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過去の礼拝説教

「安心して行きなさい」

2013年09月01日 聖書:マルコによる福音書 5:25~34

先ほど、マルコによる福音書5章25節~34節を読んでいただきました。

ここには、出血が止まらない病のために、12年間も苦しんでいた女性が、主イエスによって癒された出来事が記されています。

福音書には主イエスのなされた奇蹟物語が数多く記されています。その内の、約2/3は病気の癒しです。そういう意味では、この物語は、特に珍しい話ではありません。

しかし、主イエスご自身が知らない間に、女性が癒されてしまったという点で、この物語は非常にユニークなものである、ということが出来ます。

また、癒された出来事そのものよりも、癒された後の話の方が長いということも、この物語の特色です。

この女性の病について、26節の御言葉は、こう記しています。

「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」。

ここに記されているように、この女性の病は、治る見込みのない慢性的なものでした。

ですから、肉体的にも、また、経済的にも、大きな負担となっていました。

しかし、苦しみはそれだけではありません。この女性の病は、ユダヤ教では、「不浄な病である」とされていました。

ですから、彼女は神殿で礼拝することも、また公の場で人々と接触することも、許されませんでした。宗教的にも、社会的にも疎外されていたのです。

彼女は、何重にも重なる苦しみを負っていました。

すべてに望みを失っていたこの女性は、主イエスに最後の望みを懸けようとします。

そうはいっても、公然と人前に出てお願いできる身ではありません。ですから、群衆に紛れて、こっそりと、後ろから主イエスの服に、そっと触れたのです。

この女性の行為には、主イエスに最後の望みを懸けた、必死の思いが滲み出ています。

見つかったら、それこそ袋叩きに遭ってしまいます。不安におののきつつ、藁をもつかむ思いで、主イエスの服にそっと触ったのです。

その時、一瞬にして出血が止まって、病気が癒されたことを、体に感じました。

さて、今朝の御言葉のテーマは、実はここからなのです。

もし、この箇所のテーマが「病の癒し」ということだけであったなら、彼女がそこで、すーっとその場を立ち去って、主イエスご自身も知らないうちに、物語はおしまいになる筈です。

