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柏牧師:過去の礼拝説教

「終わりに 兄弟たち」

2022年03月27日 聖書:コリントの信徒への手紙二 13:11~13

「終わりに、兄弟たち」。使徒パウロが、コリントの教会に送った、最後の言葉です。
コリントの教会は、パウロが心血を注いで、たて上げた教会です。
でも、パウロの思いがなかなか届かず、教会には様々な問題が満ちていました。
しかし、そのような問題に満ちたコリントの教会を、パウロはどこまでも愛し、絶えず祈っていました。
そして、教会を救うために、手紙を何度も書きました。
聖書には、第一の手紙と第二の手紙だけが収められていますが、実際には4通、或いは5通の手紙を、書いたものとみられています。
コリントの教会が、何とかして、主に喜ばれる教会になって貰いたい。
その祈りを込めて、何度も、何度も手紙を書いたのです。
それら一連の手紙の、最後の言葉が、今朝の御言葉です。
「終わりに、兄弟たち」。この呼び掛けには、パウロの万感の思いが込められています。
ここでパウロは、最後に、教会にとって、最も大切なこと、最も基本的なことを、心を注ぎ出して語っているのです。
教会にとって、最も大切なこと。最も基本的なこと。それは一体どういうことなのでしょうか。
ここでパウロは、いきなり、「喜びなさい」、と語り出しています。
キリスト者は、喜んでいなければならない、というのです。
確かに、キリスト者には生真面目な人が多い。
でも、だからと言って、あたかも人生の苦悩を、一身に背負っているかのように、辛そうな顔ばかりしていてはいけない。
活き活きとした喜びに、満たされていなければいけない。
パウロは、何よりも先ず、喜びに生きることを勧めています。
なぜなら、キリスト者は、救われた喜びに生きる者だからです。
主イエスの十字架によって、罪から救われた。そのことが、私たちの喜びの源なのです。
そして、その主イエスが、いつも、どんな時にも、共にいてくださる、ということ。
それこそが、私たちキリスト者の、まことの喜びなのです。
キリスト者の喜びは、根拠なき楽観から来るものではありません。
それは、私たちのために命を献げて下さった、主イエスから来るのです。
その主イエスが、どんな時にも共にいてくださる。
だから逆境にあっても、困難の中にあっても、喜ぶことができるのです。
悲しみは悲しみとして、苦しみは苦しみとして、しっかりと受け止めながら、尚そこで、その苦しみ、その悲しみの只中でも、共にいてくださる主イエスを喜ぶのです。
キリスト者であっても、逆境に置かれて苦しみます。キリスト者であっても、辛い目に遭って悲しみます。
しかし、悲しみの中でも、その悲しみを共に担ってくださり、私たちの目から涙を拭ってくださる主イエスを知って、その主イエスを喜んでいくのです。
それが、私たちの喜びです。
教会においては、お互いを「兄弟姉妹」と呼び合います。
でも、それは、どのような兄弟姉妹なのでしょうか。
この喜びを分かち合うことにおいて、私たちは兄弟姉妹なのです。
あなたも、主イエスによって救われたのですね。私もそうです。本当に良かったですね。
この喜びを共有している。そのことにおいて兄弟姉妹なのです。
ですから、教会における兄弟姉妹は、喜びの兄弟姉妹なのです。
次にパウロは、「完全な者になりなさい」と言っています。
こういう言葉に出会うと、私たちは、戸惑ってしまいます。完全な者になるなんて、とても無理だからです。
でも、ここにある「完全な者になりなさい」という言葉は、完全無欠で、完璧な者になりなさい、という意味ではありません。
「回復されなさい」という意味の言葉なのです。
ここでパウロは、あなた方は、「本来の自分を回復しなさい」、と言っているのです。
もしあなたが、今、主を見失って、迷っているなら、あなたのことを、両手を広げて待っていて下さる、主イエスの許に立ち帰りなさい。
あなたが、本来居るべき場所に立ち帰りなさい。
あなたは、主イエスによって、救われた者なのだ。その本来の自分に、立ち帰りなさい。
