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過去の礼拝説教

「幸せって何だろう」

2013年11月10日 聖書:マタイによる福音書 5:3~12

何年か前に頻繁に流されていたお醤油のコマーシャルがありました。

ある有名なコメディアンが、醤油のペットボトルを抱きしめながら、「幸せって何だろう、何だろう。うまい醤油はナントカ、ナントカ」、と繰り返して歌っている。ただそれだけのコマーシャルでした。この単純な歌を、一日に何回も繰り返して聞かされたため、知らず知らずの内に、この歌が私の頭の中にこびり付いてしまって、無意識の内にこの歌が口に上ってきてしまう、ということがありました。

ある時などは、夜、眠れない時に、この歌が頭の中をぐるぐる回って、余計眠れなくなったこともあります。私にとっては、少々、はた迷惑なコマーシャルでした。

しかも、同じコメディアンが、あるビールのコマーシャルにも出ていて、そこでは、ビールをぐーっと飲み干して、「幸せって、まさにこれだ」と言わんばかりの顔をしているのです。

そうなりますと、あなたにとって一番幸せなのは、一体どっちなんだ、と聞きたくなってしまいます。

醤油や、ビールはさておき、このコマーシャルが問い掛けている、「幸せって何だろう」と言う問いは、私たちの人生において、極めて大切な問いではないでしょうか。

「幸せって何だろう」。 おいしいものを食べ、おいしいお酒を飲んで、みんなでワイワイ、ガヤガヤと盛り上がって、夜の更けるのも忘れて時を過ごす。それが幸せでしょか。

確かに、その時は楽しいと思っています。でも、みんなと別れて、深夜の電車に一人で乗って帰る時、今までの楽しさがどこかに消えて、何か空しい疲れを覚える。

そんな経験をお持ちの方は多いのではないでしょうか。

どうすれば、確かな幸せを得られるか。確かな幸せを得るためには、何が必要なのか。

これは、誰もが持っている問いです。

フランスの哲学者で、科学者でもあったパスカルという人は、パンセという本の中でこう言っています。

「すべての人は、皆、幸せになりたいと願っている。たとえこれから自らの命を断とうとしている人も同じである」。 確かに私たちは、皆、幸せになりたいと願っています。

そのために、自分の家庭を守り、一生懸命働いてお金を稼ぎ、健康管理に心掛けています。しかし、お金をたくさん持ち、立派な家に住み、贅沢な暮らしをしている人が、必ずしも幸せであるとは限りません。

その反対に、貧しくて、病気がちであっても、いつも微笑みと、優しさと、明るさを忘れないでいる人たちを、私たちはたくさん知っています。

クリスチャン作家であった三浦綾子さんは、13年間も結核と戦い、脊椎カリエスのためギプスベッドに寝たまま、寝返りもできない生活を7年間も続けた人です。

でも、その三浦さんの所に、健康な人たちが色々な悩みを持って訪れ、寝たきりの三浦さんに慰めされ、励まされて帰っていくということが、しばしばあったということです。

こう言うことを聞かされますと、健康であることが、必ずしも幸せを保証するのではない、と思わされます。

では、お金や財産はどうでしょうか。お金や財産があれば幸せになれる、と思っている人は大勢います。

ある人が、「幸い」という漢字は、土という漢字の下に、アルファベットの大文字のYに二本の横棒を引いた所謂Yenマーク(¥)が組み合わされて出来ている。だから、今の日本における「幸い」は、土地とお金からなっているのだ、と言っていました。なかなか面白い指摘だと思います。しかし、これは、今、始まったことではありません。

以前、テレビで「日本昔話」という番組がありました。その中に、長者物語というジャンルがありました。思いがけない幸運が続いて、ただの人が、いつの間にか長者、つまり大金持ちになる、というお馴染みの物語です。

