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過去の礼拝説教

「主を動かした祈り」

2013年10月20日 聖書:マタイによる福音書 15:21~28

6月の教会総会において、今年度の目標として、「常に御言葉に聴き、祈り合う教会」を目指していきたい、と述べさせていただきました。

そこで今朝は、祈りについてご一緒に御言葉から聴いていきたいと思います。

祈りに熱心であるということはどういうことなのか。そもそも熱心な祈りとはどのような祈りなのか。そのことについて、ご一緒に考えたいと思います。

今朝、与えられた御言葉は、マタイによる福音書15章21節~28節です。

今日の御言葉の舞台になっているのは、ティルスとシドンという地方です。ティルスとシドンというのは、パレスティナの北西地中海沿岸にあるフェニキアの都市です。

この時、主イエスは、ますます激しくなってきたユダヤ人たちとの対立を避けて、異邦人の地であるティルスとシドンの地方に一時的に退かれたのです。

静かに、誰にも知られずに、束の間の休息を取ろうとされたのです。

しかし、実際はそうはいきませんでした。主イエスが来られたと聞いて、駆けつけて来た人がいたのです。この地方に生まれ育った一人のカナンの婦人です。

この婦人が、「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けて、主イエスについて来たのです。彼女の娘が、悪霊にひどく苦しめられていたからです。

この婦人は、主イエスに向かって「主よ、ダビデの子よ」と言いました。

「ダビデの子」。それは、「救い主」を意味します。

ユダヤ人が「救い主」と呼ぶお方は、周りの国々を滅ぼして、ダビデの時代のようなユダヤ民族の繁栄を、再びもたらす英雄を意味していました。

ですから、もし、そのような救い主が現れたら、敵であるカナン人には不都合が生じることになります。この婦人は、そういう歴史を知らなかった筈はありません。

それなのに、この婦人は、主イエスを「主よ、ダビデの子よ、メシアよ」と呼んでいます。

フェニキア人の地で、そのように主イエスを呼んだのです。

これは、とても勇気のいることであったと思います。周りの人たちから、冷たい視線を受けることが十分に考えられたからです。

しかし、この人は叫ぶことを止めませんでした。何としてでも自分の娘を助けていただきたい。「ここに救いがある」と思ったら、喰い付かざるを得なかったのです。

ですから、どうか助けていただきたいと、ただひたすらお願いしたのです。

その願いだけを持って、この女性は主イエスの後をずっと追い続けたのです。

『主よ、私を憐れんでください』。この言葉の、ラテン語訳が、「キリエ・エレイソン」です。

「キリエ・エレイソン」「主よ、憐れみたまえ」。

これから後、この叫びが、教会の祈りの言葉となりました。「キリエ・エレイソン」。「主よ、憐れみたまえ」。とても簡単な、短い祈りです。誰にでも、祈れる言葉です。

けれども、教会の中で、この祈りほど、多く献げられた祈りはありません。この祈りほど、真剣に祈られた祈りはありません。

ある人が、「悩みが大きければ、大きいほど、祈りの叫びは短くなる」と言っています。

言葉に言い表せないほどの悩み。どのように祈ってよいのか分からないほどの苦しみ。

その只中では、「主よ、憐れみたまえ」と祈るほかありません。

誰も知らない私の深い悩み。でも、主だけは知っていてくださる。そのお方に向かって、「主よ、憐れみたまえ」と祈るほかありません。

婦人は叫び続けました。「キリエ・エレイソン」「主よ、憐れみたまえ」。

しかし、主イエスは、何もお答えにならなかったのです。

お言葉がないのです。叫び続けているのに、お言葉が与えられないのです。

婦人は悩みの中で、主イエスの沈黙に会いました。

しかし、その主イエスの沈黙にもめげず、婦人は叫び続けたのです。

この婦人は、母としての無力さを、痛いほど感じていました。娘に対して、何もしてやれない。そんな自分の無力さを、思い知らされていました。まさにその無力さの只中で祈り、叫んだのです。主イエスに向かって、叫び続けたのです。叫ぶことを止めなかったのです。

