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柏牧師:過去の礼拝説教

「見よ、主のみ頭、み手、み足より」

2022年04月15日 聖書:ルカによる福音書 23:32~38

この朝、私たちは、主の十字架の恵みを覚える、受難日礼拝を、ご一緒に献げています。
十字架の下に共にひれ伏して、十字架から滴り落ちる、主の尊い血潮によって清められたいと願って、このところに集まってまいりました。
これから暫くの時、十字架から語られる主の御言葉を、心を注ぎ出して、ご一緒に聴いていきたいと思います。
福音書記者ルカは、元々は医者でした。しかし同時に、とても優れた文学者でもありました。
ですから、ルカによる福音書には、美しい文章が、随所に散りばめられています。
例えばこの福音書の2章です。クリスマスの夜の出来事を伝えている御言葉です。
この箇所などは、ある翻訳者が、その表現のあまりの美しさに、「もはやわが筆の及ぶところにあらず」と言って、翻訳を中断してしまった、とさえ伝えられています。
ゲツセマネの祈りを記した箇所では、主イエスの汗が、血の滴りのように落ちた、と大変印象深い表現で描写しています。
しかし、福音書にとって最も重要な、主イエスが十字架につけられた時のことについては、「そこで人々はイエスを十字架につけた」、と記しているだけです。
どのようにして、主イエスの手や足に、太い釘が打ち込まれたのか。
主イエスが、そこで、どのような痛み、苦しみを経験されたのか。
そういうことは、一切書かれていません。
文学的な表現を避け、まるで感情を敢えて押し殺すかのように、実に簡潔に、「そこで人々はイエスを十字架につけた」、と述べているだけです。
何故なのでしょうか。
恐らくルカは、このことについては、何の説明も要らない、と思ったのだと思います。
この出来事は、説明文を付け加えなくては良く分からない、というようなものではない。
主イエスが、十字架についてくださった。神ご自身が、自ら苦しまれ、死んでくださった。
それがすべてだ。それだけで十分だ。何も付け加える必要がない。
いや、人間が何か付け加えることなどとてもできない。それ程、この出来事は偉大なのだ。
恐らく、ルカは、そう思ったのでしょう。
ですから極めて簡潔に、「人々はイエスを十字架につけた」、とだけ記したのです。
そして、その人々のために、主イエスが、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」、と祈った。
ただそれだけを、淡々と記しています。
「自分が何をしているのか知らない」。この言葉は、何を意味しているのでしょうか。
自分が何をしているのか知らない、ということは、自分でも分からない程、自分は罪深い、ということではないでしょうか。
或いは、罪の故に、自分の本当の姿が分からない、という意味にも取れます。
もう17年も前のことですが、パッションという映画が上映されました。
主イエスが、十字架にかけられた。その日の24時間を、克明に描いた映画です。
でも、十字架の救いの恵みが分らない人にとっては、ただ残酷なシーンばかりが、目についた映画であったかも知れません。
この映画の中で、私が一番残酷だと感じたのは、十字架の場面ではありませんでした。
それは、主イエスが、鞭打たれる場面でした。
主イエスを鞭打つ、ローマの兵士の残酷さが、一番衝撃的でした。
人はどこまで残酷になれるのか。その闇の深さに、大きなショックを覚えました。
兵士は、最初は柔らかな鞭で打っていました。
しかし段々と、鞭の種類をより厳しい物に変え、それに連れて目の色が変わって行きます。
打っている内に、血に飢えた、残酷な目の色に変わっていくのです。
そして辺りは、主イエスの御体から流された、血の海となります。
これ以上打つと死んでしまう。その時、上官が「止めろ」と言って、漸く鞭打ちが終わります。
狂ったように鞭打っていた兵士が我に返り、辺りが血の海になっているのに気が付きます。
彼は、自分が何をしているのか分からない程の、深い闇の中にいたのです。
今、ウクライナで、女性や子供たちを虐殺しているロシア兵も、同じような状況に置かれているのだと思います。
