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過去の礼拝説教

「御言葉を慕い求める」

2014年03月02日 聖書:ペトロの手紙一 2:1~3

献身する前、私は、仕事の関係上、外国人の方と一緒に食事をすることが多くありました。

こちらがホスト役となって、お招きする際は、「お食事は、何が宜しいですか」、とお聞きするのですが、殆どの人が「是非日本食を」と答えられました。

しかし、まだ日本食にあまり慣れていない方には、安全策を取って、初心者コースである、「てんぷら」や「しゃぶしゃぶ」などを用意しました。

そして、2回目、3回目と慣れてくるに従って、だんだんと純日本的なものを増やすようにしていきました。

そして、そういう純日本的なものをも、「美味しい」と言って、喜んで食べた人に対しては、「あなたはもう本当の日本人ですね」と、誉めてあげました。

すると、そう言われた人は、例外なく、とても嬉しそうな顔をしました。

反対に、私たちが東南アジアなどに行って、その土地の人々が普段食べているような料理を喜んで食べると、現地の方々にとても好感を持たれます。

それだけではなく、「この人は、この国のことを本当に良く理解している」、と評価されます。

私たちは、何を食べて美味しいと感じるでしょうか。

何を食べて美味しいと感じるかは、ある意味では、その人のことを表現しているともいえます。好きな食べ物を聞くと、大体その人のイメージが浮かび上がってきます。

脂っこい肉料理が好きな人。あっさりとした和食が好きな人。食べ物によって、その人のイメージを形作ることができます。

人間は食べるものによって、徐々に体質が変わっていくからです。

同じことは、肉体だけではなく、心についても言えると思います。

どういう本を読むか、どういう音楽を聴くか、どういうテレビ番組や映画を観るか。

それらによって、人間の精神生活は大きな影響を受け、徐々に性格が決定されていきます。そして、私たちの信仰生活も、毎日、何を食べて養われるかによって、その性格が決定されていきます。肉体の食事は、一食抜いても空腹感を覚えます。ずっと食べずにいれば、いずれ死んでしまいます。

しかし、精神生活や信仰生活はそうではありません。その心がやせ細っても目には見えません。

それでは、私たちキリスト者は、信仰生活がやせ細ってしまわないために、どの様な食物を取り続けるべきでしょうか。

今朝は、そのことを、ご一緒に御言葉から聴いてまいりたいと思います。

スヌーピーで有名なピーナツという漫画に、ライナスという男の子が登場します。

彼はいつも毛布を持っています。大抵は、左手に毛布を持ち、右手の指をくわえています。

チャーリー・ブラウンやルーシーなどの、彼の友だちは、彼が毛布を持つことを止めさせようとしますが、ライナスは決して毛布を手放しません。

彼の持つ毛布のことを、英語で「security blanket」と言います。直訳すれば「安全毛布」ですが、むしろ「安心毛布」と訳した方が適切だと思います。

幼い子どもが、いつも手放さずに、しっかりと握りしめている毛布。

少し位汚れていても、それさえあれば安心、という存在です。

信仰生活においても、いつも手放さずに、しっかりと握り締めていなければならないもの。

それさえあれば、安心というものがあります。いわば、キリスト者にとっての「security blanket、安心毛布」です。

言い換えれば、信仰がやせ細ってしまわないために、いつも食べ続けていなくてはならない食べ物のことです。一体それは、何なのでしょうか。

ヨハネによる福音書20章で、復活された主イエスは、マグダラのマリアに対して、「わたしにすがりつくのはよしなさい」、と言っておられます。

この時、主イエスは、マグダラのマリアを、冷たく突き放したのではありません。

目に見えて、手で触れられる存在に、いつまでもしがみつくことは止めなさい。

目に見える存在。手で触れることができる存在。あなたが自分の手で掴み取れる存在。

そういうものを、あなたの「security blanket」とすることを止めなさい。それを手放して、もっと確かなものを、あなたの「security blanket」としなさい。それは何か。

