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過去の礼拝説教

「主によって支えられる信仰」

2021年09月26日 聖書:マタイによる福音書 17:14~20

今週の週報の左側の下に、ルネサンス期を代表する画家であるラファエロの最晩年の絵、「キリストの変容」を印刷させて頂きました。
ここには、先週お話しした主イエスの「山上の変貌」と、今朝の御言葉にある「てんかんの子の癒し」の二つの出来事が、一つの絵にまとめられて描かれています。
山の上における、神としての主イエスの栄光と、山の麓における、主イエス不在による弟子たちの無力さ。
この二つの出来事の、際立ったコントラストが、見事に描かれています。
主イエスは、高い山の上で、神の独り子としてご自身のお姿を、これ以上ない程、明らかな仕方で示されました。
しかし、主イエスは、その栄光の場所に、長く留まることをされず、再び山を降りられました。
人間の苦しみと悲惨さの只中に、帰って行かれたのです。
主イエスは神様ですから、栄光の山にそのまま留まることも、おできになられたのです。
でも同時に、主イエスは、私たちの救い主です。それ故、山に留まり続けることが出来なかったのです。山を降りなければならなかったのです。
この絵に描かれている、苦しみと混乱の中にいる群集のもとに帰る。
それが、救い主として、主イエスが歩まれなければならない道だったのです。
主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの、三人の弟子だけを連れて、高い山に登られました。
その間、残りの9人の弟子たちは、その山の麓で、主イエスのお帰りを待っていました。
そこに一人の男が、てんかんの霊に取り付かれた、息子を連れて来ました。
父親は、この霊を追い出してくださいと、主イエスの弟子たちに願いました。
けれども、弟子たちにはできなかったのです。
マルコによる福音書の平行記事には、この時、大勢の群衆が弟子たちを取り囲んでおり、律法学者たちが弟子たちの無力さを非難している様子が書かれています。
ラファエロの絵にあるように、そこは喧騒と混乱に満ちていたのです。
そこに、主イエスが戻って来られました。その主イエスを見て、父親が叫びました。
「主よ、息子を憐れんでください。」 
「主よ、憐れんでください。」この言葉のラテン語読みが、「キリエ・エレーソン」です。
「主よ、憐れみたまえ。キリエ・エレーソン」。この言葉は、教会の祈りにおいて、いつも真っ先に祈られてきた言葉です。
私たちは、礼拝において、過ぎ去った一週間の歩みを振り返ります。
聖なる主の御前で、自分がなしてきたことを省みる時、私たちは、自分がいかに主の御心を悲しませて来たかを、思い知らされます。
十字架の上で、主に新たな血を流させてしまった、一つ一つの罪が思い起こされます。
その時、私たちは、「主よ、憐れみたまえ」、としか祈ることができない自分を示されます。
「主よ、憐れみたまえ」。私たちには、それしか願うことができません。
この時、弟子たちも、祈るには祈ったと思います。
祈らずに癒しを行うことができる、などとは考えていなかったと思います。
しかし同時に、弟子たちの心には、かつて主イエスから派遣された時、多くの病人を癒すことができた、という成功体験もあったのではないでしょうか。
ですから、この父親が訪ねて来た時にも、彼らは、自分たちで悪霊を追い出そうとしました。
しかし、うまくいかなかったのです。どうして今回は、うまくいかなかったのでしょうか。
弟子たちは、「主よ、憐れみたまえ」、と祈らなかったのです。
「主よ、憐れみたまえ。御心ならば、この子を癒してください」、と祈らなかったのです。
この時、弟子たちに必要だったのは、悪霊を追い出して、この人を救って下さるのは、神様ご自身の力である、という信仰でした。
働いて下さるのは神様であって、自分は神様に用いられる器に過ぎないという自覚でした。
かつて、主イエスによって派遣された時、彼らは、そういう自覚と祈りによって歩みました。
その時は、彼らは悪霊を追い出し、病気を癒すことができたのです。
ところが、そのすばらしい体験によって、彼らは、自分自身に、何か特別な力が備わったかのように、勘違いしてしまったのです。
それで、この父親が訪ねて来た時にも、「どれどれ、私たちが悪霊を追い出してやろう」、という思いで、この子を癒そうとしたのです。
すると今度は、何も起りませんでした。
ある人が、信仰の反対語は「不信仰」ではない。それは「傲慢」だと言いました。
自分の手で、全てのことが解決できると思ってしまうこと。自分たちが、神様のお名前さえも、自由に使えると思ってしまうこと。