戦争という異常な状況。「殺さなければ、自分が殺される」。
そういう極限状態の中で、彼らは、自分が今、何をしているのか、分からないでいるのかもしれません。
これは、人間の心の奥底に潜む、暗い闇の現実です。
「そこで人々はイエスを十字架につけた。」
「そこで」というのは、たくさんの人が見ている前で、ということです。
言い換えれば、私たちの日常の一場面において、ということです。
何か特別の時や場所において、ではないのです。ごく日常的な場面において、その出来事は起きたのです。
人々は、ごく日常的な場面の中で、主イエスを十字架につけたのです。
そして、私たちもまた、ごく日常的な出来事の中で、主イエスを裏切ります。
イエスよ、今、この場所に、あなたに出て来られては困ります。今は、消えていて下さい。
今は、私を見ないでいて下さい。
このように、私たちは、日常の一場面で、主イエスを殺してしまうのです。
ごく日常的に、主イエスを、十字架につけてしまうのです。これが、私たちの姿です。
ですからルカは、主イエスを十字架につけたのは、「人々」であった、と記しています。
誰か特定の人物ではなく、「人々」であった、と言っているのです。
そして、その「人々」に対して、主イエスが、「父よ、彼らをお赦しください」、と祈られたのです。
ですから、これを読む人は誰でも、この「人々」の中に、自分もいる。
この「人々」とは、自分のことなのだ、と示されます。
主イエスが祈られた「彼ら」の中に、自分も含まれている、という思いに導かれるのです。
そうなのです。「彼ら」の中には、主イエスのことを、狂ったように鞭打ち、十字架に釘付けにした、兵士たちが含まれています。
主イエスに対して、殺意を抱き続けて来た、ユダヤ教の指導者たちが含まれています。
また、その扇動に乗って、「十字架につけろ」、と叫んだ群衆たちが含まれています。
そして、主イエスを裏切ったユダも、その中に含まれています。
主イエスを裏切ったのは、ユダだけではありませんでした。
「私はそんな人は知らない」と、三度も主イエスを否んだペトロも、また、主イエスが捕らえられると、蜘蛛の子を散らすように逃げていった、他の弟子たちも含まれています。
私たちもまた、自分が何をしているのか分からない。そのような状況に陥ることがあります。
その時、私たちは、いとも容易く、主イエスを裏切ります。
これは、私たち、すべての者の心に潜んでいる深い闇です。
「父よ、彼らをお赦しください」。
その「彼ら」の中に、ローマの兵士も、ユダも、ペトロも、民衆も、またウクライナで虐殺をしたロシアの兵士たちも、そして私たちも含まれているのです。
何をしているのか分からないで、罪の闇の中に引き込まれてしまう。
何をしているのか、自分でも分からずに、自分勝手な道に向かって行ってしまう私たち。
そんな私たちを、主イエスは背負ってくださり、その罪をご自身で担ってくださり、その罪の赦しを、神様に祈ってくださったのです。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。
受難日は、主の十字架が、自分の罪の故であったということを、改めて心に留める時です、
私たちは、何をしているのか分からないような、自分の弱さ、自分の愚かさ、自分の罪深さを、主イエスに赦して頂かなければならない者なのです。
でも、私たちが、赦しを請う前に、既に主イエスは、私たちを赦してくださっています。
「父よ、彼らをお赦しください。あの罪深い柏明史を赦してやってください」、と。
この朝、私たちは、主イエスが、私たち一人一人のために、今も、そのように祈って下さっていることを、感謝をもって想い起したいと思います。
そして、私たちも、この主イエスの祈りを、自分自身の祈りとしていきたいと思います。
自分に対して、故なき攻撃や敵意を向けてくる人に対して、この祈りを祈りたいと思います。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。
教会の長い歴史の中で、多くの人が迫害にあって、尊い命をささげました。
殉教した人々は皆、主イエスが祈られた、この祈りを自らの祈りとして来ました。
