を持っている、と主張していました。
その細かい言い伝えが、人々を、がんじがらめに縛っていたのです。
そして、ファリサイ派などの、ユダヤ人指導者は、その言い伝えを守れる人と、守れない人とを、はっきりと区別していたのです。
ファリサイという言葉は、「区別する」という意味の言葉です。
ユダヤ教では、「清いもの」と、「汚れたもの」との区別は、大変重要なこととされていました。
特に、食べ物について、清いもの、つまり食べてもよいものと、汚れたもの、つまり食べてはいけないものとの区別は、厳しく守られていました。
使徒言行録10章で、ペトロは、あらゆる獣や鳥を、幻の中で示され、「これらを、屠って食べなさい」という、神様の声を聞きました。
この時、ペトロは「主よ、とんでもないことです。清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」と言って、なんと神様に対してさえ、激しく抵抗しています。
これを見ても、当時のユダヤ人が、食物規定をどれほど大切に守ってきたか、が分かります。
更に、食事の前の、手の洗い方についても、細かく規定され、厳格に守られていました。
水の量は、最も少なくても、卵の殻に入る水の量の一倍半とされていました。
それをまず、両手にかけ、指先を上に向けて、水を手首から下に落とします。
次に、片手ずつ、反対のこぶしでこすって清くする。最後に、指先を下にして、反対の方から水をかることになっていました。
ユダヤ人指導者たちは、この手の洗い方によって、人々を区別したのです。
儀式通りに手を洗う人は清い。でも、そうしない人は汚れている、と決め付けていたのです。
そのように、聖なる者と、汚れた者を、はっきりと区別していったのです。
昔の人の言い伝え通りに生きている、私たちは清い。でも、そのように生きていない、徴税人や、遊女や、異邦人たちは、汚れた者だと、決めつけていったのです。
しかし、主イエスは、そのような区別の壁を、次々に崩していかれました。
「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」、と言われて、汚れていると見做されていた人たちの中に、進んで入って行かれました。
儀式を守れないからと言って、あなたが汚れている、などということはない。あなたは、神様の目には、限りなく高価で、尊い存在なのだ。
そう言われて、汚れているとして、蔑まされていた人たちに、寄り添って行かれました。
一方、人と人との間に壁を造って、自分の清さを保とうとする人たち。厄介な相手との間には、線を引いて、自分の身を守ろうとする人たち。
そういう人たちに対しては、真正面から挑戦していかれたのです。
言い伝えに従って、決められた通りに手を洗って、自分は清いと思い込んでいる人たちに、主イエスは言われました。
あなた方の心の汚れは、そのような外側の業によっては、消し去ることはできないのだ。
いくら熱心に手を洗っても、あなた方の心の汚れを、消し去ることはできないのだ。
あなた方が清められる道はただ一つ。罪を心から悔い改めて、私に従ってくること。
それしか、清められる道はないのだ。主イエスは。そう言われたのです。
しかし、ユダヤ人指導者たちには、この主イエスの御心が理解できず、昔の人の言い伝えを守ることに、ひたすら没頭していったのです。
主イエスより、少し後の時代に、ラビ・アキバというユダヤ教の指導者がいました。
この人は、牢獄の中で、食事の前に出された、僅かばかりの飲み水で、この手を洗う儀式を行い、そのために、乾きで死にそうになったそうです。
恐らく、汚れた手で食事をするくらいなら、死んだほうがましだ、と思ったのでしょう。
もし、今の、私たちに、そのような細かい規定が課されていて、それを守ることが、信仰深いことだと言われたなら、どうでしょうか。
例えば、聖餐式を考えて見ましょう。
聖餐式において、最も大切なことは、主イエスの十字架が、この自分の罪の贖いのためであることを、感謝をもって想い起すことです。
パンを食べ、杯を頂くことを通して、その恵みを味わい、復活の主と、霊的に交わることです。
しかし、そのようなことは二の次とされ、パンの取り方や杯の持ち方、或いはパンの噛み方、ぶどう酒の飲み方などが、細かく規定されていたらどうでしょうか。
そして、その通り行わないと、聖餐式を守ったことにならない、とされたなら、聖餐式の意味は、全く違ったものになってしまいます。
律法学者やファリサイ派の人たちは、このような細かい掟を守ることが、神様を喜ばすことだと考えていました。
そして、それらを破ることが、罪を犯すことだと考えていました。
主イエスは、これに、敢然として挑戦されました。
それは、信仰を、規則を守ること、と捉える人たちと、信仰とは、神様と隣人への、愛の実践である、と説かれるお方との対立でした。
人の言い伝えと、神様の教えとの対立でした。
主イエスは、律法学者やファリサイ派の人たちに、問い返すような形で答えられました。
「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。」
あなた方は、神様の戒めに忠実であるように見えて、かえって神様の戒めを破っている。
言い伝えに従って手を洗っていても、もっと大切な神様の戒めを、ないがしろにしているではないか。
主イエスは、そのように反論されているのです。
そして、具体的な例をもって、彼らの過ちを指摘されます。
「あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、 父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」
言い伝えでは、父母を養うための物であっても、ひとたび、「これは神への供え物です」と言えば、それを父母に与えなくても済む、とされていました。
