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過去の礼拝説教

「真理とは何か」

2017年10月08日 聖書:ヨハネによる福音書18:28~38a

先ほど、ご一緒に、「使徒信条」を告白しました。

この「使徒信条」には、二人の人物の名前が、出てきます。一人は、主イエスを、聖霊によって身ごもった、聖母マリア。もう一人は、主イエスに、十字架刑を宣告した、ローマ総督のピラトです。主イエスの、地上におけるご生涯の、生と死に、深く関わった二人です。

しかし、この二人は、対照的です。

マリアについて、私たちは、清らかで、従順で、それでいて強い意思を持った、信仰深い女性のイメージを抱いています。

しかし、一方のピラトについては、小心で、優柔不断で、それでいて野心だけは高い、ずる賢い政治家のイメージを持っています。

ピラトは、主イエスの無罪を知りつつ、群衆のご機嫌を取るために、主イエスに、十字架刑を宣告しました。ですから、ピラトの責任は重大でした。でも、人間的側面だけを見れば、ピラトよりも、もっと邪悪で、もっと残忍な人物は、多くいました。

それなのに、ピラトの名前が、二千年もの間、毎週、全世界の教会において、悪人の代表のように、唱えられているのは、少し可哀そうな気がします。

「使徒信条」は、「(主は)、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」、と告白しています。

しかし、聖書が、繰り返して言っているように、主イエスを、何としてでも、殺したかったのは、ピラトではなくて、祭司長や律法学者たちでした。

それなのに、なぜ、「祭司長や律法学者たちによって」、ではなくて、「ポンテオ・ピラトのもとに」、なのでしょうか。

ピラトによる処刑は、私たちにとって、どういう意味を持っているのでしょうか。

今朝は、そのことを、御言葉から、ご一緒に、聴いてまいりたいと思います。

「ピラト」は、28節では、接触すると汚れる、とされている、異邦人として覚えられています。

当時のユダヤ人は、異邦人の家に、足を踏み入れることは、身を汚すと考えていました。

ユダヤ人たちは、汚れを受けまいとして、ピラトの官邸の中に、入ろうとしませんでした。

彼らは、そういった、外側の事柄には、人一倍注意を払いながらも、内側の心は、妬みや、自己中心的な思いで、覆われていました。

ピラトは、彼らが、激しい妬みから、主イエスを、引き渡そうとしていることに、気づいていました。ピラトは、異邦人であり、宗教上は、全くの部外者でした。でも、そのピラトにさえ、見抜かれるほど、彼らの妬みは、強かったのです。

31節の御言葉は、こう言っています。「ピラトが、『あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け』と言うと、ユダヤ人たちは、『わたしたちには、人を死刑にする権限がありません』と言った。」

ユダヤ人たちは、自分たちには、人を死刑にする、権限がない、と言っています。

しかし、彼らに、人を死刑にする権限が、全くなかった訳ではありません。

使徒言行録7章では、ステファノは、石打の刑で、殺されています。また、使徒ヤコブは、ヘロデ王によって、剣で殺されています。

しかし、十字架につけることは、ローマの総督でなければ、できませんでした。

ユダヤ人たちは、主イエスを、何としてでも、ローマの総督の手で、処刑したかったのです。

しかも、最も残酷で、最も不名誉な死に方である、十字架刑で、主イエスを抹殺したかったのです。「木にかけられて殺される」ことは、神に呪われた者の、証拠であったからです。

見方によっては、「殉教」とも取られかねない、「石打ち」ではなく、十字架の呪いの死、最も惨めな死に方こそが、主イエスにふさわしいと、彼らは判断したのです。

もう一つ考えられることがあります。もしかしたら、彼らは、こう考えたのかも知れません。

もし、宗教上の理由で、主イエスが処刑されたのであれば、その後で、弟子たちが、その裁判を不当なものとし、裁いた自分たちを、非難するかもしれない。

あの、バプテスマのヨハネを、ヘロデ・アンティパスは処刑しました。

しかし、その後も、ヨハネの弟子たちは活動を続け、ヘロデを非難し続けました。

そのようなことになっては厄介だ。後腐れの無いように、イエスを処刑しなくてはならない。

それには、ローマに対する反逆罪として、処刑するのが一番だ。

ローマに対する反逆罪で、十字架刑に処せられたのであれば、後で、誰も文句を言えない筈だ。文句を言えば、自分も反逆罪に問われるから。

ユダヤ人の指導者たちは、このように考えたのかも知れません。

主イエスは、ご自身が、異邦人に引き渡されて、侮辱され、鞭打たれて、殺されることを、予告されました。それほど惨めで、不名誉な死を、私たちの救い主は、求められたのです。

「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」、と唱えるとき、私たちは、異邦人の手に引き渡され、最も惨めで、最も不名誉な死を、自ら引き受けられた、御子のお姿を、思い起さなければ、ならないと思います。

そして、更に、こういう言い方も、できるかもしれません。主イエスは、ユダヤ人の手に、渡されただけではなく、異邦人の代表である、ローマ総督の手にも、引き渡されました。

