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過去の礼拝説教

「世に勝つ主の平和」

2017年08月06日 聖書:ヨハネによる福音書 16:25~33

「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

主イエスは、弟子たちに対する訣別説教を、この御言葉で、締め括られました。

ヨハネによる福音書では、これが、弟子たちに語られた、主イエスの最後の言葉です。

誰の言葉でも、その人の、最後の言葉は、大切にされます。

愛する者に対する、最後の言葉。そこには、私がいなくなった後も、この言葉を握り締めて、しっかりと生きて行って欲しい、という願いが込められているからです。

そうであれば、私たちは、この主イエスの、最後の言葉を、真剣に聴かなければ、ならないと思います。 「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

この御言葉に込められた、主イエスの思いを、大切にして、歩んでいきたいと思います。

今朝、ここに呼び集められた、私たち一人一人は、主イエスから、「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」、と語り掛けられているのです。

この御言葉に励まされて、歩んで行くのが、私たちの信仰生活です。

「勇気」。素晴らしい、響きを持つ言葉です。誰もが、勇気を持ちたい、と願っています。

誰もが、勇気を必要としています。

私たちの人生には、様々な困難があります。辛いこと、悲しいことが、次々と襲って来ます。

それに負けずに、明るく、前向きに生きるには、勇気が必要です。

今の時代は、生きて行くのが、とても難しい時代です。経済的にも、政治的にも、社会的にも、先行きの見通しは、決して、明るくはありません。

親が子を、子が親を、殺すような、殺伐とした時代です。テロの恐怖で、世界中が、脅えています。報復が、報復を呼ぶ、憎しみの連鎖が、止むことがなく、続いています。

自分さえよければ良い。自分の国さえよければ良い。他の人や、他の国のことなど、構っていられない。そのような、自己中心主義が、蔓延しています。愛が冷めた時代です。

こんな時代に生きている私たちは、誰もが、勇気を必要としているのではないでしょうか。

若者に、勇気が必要です。進路に悩んでいる高校生、就職活動をしている大学生、結婚しようとしている人に、勇気が必要です。

家族のことで悩んでいる、父親にも、母親にも、勇気が必要です。仕事のことで行き悩んでいる人にも、勇気が必要です。病で苦しんでいる人にも、勇気が必要です。

平和を造り出すために、労苦している人にも、勇気が必要です。

そして、高齢者にも、勇気が必要です。年老いることにも、勇気が必要です。

「しかし勇気を出しなさい。わたしは既に、世に勝っている」。皆が、この御言葉に、励まされなければなりません。この言葉を、必要としていない人は、誰一人としていません。

「勇気を出しなさい」、と言ってくださる、主イエスは、同時にまた、「しかし」、と言われます。

「しかし」、と言わなければならない現実を、主イエスは、よくご存知なのです。

私たちには、世で苦難があること、そして、私たちは、その苦難に対して、決して強くないことを、主イエスは知っておられます。

世にある苦難の厳しさと、私たちの弱さを、よく知っておられるのです。

だからこそ、「しかし、勇気を出しなさい」、と言ってくださるのです。

更に、主イエスは、「私は既に、世に勝っている」、とも言われています。嬉しい言葉です。

主イエスは、私たちの弱さを、よくご存じです。でも、「あなた方は、弱いから、苦難から逃げなさい」、とは言われていません。

「あなたがたには苦難がある」。この世にあって、苦難を受けることは、避けられないことなのだ、と言われているのです。苦難に遭うことにおいては、信仰者も例外ではないのです。

信仰者にも、病があり、愛する者との別れがあり、様々な試練があるのです。

そこから、逃げ出すことはできません。キリスト者は、それらと戦いながら、進まなければならないのです。それらを乗り越えて、進まなければならないのです。

その戦いの中で、私たちは、挫折したり、行き悩んだりします。

ですから、大切なことは、苦難のとき、同時に、「主の勝利」に、あずかっている、ということです。苦難に遭っている時も、「主の平和」の中にいる、ということです。苦難に遭っていても、そこで、主の勝利にあずかり、主の平和の中にいるなら、勇気が湧いてきます。

主イエスは、私たちの先頭に立って戦ってくださり、「私は既に世に勝っている」と、勝利宣言をしてくださっているのです。私たちは、このお方を、見上げつつ、歩むのです。

しかし、実は、主イエスは、私たちの先頭に立って、戦ってくださっているのではないのです。私たちに代って、戦ってくださっているのです。本来は、私たちが、戦わなければならない戦いを、私たちに代って、戦ってくださっているのです。

それは、私たちを、縛り付けている、罪との戦いです。私たちの力では、到底、勝つことのできない、恐ろしい、罪との戦いです。その罪から、私たちを、解放するための戦いを、私たちに代って,戦ってくださっているのです。

大江健三郎さんのエッセイの中に、「チャンピオンの定義」、という文章があります。それによりますと、チャンピオンという言葉には、「ある人に代って戦ったり、ある主義・主張のために、代わって議論する人」、という意味があるそうです。大切なことを、他の人の代わりに、担ってくれる人。それが、チャンピオンだというのです。

