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柏牧師:過去の礼拝説教

「平和の挨拶」

2021年08月01日 聖書:マタイによる福音書 28:8~10、18~20

今日は、日本キリスト教団の教会歴では、平和聖日とされています。
この朝、私たちは、改めて、平和の尊さを学ぶことを、勧められています。
また、今、与えられている平和を感謝し、世界が平和であるようにと、祈る日でもあります。
日本科学未来館の館長をしている、毛利衛さんという方がおられます。
毛利さんは、1992年に、スペースシャトル、エンデバーで宇宙に飛び立ち、日本人としては二人目の宇宙飛行士となりました。
帰還した毛利さんは、「宇宙からは、国境線は見えなかった」、という名言を残しました。
宇宙から眺めると、地球は国境線のない、一つの星であった、というのです。
普段、私たちが見る世界地図には、皆、国境線が入っています。
ですから、宇宙から見ても、国境線が入っていると、私たちは無意識に思ってしまいます。
でも、実際に、宇宙から見た地球には、国境線はなかった。
言われてみれば当然です。「そんなこと当たり前だろう」、と言われればその通りです。
ですから、この言葉を聞いて、驚くことはない筈なのです。
「えー、宇宙から見ると、地球には国境線はないの。知らなかった。」 こんなことを言えば、馬鹿にされます。
でも、そのことに、多くの人が気付いていなかったのです。
ですから宇宙から見た地球に、国境線がないのに驚いたとしても、そのことを笑えません。
それ程、私たちにとっては、国境線があることが、当たり前になっているのです。
しかし、神様が、美しいものとして創造された、元々の地球には、線なんか引かれていませんでした。
何の線も引かれていなかった地球に、人間が勝手に線を引いたのです。
そして、その線が、様々な問題や、悲劇を生み出してきました。
その線を犯すことは許さない、とお互いに主張し合って、人間は戦争をしてきました。
また、その線を、自分に有利に拡張するために、殺し合うということを繰り返してきました。
でも、宇宙から見ると、それが、どんなに愚かなことか、ということが分かるのです。
そして、それは、この地球を造られた、神様の思いでもあります。
神様は、地球を、美しいものとして造られて、その管理を人間に委ねられました。
でも人間は、その地球を、自分のものだと勘違いして、お互いに奪い合うようになったのです。
それをご覧になられて、神様は、どれほど悲しんでおられるでしょうか。
それが、どれほど愚かなことなのか。どうか、気付いて欲しいと、神様は願っておられます。
でも、地球の上で生きていると、それが、少しもおかしいとは、思えなくなってしまうのです。
線を引いて、それを守ることは、むしろ、当たり前のことだと思ってしまうのです。
その線を拡張することが、極めて大切なことだと思ってしまうのです。
そして、そのことに命を懸けて、争い出すのです。そのために、殺し合いまでするのです。
人間の歴史は、その繰り返しでした。
これは、国と国との間の話だけではありません。私たちの社会もそうです。
ここは、自分の領域だ、自分のエリアだ、と言って線を引いて、それを必死に守ろうとする。
そして、あなたが、こちらのエリアに、入り込んでくることは許さない、と頑なに拒否する。
そのように、お互いに排除し合うことによって、人間としての本来の交わりが、できなくなってしまう。そういうことが、常に起こっています。
では、どうすれば、この線を消すことができるのでしょうか。お互いを排除し合う不必要な線を、どうすれば消すことができるのでしょうか。
「一家に一人、悪人がいれば、その家は平和である」、という言葉があります。
いや、それは逆だろう。悪人がいれば、その家は、争いが起きて不幸になるはずだ。
普通はそう思います。実は、この言葉は、こういう意味なのです。
何か失敗した時、或いは、何か困ったことが生じた時、「ごめんなさい。私が悪かったんです」、と真っ先に言う人が、一人でもいれば、その家は平和だというのです。
人を非難したり、悪者探しをしたりするのではなく、真っ先に「私が悪かったのです」、と自分を悪者とする人が、一人でもいれば、その家は平和だ、と言うのです。
一家に一人、悪人がいれば、その家は平和なのです。
これは、私たちの家だけではありません。国と国との関係にも、当てはまることです。
ドイツ文学者で、フェリス女学院の院長を務められた、小塩節さんと言う方がおられます。
若い時、小塩さんは、ドイツに留学しました。
ミュンヘンの少し北にある、ダッハウと言う小さな町を訪れた時、かつて、そこにあったナチの強制収容所を見学しました。
