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柏牧師:過去の礼拝説教

「命を懸けて神を愛し、隣人を愛する」

2022年03月06日 聖書:マタイによる福音書 22:34~40

宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘は、多くの日本人に愛されている物語です。
なぜ、この物語は、多くの人に愛されているのでしょうか。
それは、二人の剣豪が、ここで雌雄を決しようと、真っ向勝負に出ているからではないでしょうか。
最後の決戦をするために、一対一で真正面から対決している姿には、人々を圧倒するような、迫力と緊張感がみなぎっているからだと思います。
一対一の真っ向勝負においては、細かい細工や、駆け引きなどは、必要ありません。
最も基本的な事柄において、真正面から対決することになります。
今朝の御言葉では、主イエスとファリサイ派との、最後の決戦ともいうべき、真っ向勝負の論争が語られています。
言わば、主イエスとファリサイ派との、巌流島の決闘のような場面です。
エルサレムに入城された主イエスに、人々が入れ代わり、立ち代り質問をしてきました。
いずれも、主イエスを陥し入れて、失脚させようとする、悪意に満ちたものでした。
先週の箇所では、サドカイ派の人たちが、復活について質問しました。
しかし、復活についての問答でも、サドカイ派の人々は、主イエスを追い詰めることができず、逆に言い込められてしまいました。
それを聞いて、ファリサイ派の人々が一緒に集まった、と書かれています。
一体、集って何をしたのでしょうか。集って知恵を絞り合ったのです。
そして知恵を絞った挙句、一人の律法学者を彼らの代表として、主イエスの許に送りました。
今まで色々な人が、主イエスに論争を挑みました。
けれども、いずれも、なす術もなく引き下がってきました。
それなら、彼らが最も信頼する律法の専門家を送って、最後の決戦をしようとしたのです。
この律法の専門家が尋ねたのは、「律法の中で、どの掟が最も重要か」ということでした。
これは、最も基本的な問いです。言わば、真理に関する問いです。
ところが35節には、「律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた」、と書かれています。
なぜ、この問いが、主イエスを試そうとする問いなのでしょうか。
最も基本的なこと、真理に関することを問うことが、なぜ主イエスを試すことになるのでしょうか。
最も基本的な、真理に関することであれば、決して妥協できません。
もし、この問いに対する主イエスの答えが、自分たちが大事にしているものと違っていたならば、その時は、主イエスとの間に、はっきりとした境界線を引くことになります。
ここで、ファリサイ派の人々は、主イエスに対して、最後の真っ向勝負を挑んだのです。
ファリサイ派の人々は、主イエスとの決定的な違いを明らかにすることによって、主イエスを、ユダヤ教から完全に排除してしまおうとして、最後の一本勝負に出たのです。
「律法の中で、どの掟が最も重要か」。
この問いは、当時のユダヤ社会の中でも、しばしば問題になっていたものでした。
言うまでもなく、律法のベースは十戒です。しかし、十戒を実際の生活の場に適用しようとすると、様々な問題が生じてきます。
たとえば、安息日には仕事を止めて、休まなければならない、と定められています。
でも全く何もしないでは、生活が成り立ちません。そこで、必要最低限の仕事は認めよう。
安息日に歩いてもいい距離はどこまでか。安息日には料理をしてはいけないけれども、前日に作った料理を温めることは許される。
命に関わる病気は治療しても良い、等々。
このように、実際の生活に適用するために、細かい規定が、次々に加えられていきました。
主イエスの時代には、365の「してはならない掟」と、248の「しなければならない掟」、合計で613の掟がありました。
しかし、こんなに多くては、とても覚え切れません。
また、このように細かい規定がたくさんできてしまうと、これらの掟の、中心になるものは何なのか、ということが分からなくなってきます。
そこで、これらの掟を、すべて同等に扱うべきか、それとも、大きい戒めと小さい戒め、重い戒めと軽い戒めに、区別することが出来るのか、ということが議論されるようになりました。
人々は、どの掟が最も重要か教えて欲しい、という真剣な願いを持っていたのです。
この掟こそ律法全体の中心であり、ここさえ掴んでおけば、律法全体の解釈において間違うことはない。
そういう律法全体の要とは何かと、この律法学者は質問したのです。
この律法学者の問いに対して、主イエスは、真正面から答えられました。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
全てを尽くして神を愛すること。これが第一の戒めだと、主イエスは言われました。
でも、第二もこれと同様に重要だと言われました。第二もこれと同じように大きい。
神を愛することに比べて、人を愛することは、少し小さいこと、少し低いことである、などとは言われなかったのです。
神を愛することと、隣人を愛すること。これら二つは、同じように大切だと言われたのです。
律法学者は、最も重要な掟はどれですか、と質問しました。一番大切な教えは何か、と尋ねたのです。一番大切なものは、一つである筈です。
