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柏牧師:過去の礼拝説教

「主の食卓に満たされる喜び」

2021年08月08日 聖書:マタイによる福音書 15:29~39

今朝の御言葉には、主イエスが、七つのパンと少しの魚で、四千人の人々を満腹にされたという、奇跡物語が記されています。
この出来事は、「四千人のパンの奇跡」と呼ばれています。
聖書を1ページめくって、戻っていただきますと、14章13節以下に、主イエスが、五つのパンと二匹の魚で、五千人の人々を満腹にされた奇跡が記されています。
これら二つの奇跡物語は、大変よく似ています。大筋においては、ほとんど同じです。
そのため、パンの奇跡は、実は、一回だけだったのだ、と解釈する人もいます。
元々は、一回だけの奇跡であったのだが、あまりにも偉大な奇跡だったので、弟子たちが、何度も何度も語り伝えた。
そして、それを聞いた人たちも、また語り伝えた。
そうやって、大勢の人たちが語り伝えていく内に、内容が少しずつ違っていって、いつの間にか、別々の出来事として書かれたのだ。
そのように解釈する人がいるのです。
しかし、私は、聖書に書いてあることは、その通りに受け取った方が良いと思います。
なぜなら聖書を、疑いを持って読んだり、或いは、自分の思い込みを持って読んだりすると、聖書が語っている真実に、触れることができなくなるからです。
このことは、私たちの人間関係に当てはめてみると、よく分かります。
私たちは、自分のことを、疑っている人には、警戒してなかなか真実の姿を見せません。
でも、自分のこと信じてくれる人に対しては、自分も真実の姿を見せるものです。
ですから、人を疑ってばかりいる人は、真実に触れることができないのです。
聖書についても、同じことが言えると思います。
私は、主イエスが、同じような奇跡を、実際に二度、なさったのだと思います。
それを裏付けるのは、16章の9節、10節の御言葉です。
そこで、主イエスはこのように言われています。
『まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。
また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。』
ここで、主イエスは、私はパンの奇跡を二度も行ったではないか。そのことを、あなたがたはもう忘れたのか、とはっきりと言われています。
パンの奇跡は、確かに二度、行われたのです。
では、なぜ、主イエスは、同じような奇跡を、二度も繰り返して、行われたのでしょうか。
それは、ここで示されていることが、本当に大切なことだからです。
それなのに、繰り返さなければ分からないような鈍さが、弟子たちにあったからです。
弟子たちだけではありません。私たちにも、何度も言って頂かなければ、分からない鈍さがあります。
そういう私たちに対して、主イエスは飽きることなく、同じことを繰り返して下さいます。
これでもか、これでもか、というように、伝えたいことを、何度でも示してくださるのです。
是非、分かって欲しい。是非、身に着けて欲しいと願われて、同じような奇跡を繰り返して下さるのです。
教師というものは、そういうものなのかも知れません。
繰り返して教えることに飽きるようでは、教育することはできません。
何度でも、相手が分かるまで、同じことを繰り返す。相手が、そのことを、本当に納得して、自分のものにするまで、繰り返して教える。
それが、本当の教師だと思います。
スポーツの練習も同じです。練習では、毎日、決まったメニューを繰り返します。
選手が、そのプレーを、本当に身に着けるまで、繰り返して練習します。
コーチも、何度でも同じ指導を繰り返します。
それを続けるためには、そこに、愛がなければなりません。
ある神学者が、「愛は反芻する」と言っています。愛は反芻して飽きることがないのです。
何度、同じことを繰り返しても、そこに愛があるなら、飽きることはありません。
例えば、子育ては、同じことの繰り返しです。毎日、ミルクをあげ、おしめを取替え、お風呂に入れ、寝かしつける。
ただそれだけのことを、毎日繰り返します。
しかし、母親は、その繰り返しを、喜んでいます。そこに愛があるからです。
そして、愛がある所には、繰り返しの中にも、新しい発見があります。
子育てでも、赤ちゃんの小さな成長を発見するごとに、母親は喜びに満たされます。
信仰生活も、同じことの繰り返しです。以前、こんなことを言われたことがあります。
