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過去の礼拝説教

「わたしは主を見ました」

2018年04月08日 聖書:ヨハネによる福音書 20:11~18

クリスチャン医師の柏木哲夫先生は、その著書の中でこう語っておられます。

“「励ます」と「寄り添う」とは違う。励ますというのは、外から動かす力である。

相手を励ますために、「がんばりましょう」、と声をかける。それは、自分はあまり関与しなくていいことなのである。「がんばりましょう」と言ったら、後は、がんばるか、がんばらないかは、相手の問題になる。励ましたから、自分の役割は、終わったのである。

一方、「寄り添う」というのは、自分も参加することである。そばにそっと寄り添うというのは、そこから逃げ出さないで、空間を共にする、という意味がある。ここから先は、あなた一人でやってください、私の役割は終わりましたよ、という訳ではないのである。

では、「支える」と「寄り添う」は、どう違うのか。「支える」は、「下支え」という言葉があるように、下からという感じを受ける。けれども「寄り添う」には、横からのイメージがある。

また、「支える」には、支えなかったら、この人は落ちてしまう、という気持ちがある。

しかし、「寄り添う」には、相手の力を信じる、という気持ちが、こちら側にある。

寄り添って横にいれば、やがて相手が、自分の力を取り戻して、立ち上がる。寄り添う人には、それを信じて待つ、という気持ちがある。” 柏木先生は、そう言っておられます。

今朝の御言葉には、悲しみの中で、ただ泣きながら、立ち尽くしていた、マグダラのマリアに、優しく寄り添われる、主イエスのお姿が、描かれています。

11節に、「マリアは墓の外に立って泣いていた」、と書かれています。

この時、マリアは、深い悲しみのために、ただ泣くしかなかったのです。

彼女は、週の初めの日の朝早く、まだ暗いうちに、主イエスの墓に行きました。

ところが、墓に行ってみると、墓から石が取りのけてあります。

彼女は驚いて、弟子たちのところへ、飛んで帰ります。そして再び、シモン・ペトロと、もう一人の弟子と共に、墓にやって来ました。

しかし、この二人の弟子は、墓が空であることを、見ていながら、さっさと家に帰ってしまいました。もしかしたら、この辺りに、主イエスを十字架につけた人たちが、いるかも知れない。その人たちに見つかったら、自分の身が危ない。

だから、ここにいるのは、危険だ。そう思って、急いで家に帰って行ったのです。

しかしマリアは、弟子たちとは対照的に、墓から離れずに、そこに立ち尽くしていました。

とても、立ち去ることなど、できなかったのです。

主イエスが、十字架で死なれただけでも、胸が張り裂けるほど悲しいのに、その上、お体さえも、どこかに運び去られてしまった。

言い尽くせない悲しみに、マリアは、ただ立ち止まって、涙する他なかったのです。

マリアは、まるで、迷子になって、一人で泣いている、子どものように、ただ泣いていました。

迷子の子どもに、大人が声を掛けます。「どうしたの。なぜ泣いているの。」

でも、子どもは、ただ泣いているだけです。「なぜ泣いているの」。再び尋ねた大人に、子どもが答えます。「ママがいないの」。

その時、その大人は、迷子の子を、励ますでしょうか。「頑張って、ママを捜しなさいね」。

そんな励ましの言葉を掛けても、その子は泣き止みません。

或いは、その子を支えようと思って、抱き上げたとしても、泣き止むことはありません。

怖がって、よけいに泣くかもしれません。励ましも、支えも、その子の涙を、止めません。

でも、誰かがそっと寄り添ってくれれば、その子は、やがて泣き止むのではないでしょうか。

迷子になった、幼な子のように、ただ泣き続けるマリアに、そっと寄り添う方がいました。

初めに、御使いが語り掛けます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。」

問われるままに、マリアは、自分の悲しみの理由を、語ります。「私の主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」

愛する人が死んだ時、私たちは、深い喪失感に、覆われます。その喪失感を、少しでも、癒そうとして、遺体に触れたり、遺品を取り出して、眺めたりします。

ところが、この時、主イエスの墓には、喪失感を癒す、遺体すらも、なくなっていたのです。

マリアは、主イエスの遺体に触れて、出来ることなら、もう一度、自分の方に引き寄せたい。そんな気持ちでいたのだと思います。

復活のことを、私たちは、「よみがえり」と言います。「陰府から帰って来る」、と言います。

しかし、復活とは、実は、死の世界から、この世に戻って来ることではありません。

死の世界を打ち砕いて、永遠の命を、与えられることなのです。ですから、正確に言えば、「陰府がえり」ではなくて、「陰府砕き」なのです。

でもマリアは、そのような、驚くべきことが、ここで起こっていることに、まだ気が付いていません。ですから、せめて、主イエスの遺体だけでも、取り戻そうとしたのです。

「なぜ泣いているのか。」

そう問われて、マリアは、「私の主が取り去られました」、と答えています。

「私の主」、という表現の中に、マリアの深い気持ちが、込められています。マリアにとって、主イエスが、どれほど大切なお方であったのか。その思いが、言い表されています。

