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過去の礼拝説教

「主イエスは生きておられる」

2019年08月11日 聖書:使徒言行録 25:13~27

私は、銀行の転勤で、1970年から73年までの3年間を、ニューヨークで過ごしました。

赴任した当時は、泥沼化したベトナム戦争の末期で、アメリカは国力を消耗し、人々の間には、厭戦気分がみなぎっていました。

ヒッピーとか、イッピーと呼ばれた、若者たちは、伝統的な価値観を喪失し、いつ徴兵されて、ベトナムに行かされるかと恐れて、虚無的になっていました。

町には、麻薬患者が溢れ、麻薬を買う金欲しさに、平気で人を殺す、という治安の悪化が目立っていました。

虚無主義者のフリードリヒ・ニーチェの、「神は死んだ、God is dead.」という言葉が、そこかしこで聞かれていました。

そんな中で、いつしか自動車のバンパーに、あるスティッカーが貼られるようになりました。

そこには、こう書いてありました。「私の神は死んでいません、あなたの神のことは、ご愁傷様です。 My God is not dead. Sorry about yours.」

このスティッカーを見る度に、ホッとして、嬉しくなったことを覚えています。

この後、新聖歌257番、「キリストは生きておられる」を、ご一緒に賛美します。

この曲の作者は、ウィリアム・ゲイザーという人です。多くの新しい讃美歌を作ったこの人は、当時、このような社会に失望して、作曲への情熱を失っていました。

しかし、そんな時、ゲイザー夫妻に、新しい命が与えられました。ゲイザー夫妻には二人の愛する娘がいました。しかし、新しく与えられたのは、初めての男の子でした。

生まれたばかりの赤ちゃんを抱いた時、彼らの心に、不思議な思いが生じました。

「この子が与えてくれる喜びは、何と素晴らしいことか。しかし、キリストが生きておられるので、きっとこの子は、不安な日々にも、立ち向かえる筈だ。この確信を持てることは、もっと素晴らしいことではないか。」

その思いが讃美歌になったのが、この後ご一緒に歌う、「キリストは生きておられる(Because He lives)」です。

この曲は、1974年度の、ゴスペル・ソング賞に選ばれ、多くの人々に励ましを与えました。

この歌の折り返し部分は、直訳すると、こうなります。「彼(主イエス)が生きているので、明日に立ち向かうことができる。彼が生きているので、すべての恐れは消え去る。彼が将来を握り、彼が生きているので、人生は生きる価値がある。」