パウロは、教会の人たちの顔を、一人一人想い起しながら、そう呼びかけています。
では、本来の自分に立ち帰った私たちは、教会において何をすべきなのでしょうか。
励ましあうのです。本来の自分に立ち帰った者同士として、お互いに励まし合うのです。
ここで言われている「励ます」という言葉は、元々は「慰める」という意味の言葉です。
「慰め合いなさい」と訳しても、一向に差し支えない言葉です。むしろ、その方が相応しいかもしれません。
皆さん、教会は慰めの共同体です。でも教会における慰めは、世間での慰めとは違います。
私たちが、自分の力で為す慰めには、限界があります。
人間の言葉は、本当に深い苦しみや、悲しみの中にいる人には、届きません。
本当に人を慰めるには、主イエスによる慰めが必要です。
主イエスの愛と恵みを示すこと。それが、教会における慰めであり、励ましなのです。
そして、それは、聖書の御言葉を分かち合うことと、共に祈り合うことを通して、為されていきます。
教会における慰めは、いつも、御言葉と祈りによるのです。
御言葉と祈りによって、お互いに支え合い、慰め合う群れ、それが教会なのです。
教会は、兄弟姉妹の魂に対して、お互いに配慮し合う群れでなければなりません。
お互いの魂に、どこまでも寄り添うこと。それは、決して容易いことではありません。
それができずに、自らの愛の足らなさに、時に悲しみ、また悲嘆にくれることもあります。
でも、どんな時も、主イエスが、その中心におられる群れ。それが教会なのです。
そして、最後は、共に喜びを分かち合う群れ。それが教会なのです。
次にパウロは、「思いを一つにしなさい」、と言っています。
思いを一つにする。心を一つにする、ということは、あらゆる組織や団体に必要なことです。
そのような常識的なことを、何故ここで改めて言っているのでしょうか。
コリントの教会には、厄介な分派争いがありました。
私はパウロにつく、私はアポロにつく、私はケファにつく、というような分派争いがありました。
そういう教会だから、ここで、わざわざ、「思いを一つにしなさい」、と言ったのでしょうか。そういうこともあったかも知れません。
しかし、パウロが、ここで本当に言いたいことは、ただ「仲良くして、一つに纏まって欲しい」、ということではありません。
そうではなくて、ここでもパウロは、信仰の問題を取り上げているのです。
教会において、一つになることが必要であるならば、それは何よりも、「信仰において一つとなる」、ということなのです。信仰による一致です。
教会は、信仰共同体です。単なる社交団体でもなければ、趣味のサークルでもありません。
教会は、何によって繋がっているのかと言いますと、同じ信仰によって繋がっている群れなのです。そこが、他の団体と、決定的に違う点なのです。
教会が、キリストの体として立つために、最も必要なもの。それは、信仰の一致です。
それ以外に、教会を教会として立たせる道はありません。
どんなに良い交わりがなされていても、どんなに良い社会活動をしていても、信仰による一致がなければ、教会は、教会として立っていくことはできません。
教会が、信仰による一致によって、思いが一つになっている時、そこに平和が生まれます。
平和というのは、私たちの思いや心が、バラバラである時には、実現しません。
思いが一つになっている時に、実現するものです。
基本的な思いが一つになっているなら、どんなに激しく議論しても、バラバラにはなりません。平和は揺るぎません。
そのように、教会員同士の間の平和も大切ですが、もっと根本的なことは、教会員一人一人が、心の内に平和を得ているということです。
それは、神様との平和です。
一人ひとりが、神様との間に平和を得ている。主イエスの十字架の贖いによって、神様との間に和解が成し遂げられ、神様との間に平和を得ている。
そのことが、教会における平和の源ではないでしょうか。
自分の心に平和のない者は、他人との間でも、平和に過ごすことはできません。
お互いの間の平和を考える前に、先ず、自分自身の心の平和。神様との間の平和があるかどうかが、問われるのではないでしょうか。
