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過去の礼拝説教

「ペトロの涙」

2014年04月20日 聖書:マタイによる福音書 26:31~35、69~75

先ほど、二箇所の御言葉を読んで頂きましたが、初めに読んで頂いた31節以下の御言葉の直前には、最後の晩餐の出来事が記されています。

マタイによる福音書においても、マルコによる福音書においても、最後の晩餐の記事は、ユダの裏切りの予告と、ペトロの否認の予告の間に、囲い込まれるようにして記されています。主イエスに、生涯従って行こうと決意して集った弟子たちの中から裏切りが起こる。主イエスの一番弟子を自認していた者が、主イエスを否認する。

裏切りと、否認。それは、弟子たちの群れが、崩壊することを意味しています。

主イエスは、そのことを知りつつ、主の晩餐をなさったのです。そして、その主の晩餐を通して、このように崩れ去ってしまう弟子たちが、この後、何によって支えられるか。

そのことを、明らかにしようとされたのです。

主イエスは、弟子たちに、ご自身の体を食べさせ、ご自身の血を飲ませました。

それは、ご自分の全てを与えられた、という事です。崩壊しつつある弟子たちに、ご自分の全てを与え尽くされたのです。

あなた方が、これから何をするかではなく、私が、あなた方に全てを与え尽くす。だから、これによって、あなたがたは、立ち直りなさい。そのように言われたのです。

教会は、そして、私たちは、主イエスが、すべてを与えてくださったことによって、支えられています。ですから、私たちは、崩れ落ちても立ち帰れるのです。

さて、今朝の御言葉の冒頭の31節に目を移してください。

「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。」

この31節で、主イエスはゼカリヤ書の御言葉を引用して、弟子たち全員の離散を預言されています。

主イエスは、弟子たちの離散が、激しい迫害によるのではなく、弟子たちの「つまずき」によるものである、ということを知っておられました。

しかし、ここで単純な疑問が生じます。

もし、主イエスが、弟子たちのつまずきを、予め知っておられたなら、なぜ、つまずきになるものを、前もって、取り除いておかなかったのだろうか、という疑問です。

しかし、引用されているゼカリヤ書の御言葉を、注意深く読むと、この預言は、羊飼いに対する羊の裏切りを言っているのではありません。そうではなくて、神様ご自身が、羊飼いを打ち、羊飼いを失った羊が、拠り所を失って、離散すると言っているのです。

棕櫚の主日の礼拝メッセージでも申し上げましたように、大牧者である主イエスは、人から打たれたのではなく、神様によって打たれ、たたかれ、捨てられたのです。

ですから、このことは、弟子たちにとって避けることの出来ない「つまずき」であったのです。すべてを捨てて従おうとしていた主イエスが、神様によって打たれ、捨てられ、死に渡される。これは、弟子たちにとっては、つまずき以外の何ものでもなかったのです。

心から尊敬し、信頼していた主イエスが、こともあろうに、重罪人がつけられる十字架にかかって、処刑される。それは、弟子たちにとって、本当に大きなつまずきでした。

しかし、主イエスは、この十字架のつまずきを、予告されただけでなく、その先に用意されている復活の希望も、同時に予告されました。

確かに、あなた方にとって、十字架はつまずきとなるだろう。しかし、それは終りではない。

あなた方には、復活の希望と救いも、約束されているのだ。

だから、その希望に励まされて生きなさい。32節で、主イエスは、そう言われています。

「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」

復活の主は、先立ってガリラヤに行かれると言われているのです。

弱く、崩れやすい弟子たちに、「先立って」、主イエスは進んで行かれるのです。

主を裏切り、主を見捨てて逃げた弟子たちに会い、打ちひしがれた彼らに、新しい命と、生き生きとした喜びを与えるために、主イエスは先立ってガリラヤに行かれる、と言われているのです。素晴しい約束が、ここで語られています。

しかし、ペトロも、他の弟子たちも、この主イエスの救いの約束に、耳を傾けることができませんでした。彼らは、「あなたがたは皆わたしにつまずく」、と言われた、主イエスのこのお言葉のみに、心を奪われてしまっていたのです。