私たちも祈りの中で、主イエスの沈黙に出会うことがあります。

私は、何か大きな決断をする時に、百日祈祷をすることがあります。

その時いつも経験することは、祈り始めた当初は、何の答えも与えられないということです。

この婦人の場合と同じように、お言葉がないのです。しかし、それでも諦めずに祈り続けていくと、必ずお言葉が与えられます。不思議ですが、毎回そうなのです。

ですから、諦めずに、更に熱心に祈り続けることが大切です。この婦人も、諦めずに叫び続けました。

ついに、弟子たちが、主イエスに言います。

『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。』

その弟子たちに、主イエスは、お答えになりました。

『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。』

この言葉は、この女性に対するはっきりとした拒否です。

この主イエスのお言葉は、いつもの主イエスらしくありません。排他的で、愛に欠けたお言葉のように聞こえます。

しかし、ここに至るまでの主イエスの足取りを振り返ってみますと、この言葉は決して愛に欠けたお言葉ではないことが分かります。

そうではなくて、この言葉は、イスラエルの家の失われた羊を、どこまでも愛し抜こうとされる、主イエスの苦悩のお言葉なのです。

主イエスは、イスラエルの民でありながら、祝福から漏れていると見られている人々。

そして自分自身も、神様から見放されたと思い込んでいる人々。

徴税人や、遊女、或いは重い皮膚病を患っている人々など、世の中で「罪人」、「汚れた人」と呼ばれている人々のことを、何よりも心に掛けておられました。

そして、また同時に、イスラエルの家全体が、神様に選ばれた民であるにも拘わらず、羊飼いである神様のもとから迷い出た羊のような状態でさ迷っている。

そのために、救いから遠ざかっている。そのことで、お心が悲しみでいっぱいになっていたのです。

ですから、先ず第一に、この失われた神の民を呼び戻すことが、私の使命なのだ。

先ず、神の民、イスラエルの回復、イスラエルの救いの業がなされる。

そして、その次に、主イエスの復活後に、世界の民の救いの業が始まる。

それが、父なる神様のご計画であり、そのために、私は遣わされたのだ、と言っておられるのです。

私は、私を遣わされた、父なる神様の御心を成し遂げる。先ずそのことに集中する。

今は、そのことに私の力のすべてを注ぐ。

ここでは、そのような、主イエスのお心が語られています。

しかし、主イエスがそのように、命懸けで愛しておられるイスラエルの民は、その主イエスの愛を拒否して、やがて主イエスを十字架に付けてしまうことになります。

そのことが主イエスには見えているのです。

神の民であるイスラエルが、自分を拒否するということが見えている状況の中で、主イエスは異邦人の地においでになりました。

普通なら、ユダヤ人が駄目だったら、異邦人に述べ伝えようと考えると思います。

しかし、主イエスはここでも尚、自分はイスラエルの家に遣わされている、と仰いました。

どんなに拒否されても、私は尚もイスラエルの民を愛する。イスラエルの民を愛し抜く。

その点において、主イエスは、全く揺らぐことはありませんでした。

この時主イエスは、愛に欠けていたのではなくて、自分に背き続けるユダヤ人を、尚も愛し抜こうとされる思いでいっぱいだったのです。

滅びに向かっているユダヤ人に対する悲しみで、お心がいっぱいだったのです。

一見、冷たいとも思えるような主イエスのお言葉にも拘らず、この婦人は諦めませんでした。それどころか、主イエスと弟子たちの間に、割り込むようにして、この婦人は主イエスに近付きました。そして、主イエスの前にひれ伏して叫びます。『主よ、どうかお助けください』

