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過去の礼拝説教

「共に神様の御前に立とう」

2018年10月07日 聖書:使徒言行録 10:23b~33

19世紀のアメリカに、大きなリバイバルを起こした、大衆伝道者D.L.ムーディーが、ある刑務所で聞いたエピソードを、紹介させていただきます。

アメリの南北戦争後に、特別恩赦が実施されました。その刑務所でも1100人の囚人たちを半年間観察して、その内の、最も行いの良い囚人5名が、釈放されることになりました。

この計画は、囚人たちには、秘密の内に、秘かに進められました。

半年間の観察期間が過ぎて、その5人が発表されました。所長が大きな声で、言いました。

「これから呼ぶ5人は、直ちに釈放されます。一番初めの人は、ルベン・ジョンソンです」。

しかし、反応がありません。普通であれば、「やったー」とか、「バンザーイ」とか、歓声が上がる筈です。しかし、シーンとして、反応がないのです。

所長が再び、「ルベン・ジョンソン前に出なさい」と言いました。それでも応答はありません。

とうとう所長が指差して、「ルベン・ジョンソン、君だよ、君」と言って、やっと分からせました。

彼は、勿論、自分の名前が、呼ばれたことを、聞いていました。しかし、彼は、20年間も監獄にいて、もうここから、一生出られないと、諦め切っていたのです。

ですから、名前を呼ばれても、誰か他のルベン・ジョンソンのことだろうと、思っていたのです。自分が釈放されることなど、あり得ないと思っていたのです。

その、あり得ないようなことが、起こったのです。でも、あまりにも、素晴らし過ぎる知らせであったので、彼は、それを、直ぐには信じることが、できなかったのです。

あまりにも大きな恵みに出会った時、私たちは、それを認識できないことがあります。

でも、皆さん、実は、私たちは、あり得ないような、救いの恵みに、与っているのです。

こんな汚れた私たちの、すべての罪を赦すために、全く罪のない、神の御子が、私たちの身代わりとなって、その尊い命を、あの十字架において、犠牲にしてくださった。

それによって、私たちは、無条件で、罪を赦され、清い者とされている。

これは、あまりにも素晴らし過ぎます。あり得ないような奇跡です。

でも、そのあり得ないことが、実際に、成し遂げられたのです。ところが、その恵みが、あまりにも大きいために、多くの人が、それを認識できずにいるのです。

ですから、この恵みは、普通の仕方で伝えようとしても、直ぐには伝えることができません。

素晴らし過ぎるからです。あり得ないような恵みを、伝えるためには、あり得ないような方法で、伝えることが必要なのです。

人間ではなく、神様ご自身が、働かれなければ、伝えることが出来ないのです。

この素晴らしい恵みは、初めは、主イエスの弟子であった、ユダヤ人だけに、示されていました。しかし、もしそれが、ユダヤ人の中だけに、止まっていたなら、今、ここにいる私たちには、伝えられなかったのです。私たちは、この恵みに、与ることはできなかったのです。

この恵みが、私たちに与えられるためには、あり得ないような方法が、必要でした。

それは、ユダヤ人が、異邦人に、その恵みを伝える、ということでした。

何だ、そんなことか、と思われるでしょう。確かに今では、何でもないことのように思えます。

しかし、初代教会が誕生した当時、ユダヤ人が、異邦人に伝道する、ということは、それこそ、あり得ないことであったのです。

ユダヤ人にとって、異邦人は汚れた存在で、異邦人と交わるだけで、自分たちも汚れる、と信じていたからです。

でも、神様は、弟子の筆頭である、ペトロに幻を示して、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」、と教えられました。

そして、コルネリウスという異邦人を訪ねるように、ペトロに命じられたのです。

今朝の御言葉は、ローマの百人隊長コルネリウスと、使徒ペトロとの、出会いの出来事を伝えています。

コルネリウスへの伝道を、神様から与えられた、使命と受け止めたペトロは、この最初の異邦人伝道の旅に、ヤッファのクリスチャンたちを、連れて行きます。

23節後半に、「翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけた。ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った」、と書かれています。