「あなた方は、日曜日ごとに教会に行って、同じ牧師から、同じような内容の話を聞いて、よく飽きないですね。」 
そう言われれば、確かに、信仰生活は、繰り返しの連続です。
毎日祈り、毎日御言葉を聴く。毎日曜日教会に行く。そのような繰り返しの連続です。
でも、その中で、日々新たな恵みを味わい、神様との新たな交わりを、日々喜んでいます。
神様に対する、真実の愛がある時には、この繰り返しに飽きることがありません。
それどころか、その繰り返しの中で、日々、新たな発見をして、喜びに満たされるのです。
同じことを繰り返していても、日々、新たな喜びを見い出すのです。
なぜなら、主イエスが、日々、私たちに新たな恵みを用意して、迎えてくださるからです。
主イエスご自身の愛が、反芻する愛なのです。
ですから、私たちも、日々のディボーションにおいて、そして日曜日ごとの礼拝において、この主の愛を、共に反芻し、喜ぶのです。
主イエスは、鈍く、不信仰な私たちに、繰り返して、恵みの言葉をかけてくださいます。
たとえ私たちが、飽きてしまっても、主イエスは、決して飽きることなく、愛を注いでくださるのです。
パンの奇跡が繰り返されたことにも、私たちに対する、主イエスの愛が示されているのです。
さて、先々週、ご一緒に聴きました御言葉には、主イエスが、異邦人の婦人の娘を癒された出来事が書かれていました。
主イエスは、ティルスとシドンの地方に行かれた時、この地方で生まれ育った、一人の婦人と出会われました。
その婦人が、難病に苦しんでいる自分の娘を、癒して下さるように、熱心に願いました。
ところが、主イエスは、ユダヤ人の救いが先で、異邦人の救いはその後だと言われて、婦人の願いを退けられたのです。
でもこの婦人は、断られても、断られても、尚も諦めずに願い続けました。
主イエスは、その婦人に対して、「あなたの信仰は立派だ。あなたの信仰は大きい」、と言われて、異邦人の婦人の願いをかなえて下さいました。
ユダヤ人の救いが先で、異邦人の救いはその後だ、と言われていたご計画を変更されて、異邦人の救いのために働いて下さったのです。
そして、これから後、主イエスは、全ての人を救うための、十字架の贖いの死に向かって、ひたすらに歩んで行かれることになります。
この全ての人を救うという、主イエスの御心が、既に、今朝の御言葉に示されているのです。
マルコによる福音書によれば、この時、主イエスは、ティルスとシドンの地方から、デカポリスというところを通られて、ガリラヤ湖畔の山に登られた、と書かれています。
デカポリスは、ガリラヤ湖の南東の地域です。そして、この地方の住民も、異邦人でした。
その主イエスのところに、大勢の群集が押しかけてきました。
御言葉は、『大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえた』と記しています。
人々は、障がいを持った人達や、病に苦しむ人達を、主イエスの許に連れて来たのです。
そして、主イエスは、そのすべての人たちを癒して下さいました。人々の願いに、すべて応えて下さったのです。
恐らく、群集の多くは、ティルスとシドンの地方から、或いは、デカポリス地方から、主イエスに従って来た、異邦人であったと思います。
主イエスは、ユダヤ人も異邦人も区別なく、すべての人を癒されたのです。
群集の多くが、異邦人であったことは、31節の御言葉からも分かります。
『群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。』
群集は、「イスラエルの神を賛美した」、のです。
ユダヤ人が、自分たちの神をほめたたえる時、わざわざこのような言い方はしません。
ですから、ここでは、異邦人の群衆が、イスラエルの神を、ほめたたえているのです。
そして、主イエスは、それを喜んで受け入れておられます。異邦人の賛美の輪の中に、主イエスはおられるのです。
私たちも、異邦人です。そして、私たちの教会もまた、このような賛美の群れです。
主イエスによって、罪赦され、生かされた者が、その恵みを、神様に感謝する。
救いの喜びを分かち合って賛美する。それが、私たちが献げている礼拝です。
そして、その礼拝を、主イエスは喜んでくださり、賛美の輪の中に臨んで下さるのです。
賛美している群衆を見られて、主イエスは言われました。
「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。」
恐らく、群集の多くは、ティルスとシドンの地方から、或いは、デカポリス地方から、三日の旅路を、主イエスと共にしてきたのだと思います。