この「キリストは生きておられる」、という確信は、ベトナム戦争で疲弊し、虚無主義に覆われていたアメリカに、再び生きる力を与えたのです。

神は死んでなどいない。主は生きておられる。それが分かれば、すべてが変わります。

私たちにとって、決定的なことは、主は生きておられるのか、それとも死んでしまったのか、ということです。それが、私たちの、すべてを決定づけます。

今朝の御言葉の19節に、「死んでしまったイエスが、生きているとパウロは主張している」、とあります。今朝は、この御言葉に集中して、聴いていきたいと思います。

エルサレムで捕えられたパウロは、様々な場面で、信仰を証しする機会を得ました。

何度も繰り返された裁判での弁明は、パウロにとって、絶好の証しの機会でした。

その締め括りのような証しが、次回ご一緒に学ぶ、26章にあります。

26章の証しは、ローマ総督フェストゥスと、彼のもとを訪ねてきた、アグリッパ王と、その妹のベルニケの前でなされたものです。

今朝の御言葉は、その26章の証しが、語られるに至った、いきさつを伝えています。

12節までの裁判の場面から、26章の証しへの、橋渡しをしている箇所であると言えます。

ある人が、こんなことを言っています。

この箇所は、部屋から部屋へ移動するための、廊下のような役割を果たしている。

だが、何もないと思われるような、この廊下の壁には、すばらしい名画が掛けられている。

その名画こそが、19節の御言葉だというのです。面白い比喩だと思います。

何もないような、殺風景な廊下に掛けられた、一枚の名画。それが、「イエスが生きている」、という言葉である。その人は、そう言っているのです。

しかも、この名画は、それを掛けた人自身は、全く意識していなかったものでした。

それを掛けた人は、ローマ総督フェストゥスです。彼は、前任者のフェリクスから、二年越しのパウロの裁判を、引き継ぎました。

しかし、パウロには、ユダヤ人たちが訴えるような罪状は、何一つ見い出せませんでした。

それなのに、ユダヤ人たちは、尚も、パウロを有罪にせよ、と執拗に叫び続けました。

それを見たパウロは、彼がローマ市民である特権を利用して、皇帝に上訴したのです。

フェストゥスは、この事件の処理について、途方に暮れてしまいました。

ユダヤ人たちが、パウロと言い争っている問題。それは、パウロが、死んでしまったイエスという者が、生きていると主張している、ということでした。

フェストゥスは、「わたしは、これらのことの調査の方法が分からなかった」と言っています。この「分からなかった」と言う言葉は、「途方に暮れた」、と訳されても良い言葉です。

「死んでしまったイエスが生きている」。パウロが本気で、そういうことを言っており、しかもそれが、ユダヤ人と争っている、原因になっている。

それをどう調べ、どう理解すればよいのか分からない。途方に暮れてしまったのです。

それは当然だと思います。途方に暮れるのが、当たり前です。

ユダヤ人たちが、パウロを訴えているのは、「死んでしまったイエスとかいう者のこと」についてである。そしてパウロは、「このイエスが生きていると主張している」。

このフェストゥスの言葉は、意図せずして、私たちの信仰の本質を、言い当てています。

私たちの信仰の、最も基本的な事柄が、このフェストゥスの言葉によって、語られています。

私たちキリスト者は、何かの思想とか、よりよく生きるための人生訓などを、信じているのではありません。

十字架につけられて死んだ、イエスという方が、三日目に復活され、今も生きておられる、と信じているのです。今、この時も、生きておられる、と信じているのです。

「死んでしまったイエスという者が、生きている」。

このフェストゥスの言葉こそ、殺風景な廊下の壁に掛けられている、素晴らしい名画なのです。

ここで注目したいのは、「死んでしまったイエスとかいう者が、復活した」、と言われているのではない、ということです。

勿論、復活したのですが、ただ復活しただけに留まらず、「このイエスが生きている」、とパウロは言っているのです。

「復活した」だけなら、それは過去の出来事となります。今を生きる私たちにとっては、主イエスの復活は、二千年も前の、遠い過去の出来事となります。

しかし、パウロが語っているのは、過去の出来事ではありません。

主イエスは、「今、生きておられる」、とパウロは言っているのです。復活したけれども、その後は、どこで、どうしているのか分からない、というのではないのです。

復活して、今、生きて、私たちと共にいて下さる、というのです。パウロは、今、生きて、共におられる、主イエスのことを、語っているのです。

パウロは、過去の人である、主イエスについての「知識」を、語ったのではありません。

今、生きて、自分に働きかけ、語りかけておられる、主イエスのことを、証ししたのです。

なぜ彼は、そんな、信じ難いようなことを、堂々と証しできたのでしょうか。

それは、パウロ自身が、今、生きておられる、主イエスと、実際に出会ったからです。

ダマスコ途上で、パウロは、生きておられる主イエスと、衝撃的な出会いを体験しました。

「お前は、なぜ、私を迫害するのか」という声が、パウロに迫り、パウロはその場に倒れて、目が見えなくなってしまう、という体験をしました。

それが、生きておられる主イエスと、パウロとの、最初の出会いでした。そして、その後、パウロは、いつも、今、生きておられる、主イエスとの交わりの中を、生かされてきました。

