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柏牧師:過去の礼拝説教

「聖霊によって知る恵みの深さ」

2022年07月03日 聖書:コリントの信徒への手紙一 2:10~16

森有正という哲学者がいました。
穏やかな語り口にもかかわらず、鋭い洞察力に満ちた文章で、多くの人に感銘を与えた人です。
彼はまた、優れたフランス文学者でもありました。
彼の祖父は森有礼という明治のクリスチャン政治家で、父は森明という牧師でした。
そのような家に生まれたので、彼は、生後間もなく幼児洗礼を授けられました。
成長した森有正は、母校の東京大学で、哲学とフランス文学を教えました。
その後フランスに渡り、パリ大学で日本文化を教えています。
このように、日本を代表する知識人でしたが、何故か、彼の心は悶々としていました。
それは、幼児洗礼を受けていましたが、キリストの救いが分からなかったからです。
キリストの救いが分からないため、何十年もの間、悶々とした日々を送っていたのです。
しかしある時、こう言われました。
「あなたの心は、様々な知識や思想で満ち溢れています。でも、それではキリストは分かりません。キリストが分かるためには、キリストに自分の心を明け渡さなければなりません。」
これを聞いて、自分の知識や思想を一旦脇に置いて心を空にし、祈りの中で自分を明け渡した時に、キリストのことが少しずつ分かってきたそうです。
森有正は、「どうしてこのことを、誰も私に教えてくれなかったのだろうか」、と書いています。
彼は日本を代表する知識人でした。でも、その彼でさえも、その知識をもっては、キリストの救いが分からなかったのです。
十字架に示された、神様の愛が分からなかったのです。
しかし、心を明け渡した時に、十字架の救いの恵みが、目の前に開かれてきたのです。
皆さん、今朝のメッセージのキーワードは、この「明け渡す」ということです。
私たちの心の内にある様々な知識や思い。それらを、一旦脇に置いて、心を空にする。
そして、空っぽになった心に、神様の霊、聖霊に入っていただく。
その時初めて、神様の恵みが分かる。今朝の御言葉はそう言っています。12節です。
「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。
それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。」
ここにある「神から恵みとして与えられたもの」とは、いったい何でしょうか。
文脈から判断すれば、それは十字架の救いのことです。
十字架にかけられた主イエスは、人間的に見れば、極めて惨めで、愚かさそのものでした。
でも、心を明け渡して、神様の霊を受けた時、それが変わるのです。
十字架の意味が分かり、その恵みが迫って来るのです。
このお方は、私たちのすべての罪を担い、私たちに代わって十字架にかかってくださった。
そのことによって、私たちの罪の債務証書は、十字架の上で完全に廃棄された。
このお方が十字架にかかったのは、ご自分の罪のためではない。
この私の罪のために、十字架にかかられたのだ。このことが、初めて分かるのです。
心を明け渡して聖霊を受けた時に、初めてこの十字架の恵みが、分かるようになるのです。
「心を明け渡す」ということについて、想い起すことがあります。
私は6月20日から22日まで、実に20年ぶりにアシュラムに参加しました。
今回参加したのは、牧師を対象とする「教職アシュラム」でした。
アシュラムとは、ただひたすらに聖書の御言葉に聴き、祈ることに集中する集会です。
このアシュラムを日本に紹介したのは、スタンレー・ジョーンズというアメリカ人宣教師です。
スタンレー・ジョーンズ先生は、「心を明け渡す」ということを熱心に説いた方です。
先生は、ある集会の中で、「心を明け渡す」ということを、このように説明されました。
いっぱいに水を満たした二つのコップを両手に持って、「皆さん、このコップの水を、こっちのコップに移すには、どうしたら良いと思いますか」、と先生は質問しました。
どちらのコップにも、水が溢れるばかりに満たされています。