それが、信仰の反対語である、というのです。
弟子たちは、知らず知らずの内に、その傲慢という罠に捕らわれていたのです。
さて、山を降りて来られた主イエスは、自分たちの無力さに落胆し、混乱している、弟子たちの姿をご覧になります。
そして、嘆きのお言葉を語られます。17節です。
「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」。
私たちも、しばしば、「いつまで我慢しなければならないのか」、と呟きます。
こんな会社に、こんな上司に、いつまで我慢しなければならないのか。
こんな政府に、こんな首相に、いつまで我慢しなければならないのか。
しかし、私たちが口にする言葉と、主イエスが言われたことは、大きく違っています。
私たちが、我慢できないと言っている時には、もうその相手を、切り捨てています。
もうあなたには我慢できない、と言った時には、私たちの愛が冷めてしまっているのです。
けれども、ここでの主イエスのお言葉では、愛は消えていないのです。
愛していてくださるからこそ、耐えて下さっているのです。
主イエスは、「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」、と言われました。
この「我慢する」という言葉は、ただ忍耐する、ということではなく、「手をじっと差し出し続けて、支えるべきものを支えている」という意味を含んでいます。
主イエスは、怒りを抑えて、嫌々耐えておられるのではありません。
しっかりと、御自分が支えなければならないものを、支えておられるのです。
ある聖書は、この言葉を、「私はいつまであなた方を、運び続けることができるでしょうか」、と訳しています。
重い物を持ち運ぶには、運ぶものの下に入って、担がなければなりません。
主イエスは、重い荷物を運ぶように、愛する者の痛みを、自分の痛みとして担って下さるのです。相手に対する愛は、変わらないのです。
ですからこれは、私たちを愛して止まない、主イエスの愛の叫びなのです。
でも、しっかりとご自分で支え続けながら、一体この腕が、いつまであなたがたの不信仰を支えられると思っているのか、と主イエスは問い掛けておられます。
そういう言葉を聞くと、私たちは、また少々心配になります。
でも、皆さん、私たちは心配することはないのです。振り返って見て下さい。
一体、いつ、主イエスは、私たちと共にいることを、お止めになったでしょうか。
主イエスが、「もうあなたを支えるのを止めた」と言われて、手を引っ込められたことがあったでしょうか。一度もありませんでした。
主イエスはどこまでも支え続けて下さいます。手を引っ込めてしまわれることはないのです。
共にいて下さることを、お止めになったことは、一度もありません。
もし、主イエスが、共にいて下さることを、お止めになってしまったなら、私たちが、今、こうして礼拝している筈はないのです。
主イエスが、手を引っ込めることを決してされなかったから、教会は厳しい迫害や困難の中でも、二千年に亘って立ち続けてきたのです。
ですから、どうか安心して主に委ねて下さい。
主イエスが、その子を癒された後、弟子たちは、ひそかに主イエスに尋ねました。
「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」。
それに対する、主イエスの答えが、20節に記されています。
「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、その通りになる。あなたがたにできないことは何もない。」
主イエスは、弟子たちに対して、「信仰が薄いからだ」と言われました。
この「薄い」という言葉の、元々の意味は「小さい」という意味です。
主イエスは、弟子たちの信仰は「小さい」と言われているのです。
でも、そのすぐ後で、「からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、その通りになる」、と言われています。
からし種というのは、その当時の、最も小さいものを示す譬えの言葉です。
「あなた方の信仰が小さいからだ」、と主イエスは言われました。主イエスは、弟子たちの信仰が小さいことを、非難されているように読み取れます。
でも、続けて「からし種一粒ほどの小さな信仰があれば、山のような障害物も動くのだ」、と言われています。
ここでは、信仰はどんなに小さくても良い。質が問題なのだ、と言われているとも読めます。
ここで私たちは、少々混乱します。一体、私たちは、自分の信仰が、もっと大きくなるようにと願うべきなのか。
