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過去の礼拝説教

「狼の中の羊として生きるために」

2021年02月07日 聖書:マタイによる福音書 10:16~25

主イエスは、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている人々をご覧になられて、深く憐れまれました。
そこで、12人の弟子を立てられて、町や村に遣わされました。福音を宣べ伝え、愛の業を行うためです。遣わされるに当たって、主イエスは、こう言われました。
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」
弟子たちを遣わすのは、狼の群れに、羊を送り込むようなものだ、と言われたのです。
狂暴な狼が群れをなしている。そのど真ん中に、弱い無力な羊を送り込むようなものだ、と言われたのです。そんなことをすれば、羊はひとたまりもありません。
これが、弟子たちに対する、主イエスのはなむけの言葉でした。一体この言葉は、どういう意味なのでしょうか。
日本にも、この言葉を、はなむけとして送った人がいます。
無教会派のクリスチャンで、東京大学の総長だった、矢内原忠雄先生です。
矢内原先生は、ある年の、東大の卒業式で、こんな告示を語られました。「諸君を社会に送り出すのは、ある意味において、狼の群れの中に、羊を送り込むような感じがする」。
矢内原先生は、主イエスが弟子たちに語られた言葉を、東大の卒業生に贈ったのです。
翌日の新聞各紙は、「実社会で働く我々を、狼呼ばわりするとは何事か」、と一斉に批判の言葉を掲載しました。
しかし、実は、矢内原先生は、その後で、こう語られていたのです。
「便宜主義的なこの世の風潮によって、諸君の理想が食われてしまうことなく、真理のために、勇敢に闘う精神を持って、社会に出て行ってもらいたい。立身出世や自分の幸福のことばかり考えずに、助けを求めている人々のところに行って頂きたい」。
そして最後は、「畑は広く、働き人は少ない」、という聖書の言葉で結んでいたのです。
矢内原先生は、世の中の人は、皆、狼のように悪い人たちばかりだから、卒業生の行く末が心配だ、と言ったのではありません。
そうではなくて、この世は、利益追求主義、効率優先主義で、何事も進められている。
だから、卒業生が今持っている、理想や信念を実現することは、とても難しい。
それらは、社会の荒波の中に、埋もれてしまう。君たちは、そんな気になるかもしれない。
しかし、たとえそうであっても、どうか、今持っている理想や信念を、失ってしまうことのないように。心の奥底に、それを持ち続けていって欲しい。
そして、自分のことだけでなく、隣人のことを考える、心の余裕を失わないで欲しい。
矢内原先生は、そう言われたのです。
狼というのは、この世の便宜主義や、利益追求主義のことであったのです。
そして羊とは、卒業生が、今抱いている、理想や信念のことを、指していたのです。
では、主イエスは、どのような思いで、この御言葉を、弟子たちに語られたのでしょうか。
これから、弟子たちが向かう宣教の現場。そこでは、何が待っているでしょうか。
そこで弟子たちを待っているもの。それは、人々の無理解や反感、或いは、敵意です。
そんな中に、弟子たちは、全くの無防備で、遣わされていくのです。
身を守るものは、何も持たず、ただ主イエスの御言葉だけを携えて、出ていくのです。
この世の力に対して、力で対抗するのではなく、御言葉をもって、応えていくのです。
これが、狼の中に遣わされる、羊の姿なのです。この世における、キリスト者の姿なのです。
そうであるなら、狼の中に、キリスト者を遣わされるのに、弱い羊などではなく、もっと強い狼にしてくれれば、良かったのではないか、と思ってしまいます。
世の常識では、狼に勝つには、自分が一番強い狼になるのが、最善の策だからです。
しかし、私たちキリスト者は、そして教会は、この世にあって、どこまでも羊なのです。
なぜでしょうか。それは、主イエスご自身が、羊であったからです。
主イエスは、狼を滅ぼす、より強い獣として、この世に来られたのではありませんでした。
屠り場に引かれる、小羊のようなお方。毛を刈る者の前に黙だす、羊のようなお方として、来られたのです。そして、流されたその小羊の血によって、私たちは救われたのです。
もし教会が、最も強い狼として、この世に遣わされたならば、もっと早く、宣教の業は、進められていたことでしょう。しかし、主イエスが歩まれた道は、そうではありませんでした。
