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過去の礼拝説教

「わたしの主、わたしの神よ」

2013年04月07日 聖書:ヨハネによる福音書20:24~29

私たちの茅ヶ崎恵泉教会では、毎聖日、使徒信条によって信仰を告白しています。

先程も、使徒信条を共に唱和いたしました。

使徒信条と言われていますが、これはペトロやパウロのような使徒たちが書いた信条、という意味ではありません。

そうではなくて、使徒たちが宣ベ伝え、使徒たちが教えた信仰に基づいて、教会が言い表した信仰のことです。

使徒信条は短い文章ですが、内容的にはかなり多くのことが言い表されています。

ではもっと短く、一言で私たちの信仰を告白するとしたら、どういう言葉が相応しいでしょうか。ある人が、聖書の中から二つの御言葉を、そのような信仰告白の言葉として選んでいます。

一つは、「イエスは主である」、という御言葉です。 「イエスは主である」。

これは、コリントの信徒への手紙一の12章3節に記されている御言葉です。

もう一つは、「わたしの主、わたしの神よ」、という御言葉です。

先ほど読んでいただいた、ヨハネによる福音書20章28節の御言葉です。

復活の主イエスに対して、トマスが言い表した言葉です。

今朝は、トマスがどのようにして、この信仰告白に導かれたのか。

そのことに思いを巡らせながら、ご一緒に御言葉に聴いてまいりたいと思います。

今朝与えられた御言葉は、主イエスが復活されてから八日目。

つまり、イースターの次の日曜日の出来事です。今年の教会暦で言えば今日です。

その日、復活の主イエスは、再びそのお姿を、弟子たちに顕されました。

ヨハネによる福音書によれば、主イエスが、最初に復活のお姿を弟子たちに顕されたのは、イースターの日曜日の夕方でした。

弟子たちは、ユダヤ人たちを恐れて、家の鍵を全部掛けて、ひっそりと隠れるようにして集っていました。

先週ご一緒に学びましたように、その日の朝に、弟子たちは、マグダラのマリアから、復活の主イエスが彼女に顕れたことを既に聞かされていました。

しかし、十字架によってすべてが終わってしまった、と思い込んでいた弟子たちは、マグダラのマリアの言葉を信じることができませんでした。

そこに、復活された主イエスが、来てくださったのです。

弟子たちは、喜びに満たされました。弟子たちは、この時から変わりました。

失望と悲しみの中にいた弟子たちが、喜びに満ちて、立ち上がったのです。人が神様と本当に出会った時、その人の人生は、それまでとは全く違ったものへと変えられます。

野球で、打者がボールをバットの真芯で捕らえることを「ジャストミート」といいます。

ピッチャーが渾身の力を込めて投げた球を、ジャストミートすると、ボールは全く逆の方向に弾き返されます。

同じように、人が、神様にジャストミートすると、その人の人生はそれまでとは全く反対の方向へと弾き返されます。弟子たちは、そのように、主イエスにジャストミートしました。

ところがこの時、弟子たちの中でトマスだけが、どうした訳かその場にいなかったのです。そのために、復活の主イエスに会うことができませんでした。

他の弟子たちが、復活の主イエスにジャストミートして、新しい歩みを始めようとしているのに、トマスだけが取り残されました。

しかし、それから8日後に、主イエスは、再び弟子たちのところに、お姿を顕されました。

この時は、トマス一人のために来られました。

24節で、「ディディモと呼ばれるトマス」と書かれています。

ディディモという言葉は、ギリシア語の「双子」を意味する言葉で、トマスのニックネームであったようです。

トマスという名前の人がたくさんいたので、どのトマスかを区別するために、ニックネームを付けて、「双子のトマス」と呼んでいたのです。

そのトマスは、『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない』、と言いました。

この言葉のために、教会では早い時期から、トマスのことを、「疑い深いトマス」と呼ぶようになりました。

この後、讃美歌197番を、ご一緒に賛美いたしますが、その中でも「疑い惑うトマスにも」、と歌われています。

一般に、「疑い深い」ということは、「信仰が弱い」というイメージに繋がります。

しかし、少なくともこの時点では、弟子たちの中で一番疑い深く、一番弱かったトマスが、「わたしの主、わたしの神よ」と言い表すことが出来たのです。

そして、この時トマスが口にしたこの信仰の告白が、それから後、二千年の間、世界中の教会の信仰告白になりました。私たちはここに、神様の驚くべき奇蹟を見る思いがします。

教会の信仰告白は、強くて、立派な信仰者ではなく、疑い深く、弱かった一人の弟子が思わず叫んだ言葉から始まったのです。このように神様は、疑い深く、弱い者を用いられて御業を進められるのです。

