MENU

柏牧師:過去の礼拝説教

「主に味方するか逆らうか」

2021年04月18日 聖書:マタイによる福音書 12:22~32

事実や相手の言葉などを、素直に受け取らないで、故意に捻じ曲げて解釈することを、「曲解」と言います。
これに対して、悪気なく、単純に事実を思い違うことを、「誤解」と言います。
「誤解」は、丁寧に説明すれば解けますが、「曲解」は、先入観や固定観念によって、故意に事実を曲げて解釈しているので、なかなか解くことができません。
インドの聖人と言われたマザー・テレサの活動も、初めの内は、売名行為だと誤解する人たちがいました。
しかし、そのような誤解は、彼女の活動を、素直に見ていくうちに,消えていきました。
ところが、元々人間には、そのような無報酬の愛などない、という先入観に囚われていた、ごく一部の人は、故意に事実を曲げて捉え、最後まで彼女の活動を理解できませんでした。
事実よりも、自分の先入観や固定観念を優先し、目の前の出来事を、素直に受け取ることができなかったのです。マザーの活動を曲解していた、と言えると思います。
今朝の御言葉には、主イエスの御業を、素直に受け入れることができず、故意に捻じ曲げて、曲解したファリサイ派の人たちと、主イエスとの問答が記されています。
物語の発端は、目も見えなければ、口も利けない、気の毒な人が、主イエスの許に連れてこられたことでした。
口が利けないということは、耳も良く聞こえなかった可能性が大きいと思います。
まさに、ヘレン・ケラーのように、三重苦に苦しんでいた人が、主イエスの許に連れてこられたのです。そして、主イエスが、その人を癒されました。
すると、群集は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言ったのです。
23節にある「驚いて」という言葉は、「我を忘れる」とか「正気を失う」と言う意味です。
英語の「エクスタシー」という言葉は、この言葉から出ています。
人々は、我を忘れるほど感動して、この人こそ、ダビデの子、待ちに待ったメシアではないだろうか、と言い合ったのです。
ところが、この時、我を忘れていない人たちがいたのです。ファリサイ派の人たちでした。
恐らく彼らは、主イエスの素晴らしい御業を見て、秘かに感動した筈です。
でも、直ぐに、それを、無理に捻じ曲げて、感動を押し殺してしまいました。
このイエスという男の業に、安易に感動すると、自分の立場を失ってしまう、と思ったのです。
「自分たちこそ、神の言葉のまことの解釈者なのだ。自分たちこそ、神の御業を、正しく解釈できる者なのだ。」 彼らは、そのように思っていたのです。
もし、このイエスという男の働きが、神の霊によるのであれば、自分たちの誇りは、踏みにじられてしまう。だから、この癒しの業を、神の霊の働きと、認めるわけにはいかない。
これは、悪霊の働きではないだろうか。そうだ、これは、悪霊の働きに違いない。
なぜ悪霊が、このイエスという男に従ったのか。それは、イエスが悪霊の親分である、ベルゼブルの力によって、悪霊を追い出したからだ。
だから、子分の悪霊どもは、親分の言うことを聞かない訳には行かなかったのだ。
ファリサイ派の人たちは、無理やりそう解釈して、群集を扇動したのです。
ファリサイ派の人たちは、この人が癒されたことを、素直に喜ぶことをしませんでした。
喜ぶ者と共に喜ぶことをせず、恵みの出来事を捻じ曲げて、光を光と認めなかったのです。
光が示されて、皆がそれを喜び、感動しているのに、その光は闇だと言い張ったのです。
そのような歪んだ心には、平安も喜びもありません。あるのは、妬みと敵意だけです。
光を闇に、愛を憎しみに、故意に変えてしまう。
そういう人たちに、主イエスは、愛の御心をもって、迫られました。
25節以下に、主イエスの反論が記されています。この主イエスの反論は、優しさとユーモアに満ちています。
素晴らしい癒しの奇跡を、目の当たりにしながらも、無理にその事実を捻じ曲げて、認めようとしないファリサイ派の人たち。彼らは、負けるものかと、ガチガチに緊張していました。
その人たちに、主イエスは、優しく語り掛けられ、彼らの頑なな心を、ほぐそうとされました。
あなた方を支配している先入観や、固定観念を捨てて、もっと素直になって、目の前の事実を見つめてご覧なさい。
そのような思いを持って、主イエスは、分かり易い譬えで語られました。
悪魔でさえも、自分たちの国を大切にするではないか。
もし、仲間割れして、内輪で争えば、自分の国が分裂して、滅んでしまう。
悪魔といえども、そのようなことを、敢えてする筈がないではないか。