断られたから、文句を言って立ち去ったのではないのです。ますます熱心に、ひれ伏して祈ったのです。『主よ、どうかお助けください』。

イエス様、あなたには、この私の悲鳴が聞こえないのですか。あなたは、ユダヤ人の救いが先だとおっしゃいます。その通りかも知れません。

しかし、今、このように悲鳴を上げている私の救い主でもあるのだ、とは言ってくださらないのですか。私も「失われた羊」ではないのですか。そうです、私も、失われた羊なのです。

今、悩みのどん底にある者なのです。

私はあなた以外に行くところはありません。どんなに退けられても、他のどこにも行くところはないのです。

この婦人の叫びに、とうとう主イエスは、婦人の方に振り向かざるを得なくなります。

しかし、振向いて、主イエスは何と言われたでしょうか。

主イエスは、『子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』、と答えられました。

「子供たち」というのは、ユダヤ人のことです。「小犬」というのは、ユダヤ人ではない国民、つまり異邦人のことです。

今、私にとって、大切なことは、イスラエルの家にいる子供たちにパンを上げること、子供たちを養うことなのだ。小犬の養いは、その後のことなのだ。

そのように、主イエスはおっしゃられたのです。

これは、明らかに、拒否の回答です。婦人は、初めに主の沈黙に出会い、そしてその後で、二回もはっきりとした拒否の言葉を聞いたのです。

ここまではっきりとした拒否にあったら、普通ならもう話は終わったと思うのではないでしょうか。そこまで言われて、尚もこの人に助けを求めることなどできるか。

「もういい」と言って、この場を去ってしまっても不思議ではありません。

この婦人が経験したのは、長い沈黙と、挙句の果ての拒否です。しかも、叫び続けたにも拘らず、二回も拒否されたのです。

私の場合も、百日祈祷の中で、沈黙の後に与えられた最初の言葉は、否定的なお言葉でした。牧師としての献身の召命を受けて、それを確かめるために始めた百日祈祷でした。

しかし、初めの内は「お前は向いていない、止めた方が良い」、というような否定的な言葉ばかりが聞こえてきたのです。

では、そのような中で、どのように祈り続けることができるのでしょうか。

「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。

驚いたことに、この婦人は、主イエスのこのお言葉をそのまま受け入れたのです。

「こんな言葉は主イエスらしくない」とか、「それでも愛の人ですか」とか、「神様ってそんな方なのですか」とか、非難がましいことを、この婦人は一言も言わなかったのです。

代わりにこう言ったのです。

「主よ、ごもっともです」。

「あなた方は犬だ」と言われて、「はい、主よ、その通りです」とこの婦人は言ったのです。

この婦人は言いました。あなたは、私の主。その主のお言葉は、全く正しく、その通りです。しかし、今、あなたは、小犬とおっしゃいました。野犬ではなく、家で飼われて、愛されている小犬と言われました。そうです。私も、あなたの家の中に入れて頂いています。

あなたは、この私を、子どもに次ぐ存在として、ユダヤ人に次ぐ存在として、見ていてくださいます。

それなら、子どもが食べ飽きた後に、その食事の余り物で小犬は養われるはずです。

犬のことまで考えて、あなたは子どもの食事を作られるのではありませんか。

あなたは、ユダヤ人の救いのために働かれると言われました。それは、父なる神様のご計画ですから、当然のことでしょう。

しかし、そこから溢れ出る愛は、異邦人の私にも溢れ出てくるのではないでしょうか。

私が、その恵みのおこぼれに、少しだけでも与ることは、許されないのでしょうか。

そのようなことさえ許されないあなたではない筈です。

私は、あなたが、そのようお方ではないことを信じています。あなたは、イスラエルの民の神だけではありません。私の神でもあられます。

彼らに注がれる恵みの溢れ出たものに、私が身を浸すことを、許されないようなお方ではない、と信じています」。そう、主イエスに言ったのです。

この婦人は、主イエスの沈黙と拒否の中で、なおも失望することなく、神を正しいお方とし、神である主イエスの前にひれ伏して、その愛に信頼し、願い続けました。

私も百日祈祷の中で、最初は否定的な言葉に出会いました。

しかし、「主よ、私はあなたの招きのお言葉を確かに聞きました。あなたのお言葉は真実であると信じています。それなら、この私を、招きに相応しく整えてくださる筈ではないですか。どうかこの貧しい僕を憐れんでください」と祈り続け、最後には力強い励ましのお言葉をいただくことができました。