パウロは、続けて、「そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」と語っています。
この御言葉は、順序を逆にして聴くと、よく分かると思います。
信仰によって、神様の愛と平和が、私たちの心に注がれている時。
その時に、私たちは、まことの喜びを喜ぶことができます。本来の自分を回復することができます。
お互いに慰め合い、思いを一つにして、平和を保つことができるのです。
「愛の神」という言葉は、新約聖書の中では、ここだけに出てくる言葉です。
でも、心震えるような、恵みに満ちた、素晴らしい言葉です。
愛の神様が、私たちと共にいて下さるのです。ですから皆さん、私たちは大丈夫なのです。
この世を生きて行く時、色々なことが起きます。悲しかったり、苦しかったり、寂しかったりすることが、次々に起きます。
どうしたらよいかと、立ちすくむような経験をすることもあります。
でも、その時、是非、想い起して下さい。愛の神様が、私たちと共にいて下さるのです。
私たちは、どんな時も、決して一人ではありません。愛の神様が共にいて下さいます。
そして、その愛の神様を共に見上げる、教会の仲間が与えられています。
この神様との愛の交わり、教会員同士の愛の交わり。それは、どんな時にも、決して揺らぐことはありません。
私たちは、そのような恵みと祝福の中に、生かされているのです。
パウロは、このことを、更に確かなものとするために、最後に祝福の言葉を記しました。
13節の御言葉は、礼拝の最後の「祝祷」の言葉として、多くの教会で用いられています。
私たちは、毎聖日、この御言葉によって、送り出されています。
ですから、礼拝において、私たちが最も多く聞く御言葉は、この御言葉だと思います。
日本では、礼拝における祝祷は、圧倒的にこの13節の御言葉が多いのですが、外国では必ずしもそうではありません。
世界的に見れば、民数記6章24節以下の、「アロン祝福」の方が、多く用いられています。
この御言葉です。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように」。
茅ヶ崎恵泉教会では、パウロとアロンの、二つの祝福を、重ねて受けさせて頂いています。
アロンの祝福は、神様が、その愛の御顔を、いつもあなたの方に向けていて下さる、と言っています。
たとえ私たちが、そっぽを向いていても、ふと顔をあげると、神様は、いつも変わらずに、御顔をこちらに向けて、慈愛の眼差しで、私たちを見ていて下さる。
そして、恵みを与え、平安を与えて下さる。この祝福を、告げている御言葉です。
ちょっと、こんな場面を想像してみて下さい。小さな子が、「いない、いない、ばあ」をします。
自分の顔を隠していても、手をパッとのけたら、そこに必ず、お父さんやお母さんがいる。
だから、子どもは嬉しくて、何度でもするのです。
でも、もし子どもが顔をあげた時に、そこに父親も母親もいなかったら、どうでしょうか。
そんなに恐ろしいことはありません。
皆さん、私たちの神様は、私たちが、自分で自分の顔を隠して、神様を見ないようにしていたとしても、いつも私たちの前にいて下さり、御顔を私たちに向けていて下さいます。
私たちの神様とは、そういうお方なのです。
アロンの祝福は、この恵みを、私たちに告げているのです。
13節のパウロの祝福は、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」、と告げています。
最初に、主イエス・キリストの恵みです。
私たちは、教会において、主イエスの恵みについて、何度も聞かされています。
その中の一つが、この手紙の8章9節に書かれています。
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。
すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。
それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」