空腹も忘れて、夢中でついて来たのです。
五千人のパンの奇跡の時には、弟子たちの方から、主イエスに声をかけて、人々にパンを買いに行かせてください、とお願いしています。
弟子たちが、群衆のことを心配したのです。
しかし、ここでは、弟子たちは知らん顔をしています。
群集の飢えに気付いて、彼らがかわいそうだと言われたのは、弟子たちではありませんでした。主イエスが言われたのです。
『群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。』
この「かわいそう」という言葉は、「憐れに思う」とも訳されている言葉です。
前にも度々申しましたが、この言葉は「はらわたが痛む」という意味を含んでいます。
おなかが痛くなるほどに、心を痛めることです。
主イエスは、群衆のことを考えると、はらわたが痛い。あなたがたは、その痛みを感じないのか。その痛みが分からないのか、と言われたのです。
この時、主イエスの周りにいた人たちは、異邦人でした。そして、弟子たちは、ユダヤ人でした。
ユダヤ人である弟子たちは、主イエスが一生懸命に癒しをなさっている、その傍らに立っていました。
癒された異邦人たちが、イスラエルの神を、賛美しているのを聞いていました。
しかし、その人たちの飢えに、心を動かすことがなかったのです。
主イエスのように、はらわたが痛むほどの思いで、群集の悩みを、自分のものとすることをしなかったのです。
弟子たちは、ここで、「主よ、五千人の人々を満腹にした、あのパンの奇跡を、ここで、もう一度してください」、というべきであったのです。
でも、弟子たちは、何も言いませんでした。
異邦人の必要に無関心である弟子たちに対して、主イエスは、どこまでも、群集の必要に心を寄せられました。
群集は、三日もかかってやって来たのです。そしてまた、ティルスとシドンの地方に帰っていくのです。
その道すがら、お腹が空いて、倒れてしまうかも知れない。
その姿を、主イエスは、ここで、愛の幻の中で見ておられるのです。
そして、群集に対する、ご自身の愛の痛みの中に、弟子たちを招き入れておられるのです。
ですから、五千人のパンの奇跡を想い起こさせ、あの時の業を、もう一度ここでしよう。
五千人の人たちを満腹にした、あの愛の業を、もう一度ここでしようではないか。
あの時のように、あなた方の手で、人々にパンを配りなさい。そのように言われたのです。
五千人のパンの奇跡は、明らかにユダヤ人を対象にした、愛の業でした。
しかし、四千人のパンの奇跡は、異邦人を対象にした、愛の業であったのです。
主イエスは、ユダヤ人も異邦人も、すべての人を招かれて、愛の食卓を開いて下さいました。
ですから、すべての人が、主の食卓に招かれているのです。
天国に入るとは、その招きに応えて、主の用意された食卓に着き、命のパンを頂くことです。
すべての人が、そこに招かれているのです。すべての人が、天国に招かれているのです。
私たちも、異邦人です。私たちも、どうぞ、私の食卓に来なさいと、主に招かれているのです。
そのお招きに応えて、私たちは、天国での食事の前味を、日々、味わうのです。
ですから、この四千人のパンの奇跡は、私たちに対する、救いの物語なのです。
私たちのために、主は、五千人のパンの奇跡だけでなく、四千人のパンの奇跡をも、行ってくださったのです。
大変興味深いことに、主イエスの伝道のご生涯の三段階は、いずれも食卓を開かれ、パンを与えることで終わっています。
主イエスのガリラヤ伝道は、五千人のパンの奇跡をもって、終わりを告げています。
今朝の箇所では、異邦人伝道が、四千人のパンの奇跡をもって、終わっています。
そして、弟子たちと別れる時にも、最後の晩餐をされました。
ガリラヤ伝道の終わり、異邦人伝道の終わり、そして地上の御生涯の終わり。
そのいずれにおいても、主イエスは、食卓を開かれました。
二つのパンの奇跡も、最後の晩餐も、聖餐式の原型です。
主イエスは、これらの食卓に、ご自身の恵みのすべてを、注ぎ出されたのです。
そして、私たちをその食卓に招いて言われるのです。
「私の恵みに飽き足りなさい。私の恵みに満腹しなさい。」
主イエスは、そのような食卓を、毎日曜日、繰り返して作ってくださるのです。
何度でも、愛の御業を繰り返して下さるのです。
私たちが、不遜にも、その恵みに飽きた、と言っても、主は、決して飽きることなく、招き続けてくださるのです。
あなたのために用意するこの食卓に、どうか与って欲しい、と言われて招いて下さるのです。
その主の招きに、喜んで答えていくお互いでありたいと思います。