マルコによる福音書では、この「供え物」のことを「コルバン」と言っています。
この言い伝えは、父母に限ったことではありませんでした。
隣人の中に、生活に困窮している人がいる。けれども、あなたに差し上げるべきこれらの物は、「コルバン、供え物」なのですと言えば、それを与えないで良いとされたのです。
人々は、この言い伝えを悪用して、律法の本来の精神である、親や隣人に対する愛の業をないがしろにしていたのです。
そのように、神様の御心から離れているファリサイ派の姿勢を、主イエスは鋭く指摘されました。
「あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」。
口先では、神様を敬い、神様を礼拝するゼスチャーを取っている。
けれども、実際は、心が神様から離れている偽善者である、と言われたのです。
そう言われた主イエスは、イザヤ書29章13節の御言葉を引用されました。
「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」
あなたたちは、神様の御心を理解しようとせず、神様の戒めを、人間の言い伝えに、すり替えてしまっているではないか。
そんな、あなた方がささげる礼拝は、いくら口先で、神様を敬うようなことを言っても、空しい礼拝である。主イエスは、そう言われたのです。
さて、今朝の御言葉は、ファリサイ派の人たちに対する言葉だけではなく、私たちに対する言葉でもあります。
果たして私たちはどうでしょうか。私たちも、主イエスの教えを、人の言葉と、差し替えてはいないでしょうか。
私たちは、主イエスの御言葉を、どれほど真正面から、受け止めているでしょうか。
主イエスが言われたことは、どれも皆、厳しい言葉です。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主を愛しなさい」。
「隣人を、自分のように愛しなさい」。「あなたの敵を愛しなさい」。
もし、これらの御言葉に対して、私たちがどのように生きているかを、主イエスご自身が検証されたなら、一体誰が耐え得るでしょうか。
そう思うと、私たちは、主イエスの前に、恐れおののかざるを得ません。
その時、私たちは、神の言葉に代わる、人の言葉を探そうとします。
「主イエスの言われる通りにしたら、この世では生きて行かれない。主イエスの言葉は、理想論であり、達成不可能な努力目標なのだ」。このような解釈を懸命に探します。
そして、もし、そういう解釈をしている高名な学者の言葉に出会ったら、ほっと安心する。
そういうことはないでしょうか。
私たちは、そのような言葉を求める誘惑に、常にさらされているのではないでしょうか。
しかし、それは、神の言葉ではなく、人の言い伝えに従って生きる、生き方です。
また、私たちは、日常生活の中で、聖なるものと、汚れたものとを、区別したくなります。
日曜日は聖なる日、ウィークデーは世俗の日。そう区別して、それぞれ別の生き方をする。
ウィークデーは世俗にまみれて生きてきても、日曜日は聖人のように生きようとする。
礼拝は聖なる場、でも世俗の世界は汚れた場。だから、それぞれの場に応じて、異なった行動をしていく。
そのように、ファリサイ派の人たちのように、区別して生きてはいないでしょうか。
礼拝の場にいる私たちと、世俗の場にいる私たちとのギャップは、本当に深刻です。
私も、長く実業界で働いてきました。その時、このギャップに、本当に悩み苦しみました。
それは、辛く苦しい経験でした。いえ、過去形にはできません。今も苦しんでいます。
しかし主イエスは、「私の言葉は努力目標なのだから、できることだけすればよい」、とは言われていません。
まして、「私の言葉は、日曜日だけ守ればよい教えだ」、などとは一言も言われていません。
何の条件も付けずに、「あなたの敵を愛しなさい」、と言われているのです。
主イエスが、そう言われているのですから、私たちは、初めから諦めてしまうのではなく、小さな一歩を踏み出すしかありません。
そして、一歩踏み出した時、私たちは、主イエスの御言葉を行うことが、どんなに難しいかを、身をもって知ることになるのです。
どれ程、主イエスの御言葉から、遠く離れた者であるかが、本当に分かるのです。
そして、「主よ、汚れた私をお救いください」、と心から祈らざるを得なくなります。
でも、その時、私たちは、十字架の主の御言葉を聞くのです。
「父よ、彼らをお赦しください」。この御言葉を聞くのです。
そして、弟子たちの足元にひざまずいて、汚れた足を洗って下さる、主イエスの御姿を見るのです。
そして、その主が、私たちに言われるのです。
「ためらわずに、あなたの汚れた足を、私に差し出しなさい。私が清くしてあげよう。
そのために、私は十字架にかかったのだ。私の十字架の血潮で、清くなりなさい」。
私たちの汚れた足を洗って下さる、主イエスの御姿。でも、そのお姿は、弟子たちの足を洗われた主の御姿と、一つだけ違っています。
私たちの足を洗ってくださる、主イエスの御手には、十字架の釘跡が、くっきりと刻まれているのです。
弟子たちの足を洗われた時、主イエスの赦しは、これから起きることの約束でした。
しかし、私たちの足を洗われる主イエスの赦しは、既に実現している確かな出来事なのです。
皆さん、私たちは、細かい掟に従わなければ、救われない、などということありません。
儀式に従って、手を洗わなければ、清くされない、などということはありません。
あなた方は、そんなことをする必要はない。私の十字架の赦しを信じるなら、あなた方は清くされるのだ。
私たちには、この御言葉が与えられています。
この御言葉を、感謝して、この御言葉に生かされて、共に歩んでいきたいと思います。