狼が狼を食い合っているような世界には、救いはないからです。
主イエスは、羊の道を選ばれました。そして私たちも、羊として狼の中に遣わされています。
すべての者が、狼としての生き方を止め、羊にならなければ、世界にまことの平和は訪れません。
12人の弟子たちが、この時の派遣で、ここで語られているように、最高法院や、総督や、王の前に、引き出されたわけではありません。
しかし、その後、復活の主イエスの宣教命令に従って、教会が力強く伝道に踏出した時、本当に、ここにある通りのことが起こったのです。
12弟子の多くが、殉教の死を遂げたと伝えられています。
また激しい迫害によって、親子や、兄弟同士が、仲たがいをするようなことが起きたのです。
主イエスは、そのことを、よくご存知だったのです。
ですから、その時に備えて、励ましと、慰めの言葉を、予め思いを込めて語られたのです。
今日、私たちは、ここで語られているような、厳しい迫害の中にはおかれていません。
しかし、この世にあって、主の御言葉を、真正面から受け止め、主の御言葉に、忠実に従っていこうとする時、羊のように無力な存在である、私たちの姿を知らされます。
なぜ、あなたは、毎週、教会に行くのか。教会に行って、何の得があるのか。
世間の人が、要領よく立ち回っているのに、なぜ馬鹿正直に、聖書の言葉を守って、損な生き方を選んでいるのか。なぜ、そこまでして教会に仕えるのか。
そのように問われる時に、皆さんも、説得力のある返答が出来ずに、自分はなぜこんなに無力なのだろう、と嘆いた経験を、お持ちではないでしょうか。
だからこそ、私たちは、主イエスの、励ましと慰めの御言葉を、聞くことが必要なのです。
特に、ここで忘れてはならない言葉は、18節の「わたしのために」という言葉です。
また、22節の「わたしの名のために」という言葉も、同じです。
この「わたしのために」という言葉は、もっと正確に言うと、「わたしのせいで」ということです。
「主イエスのせいで」、なのです。「自分自身のせい」ではないのです。
主イエスのせいで、辱めや苦しみを受ける。では、一体何をすると、そうなるのでしょうか。
どんな時に、主イエスのせいで、辱めや苦しみを受けるのでしょうか。
それは、18節にあるように、「彼らや異邦人に証しをする」時です。
人々に主イエスを証し、人々を主イエスの許に、導こうとする時に、辱めや苦しみを受けるのです。
その時に大切なことは、「蛇のように賢く、鳩のように素直になる」ことである、と主イエスは言われました。
狼の群れの中に、無防備で飛び込んでいく時に、これが戦う術なのだと、言われたのです。
聖書の中では、蛇は、悪の代名詞のように言われています。主イエスは、その蛇のように賢くなれ、と言われました。蛇のようになってはいけない、と言われたのではありません。これは、どういう意味でしょうか。
主イエスは、この言葉を、今、まさに、伝道に出ていこうとする、弟子たちに語られました。
では、伝道とは、何でしょうか。伝道とは、人々を捕らえて、主イエスの許に、導くことです。
その時に、蛇のように賢くなれ、と言われたのです。
蛇、と聞きますと、直ぐに思い起こすのは、創世記3章において、エバを誘惑して、神様との約束を破らせてしまった、あの蛇の姿です。
あの時、蛇は実に狡猾でした。エバの心に、いつの間にか忍び込んで、エバの心を巧みに掴んでしまいました。
蛇は、エバの心を掴むために、実に賢く振舞いました。どうしたら、エバの心を掴むことができるか。そのことに、様々な工夫を凝らしたのです。
主イエスが言っておられる賢さとは、このことだと思います。
なかなか心を開いてくれない人々。それどころか、狼のように、攻撃してくる人々に対して、その人の心を掴み、その人を主イエスの許に導くには、どうしたらよいか。
それには、蛇のように巧みに人の心を掴む賢さが必要だ、と言っておられるのだと思います。
そのことを実践した弟子がいます。使徒パウロです。
パウロは、第一コリント9章で、このようなことを言っています。
私は、ユダヤ人を得るために、ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。
律法を持たない人を得るために、律法を持たない人のようになりました。
弱い人を得るために、弱い人のようになりました。すべての人に対して、すべての者になりました。何とかして、何人かでも救うためです。
福音のためなら、私はどんなことでもします。
ここに、一人の人を得るために、賢く振舞った伝道者の姿があります。
