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過去の礼拝説教

「切り株から若枝が」

2019年12月01日 聖書:エレミヤ書 23:5~6 マタイによる福音書 1:1~17

アドベント・クランツの一本目のキャンドルに火が灯されました。

この一本目のキャンドルは、「希望」を意味している、と言われています。

主イエスが、罪深いこの世に、希望の光として、来てくださったことを、表しています。

この後、聖日ごとに、「平和」のキャンドル、「喜び」のキャンドル、そして「愛」のキャンドルが灯されていき、クリスマスを迎えます。

教会の暦では、アドベント第一主日、つまり今日から、新しい年となります。

それで、今朝から、新しい気持ちで、マタイによる福音書から、ご一緒に、御言葉に聴いていきたい、と思います。

先程、マタイによる福音書1章1節から17節までを読んでいただきました。カタカナの名前が、ずっと続いて、司式の黒田姉は、読まれるのに苦労されたのではないでしょうか。

このマタイによる福音書1章1節以下は、教会において、しばしば話題になる箇所です。

と言っても、必ずしも、積極的な意味で、話題になっているのではありません。

おおよそ書物とは、読んでもらうことを前提にして、書かれているものです。ですから、興味をそそるような書き方で始まっても、良さそうなものです。

ところが、新約聖書を読んでみようと思って、読み始めた時に、先ず出くわすのが、このイエス・キリストの系図です。延々と、カタカナの名前の羅列が続きます。

そこで読者は、しばしば戸惑ってしまいます。一体、ここに、何が語られて いるのか分からない。読み始めた途端に、出鼻を挫かれてしまうのです。

しかし、聖書はここで、真面目に系図を語っています。今、ここに生きる、私たちの信仰生活と、深く関わっていることとして、この系図を記しています。

それでは、このカタカナの名前の羅列が、今の私たちに、どのように関わって来るのでしょうか。今朝は、そのことを、ご一緒に、尋ねていきたいと思います。

この系図が、私たちに、何を語っているのか。そういう思いをもって、この箇所を読んでいきますと、この系図から、色々なことを、学ぶことが出来ます。

初めに、少々堅い話ですが、この系図が、聖書全体に果たしている役割について、考えてみたいと思います。

この系図は、新約聖書の最初に出てきています。旧約聖書の最後の書である、マラキ書の直ぐ後に続いて、記されています。

聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻、合わせて66巻が、全体として、イエス・キリストの救いを証ししています。

しかし、旧約と新約とでは、書かれている事柄や文体、或いは、時代背景が、大きく異なっています。ですから、一見すると、両者の間に、繋がりがないように見えます。

しかし、新約聖書の福音は、旧約聖書という土台の上に、築かれています。

ですから、両者をつなぐ「橋」のような言葉が、必要とされるのです。

この箇所は、一見すると、繋がりのないような、旧約聖書と新約聖書とを、結び付ける「橋」のような働きを、担っています。旧約と新約との、橋渡しをしている箇所なのです。

この系図の背後には、アブラハムから始まる、イスラエル民族の歩みが示されています。

旧約聖書に書かれた、遠大なる神様の救済のご計画。二千年に亘って、イスラエル民族に注がれた、神様の恵みの歴史が、この系図に集約されています。

ですから、これらの名前は、神様の救いのご計画を、想い起させます。そして、その神様の救いのご計画の、究極の出来事として、主イエスの誕生が記されているのです。

神様による救いの、完成の出来事として、主イエスの誕生が、語られているのです。

1節の「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」という言葉も、主イエスが、旧約聖書で約束されたキリスト、つまり救い主である、ということを、端的に宣言しています。

イエスという人は、単なる宗教家ではない。神様の遠大な救済計画を、完成するために生まれた救い主なのだと先、初めにまず宣言しているのです。イエス・キリストという呼び方は、「イエスはキリスト、救い主なのだ」と宣言している、最も短い信仰告白なのです。

