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過去の礼拝説教

「日々輝いて生きる」

2021年01月03日 聖書:ルカによる福音書 2:36~38

キリスト教と干支とは結び付きませんので、礼拝で、干支の話をするのは、そぐわないかもしれませんが、今朝は、お許しを頂いて、少し話させていただきます。
今年は「丑年」です。日本では、牛は「のろま」だとか「鈍い」ものと、捉えられています。
でも聖書は、牛のことを、そんな動物とは捉えていません。
聖書の中には、牛に関する話が、いくつか出て来ますが、いずれも否定的な捉え方はしていません。例えば、イザヤ書1章3節はこう言っています。
「牛は飼い主を知り/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず/わたしの民は見分けない。」
牛は、その飼い主を知っている。それなのに、わたしの民は、その飼い主を知ろうとしない。
御言葉はそう言っています。
飼い主を知っている、牛の従順さと、直ぐに主の恵みを忘れてしまう、自己中心的で、不信仰な人間の姿が、対比されています。
牛は、のろいとか、鈍いとか言って、あなた方は馬鹿にしているけれど、最も大切なことにおいて、あなた方は、その牛よりも、劣っているではないか。
イザヤは、牛を通して、私たちに、警告を発しているのです。
今、世界には、約15億頭もの牛がいると言われています。牛は、人間生活とは、切っても切り離せない、近しい存在となっています。
ですから、牛へんの付く漢字が、多くあります。ある調査によれば、311字もあるそうです。
その内、知っているのはごく僅かですが、中には、頻繁に使っている字もあります。
牛へんがつく字として、思い浮かぶのは、特別の特という字とか、物という字です。
牧師の牧という字も牛へんです。牡、牝という字にも牛へんが付いています。
それらの中で、何といっても特徴的なのは、犠牲という字です。
犠牲という二つの漢字の、両方ともに、牛へんが付いています。
牛という動物は、その肉も、乳も、労力も、すべて人間のために、ささげてくれます。
まさに、犠牲となる動物です。私たちは、神様から与えられた賜物を、ほとんど自分のためだけに、用いていますが、牛を見る時に、私たちは、教えられます。
自分のすべてを、ただ人のために使い切り、そのために生き、そして死んでいく牛。
その牛から、学ばされることはないのか、と問われます。
そして、その時、想い起される人がいます。それは、私たちの主、イエス・キリストです。
主イエスは、私たちの救いのために、すべてを与えられた末に、十字架において、私たちの罪の贖いとなられました。まさに、犠牲となられました。
主イエスは、私たちのために、犠牲となられて、ご自身の全てを、献げてくださいました。
丑年の初めに当たり、このことを、先ず想い起したいと思います。
そして、新たなる感謝をもって、新しい年の歩みを、始めたいと思います。
今年は、コロナウイルス感染症のため、残念ながら、元旦礼拝を中止いたしました。
元旦は、教会の暦で言いますと、ただ一年の最初の日である、だけではありません。
元旦は、クリスマスを祝った12月25日から、八日目の日です。
ルカによる福音書2章には、こう書かれています。
「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」
元旦は、クリスマスにお生まれになった御子が、「イエス」と名付けられた日なのです。
つまり、主イエスの命名日なのです。
そのことを大切にしているある牧師は、元旦には、バッハが、新年のために作曲したカンタータ第190番、「主に向かいて新しき歌を歌え」を聴くことにしているそうです。そのカンタータは、こう歌っています。
「新しい年、私が最初に口にする言葉、それはイエスという御名。その御名は、いつまでも私の口に上り、その御名が口に上る時、笑いが生まれる」。
私たちは、元旦に「おめでとう」と言い合います。それが、新年に最初に口にする言葉です。
でも、このカンタータは、新しい年に、最初に口にする言葉。それは、イエスという名である、と言っているのです。
イエスという名は、「神はわが救い」、という意味の名前です。
お正月の「おめでとう」は、長くても、精々七日間くらいの、挨拶だと思います。
しかし、この歌は、イエスという名は、それから毎日、いつまでも口にする名であると歌っています。そして、それを口にしていると、いつでも笑いが生まれる、というのです。