かつて、七つの悪霊に捕らわれて、長く苦しんでいたマリアは、主イエスによって癒され、解放されました。それは、決して、人にはできない業であることを、彼女は知らされました。

このお方には、不思議な力と権威がある。このお方は、ただの人ではない。聖なるお方である。マリアは、そう信じていました。

ところが今、その確信が、揺らいでいるのです。主イエスを、「私の主」と呼んだ確信が、揺らいでいるのです。

この時のマリアにとって、主イエスは、十字架にかけられて、死んで葬られた、一人の人でしか、なかったのです。その意味においても、マリアは、主イエスを、見失っていました。

皆さん、私たちも、主イエスを、見失ってはいないでしょうか。主イエスのことを、一人の、偉大な教師に過ぎない、と捉えていることはないでしょうか。

主イエスが、私たちにとって、まことに「私の主、私の神」、となっているでしょうか。

主イエスは、十字架にかかってくださっただけでなく、「陰府砕き」をしてくださったお方。

「陰府砕き」をしてくださり、永遠の命の希望に、生かしてくださったお方なのだ。

この確信に、堅く立っているでしょうか。主イエスの復活こそ、私たちを、死の絶望と、暗闇から、贖いだす希望の光なのです。そのことを、改めて、覚えたいと思います。

「なぜ泣いているのか。」

天使が語ったのと、同じ問いを、復活の主イエスもまた、マリアに向けておられます。

主イエスは言われます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」

主イエスは、マリアの悲しみの理由を、再び問いつつ、マリアの心に近づいて行かれます。

マリアだけではありません。主イエスは、悲しみの中にいる、私たちにも、同じように、語りかけてくださっています。

「なぜ泣いているのか。なぜ、目を上げて、私を見ないのか。私はここにいるではないか。」

私たちが、迷子になったような思いの中で、涙している時、主エスは、静かに寄り添ってくださり、声をかけてくださっています。

その主イエスの御声を、聞き洩らさないように、したいと思います。

「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」

このように尋ねられても、マリアは、その人が、主イエスだと、まだ気がつきません。

恐らく、いつもの、主イエスの口調とは、違っていたからだと思います。主イエスが、マリアのことを、「婦人よ」などと、他人のように呼ばれることは、なかったのだと思います。

ですからマリアは、チラッと、振り返って見て、この人を園丁だと、思ったのです。

園丁と聞きますと、美しい庭園の庭師、という印象を持ちます。でも、ここでの園丁という言葉は、そうではないようです。正確には、墓守であったようです。

こんな早朝に、墓場にやってくるのは、きっと墓守だろう。マリアは、そう思ったのです。

この当時、墓守は、汚れた職業と考えられていました。復活の主イエスは、そのように、貧しく低い者のお姿で、ご自分を現されたのです。

私たちも汚れた者です。でも、その汚れた私たちが、遠慮なく、お傍に近づくことが出来るようにと、復活の主は、貧しく低い者のお姿をとって、現れてくださったのです。

これは、私たちにとって、大きな慰めではないでしょうか。

「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」主イエスは、マリアの悲しみの理由を、問われました。あなたの悲しみの、本当の理由は、何ですか。

時々、私たちは、悲しみの、本当の理由を分からずに、ただ悲しんでいることがあります。

大切なものを、失った悲しみ。確かに、その喪失感は大きいでしょう。

しかし、それは、突き詰めていくと、これから先、私は、どうしたら良いのだろうか。

何を頼りにして、生きていけば良いのだろうか。

そういう、不安からくる、悲しみであることが、多いのではないでしょうか。

これから私は、どうすれば良いのか。このマリアの不安に対して、主イエスは、優しく寄り添って、語り掛けてくださいます。

「マリアよ、私がいるではないか。ここにいるではないか。あなたと共にいるではないか。」

しかし、悲しみのあまり、何も見えなくなっていたマリアは、主イエスの方を、チラッと振り返っただけで、また直ぐに背を向けてしまいます。そして、答えます。

「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

墓守が、主イエスを、どこかにやってしまったのだろう。彼女は、そう考えたのです。

そのようなマリアに、主イエスは、彼女の名前をもって、呼びかけられます。「マリア」。

その声に、彼女は、再び後ろを振り向いて、「ラボニ」と言います。ここに劇的な出会いが起こります。

「マリア」と訳された言葉は、原語では、「マリアム」と書かれています。これは「マリアよ」という、親しい呼びかけの、響きを持っています。

主イエスのマリアに対する、いつもの呼びかけの言葉だったのです。

この聞き慣れた、懐かしい言葉を聞いたとき、きっとマリアの全身には、雷に打たれたような、衝撃が走ったことだろうと思います。

「アッ、先生だ!先生のお声だ!間違いなく、私の先生のお声だ」。マリアは、声をかけられた方が、主イエスであることを確信しました。

先程「寄り添う」というのは、横からのイメージである、という柏木先生の言葉を紹介しました。しかし、主イエスの寄り添い方は、もっと徹底しています。

横ではなく、後ろに、そっと寄り添って、くださっているのです。ですから、普段は、そのお姿が見えないのです。でも、目の前の苦しみや悲しみに、耐え切れずに、思わず後ろを振り返ると、いつもそこに、主イエスは、いてくださるのです。