会衆が答えられずにいると、スタンレー先生は、片方のコップの水を、さっと傍らの植木鉢に捨てて、空になったコップに、もう片方のコップの水を移しました。そして、こう言いました。
「皆さん、皆さんの心には、様々な考えや思いがいっぱいに詰まっています。
それらを明け渡して、心を空っぽにしてください。
そうすれば、聖霊が皆さんの心に注がれます。」
スタンレー先生が言われるように、私たちが、自分の知識や思いを一旦捨てて、心を明け渡す時に、神様の霊、聖霊が心に入ってくださいます。
でも、このようなコップの譬えなら、子供でも分かります。しかしこれは、心の問題なのです。
心の問題は簡単ではありません。一体どうすれば心を明け渡すことができるのでしょうか。
田原米子さんという方がおられました。
米子さんは、高校性の時に、最愛のお母さんを、突然病気で失いました。
何から何まで、頼り切っていたお母さんを失って、米子さんは自暴自棄になり、走って来た電車に衝動的に飛び込んでしまいました。
救急隊員と病院の素晴らしい処置によって、命は助かりましたが、両足と左手を失い、残ったのは右手と3本の指だけでした。
米子さんは、どうして死なせてくれなかったのかと嘆き、命を助けてくれた人たちに、あらん限りの悪態をついて反抗しました。
そして、「眠れない」と嘘を言って、毎晩睡眠薬を貰い、それを枕の下に秘かに隠して、貯め込みました。
貯まったら、それを一気に飲んで、自殺しようと思ったのです。
そんな米子さんのところに、毎日のように訪ねてくる人たちがいました。
アメリカ人宣教師と、宣教師志願の日本人の青年でした。
米子さんは、彼らにも、激しい口調で悪態をつきました。ところが彼らは、どんなにひどいことを言われても、次の日、またニコニコしながら訪ねてくるのです。
そんな日がかなり続きました。米子さんは、次第に彼らの明るさに心惹かれていきました。
そして、もしできるなら、私もあの人たちのように生きてみたい、と思うようになりました。
そして、あの人たちが勧めるように、祈ってみようと思ったそうです。
もし祈っても何も変わらなければ、その時は、貯めてある睡眠薬を飲んで死ねば良い。
そう思ったそうです。そして、米子さんは、生まれて初めて祈りました。
「神様、助けてください。もしあなたが、本当にいるなら、どうかあなたのことを分からせてください。」 
短い祈りです。でも、心からの叫びでした。
祈った後、その晩は何故か、病院に運ばれて以来、初めてぐっすりと眠れたそうです。
そして、次の日の朝です。米子さんの見る世界が一変しました。
昨日までと全く同じ病室なのに、すべてが輝いて見えたのです。
窓から差し込んでいる日の光が、たまらなく温かく、また愛おしいものに感じられたのです。
そして、右手と指3本しか残っていない、と思っていたのに、右手と指が3本も残っている。
これがあれば、箸も持てる、鉛筆も握れる。そう思ったそうです。
皆さん、これが、心を明け渡して、聖霊に入っていただく、ということなのです。
米子さんの心は、自殺しようと思ったのに、助かってしまったことへの絶望感。
助けてくれた人に対する、「余計な事をしてくれた」、という恨みや辛み。
そして、自分の気持ちなど誰も分かってくれない、という反抗心で満ちていました。
ですから、人々の慰めや励ましの言葉も、一切受け付ける余地がなかったのです。
でも、それらの様々な思いを、一旦、脇に置いたのです。そして祈りました。
「神様、もしあなたが、本当にいるなら、どうかあなたのことを分からせてください。」
この短い祈りを祈った時、米子さんの心は開け放たれ、絶望や、恨み辛みや、反抗心に代わって、神様の霊、聖霊が、米子さんの心に入ってくださったのです。
皆さん、心を明け渡すということは、様々な思いを、自分の力で追い出すことではありません。
米子さんのように、それらを一旦脇に置いて、祈ることなのです。
「神様、私はあなたのことが分かりません。でも、もし、あなたが本当におられるなら、どうか私に分からせてください」。このように祈るのです。
その時、聖霊が、神様のことを分からせてくださいます。
皆さんの中に、キリストの救いの意味が、今一つ分からないという方はおられるでしょうか。
主イエスは、素晴らしいお方だと思うけれども、自分を新しい命に生かしてくれる救い主だと、信じることができない。
