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柏牧師:過去の礼拝説教

「私たちは神の神殿」

2022年09月04日 聖書:コリントの信徒への手紙一 3:10~17

以前仕えさせて頂いた、ある教会の婦人会で、ちょっとした神学論争が持ち上がりました。
婦人会で論争をするというのは珍しいことです。一体、どのような論争だったのでしょうか。
それは、「果たして自分は天国に行けるのか」、ということについての論争でした。
その発端は、あるご婦人の信徒が、「私は本当に信仰が薄くて、罪深いから、とても天国には行けないと思っている」、と言われたことから始まりました。
これを聞いて、他のご婦人が、「あなた、何言ってるの!私たちは、どんなに罪深くても、イエス様の十字架によって罪赦されて、天国に行けるんじゃなかったの。
私たちは、それを信じて、洗礼を受けたのでしょう」、と反論されたのです。
すると、「そう信じてはいるのよ。でも自分の罪深さを見つめると、とても天国には行けないのではないかと、どうしても思ってしまうの」、と呟かれたのです。
同じような議論は、多くの教会でも、しばしばなされるのではないでしょうか。
また私たち自身も、そのような問いを、繰り返して自分に投げ掛けていると思います。
こんなに罪深い私が、果たして天国に行けるのだろうか。
これは多くのクリスチャンが、心の片隅に秘めている、本当に真剣な問いだと思います。
今朝の御言葉は、その問いに対する答えを、示してくれています。
さて、今朝の御言葉で、パウロは、教会を建物に譬え、自分のような伝道者を、建築家に譬えています。
そして、教会を建てた自分について、「神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」、と述べています。
「熟練した建築家のように」。
恐らくこの言葉は、多くの牧師たちを、困惑させるのではないかと思います。
私の様な貧しい者は言わずもがなですが、長年牧会をして来られた経験豊かな牧師であっても、自分のことを「熟練した牧師」である、などとは言うことはできないと思います。
もしある牧師が、「私は熟練した牧師として一言申し上げます」、などと言ったなら、恐らく多く人から、ひんしゅくを買うことになると思います。
私は、聖日礼拝の説教の時に、とてもこの聖壇に上ることができない、という畏れの念に囚われて、椅子から立ち上がることができなくなることが、しばしばあります。
でも、その時、聖壇の傍らに立っておられる主イエスを、心の目で見させて頂きます。
そして、その主イエスが、慈しみの眼差しを注いでくださり、「さあ、安心してここに来なさい。私が傍にいて、あなたを支えるから」と言われて、手を差し伸べてくださるのです。
その主イエスのお招きに突き動かされて、ようやく立ち上がることができています。
「よし、今朝は自信をもって説教するぞ」、などと思ったことは一度もありません。
恐らくどの牧師も同じだと思います。
「自分は熟練した牧師だ」などと言える人、恐らく一人もいないと思います。
では、パウロはなぜ、自分は熟練した牧師だ、と言うことができたのでしょうか。
ここで言う熟練した牧師とは、「十分な経験を積んでいるので、間違いを犯さない牧師」、という意味ではありません。
そうではなくて、しっかりとした土台を据えることができる牧師のことです。
パウロは、教会という目に見えない建物を建てるに当たって、何よりもその土台を、しっかりと据えたと言っています。
では、その土台とは何でしょうか。言うまでもなく、それは、十字架の主イエスです。
パウロは、自分は、十字架の主イエスを、教会という建物の土台にしっかりと据えた。
そして、それこそが、「熟練した建築家である」ということなのだ、と言っているのです。
皆さん、私たち一人一人も、自分の信仰生活という建物を、建て上げている建築家です。
信仰生活を建て上げるとき、私たちは、何を土台とするかを選ばなくてはなりません。
皆さんは、どのような土台を選ばれたでしょうか。
コリントの教会員が、「私はパウロにつく、私はアポロに、私はペトロに」、と言っているように、自分を信仰に導いてくれた牧師を土台としている、ということはないでしょうか。
