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過去の礼拝説教

「新会堂に相応しいぶどう酒とは」

2021年01月10日 聖書:

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」。
この言葉は、世間一般でも、よく引用される言葉です。多くの人は、この言葉が、聖書に記された、イエス・キリストの言葉だとは知らずに用いています。
新しい時代や、新しい環境に対しては、それに相応しい対応がなされるべきだ、というような、一般的な意味に捉えて使っています。
しかし、この御言葉は、そのような一般的なことを語っているのではありません。
では、この御言葉は、私たちに、何を教えているのでしょうか。
今朝は、そのことを、ご一緒に探っていきたいと思います。
主イエスが、この御言葉を語られた発端は、断食についての質問でした。
バプテスマのヨハネの弟子たちが、主イエスの所に来て、こう質問したのです。
「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食をするのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
この質問は、この前の箇所の、徴税人マタイの召命記事と結び付いています。
徴税人マタイは、主イエスの招きに応じて、何もかも捨てて、主イエスに従いました。
その後で、主イエスは、徴税人や罪人たちと共に、食事をされました。
それは、本当に喜びに満ちた食事でした。そこには、今までにはなかった、活き活きとした、新しい喜びがありました。
今朝の御言葉は、この出来事の続きとして書かれています。
14節は、「そのころ」と書き出していますが、「そのとき」と訳している翻訳もあります。
文脈からは、「そのとき」と訳した方が、適切ではないかと思われます。
主イエスが、徴税人や罪びとたちと、楽しく食事をしておられた。
その時、それを見たヨハネの弟子たちが、主イエスに質問した。そう捉える方が自然です。
私たちは断食をしているのに、あなた方は、徴税人や罪人たちと、吞気に食事をしている。
そんなことで、本当に神様に従っていると言えるのか。彼らはそう問い掛けたのです。
当時、断食は、大切な宗教行為でした。主イエスの時代には、ファリサイ派の人々や、ヨハネの弟子たちは、週に2度、月曜日と木曜日に断食をしていた、と伝えられています。
では、断食とは、そもそも、どのような意味を持っていたのでしょうか。
断食は、罪の悔い改めと、深く結びついています。
自分の罪を嘆き、悲しみ、それを懺悔し、悔い改めを誓う。
そのことを、食事を断つという、禁欲的な行為によって表したのです。
そうであるなら、神様だけを見て、一人静かに、悔い改めをすれば良いのです。
それなのに、他人のことが、気になって仕方がないのです。
自分たちは、こんなに熱心に、断食しているのに、なぜ、あなたたちは断食しないのか。
ヨハネの弟子たちは、主イエスに、そのように問いただしたのです。
それに対して、主イエスは、言われました。
「もう、あなた方は、悲しまなくても良いのだ。もう、断食の必要はない。
なぜなら、神の国は、私が来たことによって、もう始まっているからだ。
喜びの日が既に来ている。今がその時なのだ。神である私が、今まさに、ここに来ている。
花婿を囲んで祝う、婚礼の祝宴のような喜びの時を、あなた方は、今、味わっているのだ。
婚礼の喜びの祝宴で、招いた客に、断食させることができるだろうか」。
主イエスは、そう言われたのです。
主イエスは、ご自身を「花婿」、弟子たちのことを「婚礼の客」、と言っておられます。
花婿と、お祝いに集まった婚礼の客が、喜びを分かち合っている。
その宴席で、断食をすることは、相応しいのだろうか。
それは、結婚披露宴に招かれていながら、出された食事に一切手を付けずに、ただ陰気な顔をして、座っているようなものではないか。
それでは、せっかく招いてくれた花婿に対して、大変失礼なことになってしまう。
ここにいる私の弟子たちは、花婿と一緒にいる婚礼の客なのだ。だから、断食は相応しくないのだ。主イエスは、そのように言われたのです。
ここに私がいるのに、なぜまだ、神がおられないかのごとくに、悲しむのか。
ここに私がいるのに、なぜ神が生きておられないかのように、暗い顔をするのか。
あなた方の罪を赦すために、この私が来たのに、なぜ、まだ断食しなければ救われない、と思い込んでいるのか。
私は、あなた方の罪を赦すために、天の父の許を離れて、人となってこの世に来たのだ。
