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過去の礼拝説教

「有益な人に育てる」

2013年06月09日 聖書:フィレモンへの手紙 8節~22節

今朝は、私たち一人一人が、茅ケ崎恵泉教会という神の家族の一員であることを覚えつつ、共にファミリー礼拝を献げることができますことを心から感謝いたします。

ただ今、フィレモンへの手紙の8節から22節までを読んでいただきました。今朝はこの御言葉から、ご一緒に主に聴いてまいりたいと思います。

この手紙は、使徒パウロが、コロサイの教会の信徒であるフィレモンに宛てた個人的な手紙です。全体で25節しかない短い手紙です。

フィレモンの奴隷であったオネシモという人が、フィレモンの家から逃亡しました。

恐らく、お金を盗んで逃亡したものと思われます。

オネシモは、大都会の雑踏に紛れ込んで身を隠そうと思って、ローマに行きました。

しかし、神様の不思議な導きによって、そこでパウロと出会い、イエス・キリストの福音に触れて、全く回心してクリスチャンとなりました。

この時パウロはローマ政府によって捕えられ、監禁されていました。オネシモは、そのパウロの身近にいて、パウロの世話をし、貴重な助け手となりました。

パウロは、そのようなオネシモを、ずっと自分の手元に置いておきたかったのです。

しかし、そのためには、かつての主人であるフィレモンの許しを得なければならない。

そう思ったパウロは、オネシモをフィレモンのもとに送り返す決心をしました。

そして、フィレモンがオネシモを許し、もはや奴隷としてではなく、主にある兄弟として受け入れた上で、再びパウロのもとに遣わしてくれるようにと依頼したのが、この手紙です。

パウロは11節でこう言っています。

「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。」

かつて「盗みを働いた逃亡奴隷」であったオネシモが、今や、役に立つ者に変えられたのだ、とパウロは言っているのです。

興味深いことに新約聖書全体を通して、「役に立つ」人、つまり有益な人として紹介されているのは、たった二人だけです。

一人はこのオネシモです。そして、もう一人はマルコによる福音書を書いたマルコです。

マルコとオネシモの二人だけが、役に立つ人、有益な人として新約聖書の中で紹介されているのです。マルコとオネシモ。実は、この二人には共通点があります。

それは、二人とも大失敗をして、ダメ出しをされた人であるということです。

先ほど申しましたように、オネシモは主人のお金を盗んで逃亡した奴隷です。当時の決まりでは十字架刑にされても文句を言えないような人です。

一方のマルコですが、この人は若い時に使徒パウロとバルナバのお供をして、第一回伝道旅行に随行しています。ところが、伝道旅行が予想した以上に厳しかったからでしょうか、何と途中で投げ出して、勝手に帰ってしまったのです。

そのため、パウロからダメ出しをされて、第二回伝道旅行には連れて行ってもらえなかった人です。途中で投げ出すような根性無しは二度と連れて行かない。

この時の、パウロのマルコに対する評価は大変厳しいものでした。

そんな挫折したマルコを、バルナバが受け入れて、別の伝道旅行に連れて行きました。

このバルナバの愛の配慮によって、マルコは立ち直り、役立たずから役に立つ存在へと次第に成長していったのです。

そして遂に、パウロから、有益な人物である、とさえ言われるようになっていったのです。

伝道旅行の途中で勝手に帰ってしまったようなマルコでした。また、主人のお金を盗んで逃亡したオネシモでした。しかしパウロは、今や二人とも、私にとって役に立つ人、有益な人であると言っているのです。

神様の御業をなしていくのに必要不可欠な有益な人である、と言っています。

神様が必要とされるのは、有力な人、或いは有能な人ではなく、有益な人です。

マルコもオネシモも、もともと有力な人ではありませんでした。有能でもなかったかもしれません。しかし、有益な人へと、育てられていきました。

ある人が、「生まれながらに有力な人、或いは有能な人はいるが、生まれながらに有益な人はいない」と言っています。

これを逆に言えば、有力な人、有能な人に育てるには限界がある。なぜなら、それは、持って生まれた資質や環境によって左右される部分が大きいから。

しかし、どんな人も有益な人に育てることはできる、ということになります。

有益な人というのは、教会や家庭などのコミュニティーの中で生み出され、育てられるものなのだ、と言っているのです。確かにそうだと思います。

偉大な芸術家の作品に接しますと、努力だけではあんな作品はとても作れないと思わされます。やはり、天賦の才能があるからこそ、作ることが出来たのだと思います。

努力や研鑽によって、ある程度は有力な人、有能な人になれるでしょう。しかし、それには限界があります。

しかし、有益な人というのは、生れつきの資質によるのではありません。それは、育てられるものなのです。

パウロからダメ出しを受けたマルコを、バルナバは役に立つ人に育て上げました。

バルナバというのは、本名ではなく「慰めの子」という意味のあだ名です。

「慰めの子」と呼ばれるほどに、この人は慰め深く、愛に富んでいた人でした。

このバルナバの愛と慰めが、マルコを挫折から立ち直らせ、有益な人物へと育てていったのです。そのマルコを、晩年のパウロは受け入れ、有益な人物として福音宣教の業のために用いていきました。