でも、主イエスは、二つお答えになられました。
なぜかと言いますと、この二つは切り離せないからです。二つであって、一つだからです。
ここで主イエスは、旧約聖書の御言葉を引用されています。
初めの戒めは、申命記6章5節の御言葉です。申命記6章4節から9節までを読んでみたいと思います。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、
子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。
更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、
あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」
「聞け、イスラエルよ」と言う言葉で始まっていますが、この「聞け」という言葉は、ヘブライ語で「シェマー」と言います。
ですから今読ませて頂いた、申命記6章4節から9節まで御言葉は、その後「シェマー」と呼ばれるようになりました。
「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。
この言葉は、すべてのユダヤ人が、しっかりと覚えて、毎日唱え続けた御言葉です。
礼拝の時はもちろん、朝に夕にそれを唱え、道を歩いている時にも、それを語り伝えなさい、と教えられた言葉です。
手に結びつけ、或いは額に付けて、覚えていなければならない、とされた御言葉です。
この言葉を小さな箱に入れたものを、メズーザーと言いますが、人々はそれを、家の門柱や玄関に貼り付けました。
イスラエルのホテルには、各部屋の入口に、このメズーザーが掲げられています。
ユダヤの人たちは、部屋に入る前に、この小さな箱に手を置いて、祈ってから入ります。
生活全体が、この戒めによって覆われている。そのような日常が、求められていたのです。
主イエスは、この御言葉を引用されて、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と言われました。
ここで、「精神を尽くし」と訳されている言葉は、「魂を尽くし」とも訳すことができますし、また「命を尽くし」と訳すこともできる言葉です。
命を尽くして神様を愛するとは、全存在をかけて神様を愛するということです。
これは、戒めとして命じられたからできる、というようなことではありません。
なぜなら本当の愛は、外から強制されるものではなく、内側から溢れ出るものだからです。
そのような、自発的な愛は、愛されたという経験から、その愛に対する自然な応答として、生まれます。
愛のみが、愛を呼び起こすことができるのです。
神様が、私たちを愛されたのは、私たちが、神様の愛を受けるに、相応しい価値があったからではありません。
無価値な者であるにも拘らず、それどころか敵であったにも拘らず、愛してくださったのです。
無条件に、無制限に愛してくださったのです。
このように、一方的に愛されているから、私たちは神様への愛に生きることができるのです。
自分がどんなに大切にされているか。
そのことが本当に分かった時、私たちは、神様を愛し、そして、その神様によって愛されている、この自分をも愛することができるようになります。
こんな譬え話があります。ある女性が、治安の悪い海外で、NGOの働きについていました。
ところが、現地のテロ組織によって誘拐され、何億円という身代金を要求されました。
NGOのボランティアの人々は、たとえそういう事態に遭っても、NGO団体は、責任を負わなくてもよい、という書類にサインをして、海外に出掛けていきます。
彼女は最初の頃は、「何とか集まるんじゃないか」、と思っていました。
しかし、山奥で閉じこめられながら、時が経過すればするほど、自分の友人や親戚には、到底、集められない金額だ、ということが分かってきました。
彼女は死を覚悟して、絶望します。
しかし母国の友人たちは、出来る限りの手を尽くして、彼女のためにお金を集め、到底不可能と思われたような身代金を、払ってくれたのです。
やがて彼女は解放されます。
彼女は、「私なんかのために、それ程の額を寄付してくれる人は、一人もいないだろう。
いや、たとえ数人いたとしても、犯人が要求しているような額には、到底達しないだろう」、と思っていました。
それが、彼女の自己評価でした。しかし、友人の目には、そうではなかったのです。
彼女が、自分の価値に初めて気付いたのは、高額の身代金が支払われ、自分が解放され、友達に出会った時です。
「あなたは、この世に一人しかいない。私たちにとって、かけがえのない存在なのよ」と言われて、「あぁ、自分はそんなに価値があったのか」、と初めて分かったのです。
十字架の上で、ご自身の命を、この私のために捨ててくださった、主イエスに出会う時に、私たちは、初めて自分の本当の価値が分かります。
この私は、これほど大きな愛を、受ける存在として造られたのだ、ということが分かります。
その時、初めて、私たちは、その神様の愛に、すべてを尽くして、応えていきたい、という思いに、導かれるのではないでしょうか。
そして、同時に、この私と同じように、神様によって愛され、価値ある者とされている隣人を、愛さない訳にはいかなくなるのです。
第二の戒めは、レビ記19章18節の御言葉の引用です。
