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柏牧師:過去の礼拝説教

「弱さの中に働かれる主の愛」

2024年02月04日 聖書:コリントの信徒への手紙二 12:1~10

今朝、この礼拝に来られた方の多くは、口に筆をくわえて美しい絵や詩を書く、星野富弘さんという方をご存知だと思います。
星野さんは、群馬大学を卒業後、中学校の体育の教師となりました。
その学校の器械体操部の部活動で、空中回転の模範演技をしたとき、誤って頭部から転落し、頸髄を激しく損傷しました。
病院の必死の治療によって、何とか命は繋ぎ止めましたが、首から下が全く動かなくなってしまいました。
しかし、ベッドに横たわるだけしかできない絶望の中で、彼は、イエス・キリストに出会います。
そして、主イエスの無償の愛に触れ、バプテスマを受けクリスチャンになります。
やがて、口に筆をくわえて、詩や絵をかきはじめます。
その美しい絵や、心温まる詩は、多くの人に慰めと励ましを与え、日本全国のみならず、広く世界各地で展覧会が開かれています。
その星野富弘さんの詩に、弱さと強さを詠んだものがあります。
『いつか / 草が風に揺れるのを見て / 弱さを思った
今日 / 草が風に揺れるのを見て / 強さを知った 』 
風に揺れて、弱そうに見える草が、実は強いのではないか。
一見、弱々しく見える人の方が、実は強いのではないか。この詩は、そう問い掛けています。
そのことを証しするような、小さなエピソードがあります。
あるクリスチャンの婦人がいました。彼女の夫は、ギャンブル依存症でした。
ろくに働きもせず、ギャンブルに明け暮れる毎日でした。
彼女は、夫のために必死に祈りました。そして、祈りの中で、あることを示されました。
彼女は、一生懸命に内職をして、生活を維持しながら、少しずつ貯金をしました。
生活を切り詰めながら、少しずつ、少しずつ、貯めたお金で、夫の背広を買ったのです。
この背広を着て、まともな仕事に就いて、働いて欲しい。
そんな切なる願いを込めて、なけなしの貯金をはたいて、背広を買ったのです。
そして、夫が帰ってくるのを、待ちました。夫が喜んでくれるのを、秘かに期待して、待ちました。
やがて夫が帰ってきました。そして、背広を見て、言いました。
「なんだ、これは」。「あなたに着て欲しくて」、と妻が言いました。
すると、夫は、喜ぶどころか、怒鳴りつけたのです。
「余計なことをしやがって。そんな金があるなら、俺に使わせろ」。
妻は、小さな声で、一言、「ごめんなさい」、と答えました。
実は、夫は、嬉しかったのです。涙が出るほど、嬉しくて、感動したのです。
でも、ここで嬉しがったら、それこそ、自分は、妻に依存している、だらしない男に、なってしまう。
そんな気がして、素直になれなかったのです。
ですから、心にもない、怒鳴り声を挙げて、虚勢を張ったのです。
そうすれば、さすがの妻も逆上して、言い返してくるだろう。
そうしたら、殴りつけてでもして、威勢を示してやろう。
そんな気持ちで、半ばやけになって、怒鳴ったのです。
ところが妻は、言い返すどころか、小さな声で一言、「ごめんなさい」と言ったのです。
それを聞いた夫は、完全に打ちのめされました。
「俺の負けだ。どうして、こんなに弱い女房が、こんなに強いんだ」。
夫は、妻の強さの、秘密を知りたいと思いました。
そして、その強さは、彼女の信仰から来ることを、知ったのです。
やがて、その夫は、妻と共に、礼拝に出席するようになりました。
そして、主イエスに捕らえられ、全く変えられて、真面目に働くようになったそうです。
皆さん、私たちが、本当に大切なことを教えられるのは、力を誇示する強い人ではなくて、この婦人のような、むしろ弱い人ではないでしょうか。
自分の弱さを知り、その弱さを受け入れている人が、弱さの只中で、その弱さを用いながら、私たちに挑戦状を突き付けて来るのです。
何も言わなくても、その生き様が、私たちに問いかけてくるのです。
「あなたはどう生きているのですか。今の生き方で良いのですか」、と。
そういう生き方こそが、本当は、強い生き方なのではないでしょうか。
先程の星野富弘さんの詩も、そのような「弱さの中の強さ」を、教えてくれています。