しかし、よく考えてみますと、私たちの誰もが、トマスのような疑い深さ、弱さを持っているのではないかと思います。そのことを、ある牧師は、このように語っています。

「双子のトマスというからには、双子の片割れがいる筈である。

双子のもう一人はどこへ行ったのか。

実は、私たちの誰もが、その片割れなのだ。私たちの誰もが、もう一人のトマスなのだ。

トマスの兄弟を、どこかに探しに行く必要は無い。それは、私たち自身なのだ。

私たちも、主イエスに会いたい。会ってその手に触れて、信じたい。

心の片隅でそう思っている。トマスは、ここで主イエスに会って頂いている。

それは、私たちの代表として、会って頂いているのだ」。

私は、この言葉を読んで、本当にそうだなと思いました。そして、深く慰められました。

トマスは、私たちの代表として、疑い、迷い、苦しんでいました。

恐らくトマスは、この時、主イエスを見捨てて逃げてしまった自分を許すことが出来ないでいたのだと思います。そして、そんな自分の所に、十字架に死なれた主イエスが来てくださって、「平和があるように」などと祝福してくださる筈がないと思っていたのです。

そのトマスの所に、主イエスが会いに来てくださった。

この時点では、間違いなく、弟子たちの中で一番疑い深く、そして一番信仰の弱いトマス。

そのトマスを目指して、主イエスは来て下さったのです。

主イエスは、トマスの性格を、十分に御存知でした。ですから、トマスが主の復活の出来事を聞かされた時に、どんなに疑い迷うか。その事も知っておられました。

恐らく、主イエスは、そんなトマスのために、何度も祈られたに違いありません。

この時、主イエスは、ひたすらトマスとだけ話をされました。

復活の主は、「自分は一番信仰が弱い」、と思っている人のために祈られ、その人を目指して来て下さるのです。

そして、その人に対して、「私が復活したことを、信じなさい。どうか信じて欲しい」、と言って下さるのです。

主イエスにとっては、他の一切のことはどうでも良いのです。

ご自分がどんなに痛い目に会おうと、どんな辱めを受けようと、そんなことはどうでも良いのです。

「あなたは、信じない者ではなく、信じる者になりなさい。信じる者になって欲しい」。

主イエスが心から望んでおられるのは、ただこのことだけなのです。

主イエスのお働きのすべては、ただこの一点に集中しているのです。

このことは、信仰の弱い私たちにとって、大きな慰めです。

主イエスは、トマスに「信じる者になりなさい」、と言われました。

その主イエスに対して、トマスは、ただ「わたしの主、わたしの神よ」と叫び、心から信仰を告白しました。

聖書には、この時トマスが、実際に、主イエスの手の釘跡に指を差し入れたとは、書かれていません。

トマスの指や手は、主イエスを見捨てて十字架の傷を負わせた張本人のような部分でした。その指や手を、復活の主イエスは「わたしの脇腹に入れなさい」と言われたのです。

復活の主イエスには、十字架の傷跡がはっきりと残っていました。手や足には打ち込まれた太い釘の跡が、そして脇腹にはつき刺された槍の跡が、はっきりと残っていました。

なぜ復活の主イエスのお体には、そのような十字架の傷が残っていたのでしょうか。

そんなものは、忌まわしい傷でしかないと、跡形もなく消え去っていてもよかったのです。

そうしようと思えば、お出来になられるお方でした。それなのに、十字架の傷はありありと復活の主イエスのお体についていました。なぜでしょうか。

それは、私たちの罪深い手や指を、ご自身の傷の中に入れさせ、包み込んで共に生きるためであったのです。

あなたの罪を、いや、罪深いあなた自身を、この十字架の傷の中に入れなさい。

私は、それを包み込んで、あなたと共に生きて行くから。

復活の主イエスは、そう言われているのだと思います。

この時、果たしてトマスは、自分の指を、主イエスの手の釘跡に、差し入れたでしょうか。

それは、分かりません。聖書に書いていないことを、推測することはできません。

しかし、ただ一つ明らかなことは、「触って信じた」とは書かれていない、という事です。

トマスにとって、触ることは、もう問題ではなくなったのです。

トマスは、信じるためには主イエスに触れることが必要だ、という思いから解き放たれたのです。

もはや、自分の手も、自分の目も信じることなく、ただ主イエスだけを信じたのです。

トマスは、自分の手や、自分の目の確かさを信じるよりも、主イエスを信じる方が、ずっと確かなのだ、という事を知ったのです。

本当に神様に出会った時に、人はそれまでの人間的な思いや、拘りから解放されます。

そして、ただ神様を信じ、神様を礼拝したい、という気持ちへと導かれるのです。

主イエスは「見ないで信じる者になりなさい」、とトマスに言われました。

「見ないで信じる」。そのように聞くと、何かとても難しい事のように思われます。

しかし、私たちは毎日、数え切れないくらい、見ないで信じるということを平然と実行しています。

賀川豊彦が書いた本の中にこんな話が記されています。

ある時、酔っ払いが賀川豊彦の所に来て、「先生、神を見せてくれ。そうしたら信じる」と言いました。賀川は答えます。

「よし、神を見せてあげよう。しかし神は私にとって最も大切なものだから、そう簡単には見せられない。もし君が一番大切なものを見せてくれたら、私も君に神を見せてあげよう。君にとって一番大切なものは何かね。」