「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」
主イエスは、このレビ記の御言葉を引用されて、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。
主イエスは、ここで、ただ「隣人を愛しなさい」、とだけ仰ってはおられません。
「自分のように愛しなさい」と言われているのです。これは大切なことです。
私たちは、しばしばこのことを聞き過ごしてしまいます。
主イエスは、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。
しかし考えて見ますと、自分を愛することと、隣人を愛することとは、相容れないことではないでしょうか。
自分を愛する思いが強いから、人間は間違いを起こすのだ。
自分への愛など捨てなければ駄目だ。自分を愛することなど止めて、神様を愛し、隣人を愛さなければならない。
普通、私たちは、そのように考えるのではないでしょうか。
しかし、主イエスは、ここで、自分を愛しなさい、と言っておられます。
自分を愛することができない人間が、他人を愛することができるか、と言われています。
自分を愛し、自分本来の生き方を生きる。そのことが、人を愛し、人のために生きる生き方に、繋がっていく。
主イエスが、教えておられる道はそのような道なのです。
主イエスが、ここで仰っておられるのは、実は、三つにして一つのことなのです。
自分を愛することと、他人を愛することと、神様を愛することが、ばらばらではなく、一つに重なる生き方。
そのような生き方に、命を懸けてごらんなさい、と言っておられるのです。
なぜ、これら三つのことが一つに重なるのでしょうか。
先ほど、私たちが神様を愛することができるのは、まず、神様が私たちを愛してくださったことを、知ることから始まる、と申しました。
神様の愛に相応しくない者であるにも拘わらず、神様が、独り子の命を献げて下さるほどの大きな愛を、私に注いでくださった。
こんな私が、神様の計り知れない、愛の対象であることを知った時に、私たちは初めて、自分の本当の価値を知り、その自分を喜び、自分を愛することができる者とされます。
私は神様に、こんなにも愛されている。
その自分を、大切にせざるを得ない、愛さずにはいられなくなるのです。
そして、その神様の愛を知った時に、隣人を愛さない訳にはいかなくなるのです。
なぜなら、自分と同じように、隣人も神様に愛されているからです。
キリストは、この隣人のためにも、十字架にかかられたのだ。そのことを示されるからです。
自分も、隣人も、同じ神様の大切な作品であるからです。
お互いは、神様が心を込めて、かけがえのないものとして、造られた作品なのです。
作者は、自分の作品が愛されることを、何よりも喜びます。
自分の自信作が、粗末に扱われ、傷つけられることを、最も悲しみます。
私たちの、神様に対する最大の愛の表現は、神様の作品を愛することです。
逆に、神様の作品を傷つけ、損なうことは、神様の御心を最も悲しませます。
神様を愛すること、それは、神様の自信作である、この自分を愛することであり、また、同じように、自信作である、隣人を愛することなのです。
ですから、これら三つのことは、一つのことなのです。
そして、この一つのことに、命を尽くして生きる生き方は、生き生きとした、明るい喜びに満ちた生き方となります。
終戦後、隅田公園の一画に、「ありの町」と呼ばれる地域がありました。
生活に困った人たちが、そこに掘立小屋を建てて住み、廃品を回収して、その日暮らしの生活をしていました。
そこに、北原怜子さんというカトリック信者の娘さんが入って、彼らと生活を共にしながら、そこに住む人たちの生活の向上に、献身的に奉仕しました。
北原さんは、大学教授の娘という恵まれた身でしたが、「あなたの隣人を愛しなさい」という、主イエスのお言葉を聴いて、これを実践するために、「ありの町」に入って行ったのです。
そして、その町の人たちと生活を共にしました。
一緒に籠を背負い、リヤカーを引いてくず拾いをし、生活の苦労を共にしたのです。
やがて人々から、「ありの町のマリア」と呼ばれて、尊敬されるようになりました。
しかし、過労のため結核に侵され、命が案じられるようになりました。
人々は、「あなたの心は、もう十分に、ありの町で実を結んだから、お宅に帰って療養してください」、と熱心に勧めました。
でも彼女は、苦しい息の下から、「お言葉はよく分かります。でも私は、ここに居たいのです。
私は、いなければならないから、いるのではないのです。居たいからいるのです。
どうかお願いします。私をここにおらせてください」、と頼みました。
そして、その短い一生を、そこで閉じていったのです。
彼女をそうさせたのは、単なるヒユーマニズムや義務感ではありませんでした。
自分が主イエスに愛されている。そして、ありの町の人々もまた、同じように主に愛されている。
主の命懸けの愛によって、愛されている。その愛に迫られたからでした。
主イエスと、ファリサイ派との論争の、最後の主題は愛でした。
主イエスは、愛するほかに生きる道はない。神様を愛し、自分を愛し、そのように隣人を愛する思いに生きるほかに、生きる道があるか、と問い返されました。
ファリサイ派の人たちは、律法を守ることに全力を注いだ、立派な人たちでした。
でも彼らは、この愛から遠かったのです。
私たちは、この愛に近く、生きて行きたいと思います。