そこで行われた、ユダヤ人大量虐殺の生々しい傷跡を、実際に目にした時、小塩さんは大きなショックを受けました。
ゲーテやベートーベンやバッハを生んだドイツが、これだったのか。
彼は一遍にドイツが嫌になって、トランクをたたんで、日本に帰ろうと決心しました。
宿で荷造りをしていると、日本から来た旅行中の知人から、電話がかかってきました。
そして、ドイツの教会の礼拝に出たいから、ぜひ案内してくれ、と頼まれました。
一緒に出席した礼拝は、普通の家を使った、小さな集会所で行われていました。
その日の説教者は、自分たちが、六百万ものユダヤ人をガス室に送り込んだこと、千数百万もの東欧の罪もない人たちを殺した罪を、悲しみをもって告白し、悔い改めを訴えました。
説教後の祈りの時、この説教者は、涙を流して、神様の赦しを乞い願いました。
その場にいた会衆も、皆、頭を垂れて、目をおさえていました。
帰る時、受付の人に聞くと、その説教者は、学生時代、ナチに対する抵抗運動をして捕えられ、ダッハウの収容所に入れられた人だそうです。
そして死刑にされる寸前に終戦になって、間一髪のところで救い出されたそうです。
しかし、彼は、自分が、ナチに対する抵抗運動をしたことも、収容所に入れられたことも、一言も話しませんでした。
自分が被害者であるとは一切語らず、自分も加害者のドイツ人の一人であることを、神様に告白し、深い悔い改めの涙を流して、赦しと救いを願ったのです。
悪かったのは、あのナチだ。自分は被害者で悪くない。そんなことは一切言わず、「自分こそが赦されるべき悪人だ」、と懺悔したのです。
「一家に一人悪人がいれば、その家は平和である」とは、こういうことを言うのだとだと思います。
小塩さんは、この説教と祈りに深く感動し、ドイツに留まって勉強することを決意し、再び荷を解いたそうです。
確かに、世界中が、このような悪人で一杯になれば、世界には争いは無くなるでしょう。
でも、私たちに、そんな生き方ができるでしょうか。そんな生き方は、損をする生き方のように思えます。
そのように思う時、私たちの前に、主イエスの十字架が、示されます。
十字架は、極悪人を処刑する道具です。主イエスは、極悪人とされて、処刑されたのです。
でも、実際は、主イエスこそが、ただ一人、全く罪のないお方でした。
私たちは、誰もが皆、神様の目から見れば、十字架につけられるべき、罪人なのです。
ところが、ただ一人、全く罪のないお方が、「私が悪いのです」、と言って下さり、極悪人として、十字架にかかって下さったのです。
どうしてでしょうか。私たちの罪を、代わって負って下さるためです。私たちに平和を与えるためです。
本来、私たちがつくべき十字架に、主イエスが代わってついて下さったのです。
私が悪人になりますから、あの人たちを赦してやってください、と父なる神様に、執り成して下さったのです。
これが、主イエスが与えて下さる平和です。
罪ある私たちのために、罪なき神の御子が、十字架にかかって下さった。
これは、究極的な損な生き方です。これ以上に、損な生き方はありません。
自ら悪人となることを引き受けられて、十字架にかかられた主イエスを見上げる時にのみ、私たちも、自分を悪人とする歩みに、一歩踏み出すことが、できるのではないでしょうか。
その十字架に死なれ、そして復活された主イエスは、先ず婦人たちにそのお姿を現されました。
イースターの朝早く、婦人たちは、空の墓を目撃し、御使いから、主イエスの復活を知らされました。
そのことを、弟子たちに伝えようと、走っている時、道の向こうに、人の姿が見えたのです。
誰だろう、と思って近寄ってみると、それは復活された主イエスでした。
朝の光の中で、主イエスが語られました。復活された主イエスの第一声。
それは、「おはよう」、という挨拶の言葉でした。「おはよう」。何と優しいお言葉でしょうか。
「おはよう」と訳された言葉の原語は、日常の挨拶の言葉として、非常に頻繁に使われていた言葉です。
この場面は朝ですので、「おはよう」と訳されていますが、もし昼間なら「こんにちは」、夜なら「こんばんは」、と訳される言葉です。
また、この言葉は、「御機嫌よう」とか、「おめでとう」とか、「万歳」、という意味でも使われていました。
実は、この言葉は、マタイによる福音書の26章から28章に、3回出てきます。
初めは、ゲツセマネで、ユダが主イエスを裏切った場面です。
血の滴りのような汗を流して、必死に祈られた主イエスに、ユダが近づき、「先生、こんばんは」、と言って接吻しました。
これを合図に、兵士たちが主イエスを捕らえたのです。
