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過去の礼拝説教

「命に至る道」

2021年02月21日 聖書:マタイによる福音書 10:34~42

今朝の御言葉は、私たちに、少なからぬ戸惑いと痛みを、与える言葉ではないでしょうか。
また伝道していく時に、これをどう取り扱うか、最も苦労する御言葉の一つかもしれません。
御言葉は、主イエスがもたらす剣によって、家族との関係が分断される、と言っています。
また、自分の十字架を担って従わなければ、主に相応しくない、と語っています。
とても厳しい言葉に聞こえます。
明治の中頃に、内村鑑三の不敬事件が起きました。その事件と前後して、井上哲次郎という東大の教授をしていた哲学者が、激しいキリスト教攻撃を行いました。
その時、井上哲次郎は、このマタイによる福音書10章34節以下を取り上げて、これは五倫五常の道を乱すと言いました。
五倫五常とは、儒教の教えで、日本人が昔から大切にしてきた、基本的な道徳のことです。
その中には、親や年配者や目上の者を敬うという、伝統的な徳目が含まれています。
井上哲次郎は、今朝の御言葉を、その五倫五常の道に、真正面から衝突する言葉であるとして、キリスト教攻撃のターゲットにしたのです。
確かに、この箇所には、私たちを驚かせるような、意外なことが書かれています。
私たちは、主イエスのことを、平和をもたらすお方として、捉えています。
主イエスは、「柔和なお方、平和の主」として、来られたのではなかったのか。
それなのに、私たちの家庭に、剣が投げ込まれるとは、一体どういうことなのか。
主イエスが投げ込まれる剣とは、一体どのような剣なのか。様々な疑問が浮かんできます。
ある人は、このように説明しています。
主イエスが投げ込まれた剣。その剣は、一体どこに向いていたのか。
それは、主イエスご自身に、向けられていたのである。主イエスは、この剣で、人を殺してはおられない。肉体的にも、魂においても、殺してはおられない。
それどころか、主イエスご自身が、人々の振りかざす、その剣によって死なれたのだ。
主イエスが来られたことによって、人々の中にあった罪の剣が、その正体を現して、その剣によって、主イエスご自身が、刺し貫かれ、肉を割かれ、血を流されたのだ。
そうすることによって、主イエスは、その剣が、人々に向けられるのを、止められたのだ。
主イエスが、私たちの罪の只中に立ってくださり、罪の剣を、その身に引き受けて下さった。
その主イエスが、「自分の十字架を担って、私に従いなさい」、と語られている、というのです。
主イエスを刺し貫き、主イエスの肉を割いた剣が、十字架の上で向きを変えて、今度は、大いなる恵みの剣として、大いなる愛の剣として、私たちに向けられるのです。
ですから、この剣は、計り知れない恵みとして、迫って来るのです。
この恵みの迫りを受けた者には、二つの道の、どちらかの選択しか許されません。
その恵みを受け入れて、主イエスに従うか、拒否して従わないか、のどちらかです。
中間はあり得ません。ですから、家庭においても、主イエスに従う者と、そうでない者とに、はっきりと分かれてしまうのです。
その時に、主イエスを受け入れない肉親に気兼ねして、主イエスに従うことを止めてしまうなら、その人は、主イエスのまことの弟子ではあり得ない、というのです。
主イエスを信頼し、主イエスを愛するということは、十字架と復活の出来事を、何物にもまさる確かな恵みとして、受け入れていくということです。
自分の両親への愛にまさって、自分の子供への愛にまさって、自分が汗して得た財産にまさって、この主の救いの事実に、信頼し切るということなのです。
夫や妻に気兼ねして、信仰に入ろうとしない。実は、これは、まことの愛ではないのです。
まことの愛とは、主イエスの恵みを伝えて、愛する人を、恵みの世界へと導くことなのです。
愛する人を、決して絶望することのない、希望の光の中へと、導くことなのです。
最も大事なもの、最も尊いものを、その人に与える。これほど、真実の愛はありません。
そのためには、まず自分が、恵みに満たされることが必要です。まず自分が、まことの愛を知ることが必要です。主イエスの愛の剣に、まず自分が刺し貫かれるのです。
夫や妻を本当に愛するなら、その恵みの世界、愛の世界に、まず自分が浸り切るのです。
主イエスの愛が、自分の内に満ち、それが溢れ出て、夫や妻へと及んでいく。
主イエスが示してくださった、まことの愛をもって、夫や妻を愛し抜いていくのです。