私も、今までに何度も、厳しい困難や試練を経験しました。その都度、「主よ、あなたは一体どこにおられるのですか」、と叫びました。

しかし、後ろを振り返ると、いつもそこには、主イエスがいてくださり、私に呼び掛けてくださっていました。そのことを知った時、言い尽くせない喜びをもって、「主よ、ありがとうございます。あなたはずっと、見ていてくださったのですね」と、呼び返すことができました。

マリアも、同じであったのだと思います。

言葉に表せない、感動と喜びを込めて、マリアは答えました。「ラボニ」。

これもマリアが、いつも主イエスに対して、呼びかけていた言葉、そのものです。

「ラボニ」とは「先生」という意味である、と説明されています。でも、より正確に言うと、「わたしの先生」、という意味です。

ある有名な聖書学者が、この箇所について、こう言っています。

「新約聖書には、主イエスと、多くの人々との出会いの物語が、記されている。

しかしその中で、最も優しさに満ちている物語が、これである。こんなに優しさに満ちた出会いの出来事は、他のどこにも記されていない。

しかし、それは、マリアだけのものではない。ただ一度だけ起こったものではない。

今、ここでも、私たちの間で起こっている。だから、今、私たちは、主の復活を祝うのだ」。

主イエスは、今、私たちの名前を、呼んでくださっています。その主イエスに、心からの喜びをもって、お応えしていきたいと、願わされます。

マリアは、「ラボニ、私の先生」、と言って、主イエスにすがりつこうとしました。

主イエスを、掴まえようとしたのです。もう決して、主イエスから、離れたくない。そんな切実な思いをもって、取りすがろうとしました。

しかし、主イエスは言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい」。

失ったものを、必死に取り戻そうとするマリアに、主イエスは、もっと大切なものを、与えようとされたのです。ですから、失ったものに、すがりつくのは、止めなさいと言われたのです。

主イエスは、言われました。私は、今、天の父なる神様のもとに、帰ろうとしている。しかし、それは、あなた方と別れて、離れ離れになる、ということではない。

私は、あなた方を、決して孤児にはしない、と約束したではないか。復活した私は、これから後、いつでも、どこでも、あなたがたと共にいるのだ。

そう言われた主イエスは、すがりつくマリアに、ご自身の復活の事実を伝える、大切な使命を託されました。

「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。

今、私は、まだあなたが、掴めば掴むことができる、体をもっている。

けれども、やがて、このような見える姿においては、あなた方の前からいなくなる。

なぜなら、父のもとに帰るからだ。そのことを、弟子たちに伝えてもらいたい。

今や、あなた方は、私の父を、あなた方の父と呼ぶことができる。私が、あのゴルゴダの十字架において、その道を開いたからだ。私は、十字架で、あなた方の罪を贖った。

だから、父なる神様は、あなた方を、愛する子として、迎えてくださるのだ。

今や、あなた方は、私の兄弟なのだ。私は、これからも、兄弟であるあなた方と共にいて、あなた方を守る。そのことは、どんな状況であっても、決して変わらない。

マリアよ、あなたはこのことを、弟子たちに伝えて欲しい。主イエスはそう言われたのです。

「わたしにすがりつくのはよしなさい」、と主イエスは言われました。

冷たい言葉のように思われます。しかし、マリアは嬉しかったと思います。手を振り払われたことを、喜んだと思います。

主イエスは、マリアを退けられたのでないからです。そのことが分かったからです。

この時初めて、マリアは解き放たれました。目に見ることができて、手で掴むことのできる主イエスに、しがみついていたいという思いから、解き放たれたのです。

この後マリアは、主イエスに、自分の手でしがみつくことは、出来なくなりました。しかし、それで良かったのです。あの主イエスというお方は、私がこの手で掴まえて、私の側に置いておけば良い、というようなお方ではない。

そうではなくて、この私が、主イエスによって、捕らえられているのだ。私が掴んでいるのではない。主イエスが、私を掴んでいてくださる。

どんな時にも、どんな状況にあっても、主イエスは私を、握り締めていてくださる。

そのことは、決して変わらない。マリアは、この新しい希望、新しい命に生かされたのです。

「マリアよ」と呼ばれ、「ラボニ、私の先生」と言って、振り返ったその時から、マリアは、この新しい命を歩み始めたのです。

 

マリアは行って、弟子たちに、「私は主を見ました」、と言いました。そして、主イエスから託された、大切な言葉を、告げました。マリアは、もう一人ではありませんでした。主イエスが、共におられることを、実感していました。

そのマリアが、喜びに満ちて言います。「私は主を見ました。主は生きておられます。今も、私と共におられます。今も、私を、生かしてくださっています。」

マリアは、この喜びの知らせを、告げました。

私たちも、愛する人たちに、語りたいと思います。

「私は、心の目で、主を見ました。心の中で主にお会いしました。主は、生きておられます。共にいてくださいます。そして、私たちを、生かしてくださっています。」

喜んで、そして、大胆に、そう告げる者と、ならせていただきたい、と思います。