「彼ら」とは、コルネリウスが、ペトロを招くために遣わした、二人の召し使いと、兵士のことです。そして、「ヤッファの兄弟」とは、ヤッファに住む、クリスチャンたちのことです。

この先の11章12節を見ますと、このときペトロは、6人のヤッファのクリスチャンを伴って、コルネリウスを訪ねたことが分かります。ペトロも含めて、総勢10人です。

これは、ペトロにとっては、一つの賭けであったと思います。

もし、大挙してコルネリウスを訪れても、結果が思わしくなくて、やはり異邦人伝道など、やるべきではなかった、という結論になったなら、使徒としてのペトロの立場が、損なわれます。ですから、一人だけで、こっそりと訪れた方が無難です。

でもペトロは、6人もの仲間を、連れて行きました。ここに、ペトロの信仰が、表れています。

これは、神様から示された務めなのだ。だから、神様が、必ず、最善を為してくださるに違いない。ペトロは、そう信じていたのです。

神様が、行けと言われるなら、そこには、私たちの思いを超えた、神様の恵みが、用意されているに違いない。それを、信仰の仲間たちと、分かち合いたい。

自分一人の体験にしておくのは、勿体ない。ペトロは、そう思ったのだと思います。

一方の、コルネリウスの方もまた、この貴重な機会を、自分と家族だけで、独占するのは、勿体ないと思ったでしょう。親類や親しい友人を、呼び集めて待っていました。

でも、考えてみてください。この時、コルネリウスは、未だ、ペトロという人が、どういう人なのか、全く知らないのです。

それよりも、使いを送って、呼びに行かせたものの、果たして、ユダヤ人のペトロが、異邦人である自分の家に、来てくれるかどうか。それも、全く分かりませんでした。当時の常識からすれば、ユダヤ人が、異邦人の家に来る、という可能性は、零に近いほど低いのです。