そういう物語は、いつも決まって、この言葉で終わっていました。

「こうして、長者になって、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。」

この決まり文句は、果たして本当でしょうか。長者になれば、皆、幸せになれるのでしょうか。これと全く反対の話があります。

ある所に、一人の王様がいました。立派な宮殿に住んで、多くの家来を持ち、何不自由ない生活をしていました。しかし、王様の心は満たされていませんでした。

そこで、国中の学者や、知恵者を集めて、どうしたら幸せになれるかを問い、言われた通りのことを試してみましたが、一向に幸せになりませんでした。

ある時、外国から来た歳をとった人がこう言いました。「王様、幸せいっぱいの人を見つけて、その人のシャツを着たなら、きっと幸せになりますよ。」

そこで、王様は、幸せいっぱいの人を見つけるために、旅に出ました。

ある日、野原を歩いていた時、本当に幸せいっぱいそうな牧童を見つけました。

王様は、その牧童に、「お前は幸せか」と尋ねました。するとその牧童は答えました。

「はい、王様。私は、幸せです。お日様は、温かく照っていますし、羊はおとなしく草を食べてくれますし、村の人たちは、みんな親切です。私は、本当に幸せいっぱいです」。

そこで王様は、「お金はいくらでも出すから、お前の着ているシャツを私にくれないか」、と頼みました。するとその牧童は困った顔をして、「すみません、王様。僕はシャツを着ていないんです」と答えたそうです。

この話が、私たちに教えてくれていることは、幸せというものは、必ずしもお金や、財産や、地位によって得られるものではない、ということです。そして、もう一つ教えられることは、幸せとは、他人から貰ってなるものではない、ということです。

ある人が、「幸せは、いつも自分の心が決める」と言っていますが、その通りなのです。

幸せは、他人から貰ってなるものではありません。

また、自分の周囲の環境によって、与えられるものでもありません。

私たちは、よく自分の置かれた状況が悪いから、自分は幸せになれない、と呟きます。

自分は、こんな家に生まれてきてしまったから不幸なのだ、と嘆きます。

自分の置かれている環境が悪い。職場が悪い、学校が悪い、家庭が、親が、夫が、妻が。

そういう環境が悪いから、自分は幸せになれないと思い込むのです。

しかし、「幸せはいつも自分の心が決める」のです。周囲の環境が決めるのではありません。私たちは、このことが分かっているようで、なかなか分からずに悩みます。

おなじみの落語に、こういう話があります。

一人の婦人が、ある人のところに、悩みごとの相談にやってきました。

あの姑のために私は不幸だ、とさんざん姑の悪口を言って、あの人さえいなければ、と何回も繰り返しました。

そこまで言うならと、相談を受けた人は、毎日少しずつ飲ませると、3ヶ月後には原因不明で、ぽっくりいく薬を分けてあげました。

ただし、「原因不明とはいえ、お姑さんが突然亡くなったら、日頃から仲が悪かった、嫁のあなたが疑われるでしょう。だから、今後3ヶ月間は、誰にも疑われないように、お姑さんと仲良くしなさい」と付け加えました。

「あの姑と、仲良くするなんて、そんなこと無理です」。「たった3ヶ月だけだから、我慢していい嫁を装いなさい」。

そんなやり取りの末に、その婦人はしぶしぶ、3ヶ月間は我慢して、親切で、優しく振る舞う、と約束して、薬をもらって帰っていきました。

さて、そろそろ薬が効き始める3ヶ月目ごろに、婦人が駆け込んできました。

そして、今度は、「前の薬が効かなくなる薬をください」と言うのです。

「一体どうしたんですか」と訳を聞くと、「姑がとてもいい人になったのです。あんな良い姑を殺すことなんか、とてもできません」と言うのです。

「どうして急に変わったのですか」。「分かりません」。

そこで、その人は言いました。「それはね、あんたが変わったからですよ。

まさか自分を殺すためにやっているとは思わないから、あぁ、うちの嫁は、本当は優しくて、親切なんだ、と思っているうちに、お姑さんも変わったんですよ。

問題はあんただったんです。あんたがお姑さんを受け入れないから、お姑さんもあんたを受け入れなかったんです。あんたが優しくしたから、お姑さんも優しくなったんですよ」。