フィリピで鞭打たれて、牢獄に入れられた時も、生きておられる主イエスに、祈り、賛美をささげていました。すると、大地震が起きて、牢の扉も、手足の鎖も、すべて外される、という主イエスの御業を、見させていただいたのです。

コリントの町で、伝道に行き詰まって、悩んでいた時も、「恐れるな、語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」、という励ましを頂きました。

そして、エルサレムで捕らえられ、監禁された時も、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」、と励まされました。

パウロは、いつでも、どこでも、生きておられる主イエスとの交わりから、励ましと慰めと力を、与えられてきました。

この、「主イエスは生きておられる」、ということが、私たちの信仰の要であり、中心です。

不朽の名作と言われている映画「ベン・ハー」は、「キリストの物語」という題の小説がベースになっています。

その小説の作者ルー・ウォーレスは、かつては無神論者で、キリスト教を完全に否定するための本を、書こうと思い立ちました。

そして、欧米の主要な図書館を巡り歩き、研究に、研究を重ねました。

二年間に亘る熱心な研究を終えて、いよいよ本を書き始めました。しかし、その執筆の途中で、彼は突然ひざまずいて、主イエスに向かって、「わが主、わが神よ」と叫んだのです。

キリストを、完全に否定しようとして、研究を始めたのです。でも、逆に、キリストが神であるということを、否定できなくなってしまったのです。

というよりも、生けるキリストに出会って、捕らえられてしまったのです。生けるキリストの恵みが、彼に迫ってきて、思わず、ひざまずかざるを、得なくなったのです。

主イエスが生きているという事実は、私たちの生き方を変え、日々の生活にも直結する、リアルなことなのです。

キリストのことを知らない人々からは、目に見えない存在を、生きていると言って信じたり、祈ったりしている、キリスト者の姿は、奇妙に映るに違いありません。

しかし、他人の目には、奇妙に映ってしまうほどに、生きておられる主イエスは、私たちの人生に、関わってこられるのです。

このお方に出会った時、私たちは、変わらざるを得ないのです。

今、生きておられる主イエスと結ばれ、いつでも、どこでも、このお方が、わたしと共におられる、と信じる。これは、理屈や常識では、理解できないと思います。

なぜなら、これは、人の理解や思いを超えた事柄だからです。理解する事柄ではなくて、信じる事柄だからです。

そして、このことを確かに信じる者は、今、生きておられる主イエスに、語りかけられ、支えられ、励まされながら、日々を歩んでいくのです。

ですから、その歩みは、活き活きしたものなのです。なぜなら、その信仰は、頭の中だけの思索や、哲学や、精神論ではないからです。

日々の歩みそのものが、生きておられる神様との、活き活きとした交わりの中に置かれて、神様が語りかけ、働きかけてこられ、またそれに応えていくからです。

パウロは、そのような、活き活きとした信仰に、生きていました。

フェストゥスには、「死んでしまったイエスが生きていると主張している」、と見えました。

しかし、パウロから言えば、「今、私は、生きておられる主イエスと、一緒におります」と、証言しているのです。

私たちは、主イエスが、私たちのすべての罪を、十字架によって贖い、赦しの恵みを与えて下さっていることを信じています。

しかし、その主イエスが生きて、共にいて下さるのでなければ、この恵みは不確かです。

十字架の恵みは、単なる知識として、知らされただけなら、何の力もありません。

「あぁ、そういう教理もあるのか」、という理解に留まってしまいます。

今も生きておられる主イエスが、私たちに出会ってくださり、私たちに語りかけてくださる。

それによって、私たちはその恵みを、本当に知り、その恵みによって、生かされるのです。

今も生きておられる、主イエスとの交わりに、生きることによってこそ、十字架の贖いが、力ある恵みとして、迫って来るのです。