でも、コルネリウスは、神様が示されたのだから、ペトロは必ず来てくれる、と信じました。

使いの者たちが、カイサリアからヤッファまで、50キロの道を行き、そこでペトロを説得して、カイサリアまで連れてくる。

それに要する時間を、丁寧に推測して、その時間に合わせて、人々を集めました。

大勢の人を、呼び集めておいて、もし、ペトロが来なかったなら、コルネリウスの面子は、丸つぶれです。しかし、彼は、そんなことは、恐れませんでした。

神様が用意してくださっている恵みに、自分の愛する人々も、是非与って欲しい。

ただ、この切なる願いをもって、ひたすらに待ったのです。

これは、家族伝道に苦心している私たちにとって、見習うべき姿勢であると思います。

ですから、ペトロが、彼の家に来た時、コルネリウスは、本当に喜びました。

25節に、ペトロを迎えたコルネリウスが、その足もとにひれ伏して、拝んだとあります。

これは、コルネリウスの、感謝と喜びの表現です。

それを見てペトロは、彼を起こして、「お立ちください。私もただの人間です」、と言いました。

この言葉は、以前の口語訳聖書では、「私も同じ人間です」、と訳されていました。

こちらの方が、原文の意味を、正確に伝えていると思います。

ペトロは、自分もあなたと、同じ人間だ、と言いました。

ユダヤ人のペトロは、これまで、異邦人は汚れているので、救いには与れない者だと、思っていました。そのペトロが、「私も同じ人間です」、と言ったのです。

神様の前では、私も、あなたと、同じなのだ、と言ったのです。

私も、あなたと、同じように、罪人なのです。でも、主イエスの十字架の贖いによって、罪赦された者なのです。ペトロは、そう言ったのです。

これは、当時の、ユダヤ人の言葉としては、驚くべきものです。

今、ここにいる、私たちも、同じ人間、同じ罪人です。でも神様は、主イエスの十字架の血潮によって、罪人である私たちを、「清い」ものとしてくださいました。

ですから今、私たちは、共に神様の御前に立ち、共に神様を礼拝し、共に主の食卓に与ることができるのです。

私たちは、本来、聖なる神様の御前に、立つことなど、できない者なのです。主の食卓に、与ることなど、許されないような者なのです。

でも、主イエスは、その私たちを、主の食卓に、招いてくださっています。私は、あなたと共に食事がしたい。それが、私の切なる願いなのだ、と言ってくださっているのです。

神様は、コルネリウス一人の救いのために、様々な手を尽くしてくださいました。

同じように、ここにいる、私たち一人一人の救いのためにも、神様は、様々な手を尽くしてくださったのです。一人一人の、名前を呼んでくださり、色々な人を通して、御言葉を聞かせてくださり、主イエスの救いを、知らせてくださいました。

あの刑務所の所長が、「ルベン・ジョンソン」と三度も呼んだように、神様は、何度も、私たちの名前を呼んでくださいました。

「柏 明史、あなたを罪の縄目から解放します」。「柏 明史、前に出なさい」。「柏 明史、君だよ、君のことだよ」と、鈍い私たちに、何度も呼び掛けてくださいました。

今、改めて、その道筋を、振り返ってみると、不思議なことが、たくさんありました。

私たちが、救いに入れられるまでには、偶然のような出来事が、いくつも重なっていたことを、思わされます。しかし、それは、偶然ではなかったのです。

ある人が、「信仰とは、人間の目には、偶然と映る出来事を、神様の目には、必然であると、捉え直す決断である」、と言っていますが、その通りなのです。

私たちは、そのような、神様の愛のご計画によって、名前を呼ばれて、今は、あり得ないような救いに、入れられているのです。

神様は、私たち一人一人を救うために、ありとあらゆることを、してくださったのです。

コルネリウスが、ペトロの足もとにひれ伏した、というのも、ペトロという人を、崇拝したというよりも、このような出会いを、計画してくださった、神様の前に、ひれ伏したのだと思います。

このような神様の、不思議な示しと導きによって、ペトロとコルネリウスは、出会いました。

そこで、ペトロとコルネリウスは、お互いの身に起こった、不思議な体験を語り合いました。

50キロも離れた所で、別々に祈っていた二人でした。それなのに、二人ともが、祈りの中で、幻を示されたのです。

そして、その幻を通して、神様が御心を示してくださり、その御心を実現するために、二人を出会わせてくださったのです。

二人は、この出会いの背後には、神様の確かな導きがあったことを、確認し合いました。

何から何まで、神様が計画されて、二人を引き合わせてくださったことを、知りました。

そのことを知った時、彼らは、言葉に言い表せない、感動を味わったと思います。

いえ、それは感動というような、生易しいものではなく、衝撃と言った方が良いと思います。

二人は、神様の、偉大なご計画の前に、小さな自分が、打ち砕かれるような、衝撃に覆われたのです。

この二人に、よく似た体験をした人たちがいました。ハドソン・テーラーと、その母です。

ハドソン・テーラーは、今から150年以上も前に、中国の奥地に、たった一人で伝道に赴き、50年以上に亘って、中国奥地伝道に献身した宣教師です。

そのハドソン・テーラーが17歳の時のことです。ある日の午後、彼は父の書斎の本棚にあった、伝道トラクトを、何気なく読み始めました。

その当時、彼は、聖書に書かれた救いは、自分には関係ないものだ、と思っていました。

ですから、そのトラクトが退屈なものだったら、直ちに読むのを止めよう、と思っていました。

ちょうどその時、彼の母は、家から70キロも離れた所にいました。

その時、彼の母の心に、何が起こったのかは、分かりません。しかし、彼女は、自分の息子の救いのために、強烈な渇きを覚えました。

そして、家から離れている今こそ、息子のために祈る、特別な機会であると示されて、食卓から立ちあがりました。彼女は、静かな部屋に入り、鍵をかけて、祈りが応えられるまで、その場所を離れないと、決心しました。

彼女は、何時間も、息子のために祈りました。そして、その祈りの中で、一人息子が、今、回心した、と告げられたのです。やがて、彼女の祈りは、賛美へと変えられていきました。