或いは、信仰を持った今も尚、自分の思想や信念を、信仰生活の土台に据えている、ということはないでしょうか。
でも、どんなに偉い指導者がいたとしても、その人を、信仰の土台にしてはならないのです。
また、自分の思想や信念が、どんなに素晴らしくても、それを信仰の土台にしてはならないのです。
私たちの信仰生活の土台は、ただ十字架の主イエスだけでなければならないのです。
その上に築くのであれば、どのような信仰生活であっても、大きく間違うことはありません。
私たちは、これ以外のものを、土台にしないように、気を付けながら歩んでいきましょう。
建築において、土台は目には見えません。でも、最も大切です。
皆さんの中には、昔の帝国ホテルの建物を覚えておられる方もおられると思います。
今は、明治村に移設されていますが、あの建物は、近代建築の巨匠と言われた、フランク・ロイド・ライトの設計によるものです。
基礎工事の時、ライトの指示によって、岩盤に届くまで深く掘って、土台を据えたそうです。
その苦労は、並大抵のものでは無かった、と伝えられています。
しかし、今から99年前の9月1日、関東大震災が起きました。
その時、東京の建物は、ほとんど崩壊しましたが、帝国ホテルだけはびくともせず、ひび割れ一つ入らなかったそうです。土台がしっかりしていたからです。
2年前に献堂したこの会堂も、土台をとても大切にして建てられました。
床下全体が、分厚い鉄筋コンクリートで覆われているベタ基礎という構造となっていて、耐震性や耐久性に優れた土台になっています。
また、地面からの湿気も遮断できるので、パイプオルガンの湿気対策上も優れています。
今でも忘れられないのですが、基礎工事の日には、約50台ものコンクリートミキサー車が、10分おき位に次から次に来て、一日がかりで大量のコンクリートを流し込みました。
教会を建て上げることにおいても、また個人の信仰の形成においても、最も大切なことは、このようなしっかりとした土台を据えることです。
イエス・キリストを主と信じる信仰が、土台として、しっかりと据えられていることです。
それ以外の土台を、据えてはならないのです。
もし、他の土台を据えたなら、それはもはや教会ではあり得ません。その人はもはや、キリスト者とは言えません。
パウロは、更に語っています。「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる」。 
イエス・キリストという土台の上に、家を建てる。
この家とは、教会のこととも採れますが、また一人一人の信仰生活と採ることもできます。
一人一人の信仰生活を、どのように建て上げるか。そのことを問題にしているのです。
その時、ある人は金や銀や宝石を用い、ある人は、木、草、わら、などを用いるというのです。
これは、私たちが、どのような信仰生活を建て上げるか、ということの比喩です。
イエス・キリストという土台の上に、ある人は金や銀や宝石のような、朽ちない素材で家を建てる。でも、ある人は、燃え易い木や草やわらで家を建てる。
そのように、おのおのの信仰生活の建て上げ方は異なっている。
そして、終末の時に、再臨される主イエスによって、信仰生活が吟味されます。
御心に適わないものは燃え尽きてしまい、御心に適ったものは報いを受けるというのです。
さぁ、このことを聞かれて、皆さんは、どう思われたでしょうか。
恐ろしいことを聞いた。それなら、私は、もう駄目だ、と思われたでしょうか。
冒頭の、教会の婦人会での論争を想い起してください。
「私は、とても天国には行けないと思う」、と言われたご婦人の思いに、「あー、私もそうだ」と、ご自分の思いを重ねられたでしょうか。
でも皆さん、ここで、私たちが、はっきりと知っておかなくてはならないことがあります。
皆さん、聖書の御言葉を注意深く読んでください。
ここで問題とされているのは、私たちの仕事、つまり私たちの業なのです。
吟味されるのは、私たちがなした業であって、私たち自身ではありません。
御心に適わない業であったからと言って、私たち自身が滅ぼされるのではないのです。
先ほどの、厳しい言葉の後に、素晴らしい慰めの言葉が語られています。
「ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」。
もし、私たちの救いが、そのなした業によって、決定されるのであれば、誰一人として、主イエスの吟味に耐えることはできないと思います。
誰一人として、私は金のような信仰生活を建て上げました、などと言える人はいません。
神様は、私たちの心の内のすべてをご存知です。
その神様の前に立った時、「ご覧ください、主よ。私は金や銀や宝石のような信仰生活を建て上げました」、などと言える人は誰もいません。
すべてをご存知の主の前では、そんな高慢な思いは、完全に打ち砕かれてしまいます。
私たちの業は、御心に適わないことだらけであることを、誰よりも、私たち自身が良く知っています。
私たちのなした業は、燃え尽きてしまう、木や草やわらの家のようなものなのです。
しかし皆さん、私たちの神様は、吟味されますが、それにも増して救いの神様なのです。
ですから、たとえ私たちの業は滅ぼされても、私たちが、主イエスを土台としている限り、私たち自身は救われるのです。
主イエスを土台としているなら、その上に建てた家が、たとえ木や草やわらで出来ていようと、私たち自身は、火の中をくぐり抜けて来た者のように救われるのです。
たとえ、建てた家は燃え尽きてしまっても、建てた私たち自身は救われるのです。
冒頭の婦人会の天国論争で言えば、どんなに貧しい信仰であっても、主イエスを土台としている限り、私たちは天国に行けるのです。主の救いは揺るがないのです。
主は言われています。「私は十字架の上で血を流し、あなたを贖い取った。もう、あなたは私のものだ。この事実は、どんなことがあっても、決して変わらない。」
私たちは、この救いの確かさを信じて、希望をもって歩んで行きたいと思います。
でも皆さん、ここで私たちは、「あー、良かった」と喜んでいるだけで、良いのでしょうか。
私たちは、もう一人のご婦人が言った言葉。
「自分の内側を見つめるとき、とても天国には行けないと思ってしまう」、という言葉。
この言葉も、無視することができません。この言葉の重みも、しっかりと受け止めなければならないと思います。
なぜなら、私たちすべてが、このような思いを、心の奥底に秘かに持っているからです。
ですから、「あー、良かった。天国に行けるんだ」と、喜んでいるだけではいけないのです。
確かに、私たちは天国に行けます。しかし、そのために、どれほど大きな犠牲と苦しみが、神様の側にあったのかを、私たちは、忘れてはならないのです。
それを忘れて、ただ呑気に喜んでいるだけなら、私たちは、主イエスの十字架の恵みを、安っぽいものにしてしまいます。
この私を救うために、神様ご自身が味わってくださった、あの十字架の耐え難い苦しみ。
あの十字架の救いを、安価な恵みとしてしまいます。
神様は、私たちがどれほど罪深くても、無条件で救ってくださいます。
そのために、主イエスは、十字架の上で、極限の苦しみを味わい、私たちに代わって、死んでくださったのです。
その恵みに迫られた時、私たちは、少しでもその恵みに応えたい、と思うのではないでしょうか。
私たちが、神様の恵みに応えようとしてなす業は、わらのように燃え尽きてしまう、貧しいものです。本当に小さくて、取るに足らないものです。
そうであっても、私たちが精いっぱい応えていこうとするとき、神様は、その思いを喜んでくださいます。
私たちの、小さな、貧しい応答を、この上なく喜んでくださいます。
ですから、私たちは、たとえほんの僅かであっても、神様の恵みに対して、精いっぱい応えて、神様に喜んで頂くことを、目指すべきなのではないでしょうか。
たとえ、わらのように貧しい信仰生活であっても、少しでも神様に喜んでいただけるように、精いっぱい恵みに応えていく。 
それが、私たちの信仰生活の、目標ではないでしょうか。
この救いの御言葉に続いて、16節には、更に祝福に満ちた御言葉が語られています。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」。 
これは本当にすごい言葉です。
あなたがたは、神の神殿である、と書いてあるのです。
私たち一人一人の中に、神様が住んでいてくださるというのです。