これは、クリスマスの時に、よく読まれる御言葉です。
限りない高みにおられた神の御子が、ベツレヘムの馬小屋に、貧しい者の子として生まれて下さった。
こんな卑しい私のために、全能のお方が、そこまで貧しくなってくださった。
一体、何のために。汚れた私たちを、十字架の血潮で聖めて、神の子として下さるためです。
この考えられないような、喜びの出来事を通して、私たちは、主イエスの恵みを知りました。
でも、そのために、父なる神様は、身を引き裂かれるような痛みを、引き受けられました。
最愛の独り子を、十字架にかけるために、この世に遣わされたのです。
ですから、パウロはここで、主イエスキリストの恵み、神の愛と言わずにおれないのです。
私たちが、主イエス・キリストの恵みに迫られた時、そこで私たちは、痛ましいほどの神様の愛に出会うのです。
慈愛の眼差しで、私たちを見つめておられる、神様の御顔を仰ぐのです。
そして、最後に、聖霊の交わりです。聖霊が、私たちに与えて下さる交わり。
それはこの礼拝の交わりです。聖霊の働きなくしては、この礼拝の交わりはありません。
神様を父と呼び、イエス様を主と呼ぶ交わり。そして、お互いを兄弟姉妹と呼ぶ交わり。
このような交わりは、聖霊の働きなくしてはあり得ません。
この聖霊と、深く交わっているところで、主イエスの恵みが初めて分かるのです。神様の愛が初めて分かるのです。
ですから教会は、聖霊が活き活きと生きて、働いておられるところなのです。
ところである人が、今朝の御言葉11節~13節までを、「パウロのアデュー」と呼びました。
アデュー、フランス語の「さようなら」です。スペイン語では、「アディオス」です。
「ア」というのは、「どこ、どこの方へ」、ということを示す前置詞です。
「デュー」とか「ディオス」というのは、神様を意味する言葉です。
ですから「アデュー」とか、「アディオス」という言葉は、「神様の方へ」という言葉です。
もっと丁寧に言えば、「あなたを神様にお委ねします」、という意味の言葉です。
この言葉は、聖書に起源を持っています。
使徒言行録20章には、パウロが、危険が待ち構えているエルサレムに、敢えて赴いて行く出来事が記されています。
エルサレムでは、捕らえられ、獄に入れられ、命を落とすかもしれない。
パウロ自身も、そのように予感していましたし、周りの人たちも、それを感じ取っていました。
ですから人々は、エルサレムに行かないようにと、パウロに懇願しました。
でもパウロは、聖霊の促しに従って、敢然として、エルサレムに向かって行きました。
その途中で、エフェソの教会の長老たちとの、別れの時を持ちました。
そこでパウロは、長い別れの言葉を語った後に、こう言いました。
「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」。
この、神に委ねるという言葉が、「アデュー」です。
パウロは、愛する人たちとの別れに際して、「あなた方を、神とその恵みの言葉に委ねます」と言って、エルサレムに向かって行ったのです。
もう二度と、会えないかも知れない。これが最後の時かもしれない。
その時に、パウロが語った言葉が、「あなた方を、神とその恵みの言葉に委ねます」、「アデュー」だったのです。
あなた方を神様にお委ねする。神様の祝福の御手に、お委ねするのです。
あなた方を神様の言葉にお委ねする。神様の恵みの御言葉に、お委ねするのです。
どうか、あなた方は、その神様の祝福の言葉、恵みの言葉を、聴き続けて欲しい。
それに従って歩んで行って欲しい。それが、別れの言葉でした。
愛する者との別れの言葉に、これ以上の言葉はありません。
いえ、この言葉しかありません。
「あなた方を、神とその恵みの言葉に委ねます」。このパウロのアデュー。
それは、また、この茅ヶ崎恵泉教会の主任担任教師を退任する、私の言葉でもあります。
茅ヶ崎恵泉教会の皆さん、あなた方を、神とその恵みの言葉に委ねます。
終わりに、兄弟たち。どうかこれからも、この神様の恵みの言葉を、聴き続けて下さい。
あなた方を、その御言葉に委ねます。これが、私から、皆さんへの「アデュー」です。