それが、まことの愛の在り方だと思います。
しかし、そのまことの愛に生きようとする時、愛する家族から理解されず、逆に、家族から遠ざけられてしまう、ということが起きるかもしれません。その時には、深い痛みを覚えます。
それが、私たちが味わう、十字架の痛みです。しかし、この私たちの十字架の痛みを、主イエスの十字架という、更に大いなる痛みが、覆い包んでくださいます。
「あなたが、自分の十字架を担う痛みは、もっと大きな痛みで覆われているのだ。
私が、ゴルゴダで味わった、十字架の愛の痛みが、あなたの痛みを覆い包んでいる。
私の十字架が、あなたの十字架を支えている」。主イエスは、そう言われているのです。
主イエスを信じて受け入れるか、拒むかによって、家庭の中ですら、分裂が生じる。
この現実を、一番悲しんでおられるのは、主イエスご自身です。
主イエスは、十字架の上においても尚、ご自分に敵対する者を愛され、その救いのために執り成しの祈りを、祈られました。
愛するが故の悲しみです。愛するが故に傷つかれたのです。
そうであれば、主イエスに従う者は、同じように、愛ゆえに悲しみ、愛ゆえに傷つくのです。
主イエスを受け入れない肉親のために、悲しみ、傷つき、そして主イエスが十字架の上で叫ばれた、あの執り成しの祈りを、愛する家族のために、ささげていくのです。
自分の十字架を担って、主イエスに従うとは、そのような生き方であると思います。
間違って欲しくないのですが、主イエスは、親や子を捨てよ、などと言われているのではありません。
或いは、親や子を、愛さなくてもよい、と言われているのでもありません。むしろ、今以上に愛しなさい、と言われているのです。
今以上に、親や子を愛するために、主を愛しなさい、と言っておられるのです。
あなた方は、偶然に親子になったのではない。神様が、この親を、この子を、あなたに与えて下さったのだ。そのことを、感謝しなさいと言っておられるのです。
単なる血縁関係を超えて、主によって結ばれている関係を尊び、喜びなさい。
そのために、まず主を愛しなさい。主を愛することを第一としていく時、あたかも親を捨てたり、子を遠ざけたりしているように、見えることがある。
だから、それには、痛みが伴う。愛するが故の痛みが伴う。これが、あなたが担うべき十字架の痛みなのだ、と主は言われているのです。
夏目漱石の作品に、「草枕」という小説があります。この小説の中で、漱石は「非人情」という、面白い言葉を使っています。人情に非ず、と書いて「非人情」と読ませています。
この非人情は、不人情とは違う、と漱石は言っています。
不人情とは、人情が無いこと、或いは、人情が分からないことです。
他人に対する思いやりや、同情心に欠けている心。それを、不人情というのです。
非人情というのは、これと違います。人情はちゃんとわきまえているのです。人一倍、人情には篤いのです。
けれども、人情にどっぷりとつかって、人情に左右されるのではなく、その人情を超える人情に生きることです。現代風に言えば、「超人情」ともいうべき状態のことです。
義理人情の世界から超越して、それに煩わされず、相手にとっての最善を願っていく心。
それが、非人情、超人情の世界です。
親が子を愛し、子が親を愛するということは、まさに人情そのものです。その人情は、よく分かっているのです。
その上で、血縁による人情を超えて、相手にとって、最も良いことを願っていく心。
相手にとっての最善を、祈っていく心。
それが超人情、つまり、まことの愛なのです。主イエスは、このまことの愛に生きることを勧められたのです。
さて、マタイによる福音書10章を、ご一緒に読み進んでまいりました。
ここには、主イエスが十二弟子を派遣するに当たっての、励ましの言葉が語られていました。
40節から42節は、その締めくくりの言葉です。
ここには、伝道する者に与えられる使命が、どれほど重いものであるかが、語られています。
この御言葉は、弟子たちに対して語られたものです。では弟子とは、どのような者でしょうか。
弟子とは、主イエスに従っていく者であり、主イエスによって遣わされ、御言葉を伝えていく者です。そうであるなら、これは、私たちをも含めた、すべての信仰者に当てはまります。
私たちは、主イエスの弟子とされているのです。
そうしますと、この御言葉は、私たちすべてに対して、語られているということになります。
弟子である私たちを受け入れる者は、主イエスを受け入れるのだ。
そして、主イエスを遣わされた、父なる神様をも受け入れているのだ、と主は言われました。