最初にこの祈りをささげたのは、石打ちの刑で殉教したステファノです。
そのステファノから始まって、厳しい迫害に遭って、命を落としていった多くの人々。
その一人一人が、この主イエスの祈りを口にしつつ、天に帰って行ったのです。
また、この主イエスの祈りは、多くの人を造り変えてきました。
真珠湾攻撃の中心人物、淵田美津夫海軍大佐も、その一人です。
戦後、彼は、戦勝国アメリカによる一方的な軍事裁判に反発して、抗議しようと思いました。
そこで、アメリカ人による、日本人捕虜に対する虐待の事実を、集めて歩きました。
それらを軍事裁判の時に示して、アメリカに対する反論の材料にしようと思ったのです。
ところが、ユタ州の収容所にいたという日本人捕虜から、思いがけない話を聞きます。
その収容所に、若いアメリカ人の娘さんが、毎日のように通ってきて、日本人の捕虜たちを、親身になって世話をしてくれたというのです。
この娘さんは、病人には特に優しく、肉親でも及ばないような看護をしてくれました。
捕虜たちが何か不足していると、翌朝には買い揃えてくるという徹底した世話の仕方でした。
その姿勢に心を打たれた日本人の捕虜たちは、彼女に質問します。
「あなたは、敵国の捕虜のために、何故こんなにまで親切にしてくださるのですか」。
娘さんはなかなかその理由を話しませんでしたが、あまり問い詰められるので遂に口を開きました。 その返事はなんとも意外でした。
「それは、私の両親が、あなた方日本の軍隊によって殺されたからです」。
思いがけない答えでした。一体、どういうことなのでしょうか。
その娘さんは、マーガレット・コヴェルさんという女性でした。
彼女の両親は、日本に遣わされていたバプテスト教会の宣教師だったのです。
コヴェル宣教師は、神戸や横浜で宣教し、関東学院の宗教主任も務めた方でした。
日米関係が危うくなってきたので、引き上げ勧告に従って、夫妻はマニラに移りました。
間もなく日米開戦となって、マニラも日本軍に占領されたので、コヴェル夫妻は北ルソンの山の中に隠れました。
やがてアメリカ軍の反撃が始まり、追われて北ルソンの山中に逃げ込んだ日本軍が、コヴェル夫妻の隠れ家を見つけ、夫妻は捕えられました。
夫妻が小型のラジオを持っていたことから、スパイであると疑われます。
「いや、自分は戦闘員ではない。日本のために尽くした宣教師である」、と言っても聞き入れられませんでした。
夫妻は裁判にもかけられずに、その場で、日本刀によって、首を刎ねられてしまいました。
暫くして、そのことが、ユタ州にいた、マーガレットさんに伝えられました。
非戦闘員の両親を、調べもせずに処刑したと聞かされて、マーガレットさんの心は、胸が張り裂けるような、憎しみと怒りに覆われました。
しかし、処刑の現場を目撃した現地の人の報告を読んで、彼女は考え直すのです。
その報告によると、コヴェル夫妻は、両手を縛られ、目隠しをされて、日本刀の下に首を差し出しながらも、心を合わせて、熱い祈りを献げていたというのです。
マーガレットさんは、「殺される前の三十分に、両親は何を祈ったのだろうか」と考えました。
そして、「おそらく両親は、愛する日本のために祈っただろう」、との思いに至りました。
もしそうであるなら、私がすべきことは、日本人に憎しみを返すことではない。
両親の志を継いで、日本人に、イエス・キリストを伝えることだ、と思ったのです。
しかし、未だ戦争は終っていなかったので、日本には行くことができませんでした。
ですから、アメリカ国内の収容所にいる日本人捕虜に、こうして仕えているのだと話してくれたそうです。
淵田美津夫は、この話を聞いて激しく感動しました。
そして、コヴェル宣教師夫妻が最後に祈った、その祈りの言葉を知りたいと思いました。
暫くして淵田は、聖書を買い求めて、読み始めました。
一ヶ月ほど読み進んで、ルカによる福音書23章に入りました。そして、34節の御言葉に出会ったのです。 
「父よ、彼らを赦したまえ、その為す所を知らざればなり」。
この御言葉を読んで、淵田はハッと、マーガレットさんの話が頭にひらめきました。
あぁ、これだ!コヴェル夫妻が祈った最後の祈りの言葉は、これに違いない!
