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柏牧師:過去の礼拝説教

「あの人のためにも主は死なれた」

2022年10月02日 聖書:コリントの信徒への手紙一 8:7~13

洗礼を受けて間もないあるご婦人が、牧師の許を訪ねて、真剣な悩みを打ち明けました。
この方は、ご主人のお母様と、同居しておられました。
そのお義母さんが、亡くなる直前に、そのご婦人の手を取って、こう言ったそうです。
「私が死んだ後も、どうか仏壇を守ってくださいね」。
その時は、まだ信仰を持っていなかったそのご婦人は、「分かりました、お義母さん。どうか安心してください」、と約束しました。
それを聞いて、お義母さんは、安心したように召されていきました。
そして、そのご婦人は、約束通り、仏壇をきれいに掃除することを、毎日続けていました。
それを見て、ご主人もとても喜んでいました。
しかし、その後、このご婦人は信仰に導かれ、洗礼を受けてクリスチャンとなりました。
クリスチャンとなった後も、仏壇を掃除することを続けて良いのだろうかと迷い、先輩のクリスチャンのご婦人に相談しました。
すると、相談を受けた先輩は、即座に、「あなた、未だそんなことやっているの。直ぐに止めて、仏壇を処分しなさい」、と厳しい口調で言いました。
そのご婦人は、深く悩みました。先輩の言うこともよく分かる。
でも、亡くなったお義母さんとの約束を破ることは、お義母さんを裏切るようでとても辛い。
主人も、私が、亡き母との約束を守っていることを、とても喜んでいる。
どうしたら良いだろうか。ご婦人は、思い余って、牧師に相談しに来たのです。
牧師が静かに答えました。 「大切なのは、あなたの行いではなくて、あなたの心です。
あなたは、仏壇を掃除することを、信仰の行為として行っているのですか。
クリスチャンとなった今も、仏壇を信仰の対象として見ているのですか。
それとも仏壇は、仏具屋の職人が、日常の仕事の一環として作った、単なる木箱に過ぎない、と捉えているのですか。どちらですか。」
ご婦人が答えました。「勿論、信仰の対象とは捉えていません。あれは単なる木箱です。」
「そうですか。では、あなたは、仏壇の掃除を、信仰の行為としてではなく、亡くなったお義母さんやご主人に対する、愛の行為として、続けているのですね。」 「はい、そうです。」
「そうであるならば、続けても構いません。但し、いつの日か、ご主人も信仰を持たれて、自然な形で、仏壇を取り除くことができる日が、一日も早く来ることを、祈り続けて下さい。」
この牧師は、他者への愛に生きることを、何よりも大切にするように、と勧めたのです。
日本のような異教社会では、このご婦人のような悩みを持っている方は、多くおられるのではないかと思います。 
私たちは、日常的に、様々な異教的な風習に取り囲まれています。
そして、異教的な祭儀や行事に参加すると、汚れに染まってしまうのでないかと、恐れています。
パウロが開拓したコリントの教会も、当時は、異教社会の只中にありました。
教会は、様々な異教的な風俗・習慣と戦いつつ、信仰を守っていました。
今朝の御言葉で取り上げられている問題も、その一つです。
それは、偶像に供えられた肉を食べても良いか、という問題です。 
何だ、そんな取るに足らない問題か、と思われるかも知れません。
しかしこの問題は、当時、コリントの教会を揺るがす程の、大きな論争となっていたのです。
もし、偶像に供えらえた肉を食べたなら、果たして、その人は汚れてしまうのか。
このことについて意見が対立し、そのために、教会の中に、仲間割れが生じていたのです。
当時のコリントの町の市場には、偶像に供えられた肉が、安く払い下げられていました。
ですから、信仰の弱い人々は、「そういう偶像に供えられた肉を食べると、自分が汚れてしまうのではないか」、と心配していたのです。
今朝の箇所には、信仰の弱い人とか、良心の弱い人、という言葉が何回も出てきます。
普通、信仰の弱い人とは、信仰がしっかりと根付いていないため、直ぐにぐらついてしまう人のことを言いますよね。