それほどまでに、弟子たちと、つまり私たちと、主イエスとは一つである、というのです。
私たちは、主イエスの代理人だと、主は言われたのです。何とも、驚くべき言葉です。
これは、私たちのことです。私たち一人一人のことです。私たちは、皆、それぞれの場へと、遣わされています。その場で、私たち一人一人は、主イエスの代理人だというのです。
そして、その私たちに、冷たい水の一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける、と語られています。
私たちを受け入れる人は、神様からの報いを受ける、というのです。一体、どんな報いを受けるのでしょうか。
私たちは、主イエスの十字架の贖いを信じて、救われて、永遠の命の恵みに生かされています。その私たちを受け入れる人は、同じ恵みに与ることができる。
それが、神様から与えられる報いだというのです。
そう言われると、私たちは、たじろいでしまいます。自分は、そんなに立派な者ではない、と言って否定したくなります。私たちは、自分のことを、低く見ているからです。
けれども大切なことは、主イエスが、この自分のことを、どう見ておられるか、ということです。
主イエスは、「あなたは、あなた自身が考えているよりも、もっと大きな存在なのだ。私の代理人なのだ」、と言われているのです。
ナチスに抵抗し、ヒトラー暗殺計画に参加したために、終戦直前に処刑されたボンヘッファーという神学者が、獄中で書いた「わたしは何者か」という詩があります。こんな内容です。
「わたしは何者か? 彼らはしばしば言う、わたしが独房から、まるで城から出る領主のように落ち着き払って、明るくしっかりした足取りで歩み出てくると……わたしは、ほんとうに他の人たちが言うような人物なのか、それとも自分が知っているとおりの者に過ぎないのか?落ち着かず、切ない思いに駆られ、籠のなかの鳥のように病み、誰かに首を絞められているかのごとく、命の息を求めてもがいている。わたしは何者か? 今日はこの人間、明日は別の人間なのか? わたしは何者か? 孤独な問いがわたしを嘲る。ああ神よ、わたしが何者であろうと、あなたはわたしを知っておられる。わたしはあなたのもの。」
ボンヘッファーは、周りの人は、自分のことを、死をも恐れない、信仰の勇者だと思っている。
でも、自分自身を見つめると、まるで籠の中の鳥のように、恐れてもがいている。
わたしは何者なのか、と自分自身に問い掛けています。
しかし、最後に、彼は言っています。「ああ、神よ、あなたは、わたしを知っていてくださる」。
そうなのです。主イエスは、私のことを、知っていてくださるのです。
私のすべてを知った上で、「あなたを受け入れる者は、私を受け入れるのだ。あなたは私の代理人なのだ」、と言ってくださるのです。主は、こんな私たちに、期待しておられるのです。
しかし、また同時に、あなたがたは小さな者だ、とも言われています。小さな者で十分だと言われているのです。
主イエスの弟子たちは、貧しく、みすぼらしく、小さな者として、遣わされていきました。
水一杯与えても、何の見返りも期待できないような、小さな者として、遣わされていきました。
もし、大きな者、権力の座にある者や、富んでいる者であるなら、人々は水一杯どころか、躊躇なくそれ以上のもてなしを、進んで提供したに違いありません。
大いなる者をもてなせば、大きな見返りが期待できるからです。
でも弟子たちは、水一杯を与えるのも躊躇するほど、小さな者として遣わされるのです。
しかし、主イエスは、その小さな私たち一人一人に、特別な眼差しを注いでいてくださいます。
小さいあなたが、必要なのだ。小さな者に顕わされる、神様の大きな御業を証しするために、あなたが必要なのだ、と言われているのです。
主イエスは、私たちのような貧しい者を、ご自身の代理人として、用いてくださるのです。
主よ、あなたの代理人とされるとは、一体、私は何者なのでしょうか。
ボンヘッファーの言葉が、私たちの口をついて出てきます。
しかし、「私が何者であれ、ああ、神よ、あなたは私を知っておられます」。この言葉もまた、私たちの口から出てくるのです。
私たちの小ささを、主は知っておられます。けれども、その小さな私たちを、主は、尊く用いてくださるのです。
そして、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」、と言ってくださるのです。
この主の眼差しから、目をそむけることなく、歩んでいきたいと思います。
小さな者が、大きな恵みを携えて、主イエスと共に、歩んでいきたいと思います。