もし、主イエスが、生きておられないのであれば、聖書は、あり得ないような、奇跡物語が書かれている、たわごとに過ぎません。

しかし、主イエスが、生きておられるので、それは、実に恵みに満ちた本となります。

また同時に、主イエスが生きておられるので、聖書は、まことに恐るべき本ともなるのです。

もし、神様が確かにおられるなら、そして、今も生きて、働かれていることが、確かであれば、誰も聖書を無視して、生きていかれなくなる筈です。

人生最大の問題である死も、主イエスが生きておられ、共にいてくださることを、信じるか、信じないかで、全く違ったものとなります。

私たちは、いつか、この地上の生涯を終わり、肉体の死を迎えます。その死を超えた彼方が、どうなっているのか、そこに何があるのかは、誰にも分かりません。

しかし、一つだけ、確かに分かっていることがあります。それは、今も生きて、共にいてくださる主イエスが、死の時も、そして死を超えた先でも、共にいてくださる、ということです。

今も共におられる、主イエスが、そこでも、共にいてくださるのであれば、そこには本当の希望があります。今も生きておられる、主イエスとの交わりの中で、死を迎えるなら、そこには本当の平安があります。

そういう意味では、私たちは、死を迎えるのではなくて、主を迎えるのです。

そのことを、今週の週報の【牧師室より】でも、書かせていただきました。

「死」と「主」。発音は似ていますが、意味は全く違います。

今、この時に、主を迎え、主との交わりの中を、生きる者にとっては、「死」は、全く別の世界のことではありません。別の世界に行くのではなくて、今の生き方の、延長線上にある世界に、移されることなのです。

生きておられる、主イエスとの、交わりに生きる。そのことにおいては、「生」も「死」も、本質的には違いはないのです。この交わりに生きることこそが、死への備えなのです。

今、生きている主と出会うことは、そのように、私たちのすべてを変えます。

イースターの日に、生きている主と出会った、マグダラのマリアは、我を忘れて、弟子たちの許に走りました。この喜びを伝えたい。そのことしか、頭にはありませんでした。

ですから、マリアは、走りに走ったのです。その心には、喜びが満ちていました。

エマオに向かう途上で、生きている主イエスと出会った、二人の弟子は、時を移さず出発して、エルサレムに戻りました。

もう夜です。なにも今から行かなくても、と思われる時刻です。しかし、主が生きておられるなら、今頃も、今さらもありません。この二人の弟子たちの心は、燃えていました。

なぜ、心が燃えていたのでしょうか。それは、生ける主ご自身が、二人の心に、直接、語り掛けられたからです。

この二人の弟子は、主が生きておられることを知った時に、全く違う世界に、導き入れられました。価値観も、人生観も、世界観も、一変したのです。

「主は生きておられる」、この事実に生きることが、彼らの新しい生き方となりました。

「主は生きておられる」。それが分かれば、人生のことも、世界のことも、全く話が変わります。意味が変わります。見え方が変わります。

「主は生きておられる」。このことが分かった時、私たちは、揺り動かされます。

「主は生きておられる」。この真理が迫ってくる時、私たちは、喜びに満たされます。

「主は生きておられる」。この確信は、すべての恐れを取り除きます。

「主は生きておられる」。この事実が、明日に立ち向かう、力と希望を与えてくれます。

「主は生きておられる」。ここに、私たちの人生のよりどころがあります。

今も、生きておられる主イエスは、この礼拝に共にいて、私たちに語りかけておられます。

その主に、私たちは、お応えします。賛美します、祈ります。

主は生きておられます。あなたの主は、どうですか。あなたの主は、確かに生きていますか。あなたの主は、死んでいませんか。

「あなたの主のことは、本当にご愁傷さまです」、と言われるようなことは、ありませんか。

もし死んでいる主に縋っているだけなら、こんなに惨めなことはありません。

いざという時に、何の力にもなりません。

「主は生きておられる」。この信仰を大胆に告白しつつ、ご一緒に歩んでまいりましょう。