そんな弟子たちの不安を、無理矢理打ち消すように、ペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」、と言いました。

ペトロは、主イエスの預言を、一応は受け入れます。しかし、自分だけは例外である、と言い張っています。

しかし、この最も自信のある弟子のペトロが、このあと直ぐに、最も深刻なつまずきを経験することとなるのです。

69節以下に書かれている、ペトロによる、主イエス否認の出来事は、四つの福音書のすべてに記されています。四つの福音書のすべてに書かれているということは、教会にとって、とても大切な出来事である、ということを表しています。

これは、ペトロ個人にだけ、起きた出来事ではなくて、教会全体に対して、起きた出来事なのだ。私たちすべてに、関わる出来事なのだ、ということを表しているのです。

ペトロに対して、主イエスは言われました。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

「わたしのことを知らない」と訳された言葉は、元々は、もっと強い意味を含んでいます。

それは、「捨てる」という意味を含んだ言葉です。

ペトロに対し、主イエスは、「あなたは私を捨てる」、と言われたのです。

更に、「鶏が鳴く前に」、という言葉によって、その時間までが、詳しく示されています。

このお言葉に対して、ペトロが、むきになって反論します。

「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。

ペトロは、最初は、「他の者はともかく自分だけは例外だ」と言い、二度目には、「死ななくてはならなくなっても決して ……」、と言い切っています。

「自分は、最後の最後まで、主イエスについて行くぞ」、と言い放ったペトロ。そのペトロは、闇にまぎれて、逮捕された主イエスの後を、ひそかについて行きました。

弟子としての自分の務めを果たそうと、恐れを懸命に抑えながら、ついて行ったのです。

でも、ほんのちょっとしたことで、その決心が、もろくも崩れてしまいます。

ペトロは、大祭司の屋敷の中庭で、唾をかけられ、こぶしで殴られ、平手で打たれている主イエスを見て、とても歯がゆい思いをしたと思います。

嘲り、笑われている主イエスを見て、もどかしい思いをしたと思います。

多くの人々の病を癒し、死人をも生き返らせた、あの偉大な力は、一体どこに行ったのだろうか。激しい嵐をも、たった一声で静まらせ、私たちの心を揺り動かした、あの力強いお言葉は、一体どこに行ったのだろうか。

なぜ、この肝心なところで、あなたは何もせずに、黙り続けているのか。

今までの主イエスとは違う。こんな弱々しい主イエスは見たことがない。

いや、もしかしたら、今までの主イエスは幻想だったのだろうか。そんな筈はない。

ではどうして、目の前にいる主イエスは、こんなにも弱々しくて、無力なのだろうか。

これが、主イエスの本当のお姿なのか。

そのように、思い悩み、迷っている時に、一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」、と言ったのです。ペトロは、この言葉を拒否します。「あなたは、イエスと一緒だった」、という言葉を拒否したのです。

主イエスと共にいること。それがどんなに大きなことであるか。そのことが信仰の核心であるということを、私たちは、何度も聞かされてきました。

主イエスと共にいること。いえ、それに先立って、主イエスが、共にいてくださるという事実を受け入れ、喜んでいくということ。 それが、私たちの信仰の基盤です。

ですから、ペトロは、信仰者として、「私はいつも主イエスと共にいる」、と言わなければならなかったのです。

しかし、最も肝心なところで、「そんな人は知らない」、と言ってしまったのです。

一体、この時、ペトロは、何を恐れていたのでしょうか。この時、別に女中たちは、ペトロを捕まえて、主イエスと一緒に、処刑しようとした訳ではなかったと思います。

ペトロを、大祭司に告発しようとした訳ではなかったのです。もし、本気でペトロを告発しようと思っていたなら、ペトロの答えが何であろうと、彼を捕らえて、連れて行った筈です。