一方、異教的な風俗・習慣を、断固として拒否して、それらに触れないように、自分を律している人は、信仰が強い人である、と捉えるのが一般的だと思います。
しかし、どうもここでは、そういう意味での、強い、弱いではないようです。
ここでの「信仰の弱い人」とは、異教的な習慣に、神経質なまでに、こだわる人のことです。
異教的な習慣に触れると、汚れてしまうのではないか、と極端に恐れている人のことです。
そういう人にとっては、偶像に供えられた肉を食べるということは、大問題であったのです。
一方、ここで、強い人と言われている人たちは、このように考えていました。
「もともと偶像の神など存在しないのだ。
そんな存在しないものに振り回されるなんて、愚かなことだ。
だから、偶像に供えられた肉を食べたからと言って、汚れることなんかない。
私たちキリスト者は、そんなことから自由にされている筈ではないか」。
このように主張する人たちは、自分たちは、正しい信仰の知識を持っている、と自負していた人たちです。
パウロは、そのような人たちの、主張を一応は認めています。
あなた方の言う通りだ。それは、正しい知識だ。
そう言いつつも、しかし、パウロは更に言うのです。
でも、正しいからと言って、他の人のことを、全く考えずに、振る舞っても良いのだろうか。
あなた方は、自分の知識を主張することによって、もっと大切なことを忘れてはいないだろうか。
もっと大切な教えから、逸れてはいないだろうか。
もっと大切な教え。それは一体何でしょうか。
教会に長く繋がっている方は、もうお分かりなっていると思います。 
それは、隣人に対する愛です。
十字架にかかられる前の晩、主イエスは、最後に弟子たちに言われました。
「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。」
主イエスは、「愛は、すべての戒めを超える、最も大切な教えである」、と言われたのです。
偶像に供えられた肉が、汚れていて、何か悪霊的な力を持っている。
そして、それを食べた者を、滅びに導く。そんなことは愚かな考えである。
私たちを神様のもとに導くのは、そんな食べ物ではない筈だ。
パウロは、そのような主張を、正しい知識であると、認めています。
しかしパウロは、そのような知識以上に、もっと大切なことがあるでしょう、と言っています。
教会には、あなた方のような人たちだけが、いる訳ではないのですよ。
異教的な習慣を、神経質なまでに、忌み嫌っている人たちもいるのです。
そういう人たちは、偶像に供えられた肉を食べると、汚れてしまうのではないか、と恐れているのです。
その肉を食べるか、食べないかは、その人たちにとっては、大問題なのです。
あなた方が、そういう人たちの思いを無視して、知識だけを振りかざすなら、その人たちの信仰そのものまでが、揺らいでしまうかも知れません。
それは、最も大切な、愛の戒めに反することになりますよ。パウロはそう言っているのです。
皆さん、信仰は、あらゆるしがらみから、私たちを解き放って、私たちを自由にしてくれます。
信仰によって、私たちは、何物にも支配されない、自由を与えられています。
その自由は、何でも出来る自由です。でも、何をしても良い、という自由ではありません。
弱い人を、躓かせる
こともできる。そんな自由ではないのです。
この自由は、ただ一つのものに制約されます。
それは、愛です。神様に対する愛と、隣人に対する愛です。
それを欠いては、この自由は、ただ自分を満足させるだけのもの、となってしまいます。
コリントの教会において、知識があると自負していた人たちは、自分たちは正しい、という確信に立っていました。
しかし、正しいことを押し通すことは、場合によっては、正しいことにはならない、のです。
愛を欠いた正しさは、本当の正しさではなくなるのです。
正しいか、正しくないか。良いか、悪いか。それは、愛を伴っているか、いないかによって決められます。 
愛は、正しさ以上であり、愛は、善悪以上なのです。
教会の中でさえも、正しさを主張することによって、弱い人を苦しめてしまうことがあるのです。
御言葉は、そのような愛の伴わない自由を、戒めています。
パウロは、13節で、「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」、と言っています。
