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過去の礼拝説教

「だから恐れるな」

2021年02月14日 聖書:マタイによる福音書10:26~33

皆さんは、神様のことを、ひと言で分かるように、説明してほしいと言われたら、何と言われるでしょうか。
聖書のいう神とは、どういうお方なのか、ひと言で分かるように、説明してくれませんか。
そのように質問されたら、どのように答えられるでしょうか。
聖書では、神様のことを、色々な言葉で呼んでいます。
天地の創り主。全知全能のお方。聖なる万軍の主。永遠なる父。慈しみと憐れみの主。
このように、聖書では、様々に呼ばれています。
英語の「God」の、元々の語源は、「語りかけられる存在」、という意味の言葉だそうです。
韓国では、神様のことを「ハナニム」と呼んでいます。「ただ一人のお方」という意味です。
これらの呼び方は、神様のご性質を様々な角度から表している、尊い呼び名です。
でも、呼び名だけでは、神様がどのようなお方なのか、具体的には分かりません。
神様を人格的に捉えようと思ったら、もう少し具体的に、知る必要があります。
今朝の御言葉は、「神様はどのようなお方なのか」という問いに、具体的に答えている箇所の一つであると思います。
30節の御言葉は、神様は、私たちの髪の毛まで、一本残らず数えて、知っておられるお方だと、言っています。
一体、人間の髪の毛は、何本くらいあるのでしょうか。
アメリカの百科事典には、平均的な成人の髪の毛は、14万本だと書いてあるそうです。
日本では、平均的な成人の髪の毛は、10万本だと言われています。理容学校では、個人差はあるけれども、7万本から15万本と教えているそうです。いずれにしても膨大な数です。
しかし、7万本から15万本もある、人間の髪の毛の一本一本を、神様は数えておられ、その1本すらも、神様のお許しがなければ、抜け落ちることはないというのです。
この箇所は、私としては、個人的には、少々複雑な思いに、駆られるところです。
神様は、私の髪の毛については、随分と気前良く、抜け落ちることを許されたものだな、と思ってしまうからです。
私にとっては、今や、残った髪の毛一本一本は、大変貴重なものに思えます。
しかし、どんなに一本一本を大切に思っていても、今日何本抜け、何本生えてきたか、などと言うことは把握できません。大切に思っていても、所詮はそんなものです。
しかし、神様は違います。すべてご存知だというのです。
さて先程、神様のことを、ひと言で説明するとしたら、何と言いますか、とお聞きしました。
それでは、人間とは何か、と聞かれたら、皆さんは、何と答えるでしょうか。
これにも、様々な答えがあると思います。
その答えの一つとして、「人間とは、他人のことはよく見えるけれども、自分のことは見えないもの」、ということができるのではないでしょうか。
人間は、自分のことは分かっているつもりでも、実は、全く分かっていないものなのです。
以前にもお話ししましたが、私たちが、「お前が悪い」、と言って他人を指さす時、親指は、自分の足元を指しています。そして、中指、薬指、小指の3本は、自分の胸を指しています。
あいつが悪い、と思っている時にも、実は、自分の方が悪いことが多いのです。
それ程、私たちは、自分のことが分かっていません。
それにもかかわらず、自分のことは、自分が一番よく分かっている、と私たちは言います。
親も分かってくれない。配偶者も分かってくれない。友達も分かってくれない。
やはり、自分のことは自分しか分からない。確かに、そう言える面もあるかも知れません。
しかし、その自分でも、自分の髪の毛の数を知らないのです。
自分のことは、知り尽くしているつもりでも、実は、ほとんど知らないのです。
そもそも、自分が生まれてくる日も、死ぬ日も、私たちは知りません。これからも、いつ、どこで、どうなるか、一寸先のことも全く分かりません。
私たちは手帳に、色々な予定を書き込みます。でも実は、その通りになるのか知りません。
一年後、どうなっているのか知らないのです。一年後どころか、明日のことも分かりません。
今、役員会では、来年度の予算や、行事予定を話し合っています。しかし、感染症が蔓延している今年は、特に、これからの予定を立てるのが、大変難しくなっています。
ヤコブの手紙4章15節の御言葉は、こう言っています。「あなたがたは、主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしようと言うべきです。」 
この御言葉の通りなのです。これからの予定も、すべて、主の御心であれば、このことをしよう、あのことをしよう、ということになるのです。