涙が出そうになる時も、イエスの名を口にすると、喜びの微笑みが生まれるというのです。
私たちは、今、コロナウイルスのために自由を失われ、出口の見えない、暗いトンネルの中を歩んでいるように、感じています。
でも、与えられた2021年は丑年です。新しい年を迎えたこの時、私たちのために、すべてを献げ尽くして下さった、主イエスを想い起し、その恵みの中に、いつも立ち続けていたいと思います。
そして、朝起きたら、先ずイエスという名を、口にする日々を送っていきたいと思います。
暗い闇のような現実にあっても、私たち愛してくださり、私たちの贖いとなってくださった、主イエスの名を口にしつつ、微笑みを絶やさずに,歩んで行きたいと思います。
さて、先程読んでいただきました。ルカによる福音書2章36節~38節に、アンナという女預言者が出てきます。
この人は、主イエスが誕生されてから40日目に、マリアとヨセフが、初めて与えられた男の子を、神様にささげるために、エルサレム神殿に詣でた時に、出会った女性です。
アンナという名前は、今日でも、欧米の方々の中に、よくある女性の名前です。
元々は、旧約聖書に出てくる、ハンナという名前に由来しています。
預言者サムエルの母も、ハンナという名前でした。
ヘブライ語のハンナという名前を、ギリシア語に読み替えたのが、アンナです。
このハンナ、或いはアンナという名前は、「恵みを受けた女性」という意味だそうです。
日本人であれば、恵さんとか、恵子さん
と同じ意味を持つ名前です。
この人は、預言者であった、と書かれています。神様の言葉を、語り伝えるために、霊的な力を与えられ、預言者としての務めに生きた女性でした。
しかし、この人の人生は、決して、華々しいものではありませんでした。
預言者として、多くの人々から、慕われ、尊敬されて、生きてきた訳ではありません。
むしろ、人々から同情されるような、苦労の多い人生を歩んできたのです。
彼女は、若いとき、嫁いでから7年間、夫と共に暮らしましたが、夫に死に別れ、幼な子主イエスと出会った時には、既に84歳になっていました。
当時の習慣から言えば、彼女は、15歳位で結婚したと思われます。
そうしますと、7年後、つまり22歳位の時に、夫と死に別れ、その後、84歳まで、60年以上も、一人で生きてきたことになります。
当時、経済的な支えの無いやもめが、一人で生きていくことは、極めて厳しい時代でした。
アンナは、有名な預言者ではありませんでした。無名のやもめでした。

神殿の片隅に、ひっそりとして暮らし、ただ祈り続けるだけの、信仰の人でした。言わば、世間からは、忘れられた存在であったのです。
でも、彼女は、イスラエルの民が、主に顧みられることを、ひたすらに祈り求めていました。
誰も気づかないところで、一人静かに、しかし熱心に、祈り続けていたのです。
昔も今も、教会に必要なのは、このような陰の祈り手です。年老いて、大きな働きはできなくても、隠れたところで、ひたすらに祈り続けてくださっている、祈りの勇者。
教会は、そのような祈り手によって、支えられているのです。
アンナは、「神殿を離れず、断食したり、祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」、と書かれています。「神殿を離れず」。これが大切です。
夫に死に別れ、一人になって60年以上。その間、神殿から離れることがなかったのです。
この教会にも、様々な人生の荒波に、見舞われながらも、教会から離れずに、信仰を守って来られた、先輩方がおられます。
どんな時も、教会から離れず、ひたすら祈って来られた方々がおられます。
それらの方々によって、この教会は支えられ、守られてきたのです。
そのことを、忘れないようにしたいと思います。
今朝の御言葉で、特に心惹かれるのは、アンナが、幼な子主イエスに出会い、このお方こそが、待ち望んだ救い主であると示された時、そのことを、直ちに皆に伝えたということです。
自分は、待ち望んでいた救い主に、とうとう出会うことができた。
この喜びを、一人だけのものとせず、エルサレムの人たちに、広く伝えたのです。
自分だけ満足すればよい、と思ったのではなく、喜びを分かち合ったのです。
アンナは、教会の長い歴史における、最初の伝道者となりました。
これは、私たちに大切なことを、教えてくれます。教会がこの世に存続するためには、信仰が受け継がれて、いかなければなりません。
アンナは、既に84歳でした。でも、その彼女が、エルサレム中の、救いを待ち望んでいるすべての人々に、主イエスのことを、語り伝えたのです。