しかし、富弘さんが伝えたいのは、それだけではないと思います。
富弘さんが本当に伝えたいことは、その先にあるのではないかと思うのです。
そのことを明らかにするために、もう一つ、富弘さんの詩を紹介させて頂きます。
『よろこびが集まったよりも/悲しみが集まったほうが/幸せに近いような気がする
 強いものが集まったよりも/弱いものが集まったほうが/真実に近いような気がする
 幸せが集まったよりも/不幸せが集まったほうが/愛に近いような気がする』
ここにも、やはり、弱さと強さが出てきます。
しかし、この詩では、富弘さんは、「強いものが集まったよりも 弱いものが集まったほうが 真実に近いような気がする」、と詠っています。
「強さに近いような気がする」、とは言っていません。「真実に近いような気がする」、と言っているのです。
富弘さんは、クリスチャンです。では、クリスチャンにとって、真実とは何でしょうか。
クリスチャンにとっての真実。それは、イエス・キリストのことではないでしょうか。
主イエスご自身が、ご自分のことを、「わたしは道であり、真理である」、と言われています。
そうであるなら、この詩は、「強いものが集まったよりも 弱いものが集まったほうが イエス・キリストに近いような気がする」、と言い換えられるのではないかと思います。
そして実は、「イエス・キリストに近い」ということが、「本当の強さに近い」ということなのだ。
これが、富弘さんが、この詩を通して、言いたいことなのではないでしょうか。
富弘さんが伝えたいのは、イエス・キリストにある強さなのだと思います。
弱い者の方が、イエス・キリストの強さに近い、と言っているのです。
いえ、もっと正確に言えば、自分の弱さを知っている者の方が、イエス・キリストの強さに近いのです。
先ほど読んで頂いた、第二コリント12章の御言葉は、まさにそのことを語っています。
1節から4節までには、パウロ自身が体験した、神秘的な出来事が書かれています。
パウロは、そのことを、詳しく述べてはいません。
しかし、それは、想像を絶するような、神秘の世界に引き上げられたという、大変素晴らしい、霊的な体験であったようです。
でも、パウロはそのことを、「誇るまい」と言っています。
実際は、誇ることが出来るような、素晴らしい体験であったのですが、敢えて「誇るまい」と言っているのです。
それは、その啓示された体験が、あまりにも素晴らしかったからです。
そのため、それを聞く人が、そのことの故に、パウロを過大評価したり、或いは、パウロ自身が、思い上がったりしないためだ、というのです。
そして、自分自身については、むしろ、「弱さ以外には誇ることをしない」、と言っています。
それどころかパウロは、あまりにも素晴らしい霊的体験をしたことによって、自分が思い上がらないようにと、「わたしの身に一つのとげが与えられた」と言っています。
そのとげとは、具体的に何であったのか。パウロはそれを、明らかにしていません。
しかし、いずれにしても、それは、パウロの宣教活動の、足を引っ張るものでした。
パウロは、これがあるために、十分な働きが出来ないことを、いつも神様に申し訳なく思っていたのです。
ですからパウロは、「どうか、このとげを取り去って下さい」と、3度も主に祈りました。
3度とは、具体的な回数を言っているのではなくて、熱心に祈った、ということです。
パウロは、熱心に祈り続けました。そして、その祈りの中で、主の御声を聴いたのです。
主はパウロに、次のようにお答えになりました。
「パウロよ、それでいいのだ。 お前は、そのとげがあるから、私に従うことが出来ないとでも言うのか。
私の恵みは、お前に対して十分なのだ。お前にとげがあるからこそ、私は、お前を用いるのだ。
なぜなら、私の力は、お前の弱さの中でこそ、完全に表われるからだ」。
この御声を聴いたとき、パウロはもはや、「それでも私からとげを取り去って下さい」、とは言いませんでした。
パウロは、とげという弱さを抱えながら、いえ、むしろ、弱さを用いながら、伝道したのです。
「わたしの恵みはあなたに十分である。」文語訳聖書は、この箇所を「我が恵み、汝に足れり」と訳していました。 今でも、大変親しまれている訳です。