それは、御言葉です。主が、私たちに語ってくださる、命の御言葉です。

私はあなたに言葉を与えたではないか。その言葉を、あなたの「security blanket」としなさい。主イエスは、そう言われたのです。

信仰生活を支えていくために、食べ続けていくべき食べ物。それは、御言葉です。

御言葉を、あなた方の信仰生活を生きていく食べ物としなさい。

主イエスは、そう言われたのです。

そのために主は、私たちに、聖書を与えてくださり、神様の御声を、いつでも、どこでも、聞けるようにしてくださったのです。

神様は、聖書の御言葉を通して、私たちに語ってくださっています。

私たちは、聖書を通して、神様の御言葉を聞いていくのです。

御言葉こそが、私たちに、まことの安心を与えてくれる「security blanket(安心毛布)」です。

聖書から神様の御声を聞いていく時に、私たちの心に本当の平安が与えられます。

胎児は、母の胎内で「ザッ、ザァー、シャカ、シャカ」という胎内音を聞いて育ちます。

産まれて1ヶ月ほどの赤ちゃんに、その音を聞かせると、ぐずっていた赤ちゃんの80%が1分以内に静かになった、という実験結果があるそうです。

きっとその音は、赤ちゃんにとって、安心できる音、平安を与えてくれる音なのだと思います。私たちの心を、そのような平安に包み込む音、それは神様の御声です。

聖書の御言葉です。私たちは、その聖書の御言葉を、いつも心に蓄え、それを喜び、それに頼り、それに従って、歩んでいきたいと願わされます。

私たちは、神様の御言葉を、security blanketとして、常に心に持っていたいと思います。

主の御言葉を、食べ続けていきたいと思います。

先ほど読んで頂きました、ペトロの第一の手紙には、神様の御言葉を慕い求めなさい、と書かれています。

しかも、生まれたばかりの乳飲み子のように、慕い求めなさいと書かれています。

そう申し上げると、皆さんは、「アレッ、変だな。今日の箇所のどこにも、御言葉を慕い求めなさい、などとは書かれていないではないか」、と思われるかも知れません。

確かに、「霊の乳を慕い求めなさい」とは書いてありますが、「御言葉を慕い求めなさい」とは、書かれていません。

聖書が言っているのは、「霊の乳を慕い求めなさい」、ということです。

ところが、ここで「霊の乳」と訳された言葉は、新改訳聖書では「御言葉の乳」と訳されています。元々の原語は、どちらに訳しても良い言葉なのです。

主イエスも、ヨハネによる福音書の6章63節で、「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と言われました。主イエスの御言葉は、霊なのです。

ですから、「霊の乳」と「御言葉の乳」とは同義語なのです。

この「霊の乳」、「御言葉の乳」さえあれば、他のすべてを捨て去っても、信仰者は生きていける、と御言葉は言っています。

ですから、1節で、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」ことを勧めています。

ここで、「捨て去って」と語られた言葉は、「脱ぎ捨てる」という意味の言葉です。

御言葉は、ここで、「汚れた着物を脱ぐように、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな脱ぎ捨てなさい」、と勧めているのです。

新共同訳聖書には細かく訳されていませんが、原文では、すべての悪意、すべての偽り、すべての悪口、と繰り返して「すべての」と語られています。

これらのものを、すべて、完全に脱ぎ去りなさい、と言っているのです。

今、私たちが生きている人間社会は、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口に満ちています。

そのような悪の武具をもって、攻撃されることの多い世の中です。

ですから、人々は、同じような武具を身に装うことで、自分を守ろうとします。

残念なことに、私たちの生活の場は、そのような戦いの場なのです。

しかし、御言葉は、これらのものをすべて、完全に脱ぎ去りなさい、と言っているのです。

すべて脱ぎ去ったら、裸になります。

昔から、戦いの場で、武器や鎧をすべて捨て去って、丸裸になった相手のことを、「赤子同然」と言います。

一切を脱ぎ捨てるということは、赤子、即ち、乳飲み子のようになることです。

悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をもって、完全武装している相手に対して、乳飲み子のように、無防備になりなさい、と御言葉は言っています。

そんなことをして、大丈夫なのでしょうか。御言葉は、大丈夫だと言っています。

大丈夫なのです。すべて脱ぎ去っても、あなたは生きていけます、と言っているのです。

2節の御言葉。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」。

御言葉は、悪の武具をすべて脱ぎ捨てて、乳飲み子同然の裸になって、ただ霊の乳のみによって生きていきなさい、と勧めています。

恐れずにそれらを脱ぎ捨ててしまいなさい、と語っています。

それらを全部脱ぎ捨てて、全く無防備な乳飲み子となると、自分のうちには何の力も無くなります。力は、神様からしか得られなくなります。

信仰生活とは自分の力で生きることではなくて、神様の力によって生きることです。

神様の力。それが、2節で言われている「霊の乳」、つまり「御言葉の乳」です。

生まれたばかりの乳飲み子のように、無防備となった者は、「混じりけのない霊の乳」、つまり「純粋な御言葉の乳」によって、養われることが必要だというのです。

生まれたばかりの乳飲み子。それは本当に小さくて、ひ弱な存在です。しかし、そんな赤ちゃんでも、母親の乳を飲む時には、思いがけないほどの力強さで、乳を吸います。

なぜ、赤ちゃんは教えられもしないのに、むしゃぶりつくように強く乳を吸うのでしょうか。

それは、この乳さえあれば生きていける、と知っているからです。

この乳の中には、生きていくのに必要な、すべての栄養が含まれていることを、知っているからです。

私たちキリスト者も、同じように、社会的には小さくて、ひ弱なものです。しかし、赤ちゃんが力強く母の乳を慕い求めるように、いやそれにも優って、熱心に「御言葉の乳」を慕い求めていく時に、「あなたはこの世で生きていける」、と聖書は約束しています。