ですから、教会の行事予定表も、本来ならば、その冒頭に、「主の御心であれば、この計画で進めていきます」、という言葉を付記すべきなのだろうと思います。
私たちは、色々な予定や計画を立てますが、すべては主の御心であればなされるのです。
それなのに、私たちは、自分のことは、自分が一番よく知っている、と言います。
でも御言葉は言っています。あなたたちは、自分の髪の毛の数さえも知らないではないか。
しかし神様は、あなたのことを、あなたよりも、良く知っておられる。
神様は、あなたの髪の毛の数まで、一本残らず数えて、知っておられるのだ。
もし、このような人が身近にいると、皆さんは、どう思われるでしょうか。
親でも、配偶者でも知らない、私のすべてを知っている方がいる。私以上に、私のことを知っている人がいる。私の心の奥底まで、知り尽くしている方がいる。
そんな人がいることは、嬉しいよりも、恐ろしいと思うのではないでしょうか。
私の心の奥底まで、すべて知っている人がいたら、私たちは困ります。恐ろしくなります。
私などは、牧師として、ここに立っていられないと思います。
私が犯した、どんな小さな罪も知っている。どんな小さな罪をも見逃さない人がいる。
そんな人がいたら、恐ろしくて、とても生きていけないと思います。
でも神様とは、そういうお方だというのです。髪の毛の数さえ知っておられるお方。
私のすべてを知っておられるお方。それが神様だというのです。
そのような神様は、恐ろしい存在です。28節の御言葉は言っています。
「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
人間同士は、お互いによく知っている、と言っても、所詮は限度があります。
だから、怖くないのです。体を裁いても、魂を裁くことができない、というのはそのことです。
心の中でどんなに悪いことを考えていても、それを実行しなければ、法的には無罪なのです。
思ったり、考えたりしただけでは、罰せられることはないのです。
だから、そういう者どもを恐れるな、と主イエスは言われるのです。
しかし、心の奥底まで知っておられ、魂も体も地獄で滅ぼす力のある方が、一人おられる。
そのお方は、あなた方の、髪の毛の数まで、全部知っておられる、というのです。
魂までも裁いて、地獄で滅ぼす力のあるお方。このお方をこそ恐れなさい、と主イエスは言われたのです。では、私たちは、どうすれば良いのでしょうか。
ここで御言葉は、思いがけない言葉を語っています。「だから恐れるな」、というのです。
心の奥底まで、知っておられるお方を恐れなさい、と言った後で、「だから恐れるな」、と主イエスは言われたのです。これは矛盾しています。一体、どういうことでしょうか。
なぜ恐れなくていいのでしょうか。どんな小さな罪をも知っておられて、決して見逃さない神様は、恐ろしい筈です。その神様を、恐れるな、とはどういう意味でしょうか。
御言葉は、言っています。髪の毛一本までも数えて、知っておられる神様は、その髪の毛一本までも、心に掛けてくださるお方だからだ、というのです。
私たちのすべてを、知っておられるお方は、また同時に、私たちのすべてを、慈しんでくださるお方だからだ、というのです。
このお方は、私たちのことを知り尽くしておられる。私たちが、どれほど罪に汚れているか、どれほど自己中心的で、どれほど愛に欠けた者であるかを、全部知っておられる。
その上で、そんな私たちを愛してくださり、心に掛けてくださるお方なのだ。
だから、恐れるな、というのです。
ここに、雀が出てきます。雀というのは、一番安い犠牲の献げ物です。
2羽の雀は1アサリオンで売られている、と書かれています。
1アサリオンは、300円くらいです。ですから1羽は150円くらいです。
そんな雀さえ、「父のお許しがなければ、地に落ちることはない」、と書かれています。
そのような雀をも、神様は、心に掛けてくださり、守ってくださっている、というのです。
あなた方は、その雀よりも、はるかにまさった者なのだ。だから、神様が、あなた方のことを、心に掛けてくださらない筈はないのだ。御言葉は、そう言っているのです。
全てを知っておられる、恐るべき神様が、私たちのことを、心に掛けてくださっているのです。
滅ぼす力において、恐るべき神様は、その恵みの深さにおいても、恐るべきお方なのです。
どんな小さな罪さえ、見逃すことのない神様は、また、どんな大きな罪をも、赦してくださる神様だ、というのです。
義なる神様は、どんな小さな罪をも、見逃すことはない。しかし、愛なる神様は、どんな大きな罪をも赦してくださる。
では、神様は、お二人おられるのでしょうか。義の神様と、愛の神様が、それぞれ別におられるのでしょうか。そんなことはありません。神様は、唯一のお方です。
韓国で、神様のことを「ハナニム」、唯一のお方、と呼んでいる通りです。