ここで、注目して頂きたいのは、「イエス・キリストの系図」、と訳されている言葉です。

この「系図」と訳された言葉は、「出来事」、或いは、「物語」とも訳せる言葉です。

ですから、「イエス・キリストの出来事」、或いは、「イエス・キリストの物語」と訳しても.良いのです。

「さぁ、皆さん、聞いてください。これから、救い主イエス様の物語が始まりますよ」。

このような呼び掛けで、この福音書は始まっている。そう捉えることも出来るのです。

そうであるなら、この系図は、つまり、イエス・キリストの物語は、ヨセフの子として、主イエスが生まれたことで、終わってはいない、ということになります。

主イエスが、大工の子として、お生まれになったところでは、終わってはいないのです。

救い主イエス様の物語は、更にその先へと続きます。それは、あの十字架の死と、復活に至るまで、続くのです。

命懸けで人間を救いたいと願われた、神様のご計画。その頂点としての、十字架と復活にまで至るのです。ですから、実は、福音全体のへの招きが、ここでなされているのです。

短い冒頭の言葉の中に、聖書全体を貫く、福音の本質が、込められているのです。

それでは、これから、系図の内容に、目を移していきたいと思います。

この系図を読んだときに、誰もが指摘することがあります。それは、この系図の中に、4人の女性が登場している、ということです。

3節に出てくるタマル、5節に出てくるラハブとルツ、そして、6節の後半にある、ウリヤの妻の4人です。

ウリヤの妻は、バト・シェバという名前であったことを、私たちは、知っています。

系図の中に、4人の女性が出てくる。それが、既に、当時のユダヤ人にとっては、驚くべきことであったと思います。

なぜなら、ユダヤ人たちが、自分の血統を語るときには、男性の血筋のみを語っていたからです。母が誰であったか、ということは、系図を作る上では、問題とはされませんでした。

それなのに、ここには、女性が4人も出てきます。

しかも4人とも、アブラハムの妻サラのように、信仰の模範となるような女性ではありません。なぜなのでしょうか。

それは、この系図は、人間の能力や、優れた血統を、示している系図ではないからです。

むしろ、人間の嘆きや過ちが、示されている系図なのです。

しかし、そこにこそ、聖書が伝えたい、救い主の本当の姿があるのです。一体それは、どういうことでしょうか。

4人の女性一人一人について、短く眺めて見たいと思います。

3節に出てくるタマルについては、創世記38章に書かれています。

タマルは、ヤコブの12人の息子の一人、ユダの長男エルに嫁いだ女性です。しかし、夫のエルは、子をもうけることなく、若くして死んでしまいます。

そこで、ユダヤの慣習に従って、タマルは、エルの弟のオナンと結婚します。

しかし、オナンは、兄のために子孫を残すことを好まず、タマルに子を授けませんでした。

このオナンも若くして亡くなり、子供を得る望みを失ったタマルは、一族の血を絶やさぬために、何と遊女の姿になって、舅のユダを誘惑して、ユダによって子を得ようとします。