また、主人のお金を盗んで逃亡したオネシモを、パウロは救いに導き、無益な人物から有益な人物へと変えていきました。

失敗し挫折した人を有益な人へと育てるのは、バルナバのような慰めと愛の人です。

また、一旦は厳しくダメ出しをしても、その後の成長を正しく評価して、挫折した人を再び用いていく、パウロのような人なのです。

さて、私たちはどうでしょうか。教会において、或いは家庭において、有益な人を育てているでしょうか。

私たちは、自分の子どもや孫に、出来ることなら有力な人、有能な人になって欲しいと思うものです。そう願うことが間違っている訳ではありません。

しかし、それにも増して、有益な人になって欲しいと願っているでしょうか。

有力な人、有能な人になることは願ってはいても、有益な人になって欲しいと、どれほど真剣に願っているでしょうか。

そもそも、有能な人と有益な人とは、どのように違うのでしょうか。

個人的なことを申し上げて誠に恐縮ですが、私はそのことをある経験を通して示されました。私が、40代半ばの頃のことです。当時、私は日本の銀行に勤務していて、国際金融業務を担当していました。その時、英国系の大手金融機関から、日本における投資銀行部門の責任者にならないか、とお誘いを受けました。

以前から興味を持っていた分野でしたので、とても心を惹かれました。

しかし、一方では長年お世話になった日本の銀行への愛着もあって、大いに迷いました。

なかなか決められずにいた時、尊敬していた牧師から、「人生において、何か大きな決断をする時には百日くらい祈れ」と常々言われていたことを思い出しました。

「そうだ、こういう時こそ百日祈梼をしなければ」と思って、誘ってくれた銀行に、返事を3ヶ月ほど待って欲しいと頼みました。

そして、それから毎日祈りました。「主よ、お誘いを受けるのが御心でしょうか。それとも、今の職場に留まるのが御心でしょうか。どうか教えてください」。

この祈りを、来る日も来る日も繰り返して祈りました。しかし、何の答も得られませんでした。

「百日位祈れば、必ず答えが与えられる」と牧師は言ったが、あれは本当なのだろうか。

そんな思いと戦いながら、そして焦りと不安を覚えながら、尚も同じ祈りを祈り続けました。

3ヶ月が過ぎ、先方に返事をしなくてはならない時が迫っていた時のことです、祈っていた私の心に、突然ある思いが沸き起こって来ました。

私は、それを神様の御声であると捉えました。その声は私にこう言いました。

「お前は、どちらの職場で働けば良いのかと私に尋ねている。職場を選択する責任を私に負わせようとしている。

しかし、どこで働くかとか、何をするかということは、そんなに大切なことだろうか。

もっと大切なことは、どこで働こうとも、何をしようとも、その置かれた場所で、お前がどう生きるかということではないだろうか。その方が、遥かに大切なのではないだろうか」。

私の心に、この言葉が突然のように迫って来たのです。その時、私は初めて分かりました。

私にとって最も大切なことは、どちらの職場で働くかということではない。

そうではなくて、どちらで働こうとも、どういう仕事をしようとも、その置かれた場所でどう生きるかということ。それこそが大切なのだ。そのことが本当に良く分かったのです。

その後いくつかの外資系の金融機関で働きました。その当時、しばしば学生さんたちの訪問を受けました。外資系金融機関に就職するにはどうしたら良いか、というアドバイスを求めて来る学生さんたちでした。

そういう学生さんたちに、一般的な情報を与えた後で、必ず付け加えた言葉があります。

「今、あなたはどこで働くか、何をするかが自分の人生を決定すると思っておられるでしょう。しかし、最も大切なことは、どこで働くかでも、何をするかでもないのですよ。もっと大切なことは、どこで働こうとも、何をしようとも、そこであなたがどう生きるかなのですよ」。

この言葉を、必ず最後に言い添えることにしていました。

それを聞いて、中には涙を流す学生もいましたが、多くの人は冷めた顔をして聞き流していました。「折角一生懸命に就職活動をしているのに、何で水を指すのか。分かったようなことを言って、このおじさんムカつく」。そんな思いが伝わって来ることが多かったのです。

しかし、それでも私は、この言葉を言わざるを得ませんでした。なぜなら、実際に長く仕事をしてきて、この言葉が真実であることを確信していたからです。

そして、いつか、この学生さんにも、このことが分かる時が必ず来ると信じていたからです。

どこで、どんなことをしているか。人々はそれを見て、その人が有能であるか、そうでないかを決めます。有能な人とは、立派な場所で働き、人々に認められるような大きな業績を上げる人。一般的にはそう思われています。