そう思われて、悶々としている方がおられるでしょうか。
そういう方にお勧めします。是非、この祈りを祈ってください。
「神様、私は主イエスの十字架の意味が分かりません。どうか分からせてください。」
このように祈ったからと言って、直ぐに分かるようになるとは限りません。
でも、諦めずに祈り続けて下さい。
必ず、聖霊なる神様が、あなたの心に働きかけて下さり、やがて分かるようにしてくださいます。
十字架の救いの意味は、神様からの霊を受けることなしには、知ることが出来ません。
聖霊によらなければ、誰もイエス様を主と呼ぶことはできないのです。
10節でパウロは言っています。
「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。
“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。」
「神の深みさえも究める」。大変心惹かれる言葉です。
聖霊は、神様の恵み深さを、その極みまで知っておられる。
その霊が、私たちに一人一人に与えられる、というのです。
神様が、どれ程、私たちを愛してくださっているか。その神様の愛の深さ、恵みの大きさ。
それは、私たち人間が、どんなに考えても、知ることが出来ないほど、深くて大きいものです。
古代教会最大の神学者であったアウグスティヌスも、この神様の愛の深さ、恵みの大きさを知りたいと、熱心に求めた一人でした。
ある時、そのことをしきりに考えながら、海辺を散歩していると、一人の少年が小さなスプーンで、一生懸命に海水を汲み、これを陸に注いでいるのを見かけました。
「何をしているの」と聞くと、その少年は「海の水を干そうとしているのです」、と答えました。
「そんな小さなスプーンで、この広い海の水を干すことは、とてもできないよ」。
アウグスティヌスが、笑いながらそう言うと、その少年がすくっと立って、こう言いました。
「私は、神から遣わされた天の使いです。
あなたが、神の恵みの偉大さについて、知り尽くそうとするのは、私が、この小さなスプーンで、海の水を干そうとするよりも、もっと難しいことなのです」。
そう言ったかと思うと、たちまちその少年の姿が消えた。そういう伝説が残っています。
私たちも、アウグスティヌスのように、自分の考えで、神様の愛の深さ、恵みの大きさを知ることが出来る、と思い込んでいるところがあります。
しかし神様が、どれ程私たちを愛してくださっているか。それは神様ご自身しか知りません。
神様の恵みのまことの深さ、その恵みのまことの大きさは、神様しか知りません。
私たちには、神様の恵みのすべてを、知り尽くすことなどできないのです。
もし、私たちが、神様の愛が分かったと思っても、主は、「いや、私の愛は、そんなものではない。私はもっともっと、あなたに与えたいのだ」、と言われます。
私たちが知ることができるのは、神様の恵みの、ほんの一部に過ぎないのです。
しかし、そのほんの一部であっても、私たちには、大き過ぎるほどの恵みなのです。
ほんの一部であっても、余りあるほどの恵みなのです。
瞬きの詩人と言われた水野源三さんが、このような詩を書いておられます。
「神様、今日も御言葉をください/ 一つだけで結構です/ 私の心は小さいですから/ たくさんいただいても溢れてしまい/ もったいないので」
私の大好きな詩ですが、この詩は、私たちの正直な気持ちを詠っています。
皆さん、私たちの一生は、神様の恵みを発見し、その恵みの大きさに驚き、その恵みに生かされて歩み続けていく旅路なのです。
でも、繰り返しますが、神様の恵みを知り尽くすことは、私たちにはできません。
それでは、神様の恵みを知り尽くさずに、この世の旅路を終えても大丈夫なのでしょうか。
かつて、鎌倉雪ノ下教会の牧師をされていた加藤常昭先生が、この箇所からの説教の中で、このようなことを語っておられます。
「私は、教会の牧師をし、神学校で教え、たくさんの本を書いてきた。
しかし神について、キリストについて、学ばなければならないことが、まだまだ膨大にある。
こんなに奥の深い神学の、ごく一部しか学んでいないのに、なぜ平然と牧師をしていられるのか。
なぜ神学者として、神学校で教え、本を書くことが出来るのか。