「そりゃー、先生、命だよ。」  「では、それを見せてくれ。」

その酔っ払いは、自分の背広の胸の辺りを叩いて、「これが命だ」と言いました。

「いや君、それは服だ」と賀川が言うと、その人は服を脱いで、自分の胸を叩いて、「それじゃー、これが命だ」と言いました。

「いや、それは君の胸だよ。命はどこにあるのかね。」

遂にその人は、「先生、命は確かに在るけど、見せることはできないよ」と言いました。

それに対して、賀川は、「神も同じように、確かに存在するが、見ることはできないお方なのだよ」、と答えたそうです。

このように、私たちは目に見えないけれど、命があることを信じています。

また、飛行機に乗った時、パイロットが正式に免許を持った人であることを、いちいち見て確認しなくても、誰も疑わずに信じています。

そして、そのパイロットに命を託しています。見ないで信じて、命を預けているのです。

バスやタクシーに乗った時も同様です。運転手の免許証を確認しなくても、信じています。見ないで信じることを、私たちは日常生活の中で、極めて自然に実行して、命を託しています。それは、社会常識によって信じているのです。

それなのに、すべての物を造られ、支配されている神様のことになると、目に見えないから信じられない、と人々は言います。それは、常識に反するからだと言います。

しかし、もし人が、本当に神様に、ジャストミートしたならば、人間は、ただただ神様を礼拝したい思いに導かれる筈です。

トマスのように、「わたしの主、わたしの神よ」、と告白する者とされる筈です。

この告白で大切なことは、「わたしの」という言葉が、はっきりと言い表されていることです。

主が、私たち一人一人の名前を呼んで、「わたしはあなたの主だ、あなたの神だ。そして、あなたは、わたしのものだ」、と告げてくださる。

その主に、私たちは、「わたしの主、わたしの神よ」、と言って答えるのです。

誰か、他の人の主ではない。他の人の神ではない。

この私の主でいてくださる。この私の神でいてくださる。

そのことを、大切にしたいと思います。

新共同訳聖書になって、私が残念に思っていることが一つあります。

それは、詩篇23編の1節の御言葉です。

以前の口語訳聖書では、「主は私の羊飼い」と訳されていましたが、新共同訳では、「主は羊飼い」となっています。

「私の」という言葉が、訳されていないのです。これは大変残念なことだと思っています。

主は、私の羊飼い。この私という羊のために、命を捨ててくださる、私の羊飼いなのだ。

この信仰は大切だと思います。

100年ほど前の話です。ある二人の英国人の牧師が、ウェールズの山地を旅していた時、一人の羊飼いの少年に出会いました。

その少年は、字が読めなかったために、今まで、聖書を手にした事がありませんでした。

二人の牧師は、この少年に、詩篇23編1節の御言葉を教えようとしました。

「主は私の羊飼い」、「Lord is my shepherd」。

少年は字が読めないので、4本の指を使って教えました。

「主 は 私の 羊飼い」、「Lord  is  my  shepherd」。

それから一年後に二人は再びこの地を訪ね、休息するために一軒のみすぼらしい民家に立ち寄りました。

すると、その家の暖炉の上に一枚の写真が飾ってありました。

近寄って見てみると、その写真はなんと一年前に会った少年の写真でした。

二人がその写真に見入っていると、この家の婦人が言いました。

「これは、私の息子の写真です。息子は、昨年の冬に、山で吹雪に遭って死にました。でも、不思議なことに、息子は、右手で、左手の薬指をしっかりと握ったまま死んでいたのです。」

二人は、深い感動に覆われて、その場に立ち尽くしました。

なぜなら、4本の指をもって御言葉を教えた時に、二人はその少年にこう言ったのです。

「主 は 私の 羊飼い」、「Lord  is  my  shepherd」。

この、「私の」が大切ですよ。だから、「私の」、「my」を表す薬指を、いつもしっかりと握り締めて、忘れないようにしなさい。このように教えたのです。

この少年は、死ぬ間際まで、私の羊飼いである主を呼び続け、薬指を握り締めつつ、天国に行ったのです。

愛する茅ヶ崎恵泉教会の兄弟姉妹。私たちは、この少年のように、本当に主イエスを、「わたしの主、わたしの神」としているでしょうか。

この私に会うために、わざわざ来てくださった主イエスに対して、「あなたこそ、わたしの主、わたしの神です」と、力強く応えているでしょうか。

そのことを、今一度自らに問い掛けてみたいと思います。

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。

29節のこの言葉は、トマスを叱っているのではありません。

「見ないで信じる人は、トマスよりも偉い」、と言っているのでもありません。

そうではなくて、この言葉は、見ないで信じる幸いへと、私たちを招いてくださる言葉です。主イエスは、見ないで信じる人を、祝福しようとしておられるのです。

それが、主イエスの御心なのです。それが、主イエスの切なる願いなのです。

主イエスは、今日も、戸の外に立って、私たちの心の扉を叩いていてくださいます。

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語り掛けてくださっています。

私たちが、扉を開けて、「わたしの主、わたしの神よ」、と言って、主を礼拝することを願っておられます。

復活の主は、疑い深く、弱い私たちを、見ないのに信じる人は幸いです、と祝福してくださいます。

喜んで、感謝しつつ、「見ないで信じる者となる幸いに」、共に与るお互いでありたいと願います。