そう言われた主イエスは、更に続けて言われました。
当時ユダヤ社会にも、悪霊追放による、病気の癒しを行っている、ラビや祈祷師がいました。彼らは、ファリサイ派の仲間でした。
でも、ファリサイ派の論法によるなら、これらのラビや祈祷師たちも、悪霊の仲間とされてしまうではないか。
そうなると、彼らが、あなた方を裁く者、あなた方の敵となってしまうではないか。
そんなことになっては困るだろう、と言われたのです。
主イエスの、ユーモアある反論の極めつけは、29節です。「また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。」
何と、ここで主イエスは、ご自身を、押し込み強盗に譬えておられます。
ここで、「強い人」といわれているのは、サタンのことです。「家財道具」とは、サタンに捕らわれて、苦しんでいる人々のことです。
主イエスは、「強盗が、家財道具を奪うには、まず、その家の強い人を、縛り上げるだろう。同じように、まず、サタンを縛り上げなければ、サタンの支配下にあって、悪霊に苦しむ人々を解放することはできないではないか」、と言われたのです。
私は、押し込み強盗のように、人々の心の中に押し入って、まずサタンを滅ぼし、人々をサタンの支配から解放するのだ、と主イエスは言われたのです。
私たちを、サタンの支配から解放するために、私たちの心に、踏み込んで来られる主イエス。
皆さん、どうでしょうか。こういう押し込み強盗なら、私たちは、喜んでお迎えするのではないでしょうか。
28節の御言葉は、主イエスが話された御言葉の中でも、最も重要な御言葉の一つです。
それは、マタイによる福音書全体のテーマでもあると言えます。
『わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。』
神の国は、あなたたちの所に、既に来ている。主イエスが来られたことによって、既に神の国の支配が、もう始まっている。
主イエスの御言葉と御業において、神様が既に、ここで、働き始めているというのです。
主イエスが、もたらしてくださった神の国は、死んでから行く天国ではありません。
それは、今、この世にある私たちを、永遠の命の希望に生かす、恵みの世界なのです。
神の国においては、神様だけが支配されます。そこで、二股をかけることはできません。
30節が、そのことを明確に語っています。
『私に味方しない者は私に敵対し、私と一緒に集めない者は散らしている。』
この御言葉は、神様の働きを見た時に、私たちが、どのような態度を取るかを尋ねています。
神の国が来た時、つまり主イエスの御言葉と御業に迫られた時、私たちは、二者択一を迫られます。中立はあり得ません。
ちょうど、磁石のプラスとマイナスのように、神様と悪魔は、対極の敵対関係にあります。
ですから、中立ということはあり得ないのです。必ずどちらかに、引き寄せられてしまいます。
同じように、信仰生活においても、停滞ということはあり得ません。
進歩か退歩かの、いずれかなのです。信仰生活においては、前にも後ろにも行かない、中立あるいは停滞、というような状態はないのです。
よどんだ水は、やがて濁って腐ってしまうように、信仰生活でも、「少し休もう」と思って、休憩しているつもりでも、霊の糧を取ることを止めれば、信仰は確実に逆戻りしてしまいます。
このことを、更に深めて、主イエスは、「私と一緒に働かない者は、私の邪魔をしている」のだ、と言われました。
神様の霊の働きを認めようとせず、それを悪魔の働きであるとする者は、悪魔の側につく者なのだというのです。
そういう人は、私が、一生懸命に集めようとしているものを、足で蹴飛ばして、散らして、私の邪魔をしているのだ。
だから、突き詰めて言えば、人は、私と共に働くか、私の邪魔をするか。そのどちらかしかないのだ。そのように、主は言われたのです。
私たちは、主イエスの邪魔をする者でなく、共に働く者とさせて頂きたい、と切に願います。そのように、主イエスに対する態度は、はっきりと、味方か敵かに分かれてしまいます。
だから、これから言うことを、気をつけて聞きなさい、と主イエスは言われました。
一体何を聞くのでしょうか。それが、31節、32節に記されています。
「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。
人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない。」
この御言葉は、昔から、非常に難解であるとされてきました。なぜ分かりにくいのでしょうか。