それは、神様の恵みの深みを究めておられる、聖霊を頂いているからだ。
人間は、神様のことを知り尽くすことなど到底できない。
でも、私は、神様の恵みの深みを究めておられる、聖霊をいただいている。
その聖霊が、ほんの一部ではあるけれども、神様のことを知らせてくださる。
私は、そこに立っているのだ。」 加藤常昭先生はそう言っているのです。
皆さん、私たちも、加藤先生と同じところに、立たせて頂きたいと思います。
神様の恵みの深みを究めておられる聖霊を頂き、計り知れない神様の恵みのほんの一部を知らされ、その恵みに押し出されて歩んでいきたい、と願います。
さて、14節、15節に、「自然の人」と「霊の人」という言葉が出てきます。
御言葉は、世の中には「自然の人」と「霊の人」の、二種類の人がいると言っています。
では、ここで皆さんに質問させて頂きたいと思います。
皆さんは、ご自分のことを、「自然の人」だと思っておられるでしょうか。それとも、「霊の人」だと思っておられるでしょうか。
もし、「あなたは霊の人ですか」と問われるなら、「いや、とんでもない。私はとても霊の人と呼ばれるような者ではありません」と、必死になって否定されるのではないかと思います。
恐らく、長く教会生活を続けている人でも、ほとんどの人は、「私は霊の人などと呼ばれるのに相応しくない」、と言われると思います。
では、ここにある「自然の人」とは、どのような人のことでしょうか。
以前の口語訳聖書では、「生まれながらの人」、と訳されていました。
御言葉は、「自然の人」、或いは「生まれながらの人」とは、神様の救いの御業を受け入れず、それを愚かなことだと捉える人である、と言っています。
つまり、自然の人とは、十字架に示された神様の愛を、愚かなことと捉えて、理解しようとしない人のことだ、というのです。
皆さん、どうでしょうか。皆さんは、十字架の愛を、愚かなことだと捉えておられるでしょうか。
そんなことはないと思います。
私たちは、十字架に示された神様の愛を知っています。その尊さを知っています。
たとえほんの一部であっても、神様の恵みの深さを知り、それによって生かされています。
そうであれば私たちは、自然の人ではなく、霊の人なのです。
でも、一般的に、霊の人とか、霊的な人と言うと、精神的な高揚感に満ちていて、神秘的な雰囲気を漂わせている人を連想してしまいます。
しかし、パウロが、ここで言っている霊の人とは、そういう人のことではありません。
そうではなくて、パウロが、ここで言っている霊の人とは、聖霊の導きによって、神様の恵みが分かった人のことです。それが、霊の人であるというのです。
そうであれば、私たち信仰者すべてが、霊の人であるということになります。
もし私たちが、十字架を愚かなものとせず、恵みとしているなら、私たちは霊の人なのです。
もし私たちにとって、十字架の恵みが尊いものになっているなら、私たちは霊の人なのです。
もし、私たちが、キリストの思い、キリストの心を、自分自身の思い、自分自身の心としたいと願っているなら、私たちは霊の人なのです。
霊の人というのは、熱狂的な信仰者のことではありません。
むしろ、静かに、心の奥深いところで、神様との交わりを喜んでいる人のことなのです。
大切なことは、聖霊の導きによって、神様の恵みを知っている、ということなのです。
16節の御言葉は言っています。「しかし、私たちは、キリストの思いを抱いています。」
霊の人とは、キリストの思い、キリストの心に生きたい、と願っている人のことです。
私たちは、何か問題に出会った時には、「こういう時、主イエスならどうされるだろうか」、「主イエスなら何と言われるだろうか」、と尋ねつつ歩んでいきたいと願っています。
もし私たちが、心を明け渡し、心の内に聖霊を迎え入れているならば、そのような歩みの、小さな一歩を踏み出すことができます。
そして、茅ヶ崎恵泉教会のすべての教会員が、そのような思いでいるなら、教会はどんな時にも一つとされます。どんな問題でも、解決される筈です。
主イエスは、私たちすべての者の心が、この主イエスの御心に向かって、一つとなることを、願っておられます。
「しかし、私たちは、キリストの思いを抱いています。」
茅ヶ崎恵泉教会に、この御言葉が実現しますように、共に祈り求めてまいりましょう。