皆さん、注意して読んでください。パウロは、今後は「偶像に供えられた肉」を食べない、と言っているのではありません。 
肉そのものを、一切食べないと言っているのです。
もし弱い人を躓かせることになるなら、どのような肉も、一切食べないと言っているのです。
他の人の信仰の妨げになるなら、私は自分の自由を捨てる、と言っているのです。
感謝なことに、キリスト者には、何を食べて良いという、自由が与えられています。
何を食べても良いのですが、偶像に供えられた肉を食べると汚れてしまう、と思っている人がいるならば、その人のために、敢えて肉を食べないというのは、更に大きな自由です。
その人が、躓くことがないために、自分は、肉を食べる自由を捨てる。
自由を捨てる自由に生きる。これは、もっと大きな自由ではないでしょうか。
兄弟のために、自分の大切なものさえ、手放すことができる自由。
これこそが、愛を伴う自由です。これこそが、キリスト者が目指すべき、まことの自由です。
皆さん、この自由に生きる者とならせていただけるように、お互いに祈り合い、励まし合って歩んで行こうではありませんか。
11節でパウロは、「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」、と言っています。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださった。」
何と素晴らしい言葉でしょうか。この言葉は、今朝の御言葉のハイライトです。
皆さん、今朝は、この御言葉だけでも、しっかりと握りしめて、帰って行ってください。
この御言葉は、私たちが、いつも心の奥底に蓄えておくべき、宝のような御言葉です。
この御言葉は、私たちが、人間関係に悩む時、或いは、人を愛せなくて苦しむ時、何度でも聴くべき御言葉です。何度でも、ここに立ち返るべき御言葉です。
皆さん、今、皆さんには、「あの人だけは許せない」、と思っている人がいるでしょうか。
「あの人だけとは、一緒に歩むことができない」、と諦めている人がいるでしょうか。
もしそういう人がいるなら、是非、この御言葉に立ち返ってください。
その人のためにも、キリストは死なれた。
あなたのためだけではないのです。その人のためにも、キリストは死なれたのです。
人間をどのような存在として捉えるか。これは、私たちにとって、決定的に大切なことです。
それによって、私たちは、その人にどう接するかを決めるからです。
主イエスは、私たちを救うために、十字架にかかってくださいました。
それは、ある特定の人だけのためではなく、すべての人のためであったのです。
主イエスは、あの十字架の上で、自分を十字架につけ、自分を嘲り、罵る人たちのために祈られました。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているか、分からずにいるのです。」
自分を殺そうとする人のためにさえ、主イエスは、命懸けの祈りを献げられました。
ですから、私たち一人一人は、例外なく、この祈りの対象とされています。

自分に敵対する人。自分にとって厄介な人。自分にとって価値がないと思われるような人。
いや、むしろ、いて欲しくない、とさえ思ってしまうような人。
でも、その人のためにも、主イエスは死なれたのです。その人のためにも、主イエスは十字架の上で祈られたのです。
その人も、主イエスの、命懸けの愛の対象とされているのです。
この思いが、私たちの人間関係の根底に、いつもあって欲しいと願います。
それは、教会の中においては勿論ですが、教会の外の人に対しても、そうでなければいけないと思います。
「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」。
伝道するときにも、この御言葉が基本になります。
伝道する時に、最も必要なことは、この人のためにもキリストが死なれた、ということを覚えていることです。
あなたのために、神の独り子が、十字架について死なれたのですよ。
あなたは、それほどまでに愛されているのですよ。このメッセージを伝えることです。