なぜなら、「御言葉の乳」には、この世で私たちが生きていくために、必要なすべてが、含まれているからです。

ただし、ここで一つ、注意しなくてはいけないことがあります。赤ちゃんは、毎日、何回も、母の乳を求めます。そのように、信仰者も、毎日、「御言葉の乳」を慕い求めることが、必要であるということです。毎日、新たな栄養を、与えられることが大切なのです。

時々、礼拝の中の祈りで、「今朝与えられた恵みを、1週間の糧として、歩んでいけますように」、と祈られることがあります。礼拝で恵まれることは素晴らしいのですが、それで1週間もたせる、というのでは、少々不安です。

礼拝での恵みによって励まされて、その週も、毎日、御言葉を慕い求める者とされますように、と祈る者でありたいと願います。

ここで、「慕い求める」と訳された言葉は、とても強い意味を持つ言葉です。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」。

この詩編42編2節の御言葉は、ワーシップソングにもなって、大変親しまれています。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」。

ギリシア語の旧約聖書では、ここにある「慕いあえぐ」という言葉が、2節の霊の乳を「慕い求めなる」という言葉と、同じ言葉となっています。

そうしますと、2節の御言葉は、乳飲み子が母の乳を思いがけない力で慕い求めるように、そしてまた、鹿が谷川の水を慕いあえぐように、「混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」と読み足すこともできます。

乳を慕う赤ちゃんの姿と、谷川の水を慕う鹿の姿が、二重写しとなっているのです。

さて、3節で御言葉は、「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」、と語っています。

「あなたがたは、主が恵み深いお方であることを、もう既に味わったではないか。そのことを、よく知っている筈だ。もしそうなら、主の御言葉を心から慕い求める筈ではないか」、と言っているのです。

「恵み深い方」という言葉は、原語では「クレーストス」という言葉です。

ここでは、クレーストスという言葉は「美味しい」という意味で使われています。

あなたがたは、主の美味しさを味わったではないか、と語られているのです。

そうなのです。主の御言葉は美味しいのです。

エゼキエル書3章3節はこう言っています。「『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」。

主は、エゼキエルに、蜜のように甘い御言葉を胃袋に入れて、それで腹を満たせ、と言われています。御言葉は、蜜のように甘くて、美味しいのです。

でも、いつも甘い訳ではありません。

ヨハネの黙示録10章9節には、このような言葉があります。「そこで、天使のところへ行き、「その小さな巻物をください」と言った。すると、天使はわたしに言った。『受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。』」

ここでは、御言葉は、腹には苦い、と言っています。御言葉は、蜜のように甘く、私たちを慰め、励まし、生きる力を与えてくれる美味しい食べ物です。

しかし、罪との激しい戦いの中にいる私たちにとって、御言葉は、いつも甘いだけではありません。

罪の誘惑に負けてしまうとき、御言葉は、時として私たちに悔い改めを迫る、苦い食べ物となることもあります。

しかし、そういう食べ物も、私たちには、なくてはならない、必要な食べ物なのです。

ですから、それは、まことの意味で、美味しい食べ物なのです。

クレーストスという言葉は、美味しいという意味の他に、聖書の中では「情け深い」とか「親切な」と訳されているところもあります。色々な意味を含んだ言葉なのです。

ある神学者は、このクレーストスという言葉は、「極端に親切で、情け深い人」という意味に近いといっています。

それは、人間的に言えば、「度外れたお人好し」、と言われるほどのものだと言うのです。

すべての人間に裏切られても、すべての人間が逃げ去っても、主はそのすべてをご存知の上で、尚も私たちを受け入れ、愛してくださる。

自分を十字架に架け、想像を絶する苦しみに会わせた人間を赦すために、必死の執り成しの祈りをしてくださる。

このような、度外れたお人好しに出会わなければ、人間は自分の身を守る装いを、すべて脱ぎ捨てることなど出来ないのではないでしょうか。

本当に、主がクレーストスなお方、度外れたお人好しであることが分からなければ、裸になり、乳飲み子のようになることはできません。

しかし、主が度外れたお人好しで、恵み深い方だということを、体で味わった者は、すべてを脱ぎ捨て、乳飲み子のように、霊の乳のみを慕い求めることができるのだと、御言葉は語っています。

果たして、私たちはどうでしょうか?私たちは、すべてを脱ぎ捨てて、主の御声に耳を傾けているでしょうか。

今も、言葉に表せないうめきをもって、執り成して下さっている、聖霊の細きみ声に対する、切なる飢え渇きを感じているでしょうか。

乳飲み子が母の乳を慕うように、鹿が谷川の水を慕うように、いつも御言葉を慕い求め、救いに向かって成長していくお互いでありたいと心から願います。

御言葉を、そのようなsecurity blanketとして、いつも握りしめていたい、と心から願います。