「我が恵み、汝に足れり。わたしの恵みは、あなたの弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ。」
パウロは、この御声を聞いたのです。
パウロにとっては、「弱さ」こそが、主の「恵み」を働かせる「場」だったのです。
ですから、パウロが弱さを誇ると言った時には、キリストの恵みを「働かせる場」としての、「弱さ」を誇っているのです。
自分のだらしなさを、誇っているのではありません。
この弱さの只中で、キリストが恵みを働かせてくださる。そのことを誇っているのです。
ですからそれは、結局は、キリストの恵みを誇っている、という事になります。
大切なことは、私たちが強くなること、ではないのです。
主が、私たちの内にあって、強く働いてくださることなのです。
私たち自身は、どう強がってみても、所詮、弱い愚かな者なのです。
しかし、主が、弱い私たちの内に宿ってくださる。それが、私たちの強さです。
では、なぜ、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」のでしょうか。
ここでパウロは、「キリストの恵みによって、弱さが克服されて、それが強さに変わった」、とは言っていません。 強い者へと変えられた、のではないのです。
とげは残ったままです。依然として、弱さは弱さのまま、あり続けています。
しかし、その弱さの只中で、「私は強い」と言うのです。一体、どういうことでしょうか。
私たちが強い時、いえ、もっと正確に言えば、自分が強いと思っている時、私たちは、自分の力に頼っています。 そして、自分の力を見ています。
キリストの恵みを見ていません。キリストの恵みに信頼していません。
自分の強さが邪魔して、主の恵みを、見えなくしてしまっているのです。
主の恵みは弱さの中で、いえ、自分が弱い存在であると知った時に、初めて見えてくるのです。
主の恵みは、弱さの中で見られ、弱さの中で発揮されるのです。
なぜなら、主の恵みそれ自体が、実は、弱さの恵みだからです。
皆さん、振り返って見てください。 主の恵みは、一体、どこで発揮されたのでしょうか。
それは、あの十字架の上で、最も豊かに、発揮されたのではないでしょうか。
主は、十字架という、究極の弱さの中で、恵みと力を発揮されたのです。
十字架の主イエスのお姿。それは、弱さと無力さの、極みのお姿です。
しかし、その弱さ、その無力さは、本来私たちが負うべき弱さであり、本来私たちが担うべき、無力さであったのです。それを、主イエスが、代わって負い、担ってくださった。
そして、あなたがたの弱さは、私がすべて負って、十字架にかかって死んだ。
だからあなたがたは生きなさい。いえ、生きなければならない、と言っておられるのです。
もし他人が、自分のために死んでくれたとしたら、私たちは、その人のために、生きなければなりません。
自分のためには、強く生きられなくても、その人のためなら、強く生きられるようになります。
私たちのために、私たちに代わって、十字架にかかられたお方が、その十字架の上から、「我が恵み、汝に足れり」、と言っておられます。
十字架の恵みとは、「もうこれ以上、私はあなたに与えることができない」、と言われる程の、究極の恵みです。 ですから、「我が恵み汝に足れり」、というお言葉は真実なのです。
私たちは、心からこれに、「アーメン」と言いたいと思います。
「主よ、あなたの恵み、あなたの十字架の恵みは、この私に十分です。いえ十分過ぎます。」
心から、そう告白したいと思います。そう言うために、今朝私たちは、礼拝に来たのです。
「我が恵み汝に足れり」。この点において、私たちには不足も、不平もない筈です。
どんな境遇にあっても、この神様の恵みに関する限り、私たちに不平はないのです。
不足もありません。ですから、この恵みによって、生きていけるのです。
これこそが、本当の強さです。
「主よ、あなたの赦し、あなたの愛、あなたの恵みは、私に十分です」。
この言葉は、私たちが、自分自身の弱さに立ったときに、初めて言える言葉です。
私たちは、自らの弱さを受け入れた時に、初めて主イエスの強さに、拠りすがる者とされます。
それが、本当の強さなのです。本当に弱くならなければ、強さは分からないのです。