誰一人として、この福音の対象から漏れている人はいないのです。
63年前のことです。立教大学で教えていた、チャールズ・ペリーという宣教師がいました。
ある晩、したたかに酒に酔った他の大学の学生2人が、何の恨みのないペリー先生のお宅に石を投げ込み、それをとがめた先生に、一人が殴りかかりました。
殴られたペリー先生は、倒れて頭を強く打ち、脳内出血が原因で、間もなく召されました。
ペリー先生は最後に、その苦しい息の下から、「どうか、あの青年を赦してやってほしい。
酔いが醒めたら自分の過ちを教えてやって欲しい」、と言って召されていきました。
その翌々日、慎ましやかな告別式が大学のチャペルで行われました。
加害者の学生の母親が、ペリー夫人にお詫びに来ました。
その悲痛な挨拶を聞いて、夫人は、「私は、今、この地上に、夫を殺された私以上に、苦しみ、悲しむ人のいることを知りました。
あなたのために、私たちの主イエス・キリストにお祈りさせていただきます」、と言いました。
夫人の腕の中で、その母親は声を上げて泣きくずれました。
殴られて死ぬ間際にも、「自分を殺した学生を赦してやって欲しい、その学生を立ち直らせて欲しい」、と言い残したペリー先生。
また、その学生の母親のために祈ります、と言ったペリー夫人。
お二人は、「この人のためにも、キリストは死なれた」、という信仰に生きていたのです。
ですから、そのような言葉が、とっさの時に口に上ったのだと思います。
教会の中でも、外でも、この御言葉によって、人と接するならば、まことの平安があります。
主イエスの十字架の愛が、強く迫って来る時、一人一人の魂を、主がどんなに愛しておられるかが見えて来ます。その時、一人一人の魂の重みを、しっかりと感じ取ることができます。
主イエスから見たら、この私は、どういう存在なのか。主イエスにとって、この私は、どれほどの価値があるのか。 皆さん、そのことを思ってみましょう。
その時、私たちに迫って来る御言葉があります。 イザヤ書43章4節の御言葉です。
「私にとって、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」 
主イエスは、この同じ御言葉を、私にも、そして、弱い兄弟にもかけられているのです。
あなたは、高価で尊い。そしてこの人も高価で尊い。あの人も高価で尊い。
あなたも大切。そして、この人も大切。あの人も大切。
主イエスは、そう言われています。同じ言葉を、すべての人にかけておられるのです。
ですから、私たちは、隣人を見るとき、自分の目に映る、その人の姿を見るのではなく、主イエスの目に映る、その人の姿を、見たいと思います。
私流の愛し方ではなく、神様の愛し方で、その人を愛したいと思います。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」
主イエスが、十字架で叫ばれたこの言葉。この言葉の彼らとは、私のことです。
そして、あなたのことです。そして、この人、あの人のことです。
「あなたを生かすために、私はこの命をささげる。私の命よりも、あなたの命の方がもっと大切だからだ。」 
これが、十字架の上に示された神様の御心です。だから主は、十字架に上られたのです。
主は、私たち一人一人を、ご自身の命をささげるほどに、愛してくださっているのです。
私の命よりも、あなたの命の方が、もっと大事だ、と言ってくださっているのです。
このような愛によって、神様に愛されているとは、何と素晴らしいことでしょうか。
私たちが、この主の愛に生きたなら、教会から争いはなくなります。
世界の人が、この主の愛に生きたなら、この世から、争いはなくなります。
「この人のためにもキリストは死なれた」。
この御言葉に迫られた時、たとえ戦場であっても、相手の人を傷つけることが、出来なくなる筈です。銃口を向けることが、出来なくなる筈です。
「その人のためにもキリストは死んでくださった」。
愛する兄弟姉妹、この素晴らしい言葉を、しっかりと握りしめ、この言葉を、一人でも多くの人に届けていきましょう。
主イエスが、ご自身の命をささげられたほどに、大切にされた一人一人の魂の重さを、しっかりと感じ取っていきたいと思います。