主イエスは、すべての人を赦し、すべての人を救うために来られた筈です。
それなのに、その主イエスご自身が、「赦されない罪がある」、と言われているからです。
これは矛盾なのでしょうか。
31節の“霊”とは、聖霊のことです。では、赦されることのない、「聖霊に対する冒瀆」とは、一体、どのような冒瀆なのでしょうか。
32節の「人の子」とは、主イエスのことです。では、主イエスに言い逆らう罪よりも重いとされた、「聖霊に言い逆らう罪」とは、一体、どのような罪なのでしょうか。
恐らく、この言葉を語られるのに、主イエスご自身が、深いためらいを覚えられたと思います。
なぜこんな言葉を、語らねばならないのかと、嘆かれたのではないでしょうか。
ここで、主イエスが、お語りになった相手は、ファリサイ派の人たちです。
主イエスが、聖霊の働きによって、悪霊を追い出された素晴らしい奇跡。それを目の前で見ながら、敢えてねじ曲げて、これは悪霊の働きであると言い放った、ファリサイ派の人たち。
彼らの、聖霊に対する冒瀆の罪について、語っておられるのです。
これ以上無いほど明らかに、聖霊の働きが示されているのに、素直にそれを認めず、無理やりそれをねじ曲げて、「これは神の御業ではない。悪霊の仕業だ」、と言って反抗する。
聖霊の働きを、そのようにねじ曲げ、拒否するなら、罪の赦しは受けられないではないか。
自らの救いを、こんなに頑なに拒絶してしまっては、私が、どんなに救いたいと願っても、救う手立てがなくなってしまうではないか。
主イエスは、悲しみをもって、そう言っておられるのです。
主イエスは、決して、私たちを、脅かしているのではありません。そうではなくて、全ての人が、この聖霊を汚す罪を犯さないようにと、切に願っておられるのです。
聖霊の働きとは、一体何でしょうか。それは、主イエスについて、証しするということです。
主イエスとは、どのようなお方であるか。それを分からせてくださるお方。それが聖霊です。
聖霊とは、主イエスの十字架の救いの意味を、分からせて下さるお方です。
神の独り子である主イエスが、私たちを救うために、人となって、この世に来て下さった。
そして、私たちの罪を代わって負ってくださり、十字架にかかってくださった。
その主イエスの、十字架の贖いによって、私たちの罪が、一方的に赦された。
聖霊の働きとは、この主イエスの十字架の救いを、分からせて下さることです。
ですから、聖霊を受けなければ、私たちには、十字架の救いの恵みは、分かりません。
主イエスによる、罪の赦しの恵みは、明らかにされません。
主イエスは、「人の子に言い逆らう者は赦される」、と言われました。
これは、聖霊の証を、まだ受けていない人について、言われた言葉です。
まだ聖霊によって、十字架による罪の赦しを、教えられていない人は、主イエスの救いの恵みが分かっていません。そのために、主イエスに、様々な罪を犯すかもしれません。
でも、主イエスを、理解できないために犯す罪。分からずに、主イエスに言い逆らう罪は、赦されると言われるのです。
無知の故に犯す、ご自分に対する罪は構わない、と仰っているのです。
そして、実際に、そのような人たちのために、最後まで執り成しをされました。
「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」
十字架の上でのこのお言葉。これこそ、救いの恵みを知らないために、主イエスに逆らう者を、それでも最後まで赦そうとされた、主イエスのお姿なのです。
私たちの救い主イエス・キリストとは、そのようなお方なのです。
しかし、主イエスについての、聖霊の証がはっきりと示され、その証の言葉を聴きながら、尚も、そんな罪の赦しなどあり得ない。そんな罪の赦しは、自分には必要ない、と拒否してしまうなら、せっかくの罪の赦しは、無意味になってしまう。
それでは、私が、命懸けで赦そうとしても、赦しようがないではないか、と主イエスは言われたのです。
「赦されることがない」という言葉は、「赦したくても、赦しようがない」、という意味なのです。
聖霊の御業を、明らかに示されながらも、それを素直に認めずに、敢えてねじ曲げて、「これは、悪霊の頭ベルゼブルの力によるのだ」、と言い張る。
それでは、赦したくても、赦しようがないと、主イエスは深く悲しまれているのです。
私たちは、主イエスに、そのような悲しみを味合わせる者ではなく、主イエスに味方する者と,ならせて頂きたいと思います。
そして、神の国に生きる恵みと喜びを、主イエスと共に、味わわせて頂きたいと切に願います。