この喜びを、伝えずにはいられない、という思いで、語り伝えたのです。
私たちも、このアンナの信仰に倣って、救いの喜びを伝えていきたいと思います。
信仰を継承していくことによってのみ、教会は生き続けることができるのです。
アンナのような、祈りと信仰に生きる人を失ったとき、教会の命は、途絶えてしまいます。
この時、アンナは幼な子主イエスと、ヨセフとマリアに、初めて出会いました。
ところが、初めて会った、幼な子主イエスのことを、アンナは、いきなり語り始めるのです。
この幼な子のことは、何も知らなかったのです。
どこで生まれたのか。どういう事情で生まれたのか。マリアとヨセフとは、どういう人たちなのか。何も知らないのです。
もし私たちが、何も知らない赤ちゃんに初めて会ったなら、どんな言葉を掛けるでしょうか。
「かわいい子ですね」とか、「目元がお父さんにそっくりですね」とか、「元気に育ちますように」とか。そんな、ありきたりの言葉を掛けると思います。
ところがアンナは、この幼な子こそが、待ち望んでいた救い主だと、語り始めたのです。
どうしてそんなことを言うことができたのでしょうか。一体アンナに何が起きたのでしょうか。
その問いを解く鍵が、今朝、皆さまに、受付でお配りしたカードの絵に、示されています。
この絵は、オランダの画家レンブラントが書いた、「女預言者アンナ」という絵です。
この絵の中のアンナの姿を見てください。アンナは、弱った眼を励ましながら、一生懸命に聖書を読んでいます。
レンブラントは、「光の画家」とか、「光の魔術師」と言われているように、光の描き方が、実に上手です。では、この絵では、光はどこから発しているでしょうか。
恐らく、アンナの背中の方から来ていると思われます。でも、その光を受けた聖書の方が、より輝いて描かれています。
光は、あたかも聖書そのものから、発しているように描かれています。
そして、その光が、アンナの顔を照らしています。
アンナの顔は、聖書の御言葉から発する光で、照らされて輝いています。
アンナが、どれほど聖書を大切にし、御言葉によって生かされていたかが、この絵から分かります。
詩編119編130節の御言葉はこう言っています。
「御言葉が開かれると光が射し出て、無知な者にも理解を与えます。」 
まさに、アンナにとっては、この御言葉は、真実であったのです。
アンナは、御言葉の光に、心を射されて、主イエスのことを、理解することができたのです。
そして預言者に相応しく、初めて会った幼な子主イエスのことを、語ることができたのです。
この時、エルサレム神殿には、大勢の人たちがいたと思います。
でもその中で、幼な子主イエスのことを理解して、語ることができたのは、御言葉に照らされて生きていた、アンナだけでした。
私たちは、過ぎ去った2020年に、様々な出来事を経験して来ました。そして、その経験を通して、様々な思いをも、味わってきました。
それらの思いを抱えながら、私たちは、毎週、教会にやって来ます。
大切なのは、その教会において、聖書を開き、御言葉が発する光を受けながら、自分の人生に起こった出来事を、受け止めていくということです。
自分の人生に起こった、出来事の意味を、御言葉の光に照らされて、探っていくのです。
私たちは、皆、様々な悩みを持っています。また、これからの人生の行く末についても、色々と思い悩みます。
しかし、私たちは、その答を、他のものではなく、いつも聖書の御言葉に、見出していきたいと思います。
聖書を開くと、御言葉が輝いて私たちの顔を照らし、私たちの歩むべき道を示してくれます。
同じ詩編119編にあるように、御言葉が、道の光となり、足元を照らす灯となるのです。
アンナを照らした御言葉の光は、私たちをも照らし、私たちの歩むべき道の光となります。
新しく与えられたこの2021年。どんなことが、私たちを待ち受けているか分かりません。
しかしどんな時も、アンナのように、御言葉の光に照らされて、歩んでいきたいと思います。 
日々、御言葉の光に照らされて、輝いて生きる。
これを、新しい年の目標として、歩んでいきたいと思います。
そして、与えられた光を反射して、周りの人たちをも、照らしていきたいと思います。
預言者イザヤはこう言っています。
「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。」
この御言葉のように、私たちを照らす、希望の光を見つめつつ、喜びをもって立ち上がり、主の栄光の光を、放っていく者となりたいと思います。