「そうだったんですか。それにしても、死んでしまっては困ります。なんとかしてください」。

「大丈夫。あれは、ただの栄養剤です」。 ということで、一件落着、というお話です。

この話にあるように、私たちは、周囲の環境が悪いために、自分は幸せになれないと思い込みがちです。でも、問題は、自分自身の中にあることが多いのです。

「幸せは、いつも自分の心が決める」のです。

もし、自分の方から、先に優しさや親切を投げ掛けるなら、相手からも、優しさや親切が返って来るでしょう。 それは、直ぐではなくて、かなり時間が掛かることもあります。

かなり長い忍耐を必要とすることも、多いと思います。

しかし、大切なことは、それでも自分の方から先に、優しさや親切を投げ掛けていくことです。そうしなければ、相手から優しさや、親切が返ってくることは、先ずありません。

問題は、それが分かっていても、私たちは、なかなかそれを実行できない、ということです。

先ほどの落語は、たった3ヶ月だから我慢出来たのです。

私たちの方から愛を投げ掛けることは、難しいのです。

しかし、聖書は、それこそが幸せになる秘訣である、と言っています。

先ほど読んで頂きましたマタイによる福音書の5章7節には、こう書かれていました。

「憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける」。

ある人は、この御言葉は、「愛を与える人は、愛を受ける」と言い換えても良い、と言っています。「愛を与える人は、愛を受ける」。 果たして、それは本当でしょうか。

憐れみの愛を投げ掛けた時に、相手の人は、それに報いてくれるでしょうか。

現実は、それ程甘くないことを、私たちは知っています。

私たちは、主イエスの言われた通りに、憐れみの愛に生きようとします。

しかし、そこで直ぐに、呟いてしまいます。

「イエス様、あなたの言われるように、憐れみの愛に生きました。

でも、誰もその愛に報いてくれません。誰も愛を返してくれません。

私は、ますます損をするばかりです。誰にも理解されないのです。

相変わらず、私は、惨めで、不幸な人間でしかありません。」

そのように嘆かざるを得ない現実があることを、私たちは知っています。

しかし、まさにそこで、主イエスは、言われるのです。

いや、そうではない。あなたは、不幸などではない。あなたは幸いを得ているのだ。

そのように、主イエスは言われているのです。

ある牧師が、「聖書が言う幸せとは、報酬の無い行為に対する報酬である」、と言っています。報酬の無い行為に対する報酬。 それが聖書が語る幸せである、というのです。

もしそうであるなら、主イエスの言われる幸せとは、私たちが普通に考える幸せとは、ちょっと違うことが分かります。

先ほど読んでいただきました、マタイによる福音書5章3節から12節までには、「幸いである」という言葉が、繰り返して語られています。

原文のギリシア語では、いきなり「幸いだ!」という言葉が、それぞれの節の初めに出てきます。主イエスは、心からの祝福を述べておられるのです。

「おめでとう。あなたは、何と幸せな人だろうか。それは、心が貧しいからです。心が貧しくてよかったね。それは、悲しんでいるからです。それは、柔和だから、それは、義に飢え乾いているから。憐れみ深いから。心が清いから。平和を実現するから。迫害されるから」。

そう呼びかけておられるのです。

しかし、ここで主イエスが、「幸いだ」と呼んでいる人たちの生き方は、およそ世間が考える幸せな生き方とは逆です。

主イエスが、「幸いだ」と言われる生き方は、貧しさであり、悲しみであり、柔和であり、飢え渇きであり、損をしてでも憐れみに生きることであり、汚れた世の中で清さを保つことであり、争って勝つよりは平和に生きることであり、迫害に生きること、なのです。