そうであるなら、主イエスは、私たちの、チャンピオンです。主イエスが、私たちに代って、戦ってくださったからです。主イエスは、私たちに、代って戦ってくださいました。そして、勝利してくださったのです。

私たちの戦いは、主イエスという、力強いチャンピオンによって、支えられているのです。

では、その戦いにおいて、「主の勝利」があるとは、どういうことでしょうか。

主イエスは、私たちに代って、私たちの罪を背負って、十字架に死んでくださいました。十字架に、私たちの罪を釘付けにして、滅ぼしてくださいました。

この主イエスの十字架の死は、一見すると、惨めな敗北のように見えます。そこには、勝利者キリストの面影など、どこにも見ることができません。

32節で、主イエスご自身も言われています。「あなたがたが散らされて、自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。」

主イエスは、ご自分が、十字架につくときには、弟子たちさえも、皆、離れ去ってしまい、ご自分は、孤独な死を遂げる、と仰ったのです。これは、勝利ではなく、敗北の予告のように、聞こえます。

マルコとマタイによる福音書には、主イエスが、十字架の上で叫ばれた、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、という言葉が記されています。

主イエスは、父なる神様に、打ち捨てられたのです。そこに描かれているのは、父なる神様に、見捨てられた、絶望の主イエスのお姿です。勝利者のお姿ではありません。

しかし、32節の後半で、主イエスは、こう仰いました。「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」

ここでは、主イエスは、ご自分は、孤独な死を遂げるのでなく、父なる神様が、共にいてくださる、と言われています。

この御言葉は、マルコとマタイの福音書と、矛盾するのでしょうか。そうではありません。

確かに、父なる神様は、主イエスを、滅びの中に、陰府の底に、打ち捨てられました。

ですから、主イエスは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、と叫ばれたのです。

しかし主イエスは、ここでも、「わが神、わが神」と、神様を父として、呼び掛けています。

神様は、それに応えられて、あの陰府の中に、手を伸ばされて、落ちてくる主イエスを、しっかりと受け止められ、陰府の底から、引き上げられたのです。

それが、復活の出来事なのです。主イエスは、死の力を打ち破って、復活され、この世を支配する、罪の力に、打ち勝たれたのです。

そして、今も、闇の世に、太陽のように、輝いておられます。主イエスの愛は、この世の憎しみに打ち勝って、闇に輝く光として、輝いているのです。

主イエスは、私たちのために、私たちに代わって、罪と戦ってくださいました。それが、主の十字架でした。そして、私たちのために、滅びの死に、勝利してくださったのです。それが、復活です。このお方が、私たちの勇気の源なのです。

「私は既に、世に勝っている」とは、そういう、主のお言葉ではないでしょうか。

勇気を出すとは、この主イエスの、勝利に与ることです。この主イエスを信じ、その勝利に信頼し、その中に身を置いて、生きていくことです。

主イエスを、私のチャンピオンに、していることです。私たちに代って、戦ってくださり、勝利してくださった、主イエスが、私たちに先立って、歩んでくださっているのです。

ですから、私たちは、この世にあっても、勇気を持って、そして希望を持って、歩むことが出来るのです。

この勝利者主イエスは、どこでも、どんな時にも、私たちと共に、いてくださいます。

私たちは、決して、一人ではありません。死に勝利された、勝利者主イエスが、共にいてくださるのです。

私たちが、主イエスの勝利にあずかるとは、この主イエスと、共に生きる、ということです。

このように、主イエスの勝利を知り、主の勝利にあずかっているなら、勇気が湧いてきます。これが、私たちの勇気の根拠です。ですから、私たちの勇気は、決して、空威張りの勇気ではないのです。

宗教改革者ルターは、この「勇気を出しなさい」、という言葉を、「慰められていなさい」、と訳しました。かなりの意訳ですが、決して、見当違いの訳ではないと思います。

勇気とは、主によって、慰められていることです。主に慰められて、生きる」ことです。

戦争中に、理由もなく検挙され、拷問と、厳しい獄中生活に耐えた、ホーリネス系の教会の牧師たちは、7人の殉教者を出しながらも、勇気をもって、その困難を乗り越えました。

その勇気の源になったのは、聖書の御言葉による、慰めでした。

拷問を受けて、命の危険に晒されても、御言葉に慰められて、勇気を与えられて、弾圧に耐えたのです。

ある牧師は、冬はマイナス30度にもなる樺太で、2年間も独房に入れられていました。

釈放後、その先生は、「慰められたのは、やはり御言葉でした」、と語っておられます。

まことの勇気とは、御言葉による慰めから、与えられるのです。

ホーリネスの弾圧によって、やはり終戦まで、獄におられた、米田豊という牧師がいます。

米田牧師は、釈放された時、骨と皮だけというような、衰弱したお姿であったそうです。

その米田牧師は、「弾圧で入獄した際の獄中の感」、を記しています。その中に、このような言葉が、あります。「過去を思えば感謝。現在は平安。将来は信頼あるのみ」。

この短い言葉の中に、御言葉によって慰められ、勇気を与えられた者の幸いの、全てが込められています。

人間的に見れば、どうして、過去が感謝だと、言えるでしょうか。現在は平安などと、どうして言えるのでしょうか。軍部の影響下にある裁判所が、どんな判決を下すのか、全く分からないのに、将来は信頼あるのみ、とはどういうことなのでしょうか。そのように思います。