さて、このカナンの婦人の必死の願いに、主イエスは心を動かされました。

そして、こう仰いました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」。

このお言葉を主イエスからいただいて、一体この婦人はどう思ったでしょうか。

その時には、もう無我夢中で、よくこのお言葉を味わうことなどできなかったと思います。

そもそもこの婦人は、主イエスから褒められたいなどという気持ちは、少しも持っていませんでした。

自分の信仰が立派だとか、貧しいとか、そんなことは気にも留めていなかったのです。

ただただ必死に、主イエスに喰い付いていっただけでした。

でも、そういう自分の信仰を,主イエスが立派だ、と仰ってくださった。

そして、「あなたの願いどおりになるように」と言ってくださって、娘を癒してくださった。

後になってこの婦人は、自分に言われた主イエスのお言葉を思い出しては、言い尽せない喜びを感じたのではないかと思います。

この「立派だ」と訳された言葉は、もともとは「大きい」という意味の言葉です。

主イエスは、この婦人に向かって、「あなたの信仰は大きい」と仰ったのです

興味深いことに、主イエスは弟子たちに向かって、全く逆のことを仰ったことがあります。

マタイによる福音書は、弟子たちがガリラヤ湖で嵐に出会ったということを、二回書き記しています。そのどちらの出来事においても、弟子たちは不安に脅えて、主イエスに助けを求めました。その時に、主イエスから「信仰の薄い者たちよ」というお叱りを受けています。

この「信仰が薄い」と訳された言葉は、もともとは「信仰が小さい」という意味の言葉です。

主イエスは、この時の弟子たちを「信仰の小さい者たち」、と仰ったのです。

一方、今日の箇所で主イエスは、このカナンの婦人に向かって、「あなたの信仰は大きい」と言われました。

弟子たちも、このカナンの婦人も、私たちと同じ人間です。

ということは、私たちの信仰というのは、小さくもなるし、大きくもなる、ということです。

どちらかというと、私たちは自分の信仰の小ささを嘆くことが多いと思います。

何故、私の信仰は、こんなに弱くて、小さいのかと嘆くことが多いと思います。

でも、私たちの信仰が、小さくて良い筈はありません。

どうせ私の信仰は小さいのだと、諦め、呟いている私たち。

今朝、そんな私たちの目の前に、このカナンの婦人の姿が映し出されています。

折角、信仰者とさせて頂いたのですから、私たちも、大きな信仰に生きたいと願います。

そして、それは不可能ではないのです。

私たちもまた、このカナンの婦人のような信仰に生きることが許されています。

そのために、主は、この婦人の姿を私たちにお示しくださっているのです。

主イエスが、大きい信仰と言って、褒められる信仰は、主イエスについての知識が深いか、浅いかとか、神学的な勉強をしているか、していないか、などということには関係ありません。人生経験の長さや、信仰生活の長さにも関係なさそうです。

では、この婦人の信仰の大きさとは、何であったのでしょうか。それは、この婦人が実に真剣に、実に熱心に祈った、ということです。

実に厳しく、主イエスに迫った、ということです。この婦人の、祈りの激しさが、主イエスを振り向かせ、主イエスのお心を動かすほどのものであったのです。

主の沈黙と拒否の中で、それでもなお、主に頼るしかないことを知り、失望せずに、祈り続けた信仰。

主の沈黙と拒否の中にあっても、一筋の主の愛を見逃さず、その愛にすがっていく信仰。

その信仰を、主は「あなたの信仰は大きい」と言ってくださいました。

私たちは、そのような大きい信仰に生きたいと願います。

そのことを私たちの願いとして、共に歩んでいきたいと願います。