これらは、世の常識が考える幸せとは全く逆です。

しかし、それにも拘らず、主イエスは、そのように生きるあなた方は、幸せだ、と言われているのです。

神の御子が、そう言われるのですから、この言葉は真実です。

神様は、無責任なことは言われません。言われたことに、責任を取ってくださるお方です。

では、どのように責任を取ってくださるのでしょうか。

先ほども申しましたように、人に憐れみを与えても、報われない現実があります。

憐れみの愛は、報酬の無い行為のように見えます。

でも、もし、そこに報酬があるとするなら、それは一体どのような報酬なのでしょうか。

御言葉は、憐れみを与える相手が、どのような人であっても、私たちは、必ず憐れみを受けると約束しています。

そうしますと、私たちに憐れみを返してくれる人は、私たちが憐れみを与えた相手であるとは限らない、ということになります。別の人である、ということがあるのです。

そうでなければ、約束は実現しません。御言葉は無責任になってしまいます。

では、私たちに、必ず憐れみを返してくれる人とは、一体誰なのでしょうか。

それが、神様です。イエス様です。

いえ、実を言いますと、私たちは、憐れみを返していただくのではなくて、憐れみを先に頂いているのです。

私たちは、神様に背いてばかりいます。それを罪といいます。しかし、神様は、その罪という大きな負い目、膨大な借金を、全部帳消しにしてくださったのです。

主イエスは、そのために、私たちの罪の身代わりとなって、十字架に死んで下さったのです。一生掛かっても、決して返済できないような借金を、全部帳消しにしてくださったのです。

私たちは、そのような、とてつもなく大きな憐れみを、既に受けているのです。

ですから、神様は言われるのです。

「あなた方は、もう既に憐れみを受けたものとして、憐れみを与えることが出来る筈だ。

是非、そうして欲しい。あなた方が憐れみに生きる時、私は、あなた方と共にいる。」

これが、私たちが、憐れみに生きることが出来る根拠です。

そして、その時、主イエスが、私たちと共にいてくださることが、本当に分かるのです。

それが、私たちの幸せの根拠です。

私たちが、心の貧しさに生きる時、悲しみに生きる時、柔和な時、義に飢え渇く時、憐れみに生きる時、清さに生きる時、平和を実現する時、迫害に生きる時、主イエスは、私たちと共にいてくださるのです。 それが、私たちの幸せの根拠なのです。

「幸せとは、報酬のない行為に対する報酬である」。この言葉は真実です。

そして、その報酬とは、共にいてくださる主イエスに他なりません。

幸せは、周囲の環境が造り出すのではありません。

「幸せは、いつも自分の心が決める」のです」。

主イエスは、「受けるよりも、与える方が幸いである」、と仰いました。愛する方が、愛されるよりも幸いなのです。

しかし、私たちの心には、もともと他人を憐れむ愛は、ありません。

でも、私たちは、その愛の出所を知っています。それは、主イエスの十字架です。

主イエスの十字架から滴り落ちる愛。

その愛を心に注いで頂くことによって、私たちも少しずつ他人を愛することができるように変えられていきます。

そして、私たちが変えられる時、周囲の人たちも変えられていきます。

あの落語の中で、意地悪だったお姑さんが変わったように、変えられていきます。

ですから、私たちは、幸せの根源である、主イエスの愛を、いつも胸一杯に吸い込んでいきたいと思います。

河野進という牧師が、このような詩を書いています。

「天の父さま、どんな不幸を吸っても、はく息は感謝でありますように、すべては恵みの呼吸ですから」

辛いこと、悲しいことの渦巻く世の中です。しかし、「すべては恵みの呼吸」なのです。

辛い、悲しいことの只中に、主イエスが共にいてくださることを信じる。

これこそが、幸せに生きる秘訣なのです。

イエス様が、共にいてくださる時に、私たちは、どんな不幸を吸っても、はく息は感謝となるのです。共にいてくださるイエス様こそが、幸せの根拠なのです。

「幸せって何だろう」。この問いに対する答えは、「共にいてくださるイエス様」です。

「幸せって何だろう、何だろう。共におられるイエス様、イエス様」。

これを、私のコマーシャルソングにしていきたいと思います。