また、大祭司たちも、ペトロまで捕らえようとはしていなかったのです。なぜかと言えば、主イエスが逮捕された時に、ペトロはそこにいても捕らえられなかったからです。

彼らにとっては、主イエスだけが、逮捕の目的だったのです。しかし、大祭司への告発、そして処刑、という恐怖を、ペトロの方から先取りして、感じ取ってしまったのです。

この、先取りして、恐怖を感じ取るところに、人間の弱さがあるのではないでしょうか。

主イエスの予告どおり、ペトロは、主イエスを否認しました。

ペトロは、自分がこんなにも弱い人間であったことを、この時、初めて知りました。

そして、激しく泣きました。

一体どうして、主イエスは、こんな予告をなさったのでしょうか。

主イエスの、人間に対する洞察力の深さを示すためでしょうか。或いは、「そらごらん。私が言った通り、お前は私を裏切ったね」、と言ってペトロを責めるためだったのでしょうか。

そんな意地悪な気持から、予告されたのでしょうか。そうではありません。

ペトロが、自分の弱さに気付いた時、主イエスが、既に、そのペトロの弱さを知り抜いておられたということ。そのことを、ペトロに思い出させるためだったのです。

ペトロ自身は、知りませんでした。けれども、主イエスは、ペトロが、どんなに弱い者であるかを、既に知っておられました。そして、その事を思い出させるために、予告されたのです。ですから、ここでは、どうしても「鶏が鳴く」ことが必要であったのです。

ペトロが、三度、主イエスを否んだ。まさにその時に、主イエスの言葉を思い出すことが、必要であったのです。

人が、自分の弱さに気づいて、深い嘆きと悲しみに覆われた時、その弱さを、既に主イエスが知っていてくださるという事。その事実を、私たちは、知らなければなりません。

私たちの弱さは、既に主イエスによって、知られている弱さなのです。

私たちが、自分の弱さを知ることは、大切なことです。しかし、それ以上に大切なことは、その弱さを、主が既に知っていてくださる、ということなのです。

主は、私たちの弱さを、私たちが気付く前から、ご存知なのです。

ルカによる福音書は、この時、主イエスが、ペトロの方を振り向かれた、と記しています。

この時の主イエスのまなざしはどのようなものであったか。様々な見方があります。

罪を指摘するような、厳しいまなざしであった、と見る人もいます。

しかし、私は、ペトロの弱さを、ペトロ以上にご存知の主イエスは、その弱さを赦されるまなざしを向けられたのだと思っています。

「良いのだ、わたしは、お前のその弱さを、すべて知っている。その弱さを受け入れている。そして、その弱さを贖うために、これから十字架にかかろうとしているのだ」。

主イエスのまなざしは、そう語っていたのだと思います。この後、讃美歌の197番「ああ主のひとみ」、をご一緒に賛美いたします。その二節はこう歌っています。

「ああ主のひとみ まなざしよ、三たびわが主を いなみたる、よわきペトロを かえりみて、ゆるすはたれぞ、主ならずや」。

この讃美歌の通り、主のまなざしは、赦しのまなざしであったと思います。

もし、この時のまなざしが、罪を咎めるまなざしであったなら、ペトロは、それほど激しく泣かなかったかもしれません。

あなたは、私の弱さを咎めている。けれども、私たちの期待を裏切ったあなたにも、責任の一端はある。そんな思いを抱いたかもしれません。

しかし、主のまなざしは、一方的な赦しのまなざしでした。そのまなざしを受けて、ペトロは、自分の弱さに、男泣きに、泣き崩れるほかなかったのです。

主イエスは、そんなペトロの弱さを知っておられました。

しかし、それにも拘らず、主イエスは、なおもペトロを愛し通されたのです。そして、主イエスの、そのお言葉が、その祈りが、そのまなざしが、この後、ペトロを支えていきます。

「あなたは、イエスと一緒だった」、と女中たちは言いました。しかし、本当を言えば、ペトロが、主イエスと一緒にいたのではなく、主イエスが、ペトロと一緒にいてくださったのです。