これは、ユダヤ人だけではなく、全世界の人たちが、主イエスの十字架の死に、責任がある、ということを、示しているのではないでしょうか。

主イエスの、十字架の死の責任は、世界中の、全ての人たちにあるのです。

ユダヤ人だけが、十字架の死に、責任がある、と思っているなら、それは大きな間違いです。主イエスを、十字架につけたのは、私たちなのです。

このヨハネによる福音書は、その冒頭において、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」、と語っていました。

この御言葉は、ユダヤ人だけではなく、異邦人をも含む、この世のすべての民が、御子を裏切り、御子を十字架の死に追いやった、ということを語っているのだと思います。

しかし、そのような私たちのために、主イエスは、十字架を担われたのです。

子どもたちが歌うワーシップソングに、「僕こそ十字架の釘」、という歌があります。

「ぼくこそ十字架のくぎ、あなたの手に傷をつけた」、と歌っています。これは、私たち全ての者が、歌うべき歌だと思います。私こそ、そして、あなたこそ、十字架の釘なのです。

今、この時も、私たちが罪を犯す度に、主は十字架の上で、新たな血を流しているのです。

さて、ユダヤ人たちは、「イエスは自分を王だと言っていた」、と訴えました。

ピラトは、本当は、主イエスと関わりたくなかったのです。しかし、そんな訴えが起こされた以上、ローマ総督として、無視することができず、主イエスを呼び出して、尋問しました。

「お前がユダヤ人の王なのか」。何度かのやり取りの末に、主イエスが答えられました。

「わたしの国は、この世に属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」

主イエスは、言われました。確かに、私は王だ。しかし、心配しないでいい。わたしの国は、あなたのローマ帝国と、対立するようなものではない。私の国とは、霊的な王国である。

もし、私の国が、あなた方の国と、同じであるなら、私の弟子たちは、さっさと戦争をしていたであろう。しかし、私の国は、戦争によっては造られない。

あなたが、私を王と言うなら、そう呼んでもよい。しかし、私のいう王は、あなたが考えている王と、同じではない。私は、この世の王ではなく、真理を証しするための王である。

私は、真理を証しするために、この世に、遣わされた、王なのだ。

ここでの、ピラトと、主イエスとの会話は、明らかに噛み合っていません。

何故、噛み合っていないのか。それは、ピラトが、二つの、異なった次元の国を、あたかも、同じ次元の国であるかの様に、捉えているからです。

主イエスが語っておられるのは、霊の世界、信仰の世界における、神の国のことです。

しかし、ピラトが気にしているのは、この世の政治体制としての国です。

これら二つの国は、全く異質のものです。ですから、比較することはできません。

しかし、国家がキリスト教を弾圧する時には、昔も今も、このような論理を振りかざします。異なった次元の二つの国を、同次元に置いて、裁こうとするのです。

今から75年前に、ホーリネス系の諸教会の牧師が、一斉検挙された時も同じでした。

殆どの裁判官が、軍部や特高の圧力で、無実の牧師たちを、有罪としました。

しかし、その中で、ただ一人、良識ある判事として知られた、大審院の三宅正太郎裁判長だけが、「信仰は、霊の救いに、重きを置くものであるから、専ら霊的な活動である。従って、神の国と地上の国との、優劣を比較するということは、筋違いである」、と述べています。

もし、ピラトが、三宅裁判長のように、「このイエスの説く神の国と、地上の政治体制である国家との、優劣を比較するということは、筋違いである」、と言って、ユダヤ人たちの訴えを、退けていたなら、歴史上に、長くその汚名を、刻み続けることは、なかったと思います。

しかし、残念なことに、ピラトには、そのような見識も、勇気もありませんでした。

主イエスは、「私は、真理について、証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く」、と言われました。

しかし、ピラトは、そのお言葉の意味が分からず、「真理とは何か」、と尋ねました。

ピラトは、ローマの総督でした。ですから、当時の最高の教育を、受けていた筈です。

そのピラトが、「どうか教えてくれ。お前が言っている、その真理とは、一体何なのか」、と主イエスに尋ねているのです。

高い教育を受け、大きな権力を持っていた、ピラトでした。でも、彼は、何が、本当の真理なのか、分からなかったのです。

彼が、身を置いていた政治の世界は、だましたり、だまされたりの、連続でした。

偽物や、まやかしの、多い世界でした。

今、私たちがいる、この世界も同じです。偽物や、まやかしが横行しています。

真理など、どこに見出せるのか、というような世の中です。

では、真理とは、何なのでしょうか。真理とは、単に、それが、本物である、ということではありません。真理は、普遍性を持っていなければなりません。これは、私にとっては、真理だと言っても、他の人が、No!というのでは、それは真理とは言えません。