「天の父なる神様、今、日本兵が私たちを殺そうとして、日本刀を振り上げています。
どうか、この人たちを赦してあげてください。この人たちは何をしているか知らないのです。」
淵田の目から涙が止め処もなく流れました。
この御言葉に出会って、淵田は主イエスを信じる者とされ、やがて伝道者となりました。
「父よ、彼らをお赦してください。自分が何をしているか知らないのです。」
このような愛は、人間の中にはありません。神様だけがお持ちです。
もし人間が、この言葉を語れるとすれば、それは主イエスの愛に覆われた者だけです。
ところで皆さん、ここで、少し想像してみてください。
一体主イエスは、ご自分を裏切ったユダや弟子たちのことを、どう思われたでしょうか。
偽りに満ちた裁判で、ご自身を死刑に追い詰めて行った、ユダヤ人の指導者に対して、主イエスはどういう思いを抱かれたのでしょうか。
ご自分を鞭打ち、十字架につけた兵士たちを、主イエスはどういう思いで見つめておられたのでしょうか。
最初は、「ホサナ、ホサナ」と迎えていたにもかかわらず、数日後には、「十字架につけろ」と叫んだ群衆に対して、主イエスはどういう思いを抱かれたのでしょうか。
「おまえが救い主であるなら、自分を救え」、と罵っている人々に、どういう思いを抱かれたのでしょうか。
一体、主イエスは、どのような思いを持って、息を引き取られたのでしょうか。
怒りだったでしょうか。憤りだったのでしょうか。恨み、辛みであったのでしょうか。
何と、そういう場面で、主イエスは仰ったんです。 「父よ、彼らをお赦しください」と。
主イエスは、ご自分を十字架にかけた人々を、赦しながら息を引き取られたのです。
ご自分を殺そうとしている人たちの罪さえも、ご自身の命をもって贖われたのです。
その時、主イエスの御体からは、私たちのために流された、尊い血潮が滴り落ちていました。
この後、ご一緒に讃美歌297番「栄えの主イエスの」を賛美します。
この讃美歌は、今から500年以上も前に、アイザック・ウォッツという人が作ったものです。
ある評論家は、この讃美歌は、英語讃美歌の中で、最も優れたものであると言っています。
皆さん、讃美歌を開いて、297番の歌詞、中でも特に、3節、4節を味わってみてください。
英語の原文では、3節、4節は、一つの節です。
しかし、そこに書かれていることが、あまりにも深くて、日本語で一つの節にまとめることができないため、二つに分けられています。
原文の3節はこう歌っています。
「See from His head, His hands, His feet, 見よ!主のみ頭、み手、み足より」
「Sorrow and love flow mingled down! 悲しみと愛が一つに溶け合いしたたるのを!」
「Did ever such love and sorrow meet, 今までにこのような愛と悲しみが出会ったことがあるでしょうか。」
「Or thorns compose so rich a crown? 茨がこのように尊い冠を作ったことがあるでしょうか?」
見てください。主のみ頭、み手、み足より、尊い血潮が、流れています。
悲しみと愛が、一つに溶け合い滴り落ちています。
今までに、このように深い悲しみと、完全な愛が出会ったことがあるでしょうか。
あの主のみ頭に突き刺さっている、茨で作られた冠ほど、尊いものがあるでしょうか。
讃美歌はこのように歌っているのです。
そうなのです。十字架の主イエスのみ頭、み手、み足より、滴り流れている血潮には、主の深い悲しみと、限り無い愛が、溶け合って一つとされているのです。
罪の故に、自分の本当の姿さえも分からずに、主イエスを十字架につけてしまった私たち。
その私たちの罪を、深く悲しまれた主イエス。そして、そんな私たちを、尚も愛して下さり、十字架の血潮によって清めて下さり、赦してくださった主イエスの愛。
その悲しみと愛の血潮を流されながら、主イエスは、今も、私たち一人一人のために、祈って下さっています。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何しているのか知らないのです。」