一族の血筋を守るため、何としてでも子を得たい。その強い思いから、遊女に成りすまして、舅のユダの子を得たのです。そんな破廉恥なことをしたのがタマルです。

5節のラハブ。この人は、本当の遊女です。しかも異民族の女性、カナンの女でした。

同じ5節のルツは、義理の母ナオミの指示に従って、ボアズの寝所に忍び込んで、一夜を過ごすという、離れ技をやってのけた女性です。このルツは、モアブの女性でした。

モアブ人は、ユダヤ人が最も忌み嫌った民族の一つです。

モアブの人が、ユダヤ人の仲間入りをしたいと思っても、何と、十世代を経なければ、共に礼拝することは、許されなかったのです。

十世代に亘って、ユダヤ人と結婚することによって、モアブの血が、次第に薄められていく。

そうした後に、初めて、モアブの血が無くなったと認められて、礼拝に出席することが許されたのです。

聖書は、主イエスの系図に、このような異邦人の血が混じっていることを、隠すことなく、むしろ誇らし気に語っています。

そう記すことによって、主イエスによる救いは、誰に対しても開かれているということを、言い表しているのだと思います。

4人のうち、最後に登場するのが、ウリヤの妻です。この女性は、ダビデ王の家来であった、ウリヤの妻のバト・シェバのことです。

ダビデ王は、このバト・シェバの美しさに魅せられて、姦淫の罪を犯した上、彼女の夫のウリヤを、わざと激戦地に送って、戦死させてしまいました。

そして、バト・シェバを妃として迎えたのです。そのダビデとバト・シェバとの間に生まれた子が、ソロモン王です。

つまりバト・シェバは、夫を裏切り、ダビデと姦淫の罪を犯し、王妃の座に着いた女性です。

そして、彼女もまた、ユダヤ人ではなく、異邦人のヘテ人でした。

こうして見てきますと、これらの女性は、世間の常識からすると、いずれも神の子イエス・キリストの系図を飾るに、相応しいとは言えない女性たちです。

しかし、このような、人間的な弱さ・悩みを持った系図から、主イエスは生まれたのです。

しかも、これらの女性たちは、皆、結婚生活において、異常な経験をした人ばかりです。

そして、主イエスの母マリアも、聖霊によって、結婚前に身ごもるという、異常な経験をした女性です。

世間の常識から見れば、異常と見られるような結婚。それは、主イエスの誕生の、先触れとしての意味を持っているのかもしれません。

それにしても、マタイは何故、バト・シェバのことを、実際の名前ではなく、「ウリヤの妻」、とわざわざ書いたのでしょうか。

バト・シェバは、ウリヤの妻であって、ダビデの妻ではなかった、と強調しています。

しかし、ダビデは、後に、バト・シェバを、正式に妃にしています。ですから、系図ではダビデの妻と書いても良かったのではないか、と思います。

しかし聖書は、飽く迄も、バト・シェバはウリヤの妻であった、それをダビデが奪ったのだ、と、はっきりと書いているのです。

それは、イスラエルの歴史上、最も偉大な英雄であった、ダビデさえも罪を犯したことを、明らかにするためです。

ダビデは、輝かしい王としてではなくて、罪人の代表者のように、記録されているのです。

しかし、それは、ダビデだけではありません。この系図に、たくさんの王が出て来ます。

しかしこれらの王の多くは、まことの神から離れ、偶像礼拝に走った不信仰な王たちです。

列王記や歴代誌を読みますと、これらの王たちが、異教の神々を礼拝し、神殿の中にまで、偶像を持ち込んだことが、繰り返して書かれています。

そして、神様から、激しく叱られたことが、書かれています。そんな王たちばかりです。

そして、神様の怒りを受けて、遂に国が滅び、人々はバビロンへと移されてしまいます。

先程、エレミヤ書23章5節、6節を読んで頂きました。そこに、「わたしはダビデのために正しい若枝を起こす」とありました。

自らの背信の罪の故に、ユダヤの国は滅び、ダビデ王朝という木は切り倒され、無残な切り株を残すのみとなってしまった。

しかし神様は、その民を尚も愛しておられ、切り株から、若枝のような救い主を起こす、と言われているのです。そして、その若枝は、「主は我らの救い」という名だと、いうのです。