私だけでなく、この人も、そして、あの人も、誰でもが、これは本当だと、受け入れるもので、なければ、真理とは言えないのです。

また真理とは、いつでも、どこでも、いつまでも、変わらないもの、でなければなりません。

時代や、場所が変わっても、変わらないもので、なくてはならないのです。昨日までは真理であっても、今日は違うというのは、真理ではありません。

ヘブライ人への手紙13章8節は、こう言っています。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」

この御言葉は、主イエスご自身が、真理そのものである、ということを示しています。

ヨハネによる福音書は、その冒頭で、主イエスは恵みと真理に満ちていた、と語っています。恵みと真理とは、イエス・キリストを通して現れた、と語っています。

更に、主イエスご自身が、はっきりと、「わたしは道であり、真理であり、命である」、と言われました。聖書は、主イエスご自身が、真理であることを、様々な仕方で、語っています。

神様は、主イエスご自身を、真理として、この世に、遣わされました。

そうであれば、大切なことは、このお方の声に、耳を傾けることです。このお方が、語られる言葉を、真理として聴く、ということです。

使徒ペトロは、イザヤの預言を引用して言いました、「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」

主イエスの語られた御言葉は、真理です。永遠に変わることのない、真理です。主イエスの福音は、時代が移っても、場所が変わっても、決して変わることはないのです。

主イエスは、ピラトに対して、私こそが、真理なのだ、と言われました。そして、「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」、と言われました。

だから、あなたも、私の語る言葉に、耳を傾け、私の声を聞きなさい。そうすれば、あなたも、真理に属する者となれるのだ。ピラトよ、私は、あなたを導きたいのだ。

今、あなたは、真理そのものである、私の声を、聞いているではないか。この機会を逃さずに、私の声に聴き従いなさい。そして、私の真理の中を歩みなさい。

私は、あなたを、真理へと招いているのだ。主イエスは、そう言われているのです。

主イエスは、裁きの場にあっても、尚もそこで、私たちを、愛してくださっています。

裁かれつつも、真理を語ってくださっています。私たちを、真理へと招いてくださっています。

私たちが、ピラトのように、「真理とは何か」と、空しく尋ねる時、主イエスは、それを命懸けで、教えてくださっているのです。

私は道であり、真理であり、命である、と言われる主が、十字架の救いの真理を、御言葉を通して、御業を通して、示してくださっているのです。

「真理とは何か」。たとえ、ほんの一瞬で、あったとしても、それは、ピラトの心によぎった、重大な問いでした。本当は、彼もまた、「真理とは何か」という問いに、真剣に向き合わなければならなかったのです。

そして、まさに、この時が、神様が、彼に備えられた、特別な機会であったのです。

「真理に属する者は皆、わたしの声を聞く」。この言葉は、ピラトだけに語られているのではありません。私たち一人一人も、同じように、呼び掛けられているのです。

人が真理を知るために、神様が備えられた、特別な時、特別な機会があります。

一人一人が、主イエスと出会う、特別な機会を、与えられています。けれども、そこで、立ち止らずに、その前を、ただ通り過ぎてしまう人が、何と多いことでしょうか。

そこに、大切な真理があるのではないか、求めるべきものが、あるのではないか。そのことを、うすうすと感じながらも、別の方に心を向けて、関心を逸らしてしまう人が多いのです。

「真理とは何か」。ほんの一瞬であっても、ピラトが、裁判官としてではなく、一人の求道者として、主イエスと対峠する、場面があった。そのことを、聖書は記しています。

しかし、ピラトは、「真理とは何か」、という問いに、真剣に向き合っていません。

せっかく「真理とは何か」、と尋ねながら、主イエスの言葉を、聞こうとせずに、途中で、その対話を打ち切って、ユダヤ人たちの声に、耳を傾けてしまっています。

本当に残念ですが、ピラトは、真理を知る、絶好の機会を逃してしまいました。

そして、救い主の方ではなくて、ユダヤ人の方を、向いてしまったのです。

一方の、ユダヤ人たちは、ずっと待ち望んでいた救い主が、やっと来られたにも拘らず、そのお方を、拒んでしまっています。

神が、人となって、この世に来られた。そんなことが、ある筈がない。そんなことを言うお前は、神を冒瀆する者だ、と言って死刑にしてしまったのです。

悲しいことです。信じないということは、こんなにも悲しいことなのです。

私たちは、信じない者ではなくて、信じる者と、ならせて頂きたいと思います。

このお方が、真理として、来られたことを、受け入れる者と、ならせて頂きたいと思います。

ピラトのように、途中で打ち切って、他の人の声を、聞いてしまうのではなくて、このお方が、真理であることを、本当に、心から信じつつ、歩んでいきたいと思います。

このお方こそが、真実なお方なのだ。ここお方は、絶対に裏切らない。決して、変わることはない。このお方に、ついて行けば、大丈夫なのだ。

この平安の中を、歩んでいきたいと思います。

主イエスは、私は、真理だと言われました。

では、あなたは、このお方と、どのように、向き合うのでしょうか。

ユダヤ人のように、拒むのでしょうか。ピラトのように、いい加減な所で、話を打ち切って、このお方から、離れていくのでしょうか。

主イエスは、真理に属する者、つまり、私に属する者は、私の声を聞く、と言われました。

私たちは、真理に属する者、主イエスに属する者と、ならせて頂きたいと願います。

今も、語り掛けていてくださる、主イエスの御声を聞き、その御声に、応えていく、お互いでありたいと、心から願います。