この私の愛に目を留めなさい。この私の愛を受け入れ、喜ぶ者となりなさい。
主イエスは、そう言われているのです。
ですから、悲しみの断食ではなく、喜びこそが、主イエスと共に歩む者にとっては、相応しい生き方なのです。そして、それが、神様の御心なのです。
聖書には、「喜ぶ」とか、「楽しむ」という言葉が、800回も出てくるそうです。
神様は、私たちが、喜び、楽しむことを、求めておられます。
主イエスを信じて生きることは、婚礼の祝宴に連なるような、喜びに生きることなのです。
そしてその喜びは、広がっていくのです。喜びが喜びを生み。喜びが喜びをもたらすのです。
それが、聖書が目指している世界なのです。
ですから教会は、喜ぶ人たちの、共同体でなければならないのです。
皆さん、想い起してください。皆さんが洗礼を受けた時、新しい世界が開かれたように、感じられたことはなかったでしょうか。
そして、言葉に言い表せないような、嬉しさが込み上げてきたことは、なかったでしょうか。
なぜか分からないけれど、嬉しくて、嬉しくてたまらなかった。
そんな経験をされたのではないでしょうか。それが、主イエスと共に歩む喜びなのです。
私の高校時代の聖書科の教師、橋本ナホ先生は、口癖のように、こう言われていました。
「私は、第一子を死産、続いて第二子を、生後5ヶ月で失いました。
その後間もなく、結婚生活9年足らずで、夫を天に送りました。
しかし、子供を亡くし、主人を亡くした時に、初めて神様の愛が分かったのです。
だから嬉しくてたまらなかった。主人の葬儀の時も、神様の愛に迫られて、嬉しくて、思わず笑顔になってしまった。そのため、多くの人から誤解されてしまいました。
でも、それ程、嬉しかったのです。」
主イエスの愛を知った時には、このような喜びが伴うのです。
しかし、主イエスは続けて言われました。「しかし、花婿が奪い取られる時には、断食をすることになる」。これは、主イエスが、十字架につけられる時のことを、言っています。
なぜ、主イエスは、十字架にかかって、死なれたのでしょうか。
それは、私たちの罪を贖うためです。私たちの罪が、主イエスを、十字架の死に追いやったのです。ですから、それは、悲しむべきことなのです。
ですから、その後、教会では、主イエスが十字架にかかられた、金曜日に断食をしました。
しかし、主イエスは、死の中から、復活してくださいました。それが、日曜日の出来事です。
ですから、日曜日は、主の復活を祝う、喜びの日です。
今でも私たちは、毎週日曜日に、主の食卓を囲み、祝うのです。今、ささげているこの礼拝は、聖餐卓という主の食卓を囲んでの、喜びの時なのです。
そこでは、命の糧である、主の御言葉が、ご馳走として、私たちに、振舞われます。
私たちは、それを感謝していただくのです。それによって、養われるのです。
花婿である主イエスが、共にいてくださる。その喜びを祝う場所。それが、礼拝なのです。
たとえ、ライブ配信のみとなっても、そのことは変わりません。
主イエスは、この喜びは、全く新しい喜びなのだ、と言われました。
どんな古いものを持って来ても、この新しい喜びに、くっつけることが出来ないほどの、新しさなのだ、と主イエスは言われたのです。
それを主イエスは、新しい布切れと古い服、新しいぶどう酒と古い革袋に、譬えられました。新しい布切れは、弾力性に富んでいるので、雨に濡れた時には縮んでしまって、古い服を引き裂いてしまいます。
また、新しいぶどう酒は、尚も発酵していて、ガスを発生します。革が新しければ、弾力があって、その圧力に耐えられますが、古い革は、その圧力に負けて、破裂してしまうのです。
新しいものが、本当に生きるためには、それを古いものにくっつけるのではなくて、新しい枠組み、新しい器が必要なのです。
私たちは教会生活においても、古さにこだわる、ということがあります。
教会生活においても、様々な習慣ができてきます。そして、それが、固定化されていきます。
そうなりますと、なかなか、それを変えようとしなくなります。
それが変わると、自分の信仰まで、ぐらつくかのように、思ってしまうのです。
これは、私たちが、古いものに、必要以上にこだわってしまうからです。
しかし、人間の世界にあるものは、すべて、時代と共に、変化していきます。
私たちが、若かった時は、私たちのやり方や、私たちの考えは、新しいとされていました。
ですから、それを、教会に導入しようとすると、お年寄りが、眉をひそめ、反対されたりしました。しかし、今、かつての新しさは、古くなってしまっています。
そして今は、私たちが、新しいものに、眉をひそめて反対する、ということはないでしょうか。