一方、息子のハドソン・テーラーは、その小さなトラクトを読み進むうちに、「キリストの成し遂げられた御業」、という言葉に、目が留まりました。

そして、一体、何が成し遂げられたのか、という疑問が、心に押し寄せてきました。

読んでいく内に、「キリストは、私たちの罪の、身代わりとなって死なれた。いえ、私たちばかりか、全世界の罪の、身代わりとなって死なれた」、という答えに出会いました。

すると、「もし、そうであるなら、私に残されていることは何だろうか」、という考えが浮かんできました。そして、いつしか彼は、跪いて、主を賛美していたのです。

このように、彼の母が70キロも離れた所で、神様を賛美していた、その同じ時刻に、ハドソン・テーラーも、父の書斎の、古びた本棚の前で、神様を賛美していたのです。

これも、説明し難い、不思議な出来事です。神様のなせる業です。

さて、ペトロを迎えたコルネリウスは、「今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」、と言いました。

実際には、この時、彼らは、ペトロの前にいるのです。

でもコルネリウスは、「今わたしたちは皆、神の前にいるのです」、と言いました。

神様が、ペトロを通して、語られる。だから、私たちは、今、神様の御前にいる。

これが、ペトロを迎えた、コルネリウスの姿勢でした。この姿勢が大切です。

この姿勢こそが、私たちが、礼拝において、御言葉を聞く時の、姿勢なのです。

ペトロの語る言葉を、人間の言葉としてではなく、神の言葉として、聞こうとする姿勢です。

但しそれは、ペトロの口から出る言葉が、自動的に神のお告げとなる、というような、迷信的な聞き方ではありません。

注目したいのは、「主があなたにお命じになったこと」、とコルネリウスが言っていることです。ペトロが、神様から、これを伝えるように、と託されたこと。それを聞こうとしているのです。

ペトロ先生、あなたが、神様から、伝えるようにと示されたこと。私たちは、それを、残らずお聞きしたいのです、とコルネリウスは言っているのです。

ある人が、この箇所について、「福音の説教者が、これほど実りを約束された聞き手を、持ったことはなかった」、と言っています。

自分は、神様から遣わされたという、確信をもって語る伝道者と、神様ご自身が、この伝道者を通して、語ってくださると、受け止める信徒がいる。

この両者が、共に神様の前に、へりくだって、御言葉を語り、またそれを聞いていく。

これが、教会の本来の姿です。このように、神様の言葉が、正しく語られ、それが正しく聞かれる所に、主の教会はたて上げてられていくのです。

そして、その時、そこには、主にある交わりが、豊かに実現します。

真実の礼拝を通して、また、真実の礼拝において、初めて、私たちは、様々な立場の違いや、対立を乗り越えて、主にある交わりを、持つことができるのです。

もし教会に、真実の兄弟姉妹の交わりが、欠けているなら、それは、正しい礼拝が、守られていないからです。神の言葉が、正しく語られ、それが正しく聞かれていないからです。

神の言葉が、正しく語られ、それが正しく聞かれていないなら、そこに主イエスはおられません。なぜなら、主イエスは、生ける神の言葉、そのものであるからです。

そして、そこに、主がおられないなら、当然ですが、主にある兄弟姉妹の交わりも、成り立ちません。

主を中心とし、主によって、結び合わされる、交わりは、成り立つ筈がないのです。

私たちは、コルネリウスのように、「今私たちは、神様の御言葉を聞こうとして、神の前に立っています」、という思いをもって、礼拝に臨んでいるでしょうか。

そのことを、今一度、自らに、問い質したいと思います。

「今私たちは、神様の御言葉を、残らず聞こうとして、神の前に立っている」。

そのような思いで、礼拝に出席しているなら、神様の御言葉が、恵みに満ちた語りかけとして、私たちの心に響いて来る筈です。

そして、その時、主にある、豊かな交わりが、ここ茅ヶ崎恵泉教会に生まれます。

私たちは、そのような時を、ここで共有したいと、心から願います。