しかし、これが、神の言葉に生きる者の姿なのです。

「過去を思えば感謝。現在は平安。将来は信頼あるのみ」。

この言葉の中には、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」という、主イエスの言葉が響いています。

「勇気を出しなさい」と訳された言葉は、「サルセイテ」というギリシア語です。主イエスが、この言葉を、弟子たちに語られたのは、これが初めてではありません。

マタイによる福音書に記されている出来事ですが、弟子たちが、ガリラヤ湖を、船で渡っている時、突然の嵐に遭って、死の恐怖に襲われました。

その時、主イエスが、波の上を歩いて、弟子たちの船に近づき、「安心しなさい、わたしだ。恐れることはない」、と語られて、船に乗り込まれました。すると、嵐が収まったのです。

この物語の中にも、同じ言葉が出てきます。「安心しなさい」、と訳された言葉です。

私たちは、人生の戦いの中で、しばしば不安になります。勇気を失います。

しかし、そんな時も、私たちは、決して一人ではありません。嵐の中を来てくださるお方が、共にいてくださいます。嵐の只中で、私たちに、近づいてきてくださる、お方がいるのです。

そのお方が、私たちの船に、乗り込んでくださり、嵐を鎮めてくださいます。

力あるお言葉によって、私たちを、慰めてくださり、平安を与えてくださるのです。

私たちは、人生の嵐の中で、主イエスが、必ず、私たちの船に、乗り込んでくださることを、確信して、勇気をもって、人生の航路を、進んで行きたいと思います。

今朝の御言葉の中で、主イエスは、勇気を出せる、秘訣を教えてくれています。

「勇気を出しなさい」、と語られた主イエスは、同時に、「その日には、あなたがたはわたしの名によって願う」、とも言われています。主の名によって願う、ということが、勧められているのです。なぜでしょうか。そこから、勇気が出て来るからです。

主の名によって願うこと、つまり祈ることです。祈ることと、勇気を出すこと。この二つは、同じことだと、いうのです。私たちが、主の名によって祈るとき、勇気が出て来るのです。

日本には、「困ったときの神だのみ」、という言葉があります。この言葉は、祈りは、勇気の無い人がするものだ、と言っているように、受け取れます。

祈りというのは、後向きで、弱い人間がするものだ。強い人間は、祈りに縋るようなことはしない。祈りに縋るなど、だらしがない。多くの人が、そう思っています。

しかし、これは、本当の祈りを、知らないからです。実際には、祈りのない人こそ、弱いのではないでしょうか。まことの祈りは、勇気と一つに、結び合っているのです。

どんな人にも、弱さがあります。ですから、まことの勇気は、「祈りによる勇気」以外にないのです。どんな時にも、祈りを失わない。それが勇気を、失わないことです。

先ほど、誰にとっても、勇気が必要だ、と申しました。政治家にも、サラリーマンにも、父にも母にも、学生にも、勇気が必要です。ということは、私たちは、皆、祈るべきだ、ということではないでしょうか。どんな時にも、祈りを失わないこと。それが、勇気が出る秘訣です。

使徒言行録16章には、フィリピの町で伝道した、パウロとシラスの話が、記されています。

フィリピで、パウロは、占いの霊に取り付かれた、女奴隷を癒しました。

ところが、この女の占いによって、金もうけをしていた主人は、金もうけの手段を失ったため、パウロを逆恨みして、全くの濡れ衣を着せて、パウロを、役人に訴えました。

パウロとシラスは、捕えられ、鞭打たれて、投獄されてしまいました。

しかし、鞭で打たれた、激しい痛みの中で、パウロとシラスは、主を賛美し、ひたすら祈ったのです。この牢獄の中での祈りは、その時、一緒に牢にいた、他の囚人たちの心を、強く捕えました。二人の祈りによって、囚人たちは、いつしか、変えられていったのです。

その時、大きな地震が起こって、牢の扉がすべて開かれ、囚人たちを繋いでいた、鎖も外れてしまいました。けれども、パウロたちの祈りによって、変えられていた囚人たちは、誰一人逃げ出しませんでした。

普通では、考えられないような出来事が、起こったのです。そのことを知った、牢の看守は、恐れおののいて、主イエスを信じる者に、変えられました。

本当の祈り、主の名による祈りは、人を造り変えます。人生の中心を、180度変えるのです。真剣に祈る時、私たちは、変えられます。祈りと格闘する時、私たちの内に、勇気が湧いてきます。

皆さん、今日から始まる、新しい一週間、本当に祈って、生きてみてください。

必ず変えられます。勇気が与えられます。平安が与えられます。

職業人としても、学生としても、父として母としても、主にあって、勇気ある日々を、生きていきたいと思います。主の恵みの証人として、平和の中を、歩みたいと思います。

「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

この主イエスの、御言葉を、しっかりと握り締め、この御言葉に励まされて、歩んでいきたいと思います。