それとも、たとえ小さくても、確固とした強い信仰を持ちたいと願うべきなのか。私たちは、迷ってしまいます。
しかし、主イエスは、ここで、弟子たちの信仰の小ささを、非難されているのではないと思います。
また、信仰の質を問題にされているのでもないと思います。
そうではなくて、ここで、主イエスは、「信仰とは、本来小さいものなのだ。からし種のようなものなのだ」、と言われているのではないでしょうか。
弟子たちに対しては、「あなた方の信仰は確かに小さい。それでも尚、このからし種に比べれば、まだ大き過ぎる。もっと小さくあるべきだ。」と言われたのではないでしょうか。
そうなのです。もともと私たちの信仰は、からし種のように小さいものなのです。
そして、私たちは、その小さな信仰を、自分の力で大きくすることはできないのです。
それなのに、私たちは、もっと大きな信仰を、もっと立派な信仰を持ちたいとあくせくします。
けれども主イエスは、あなた方は、大きな信仰を望み過ぎる、と言っておられるのです。
信仰とは、本来、もっと小さなものであるべきなのだ、と言われているのです。
「主イエス無しで何かできると思うような、大きな信仰を持とうとするな」、と言っておられるのです。
自分の信仰は、一体どこにあるのか、と思うような小さな信仰。
からし種一粒程の小さな信仰。そこに立つべきなのだ、と言われているのです。
主イエスは、弟子たちに、あなた方は、自分の信仰の小ささに、立たなければならない。
そして、「主よ、憐れみたまえ」と祈るべきではなかったか、と言われているのです。
あなた方の信仰は小さい。だから、私は十字架につくのだ。あなた方が、自分の信仰の小ささに立たない限り、私の十字架の恵みは分からない。
主イエスは、そう言われているのです。
そうなのです。もし、私たちの信仰が、本当に大きかったなら、主イエスが十字架で苦しまれることはなかったのです。
この時、主イエスは、その小さな信仰を、てんかんの子の父親の中に見ておられます。
マルコによる福音書によれば、この時、父親は、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と言っています。
「おできになるなら」、他の聖書では、「もし、できますなら」と訳されています。
「もし、できますなら」、という父親の言葉に対して、主イエスは、直ぐに問い返されます。
「もし、できればと言うか。信じる者には、何でもできる」。
あなたは、私を信じているのか、それとも信じていないのか。
そのように迫られて、父親は叫びます。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。
信じます、と言って、直ぐに、信仰のない私を、というのは矛盾しています。おかしいです。
でも、これこそが、私たちの、真実の信仰告白なのではないでしょうか。
私たちは、「信じます。どうか私の大きな信仰を見てください」、などとは決して言えない者なのです。
誰一人、そんなことを言えません。主イエスから、「お前は、信じるのか、信じないのか」、と迫られた時、私たちの答えは、ただ一つです。
「信じます。不信仰な私を、お助けください」。この言葉以外には、ありません。
私は、受洗をためらっている人に、たびたびこの御言葉を紹介させて頂いています。
「信じます。不信仰な私を、お助けください」。これが私たちの正直な信仰告白です。
このような矛盾した信仰告白を、受け入れてくださり、恵みの世界に引き上げてくださる主に、心から感謝したいと思います。
自分には信仰がある、などと思ったとたんに、そこには嘘があり、傲慢があるのです。
私たちは、信仰のない自分を、神様の前に置くことしかできません。
週報の【牧師室より】に、マルティン・ルターの「むなしい器」という題の祈りを紹介させて頂きました。
偉大な宗教改革者の祈りですから、どんなに立派な祈りかと思いきや、実は、からし種一粒の信仰の祈りです。ここでは抜粋を紹介しますが、どうか週報から全文を読んでください。
「ごらんください、主よ、満たされる必要のあるむなしい器を。/わたしの信仰は弱いのです。どうか、強くしてください。/
 わたしの愛は冷え切っています。/わたしを温め、わたしを熱し、/わたしの愛が隣人に届くようにしてください。/
 わたしには強く堅固な信仰が欠けています。/ああ、主よ、どうか助けてください。/わたしの信仰を強め、あなたを信頼させてください。」
自分の信仰が小さいとか、薄いとか言って、嘆く必要はありません。
ルターのように、あの父親のように、「主よ、憐れみたまえ」と、叫んだら良いのです。
主は、言われています。からし種一粒の小さな信仰に立ちなさい。
「主よ、憐れみたまえ。」この祈りに立ち帰りなさい。