パウロは、伝道する相手の姿に、自分を合わせていったのです。その人を救うためです。
人の心を掴んで、主イエスの許に導くために、蛇のような賢さを用いたのです。
また、蛇のように賢く、という言葉は、「一つの町で迫害されたら、他の町へ逃げなさい」、という御言葉とも、つながっています。時には、逃げることも、賢い選択なのです。
キリスト者は、殉教の死に憧れる、という傾向を持っています。特に日本人は、戦って玉砕することを、美徳と捉えるきらいがあります。
迫害に遭ったら、もろにぶつかって、玉砕するということを、いかにもキリスト者らしい、と捉える傾向があります。
しかし、主イエスは、迫害によって、命の危険が迫ったら、賢く逃げなさい、と言われました。
また、ご自身も、ファリサイ派の人たちや、律法学者たちの、悪意による罠を、非常に上手に逃げておられます。これが、蛇の賢さではないかと思います。
まだ、その時ではない時には、無駄な衝突は避けて、宣教の御業を進められました。
もし全ての人が、殉教してしまったら、キリスト教はそこで終わってしまいます。
ですから、福音を宣べ伝えるために、逃げることも、時には必要なのです。
しかし、ここぞ、という時には、逃げてはいけないのです。
主イエスも、いよいよ十字架を、引き受けなくてはいけない時には、敢然として、見事に引き受けられました。
そのように、時を見分けることも、蛇の賢さである、ということができます。
江戸時代末期に、キリシタンが、激しい迫害を受けた時、踏み絵を踏まされました。
その時、キリシタンの親たちは、朝、子供たちに風呂に入らせて、身を清めさせました。
そして、新しい足袋と、新しいわらじを履かせて送り出しました。そして、踏み絵の顔の部分を避けて踏むように、と教えたそうです。
これも、蛇の賢さであると言えます。
そのように迫害の中でも、蛇のように賢く生き延びたから、信仰が伝えられていったのです。
かつて国際基督教大学(ICU)にて、長く教えられた古屋安雄先生は、ある時、卒業して商社に勤めている教え子から、「キリスト者と商社員とは両立しますか」、と聞かれたそうです。
古屋先生は、少し考えてから、こう答えられたそうです。
「あなたは、職場における、キリストの工作員となりなさい。工作員は、目立つ必要はない。秘かにキリストを証しなさい。そして、こっそりと、愛の爆弾を仕掛けていきなさい。」
ことさらに目立つ必要はない。しかし機会ある毎に、秘かにキリストを証しする。そして、こっそりと、愛の爆弾を仕掛ける。
これも、実社会における、蛇の賢さであると思います。
主イエスは、また、鳩のように素直であれ、と言われました。
これは、蛇のように賢くあれ、という言葉に比べれば、分かり易く、受け入れ易い言葉です。
でも、鳩のように素直であるとは、どういう意味なのでしょうか。
聖書では、聖霊を鳩になぞらえています。鳩は聖霊のシンボルです。
また、ここにある「素直に」という言葉は、「純粋に」とか「一筋に」と言う意味の言葉です。
そうであれば、この御言葉は、聖霊の導きに従って、純粋に、一筋に生きることを、勧めている、と捉えることができます。
そして更に、これは、20節の御言葉につながります。「言うべきことは、教えられる。実は、話すのはあなた方ではなく、あなた方の中で、語ってくださる、父の霊である。」
神様の霊、聖霊が、私たちの内に働いて下さり、言うべきことを教えて下さる。
その聖霊の語る言葉を、素直に、純粋に受け止めて語り伝えていきなさい、と主イエスは言われているのです。
鳩に譬えられている聖霊が、自分の内に働いて下さることを、純粋に求めていく素直さ。
聖霊の助けを、一筋に祈り求めていく素直さ。
それをもって、狼の群れの中に、伝道に出ていきなさい、と主イエスは言われたのです。
人を得るために、できることは何でもする賢さと、聖霊の助けを、一筋に祈り求める素直さ。
この二つが、狼の群れに遣わされる羊には必要ですよ、と言われたのです。
でも、それで、本当に大丈夫なのでしょうか。狼の中で、生きていけるのでしょうか。
大丈夫なのです。なぜなら、主イエスが、羊を守る羊飼いでいて下さるからです。
狼の中で、羊が生きていけるのは、実は、羊飼いがいて下さるからなのです。
私はいつもあなたと共にいる、とこの羊飼いは言われています。
そのことを信じて、共にいて下さる主イエスを見上げながら、蛇のような賢さと、鳩のような素直さをもって、それぞれの場へと、遣わされていきたいと思います。
そして、その時、狼もまた、主イエスの愛の中にある、ということを示され、豊かな恵みの世界を、歩んでいくことができるのです。