しかし、それ以上に、実際の人生においては、その人がどう生きるべきか、ということが問われる場面の方が多いのです。そして、実は、その方が遥かに大切な問いなのです。

大きな働きをするいわゆる有能な人でなくても、周りの人を慰め、励まし、温かく覆い包むような人がいます。有益な人とは、そういう人のことです。

その人の周りにいつも平和があり、幸せな空気が流れている。そういう人こそ有益な人ではないでしょうか。

本当に幸せな人とは、その人に接する人たちをも幸せにします。その人が「何かをする」というのではなくて、そこに存在するだけで、慰めとなり励ましとなります。

そういう人が有益な人です。それには、自分自身が先ず幸せであることです。

神様にしっかりと繋がれて、神様の恵みの中で喜んで生きているならば、その人がそこにいるだけで、周囲に慰めと励ましの輪が広がります。

もし、家庭において、まずお父さん、お母さんがそのような幸せに輝いているなら、子どもも輝きます。お父さん、お母さんが有益な人であるなら、子どもも有益な人に育ちます。

そのために、何よりも先ず、子どもを愛さなければ、と思われるでしょうか。

勿論、子どもを愛することは大切です。それは言うまでもありません。しかし、子どもを愛することが第一でしょうか。

聖書はそうはいっていません。先ず、私たちが神様に繋がれて、神様から愛されることが第一であると言っています。子どもを愛する前に、自分自身が神様の愛に満たされることが、第一だと言っています。そうでなければ、子どもを真実に愛することができないからです。

キルケゴールという人が、ある本の中で有能な人と有益な人の違いについて、こう語っています。

「有能な人とは、自分の内にあるものを紡ぎ出して仕事をする者である」。

有能な人は、自分の内側にあるものによって勝負をする、というのです。

それに対して、「有益な人とは、自分の内側にあるものによって仕事をするのではなくて、外から、或いは上から与えられたもので仕事をする者である」、というのです。

自分を超えたもの、つまり神様から与えられるものによって仕事をする人。そういう人が有益な人なのだと言っています。

上から与えられる神様の愛に満たされる。それによって、まず自分自身が有益な人となるのです。

そうなって初めて、子どもを有益な人に育てることができるようになるのです。

では神様の愛に満たされたら、その次に神様から頂いたその愛を子供に注ぐのでしょうか。

そうではありません。その愛を、自分の妻に、或いは自分の夫に注ぐのです。そっちが先なのです。ある牧師は、結婚式で必ずこの言葉を言います。

「愛情の90%は配偶者に注げ、子どもはそのおこぼれで育つ」。お笑いになった方もおられましたが、これは、真実です。このことを別の言葉で言い換えた人がいます。

かつて日本で働かれたある宣教師の言葉です。

「親が子どもにできる最高のこと、それはその子の母親、もしくは父親を愛することである」。

愛情豊な夫婦のもとで育てられた子供は、愛情豊に育ちます。そして有益な人へと成長して行きます。周りに慰めと、励ましと、平和を造り出す人へと成長して行きます。

今朝は、何か取りとめのないことをお話ししてしまいました。

オネシモの話から、子育てにおける夫婦の愛の大切さへと話が発展してしまいました。

最後に、もう一度、オネシモの話しに戻りたいと思います。

パウロの執り成しによって、かつての主人であったフィレモンのもとに送り返された逃亡奴隷のオネシモ。その後、このオネシモは一体どうなったでしょうか。

本当に有益な人となったのでしょうか。

初代教会の記録に、エフェソの教会を指導した優れた監督のことが記されています。

その監督の名前がオネシモなのです。

逃亡奴隷であったオネシモは、後に、エフェソの教会の優れた監督として、教会員から尊敬されるオネシモへと変えられていったのです。

当時、オネシモが監督をしていたエフェソの教会において、パウロの手紙が集められ、書簡集として編纂されることになりました。

その時オネシモは、この僅か25節しかないフィレモンへの手紙を、書簡集に含めることに賛成したでしょうか、それとも反対したでしょうか。

この手紙には、自分が、かつて盗みを働いて、主人の家から逃亡した奴隷であったということが記されています。オネシモにとっては覆い隠したいような事柄です。

それにも拘らず、オネシモはこの短い手紙を、書簡集に是非加えたいと強く願ったのです。

それは、自分の名前を残したかったからではありません。

そうではなくて、自分に注がれた神様の恵みの大きさを、すべての人に知ってもらいたいと願ったからなのです。逃亡奴隷であった自分が、主イエスの福音によって救われて、今日このように生かされている。

大監督オネシモは、自分の過去の恥をさらけ出してでも、自分の身に現わされた神様の恵みと憐れみを、何とかして一人でも多くの人に知って欲しかったのです。

ですから、この小さな手紙を是非とも書簡集に入れて欲しいと強く主張したのです。

これは、初代教会における偉大な恵みの物語です。心温まる物語です。

逃亡奴隷のオネシモが、キリストの恵みに生かされ、生まれ変わって、エフェソの教会の偉大な監督となった。無益な者から有益な者へと変えられた。

そして、そのオネシモを立ち直らせるために、パウロとフィレモンが、オネシモを許し、主にある兄弟としてオネシモを受け入れた。

この物語は、歴史上一回限りのことではありません。今日も教会において、繰り返して起こっていることです。

私たちが、主イエスの恵みに生かされるとき、いつでも、どこでも、起こることです。

その恵みに生かされているお互いであることを、心から感謝したいと思います。