そうすると、これは、矛盾しています。裁きを行う義なる神様と、赦してくださる愛なる神様とは、相容れない筈なのです。でも、どちらも、ただお一人の神様のご性質なのです。
どうして、そんなことがあり得るのでしょうか。
それが、あり得るのです。なぜなら、主イエスが、いて下さるからです。
主イエスは、どんなに小さな罪をも見逃さない、裁きを行う義なる神様のご性質と、どんなに大きな罪をも赦してくださる、愛の神様のご性質とを、繋ぎ合わせてくださったのです。
でも、どうやって、そんなことを成し遂げられたのでしょうか。
十字架において、私たちのすべての罪を、身代わりとなって負って下さり、私たちに代わって、呪いの死を引き受けて下さることによって、成し遂げてくださったのです。
第一次世界大戦の激戦地を描いた、一枚の絵があります。
その絵には、両手を広げて横たわって息絶えている、一人の通信兵の姿が描かれています。
この通信兵は、任務を果たすことができずに、あえなく戦死してしまったのでしょうか。
そうではありませんでした。広げられた左右の手は、それぞれ、切断された電線を、しっかりと握り締めています。彼は、自分の体でもって、切断された電線を繋いでいたのです。
自分の命を捨てて、通信線を繋いだ、この兵士の姿は、十字架の上で死なれて、裁きの神様と愛の神様とを、繋ぎ合わせた、主イエスの姿を象徴しています。
この絵には、英語で 「Through」 という題が付けられています。日本語の訳は「成し遂げられた」と書かれています。主イエスが、十字架の上で、最後に語られた御言葉です。
私たちは、本来、地獄において、体も魂も滅ぼされるべき者なのです。でも、私たちが受けるべき裁きを、主イエスが、代わって受けてくださり、十字架についてくださったのです。
ですから、私たちは、もう地獄には送られないで済むのです。
私たちの髪の毛一本に至るまで、知り尽くしておられる、恐るべき神様は、私たちの髪の毛一本に至るまで、愛してくださる神様なのです。
私たちを裁く神様が、私たちを愛してくださっている。この素晴らしい恵みを実現するため
に、主イエスは来てくださり、十字架についてくださったのです。何と感謝なことでしょうか。
その主イエスは、続けてこう言われました。
「誰でも人々の前で、自分を私の仲間であると言い表す者は、私も天の父の前で、その人を私の仲間であると言い表す。しかし、人々の前で、私を知らないと言う者は、私も天の父の前で、その人を知らないと言う。」
これは、何か、交換条件を出して、迫っているように聞こえます。
しかし、想い起してください。ペトロは、どんなことがあっても、主イエスのことを、知らないなどとは、決して言わないと豪語しました。
しかし、身の危険が迫った時、三度も主イエスのことを知らない、と言ってしまいました。
主イエスは、そんなペトロの弱さをよくご存じでした。そして、そのペトロを赦し、受け入れ、大きく用いられたのです。
主イエスの仲間になるのに、資格は問われません。立派な仲間である必要はないのです。
欠けだらけで、ペトロのように、失敗を繰り返すような者でも、「私は、主イエスの仲間です」、と言い表すなら、主イエスは、受け入れてくださり、仲間になってくださるのです。
この御言葉は、テモテへの手紙二の2章11節~13節の御言葉と、共に読まれるべき言葉です。そこでパウロは、当時の讃美歌の歌詞を引用して、こう言っています。
テモテへの手紙二の2章11節、新約聖書392ページです。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、/キリストと共に生きるようになる。  耐え忍ぶなら、/キリストと共に支配するようになる。  キリストを否むなら、/キリストもわたしたちを否まれる。  わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。  キリストは御自身を/否むことができないからである。」
ここにも、「キリストを否むなら、/キリストもわたしたちを否まれる」、と書かれています。
しかし、その後があります。「わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである」、と続いているのです。
私たちが、誠実でなくても、キリストは、常に真実でいてくださる。なぜなら、キリストは、ご自身を、否むことができないからだ、というのです。
キリストの本質は愛です。ですから、この御言葉は、「キリストは、ご自身の本質である愛を、否むことができない」、とも言い換えられます。
たとえ、私たちが誠実でなくても、仲間として相応しくなくても、主イエスは、常に真実をもって応えてくださり、愛をもって、私たちを受け入れてくださるのです。
この神様を信じ、この神様に委ねて、どこまでも従って行きたいと思います。