私の恩師の島隆三先生は、高校1年の時に洗礼を受けられました。
洗礼を受けると直ぐに、教会学校の教師になるように言われました。
しかし教会学校で、幼い子どもたちの、真剣な眼差しの前に立った時、自分は本当に主を信じているのか。
特に、主の復活を信じているのか。その疑問が生じて、不安になりました。
確かな信仰を持っていないのに、教会学校の教師をしている自分は偽善者ではないのか。
その思いが、心に迫ってきました。そして、子どもたちの前に立つのが、だんだんと苦しくなっていきました。
島先生は、部屋にこもって、真剣に祈りました。涙を流しながら、必死に祈り続けました。
その時、主が、島先生に語られました。
「お前が偽善者とか、信仰が薄いとかいうことは、私は初めから分かっている。
でも私は、お前はダメだと言ったことが、一度でもあったか。
その弱いお前を、私は、用いようとしているのだ。」
この主のお言葉によって、島先生は全く変えられました。
そして、それからは、弱さを抱えながら、ただ主の恵みに信頼し、主の恵みによりすがって生きる生き方へと導かれたそうです。
島先生には及びもつきませんが、私も似たような経験をしたことがあります。
私は、軽井沢の夏季アシュラムに参加している時に、58歳の誕生日を迎えました。
そのアシュラムで、御言葉を靜聴している時に、主の召命の言葉を確かに聴きました。
「すべてを捨てて、私に従ってきなさい」、という主の言葉が、強く迫って来たのです。
しかし、直ぐには従えませんでした。これは、軽井沢でのアシュラムという、特別に霊的な環境にいるから、一時的に示された錯覚かも知れない。
こういう時は、かねて教えられていた100日祈祷をしよう。そう思って100日祈祷をしました。
100日祈祷を通して、召命に応える確信が、きっと強められると期待していました。
しかし、実際はその逆で、祈っていると「お前のように汚れた者は、献身には相応しくない。第一お前は年を取り過ぎている。 お前には無理だ」。そんな声ばかりが聞こえてきました。
諦めようかと思っていたとき、朝のディボーションで、士師記6章14節の御言葉が、目に飛び込んできました。
敵を恐れて、逃げ隠れていたギデオンに、主が語られた言葉です。
「あなたのその力をもって行け、わたしがあなたを遣わすのではないか」。
この御言葉が、潮のように、激しく胸に迫ってきたのです。主は、私に言われました。
「何を勘違いしているのか。私は、もともとお前の力などに期待していない。
だから、お前は、その貧しい力を持って行けば良いのだ。私がお前を遣わす限り、必要な力は、この私が与える。」  このお言葉を聴いたのです。
「そうなのだ。主が遣わしてくださるのだ。
それなら、遣わされる主が、必要な力を、与えてくださるに違いない。
私は、無きに等しいこの力を持って、遣わされる主に委ねて、従っていけば行けばいいのだ」。
そう示されたのです。
私は、思わずひざまずいて、祈っていました。
「主よ、感謝します。こんな弱い私でも宜しければ、どうか用いてください。私のすべてを、主よ、あなたに、おささげいたします。」
こうして、神学校への入学を決心しました。
皆さん、弱さを、ありのままに受け止めて生きるのが、人間本来の生き方なのではないでしょうか。
それなのに私たちは、それが分からなくて、何とか弱さを覆い隠そうとして、却って苦しみを増してしまうのです。
救いは、弱さを避けるのではなく、それを与えられたものとして受け止め、それを用いながら生きていくところにあるのではないでしょうか。
それは、諦めた弱い生き方ではなくて、生かされていることに対する、誠実な、むしろ強い生き方なのです。
皆さん、私たちは、自分の弱さを認めることができないで、無理しているということはないでしょうか。
でも、無理することはないのです。 自分の弱さをさらけ出していいのです。
弱さをさらけ出す。その時、私たちは、私たちの弱さを、そっくりそのまま抱きかかえてくださっている方の存在に気づかされます。
そして、そのお方から力を与えられ、強められるのです。
そのようなお方が与えられていることを、心から感謝いたしたいと思います。
「我が恵み 汝に足れり」。 この主の御言葉に励まされて、共に歩んでまいりましょう。