何という畏れ多い言葉でしょうか。私たちは、この言葉にためらいを覚えてしまいます。
なぜなら、私たちは、自分の心が、どれほど汚れているかを知っているからです。
ですから、私たちは、こう言います。
「いえ、主よ、私の心は、あなたをお迎えするには、あまりにも汚れています。
あなたをお迎えすることなど、もったいなくて、とてもできません。」
しかし、主イエスは、それに対して、優しくこう応えてくださいます。
「お前はまだ、私のことを分かっていないね。お前は、私が、どこに生まれたのか知らないのか。牛のよだれや糞で汚れた飼い葉桶に、私は生まれたのだよ。
そして、貧しい大工の子として、生活の苦しさのすべてを味わったのだ。
その後の宣教活動も、汗と埃にまみれた旅だった。枕する所もないような日々だった。
そして最後は、あの十字架の上で、惨めな死を遂げたのだ。私は、そこまで低くなったのだ。
一体何のために、そうしたと思うのか。
これらはすべて、お前を救うため、お前の罪を赦して、お前を私の神殿とし、お前の中に住むためなのだったのだ。
だから、お前は、私を拒否してはならない。
もし拒否するなら、私が飼い葉桶に生まれたことも、十字架で死んだことも、すべて無駄になってしまうのだ。」
主は、そう言われているのです。
ですから、私たちは、「主よ、ありがとうございます」と、ただ感謝して、心の中に主をお迎えする他ないのです。
日本が生んだ世界的な伝道者で、高名な社会運動家でもある賀川豊彦という方がいました。
平和学園の初代理事長として、茅ヶ崎とも縁の深い人です。
ある時、一人の酔っぱらいが、賀川の所に来て、こう言いました。
「先生、神様を見せてくれ。神様を見せてくれたら、信じてやる。」
賀川はこう答えました。「よし、それでは見せてやろう。でも、神様は、私にとって、一番大切な方だから、そう簡単には見せられない。
先ず、君の一番大切なものを見せてくれ。そうしたら、神様を見せてあげよう。
君にとって、一番大切なものは何かね」。
「先生、そりゃ、命だ」。「では、君の命を見せてくれたまえ。」
その人は、自分の胸をたたいて、「先生、これが命だ」と言いました。
「いや、それは君の服だよ。命はどこにあるのかね。」
その人は、服を脱いで、はだけた胸をたたいて、「これが命だ」と言いました。
「いや、それは君の胸だよ。命はどこにあるのかね。」
「先生、命は確かにあるけど、見せることはできないよ。」
賀川が言いました。「そうだろう。神様も、確かにおられるけれど、見ることはできないお方なのだよ。でも神様は、この私の胸の中に、確かにおられるのだよ」。
皆さん、神様は、私たちの内に、確かにいてくださいます。
私たちが、どんなに汚れていても、「私はお前の中に住みたいのだ」、と言ってくださって、私たちの内に宿ってくださいます。
私たちに、価値があるから、そう言ってくださるのではありません。
ただ、私たちを愛してくださる。その愛のが故に、「お前の中に住みたいのだ」と言ってくださるのです。
主は、「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」、と言ってくださり、この様な罪深い者を、ご自身が宿る神殿としてくださるのです。
皆さん、私たち一人一人は、聖霊なる神様が、住んでくださる神殿なのです。
私たち一人一人は、大切な存在なのです。私たち一人一人は、尊い存在なのです。
ですから、「どうせ、私なんかダメな者だから」、などと言ってはいけません。
「主よ、私はこんなに汚れた者ですが、どうか、この私の中にお住みください」と言って、ありのまま自分を神様に差し出していくのです。
その時、主は、「ありがとう」と言われて、喜んで私たちの内に、来てくださいます。
皆さん、私たちは、どんな時も、イエス・キリストを土台として、歩んでいきましょう。
そして、私たちの内に住んでくださっている神様と、活きた霊の交わりを喜びつつ、歩んでまいりましょう。
この後、讃美歌512番をご一緒に賛美いたします。その4節は、次のように歌っています。
「私の内に、あなたが住んで、み旨のままに、用いてください」。
愛する兄弟姉妹、この讃美歌を歌いつつ、主の救いを信じて、共に歩んでまいりましょう。