だから、ペトロは、その後も、弟子でいられたのです。

主イエスが、一緒にいてくださったから、ペトロは、主イエスと一緒にいられたのです。

そして、主イエスの弟子として、立ち直ることが出来たのです。男泣きに泣きながら、ペトロは、そのことに気が付いたのです。だから、崩れなかったのです。

「そんな男は知らない」と言って、ペトロは、主イエスを否認しました。

しかし、主イエスは、ペトロに向かって、「私もお前なんか知らない」、とは決して言われませんでした。

「私のことを知らない」というような弱さを持ったペトロ。そのお前の弱さを、私はよく知っている。それにも拘らず、お前は、私の弟子だ。

どんなことがあっても、この事実は変らない。このお言葉に、ペトロは支えられたのです。

つまずき、倒れ、傷だらけのペトロを再び立ち上がらせ、無学な、ただの人から、偉大な使徒に、そして殉教者にまで至らしめたのは、実にこの主の愛でした。

そして、この主イエスの愛は、同じように、私たち一人ひとりに、今も注がれています。

主の苦しみ、主の悲しみは、弟子たちの裏切りと離反によって、更に増し加えられました。

主の苦しみは、今も尚、私たちの裏切りと離反によって、増し加えられています。

私のために、主は、今日もまた、十字架の上で新たな血を流しておられます。

そして、その十字架の上から、「私はお前を愛している」と言ってくださっています。

「お前は、私の目に高価で、尊い」、と言ってくださっています。

男泣きに、激しく泣いたペトロ。しかし、激しく泣いた後、ペトロは、心を入れ替えて、「私はイエスの弟子です」、と宣言しに戻っていった、とは書かれていません。

相変わらず、逃げ隠れています。弱いままです。

主は、そんな弱いペトロを、どこまでも愛し、顧てくださいました。

マルコによる福音書で、復活された主イエスは、天使を通して、こう言われています。

「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。」

復活の福音を、「弟子たちに、そして、とりわけペトロに。そう、あのペトロに。弱さの故に、きっと落ち込んで、自己嫌悪に陥っている、あのペトロに告げてやりなさい」、と主は言われたのです。

その主は、この私にも言って下さっています。「そう、そう、あの柏にも告げなさい。弱い、だらしない、あの柏にも」と。

この主の愛に、少しでも応えていきたいと、心から願います。

伝承に依りますと、ペトロは、その晩年、祈りの中で、いつも泣いていたと、伝えられています。それは、二つの涙であったというのです。

一つは、主イエスを裏切ってしまったことに対する、深い懺悔の涙です。これは、思い出すたびに、身を切られるような、辛い過去の失敗でした。

もう一つは、そのような、駄目な自分を、主が赦してくださり、用いて下さっていることへの感謝の涙です。

私たちも、皆、ペトロほどではありませんが、同じような経験をしているのではないでしょうか。このペトロの生き方は、私たちの生き方でもあります。

私たちは、「あなたは、あの人の弟子ですか」、と尋ねられたなら、「はい、そうです。私はあのお方の弟子です。いえ、弟子にして頂いた者です」、と応えることが出来る者でありたいと思います。

私たちは、礼拝の最後に、祝祷を受けて、この世へと送り出されていきます。

茅ケ崎恵泉教会では、民数記6章24節以下に記された、「アロンの祝福」とコリントの信徒への手紙二の13章13節の、「パウロの祝福」を、繋ぎ合わせて祝祷としています。

アロンの祝福はこう言っています。

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。」

この祝祷の中で、心に刻まれるべき言葉は、主があなたに御顔を向けてくださる、まなざしを向けてくださる。

そのまなざしに生かされて、これからの歩みを続けていく、ということです。

そのまなざしとは、どのようなまなざしなのでしょうか。あの晩、主イエスが、ペトロに向けられたまなざし。赦しと慈しみのまなざしではないでしょうか。

私たちは、毎聖日の礼拝において、この主の愛のまなざしによって、赦され、生かされ、新たな力を与えられて、歩み出すのです。

この後で、そのまなざしに支えられ、そのまなざしを感謝しつつ、主の聖餐に、共に与ってまいりたいと思います。