実は、イエスという名前は、まさに、この「主は我らの救い」、という意味の名前なのです。

ですから、このエレミヤ書の御言葉は、主イエスの系図と、重なっているのです。

系図は、ダビデを目指して上っていき、頂点のダビデに達した後は、どこまでも降って行きます。そして、預言された若枝である、主イエスの誕生へと、繋がっていくのです。

13節の、ゼルバベルから後の人たちの名前は、旧約聖書の中には見られません。

いわば、無名の人たちです。そのような、無名の人たちの中に、ダビデ王家の血筋は、落ち込んでいくのです。

そして、やがて登場するヨセフは、ガリラヤの小さな町、ナザレで大工をする、極く普通の人です。というよりは、むしろ社会的には弱く、貧しく、小さい人でした。

その弱さと貧しさの中に、主イエスは生まれたのです。

我らの救いである若枝は、何も持たない、大工の子として生まれました。ダビデの子である救い主は、下がって、下がって、大工の子として生まれました。

しかし、それこそが、最も相応しい生まれ方であったのです。

この「イエス・キリスト系図」は、優れた能力や血筋を、示している系図ではありません。

この系図に登場するのは、蔑まれていた異邦人の女性たちです。不信仰な王たちです。そして無名の弱い、貧しい人たちです。

この系図が示しているのは、人間の悩み、苦しみ、弱さ、汚れです。

しかし、その中から、救いがもたらされたのです。若枝が起こされたのです。

どうしようもない罪や、弱さや、悩みの中にいる、私たち人間の救いとして、主イエスが来られたのです。

ですから、この系図は、遠い昔の出来事ではありません。この系図にある、人間の出来事。

罪や、争いや、弱さは、私たちが、今生きている、この現代の姿そのものです。

この系図は、今、私たちが生きている、この世の姿を、凝縮して示していると言えるのです。

そうであるなら、主イエスは、「この系図から生まれた」のではなく、「この系図へと生まれて来てくださった」、と言えるのではないでしょうか。

この系図から救いがやってきたのではなく、この系図へと、救いがもたらされたのです。

長々と、系図が記され、また、その系図について、長々とお話ししてきたのは、このことを言いたかったからです。

主イエスは、この系図に示されているような、どろどろとした人間社会の只中に、生まれて来てくださったのです。

王の血筋の者が、低く、低く、降って、貧しい大工となった。ダビデの若枝には、見るべき麗しさはなかった。しかし、救いは、その貧しい大工の家から、この世へともたらされたのです。

それは、貧しく、弱く、小さな者を、救うためであったのです。

主イエスは、「この罪の系図から生まれた」のではなく、「この罪の系図へと生まれて来てくださった」。

この罪の系図から救いがやってきたのではなく、この罪の系図へと、救いがもたらされた。

皆さん、今朝は、是非このことを、しっかりと握って、帰って頂きたいと思います。

今朝、もう一つ、心に留めていただきたいことがあります。

16節を見てください。「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」、と書かれています。その直前のヨセフまでは、ずっと、「誰々が誰々をもうけ」と書かれています。

「もうけ」という言葉は、あまり一般的ではありません。原語では、「生んだ」という言葉です。

でも、男性が子を産むという表現は、なじまないというので、「もうけ」と訳されたのです。

実際の原文では、ずっと「誰々が誰々を生んだ」、と書かれています。

しかし、16節だけは、受け身で、「お生まれになった」、と書かれています。

ヨセフが生んだ、とは言っていません。そして、その後、系図は、「主イエスが、誰々を生んだ」と、繋がってはいません。その意味では、ここで、系図は途切れています。

では、ここで、系図は、もう終わってしまったのでしょうか。そうではありません。

この後、系図は、「メシアと呼ばれるイエスが」生んだ者へと、繋がっていくのです。

主イエスが生んだ者。それは一体何でしょうか。それは教会です。

この後、系図は、教会へと引き継がれていくのです。

神様の救いのご計画を記した系図は、教会に引き継がれて、今も、続いているのです。

そして、私たち一人一人は、その教会に連なることによって、今も、主イエスの系図に加えられているのです。神様の救いのご計画に、加えられているのです。

ですから、私たちも、私たちの後に続く人を、生み出していかなければならないのです。

そうすることによって、系図を繋いでいかなければならないのです。この系図が、私たちに求めていることは、そのことなのです。

主イエスは、私たち一人一人を、迎え入れてくださり、「あなたは、私の血筋に生きる者。私の系図を引き継ぐ者なのだ」、と言ってくださっています。

私たちは、主イエスの系図に繋がり、主イエスの系図の中を、今、生きています。

主イエスの系図を引き継ぎ、それを更に、次の世代に繋げていく。それが、教会に託された使命です。その使命を担って、共に歩んで行く。そこに、教会のまことの姿があります。

そのような教会に、招き入れられている幸いを、心から感謝したいと思います。