例えば、賛美なども、新しい賛美を取り入れようとすると、十分に聞くこともせずに、先入観だけで反対する、と言うようなことはないでしょうか。
そこで問題となるのは、主イエスが仰っている、新しさとは、一体何かということです。
ここでの、「新しい布切れ」、「新しいぶどう酒」とは、何なのでしょうか。
それは、主イエスご自身です。或いは、主イエスが、もたらしてくださった喜びです。
これは、時代を超えて、常に新しいのです。
旧約聖書の哀歌3章22節、23節はこう言っています。
「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。」
決して絶えることのない主の慈しみ、決して尽きることのない主の憐れみ。
それは、朝ごとに新たになる、というのです。
どんなに時代が移り変わっても、主が与えてくださる喜びは、日々新たになるのです。
問われているのは、私たちが、この新しさを受け容れる、入れ物になっているかどうかです。
日々新たになる、主イエスの恵みを入れる入れ物も、日々新しくされていかなくては、ならないのです。
柔らかな入れ物になって、主イエスご自身を、私たちの中に、いつも迎え入れることが、できるようになっていなければ、いけないのです。
今、コロナ禍によって、教会活動は大きな制約を受けています。
しかし、この時にも、主の恵みは、日々新たに与えられています。
問題は、私たちが、その恵みに気づき、それを受け入れる、新しい革袋となっているかです。
この試練の時、そのことを、今一度、想い起こしたいと思います。
さて、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」、という御言葉で、注目すべき点があります。
それは、「新しいぶどう酒」という言葉にある「新しい」と、「新しい革袋」という言葉にある「新しい」という言葉は、日本語では同じですが、ギリシア語の原語では違うということです。
「新しいぶどう酒」の「新しい」は、ネオスという言葉で、これは、英語のNewに当たる言葉です。この言葉は、時間的に新しい、という意味の言葉です。
この新しさは、時間の経過と共に、古くなっていきます。少し前まで、新しいとされていたものが、今や、古いものになっている。そういうことはよくあります。
一方の、「新しい革袋」の「新しい」は、カイノスという言葉で、これは、英語ではFreshに当たる言葉です。新鮮で、今までになかった、新しさを意味する言葉です。
時間的な新しさではなくて、質的な新しさ、内面的な新しさを、意味する言葉です。
時間的な新しさは確かに魅力的です。でも時が経てば、どんなものも、やがて古くなります。
質的、内面的な新しさによって支えられてこそ、時間的新しさは意味を持つのです。
コリントの信徒への手紙Ⅱ、4章16節はこう言っています。
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」
この御言葉の通り、外なるものは、時間の経過と共に、衰えていきます。
しかし、私たちの、内なる信仰は、年をとっても、日々新たにされていくことができるのです。
ですから、私たちは、落胆することはないのです。
私の愛唱讃美歌の一つ、讃美歌第一編の526番はこう歌っています。
「主よ、わが主よ、愛の主よ、主は我が身の救い主。かくまで主を愛するは、今日はじめのここちして」。
かくまで主を愛するは、今日はじめのここちして。これが、内なる信仰が、いつもフレッシュである、ということです。
日々、主の愛を、新鮮な思いで捉え直し、こんなに主を愛するのは、今日がはじめてだという、フレッシュな思いに、日々生きていく。それが、新しいぶどう酒の生き方なのです。
昨年、私たちは、主の大いなる恵みによって、素晴らしい新会堂を与えられました。
本当に感謝なことです。しかし、この新会堂も、時間と共に、やがて古くなっていきます。
ですから、教会にとって大切なことは、会堂が新しいことではありません。
その会堂の中で、養われている信仰が、いつもフレッシュであること。
会堂の中での教会の活動が、質的、内面的な新しさに満ちて、活き活きとしていることです。
この会堂という革袋におさめられた、私たちの信仰が、いつも、新鮮な感謝と喜びに満ちていることです。
新しい革袋を与えて下さった主は、私たちの信仰が、いつもフレッシュで、喜びに満ちていることを、願っておられます。それが、新会堂を与えて下さった主の御心なのです。
この主の御心に適った茅ヶ崎恵泉教会を、共に造り上げてまいりたいと、心から願います。