この「こんばんは」という、裏切りの言葉が、実は、「おはよう」と同じ言葉なのです。
次に出て来るのは、ピラトによる、主イエスの裁判の場面です。
十字架刑を宣告された主イエスを、ピラトの兵士たちが、散々に嘲り、侮辱する場面です。
兵士たちは、主イエスに、赤いマントを着せ、茨の冠をかぶらせ、王の持つ笏の代わりに、葦の棒を持たせました。
そして、その前にひざまずいて、「ユダヤ人の王、万歳」、と言って侮辱したのです。
この「万歳」、と訳されている言葉が、「おはよう」と訳された言葉と、同じ言葉なのです。
ユダが、主イエスを裏切った言葉。兵士たちが、主イエスを、嘲り、罵った言葉。
それと同じ言葉が、復活の主イエスの、第一声でした。
私たちも、日々の生活の中で、何度も主イエスを裏切り、主イエスを侮辱しています。
でも、主イエスは、私たちが寝ている間も、あのゲツセマネで、夜を徹して祈られたように、私たちのために、執り成しの祈りをして下さっているのです。
そして朝毎に、「おはよう」という、愛に満ちたお言葉を、掛けて下さるのです。
私たちが、裏切っても、裏切っても、尚も、「おはよう」という、爽やかな挨拶と笑顔で、私たちを迎えてくださるのです。
私たちが、主を裏切り、主を侮辱した、その同じ言葉を、主は愛の言葉に変えて、私たちに返して下さるのです。
私たちは、その愛を、ただ受けるだけで良いのです。
キリスト教信仰とは、この主イエスの愛を、素直に受け入れて、生きて行くことなのです。
主の御心を、悲しませてばかりいる私たちを、毎朝、「おはよう」と言って、爽やかに迎えてくださる主イエス。
その主イエスに、「おはようございます」、と応えることが許されている。
これは、何と言う喜び、何という幸いでしょうか。
主イエスは、自ら進んで極悪人となって、十字架にかかって下さいました。
でも、そのことについて、恨み辛みの言葉を、一言も言われませんでした。
「私は、お前たちのために、十字架にかかってやったのだ」、等とは一言も言われません。
そんな言葉に代えて、「おはよう」という、爽やかな愛の言葉を、返してくださるのです。
この「おはよう」という言葉を、ある英語の聖書は、「Hi、ハーイ」と訳しています。
「ハーイ」。何とも明るい言葉です。
この時、婦人たちの耳には、まだ十字架の上で、主イエスが叫ばれた苦しみの言葉。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、どうして私を見捨てたのですか」。
この言葉が、残っていたと思います。主イエスの苦しみの言葉が、耳にこびりついていて、暗い思いに覆われていたと思います。
そんな暗い思いを消し去るように、主イエスは、「おはよう!ハーイ!」と言われたのです。
私たちが、悲しみや、悩みに覆われて、暗い気持ちでトボトボ歩いていると、そこに主イエス来てくださり、「ハーイ」と言って、迎えてくださいます。
私たちの主は、悩み悲しみを、喜びに変えて下さるお方なのです。
この後、復活された主イエスは、弟子たちに、姿を現されました。
その時の第一声は、「あなた方に平和があるように」、という言葉でした。
ここでも、主イエスは、弟子たちに、恨み辛みの言葉は、一言も語られていません。
それどころか、弟子たちの心に、平和があるように、と言われたのです。
私は、自分が悪人となって、十字架についた付いた。そのことを通して、あなた方に、平和を与える。
私の願いは、あなた方の心が、私が与える平和で満たされることなのだ、と言われたのです。
「一家に一人悪人がいれば、その家は平和である」。
この言葉を実現するために、主イエスは、悪人として、十字架にかかってくださいました。
私たちの罪を赦し、平和を与えてくださるためです。
そして、平和の君である主イエスは、最後に,弟子たちに言われました。「わたしは、世の終わりまで、あなた方と共にいる。」
自ら悪人となられて、十字架に死んでくださった主イエス。
その主イエスが、復活されて共にいて下さること。これが、私たちに与えられている、まことの平和であり、まことの希望です。
そして、代々の教会は、この平和を、この希望を、宣べ伝えてきました。
結局は暴力が支配する、と思われるようなこの世。愛なんか何の力になる、とあざ笑うようなこの世。
教会は、その中にあって、「おはよう」という、主イエスの平和の挨拶を、伝えてきました。
主イエスと共に生きる希望を伝えてきました。そして、これからも、伝えていきます。
なぜなら、それだけが、まことの平和、まことの希望だからです。
そして、これだけが、人間が勝手に引いた線を、地球から消すことができるからです。
神様が、美しいものとして造られた地球を、取り戻すことができる唯一の道だからです。