でも、そうは終わらなかったのです。なぜなら、ここでのテーマは、病の癒しではないからです。

主イエスは、34節で、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と仰いました。

「あなたの信仰があなたを癒した」とは仰らずに、「あなたを救った」と言われたのです。

単なる肉体の癒しだけではなく、もっと大切な救いの出来事が、あなたに起こったのだ、と言われたのです。

今日の箇所には、信仰と、その信仰による救いの物語が書かれています。それがこの箇所のテーマです。ですから、主イエスは、癒された人を探されたのです。

もし、病を癒すことだけが、主イエスの願いであったなら、主イエスは別に癒された人を探す必要はなかったと思います。

ご自分から力が出ていったからには、誰かが癒されたに違いないと、主イエスは分かっておられた筈です。癒しだけが目的であったなら、もうそれで十分な筈です。

あぁ、誰かが癒されたのだな。本当に良かったな。それで終わりです。

主イエスは、癒された人が、主イエスに感謝し、主イエスを褒め称えることを求めて、その人を探された訳ではありません。それは、主イエスが最も厭われたことです。

或いは、主イエスから癒しの力を、何の断わりもなく吸い取った、不届き者を探し出して、叱りつけるために、探されたのでもありません。

それではなぜ、主イエスは、わざわざその女性を探されたのでしょうか。

それは、主イエスが目的とされたことが、単なる病の癒しではなかったからです。

病の癒しを通して、この女性に、もっと大切なことを、悟って欲しかったのです。

それは、彼女が、主イエスを信じる、信仰によって生きる者となる、ということです。

病気が癒されただけで帰ってしまっては勿体ないですよ。実は、もっと大きな恵みを、あなたは今、与えられているのですよ。

主イエスは、そのことを教えるために、彼女を探されたのです。

このように見てきますと、改めて考えさせられることがあります。

主イエスは、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。

では、その女性の信仰とは、一体どんな信仰だったのだろうか、ということです。

「服にでも触れれば癒していただける」と思った。これが彼女の信仰です。

一見すると、御利益的で、何か魔術的な効果を期待する信仰のように思えます。

私たちが、教会で教えられてきた信仰とは違うのではないか、と思えるような信仰です。

私たちが教えられてきた信仰とは、先ず自分の罪を認め、その罪を代わって負ってくださった主イエスの十字架の贖いを信じ、その恵みの内を生きるということです。

ところが彼女の信仰は、そうではないように思えます。

彼女は、ただ癒して欲しいという一途な思いをもって、主イエスの服に触れました。

まさに、「溺れる者、藁をも掴む」ような気持ちで、主イエスに触れたのです。

果たして、そのような思いを信仰と言って良いのでしょうか。

そう問われれば、そんなものは信仰とは言えない、と言う人もいると思います。

ジュネーブの宗教改革者ジャン・カルヴァンが、この箇所について語った文章があります。

その中で、カルヴァンは、この女性の信仰を、大変警戒しています。

カルヴァンはこう言っています。「この女の信仰には、悪徳も誤謬も宿っている」。

何と、カルヴァンは、悪徳と言っています。更に、過ちが宿っている、とさえ言っています。

そして、私たちは、うっかりこの女性の真似をしてはいけない、と言っているのです。

一体、カルヴァンは何を警戒したのでしょうか。

カルヴァンが活躍したのは、宗教改革の時代でした。カトリック教会の過ちを厳しく指摘し、その改革を求めた時代です。

カトリック教会の会堂には主イエスの像や、聖母マリアの像が置かれています。

また、聖人と言われる、信仰の偉大な先達たちの像が、置かれていることもあります。

当時は、そういう像のどこかに触れたなら、その触れた部分の病が癒される、と信じられていたようです。日本にも、そういうお地蔵さんが、各地にたくさんあります。

カルヴァンは、そういう御利益を求めるような信仰は間違っている。それは悪徳だというのです。だから真似をしてはいけない、と言っているのです。

それなら、この女性の信仰とは、一体何なのでしょうか。

カルヴァンは、また、こうも言っています。「大切なことは、どんなに悪徳や過ちを含んだものであっても、この女の願いを、主イエスがお聞きになったということである。主が、受け入れてくださったということである。そして、『あなたの信仰』と呼んでくださったことである」。信仰と呼ぶことすらためらうような、この女性の信仰を、主が受け入れてくださった。

そして、この女性の、主イエスに取り縋る一途な思いを、主イエスが導いてくださり、誉めてくださるような信仰へと、主イエスが高めてくださったのです。

では、どうしてこの女性の一途な思いが、主イエスに伝わったのでしょうか。

主イエスは、ご自身の内から力が出て行ったことに気づかれました。まるで水が乾いたスポンジに吸い取られていくように、ご自分の力が出て行ったことを感じ取られたのです。

ですから、「わたしの服に触れたのはだれか」、と問われました。

弟子たちは、こんなに大勢の人たちが群がっているのだから、ここにいる皆が、あなたの衣に触っているようなものです。ですから、誰が触ったのか、などと聞かれても答えようがありません、と言いました。

しかし、主イエスは、誰もが触ったような触り方でなく、特別な仕方で触った人がいる。

そのことに気づかれたのです。

私の力がどうしても必要だ、という思いをもって触った人がいる。まるで、私の内から力を奪い取るような仕方で、触った人がいる。

主イエスは、そのように触った人を探されました。立ち止まって、振り返られて、「わたしの服に触れたのはだれか」、と一生懸命に探されたのです。

愚かとも思えるようなこの女性の行為。ただ取り縋るよりほかなかった、この女性の一途な思いを、主イエスは受け止められました。

そして、信仰をもって触った人がいる、と感じ取られたのです。それは誰かと、お探しになられたのです。

その女性はうろたえました。とんでもないことになってしまったと思いました。

皆から袋叩きに遭うかもしれない。そのような恐れを持って、震えながらひれ伏して、ありのままを話しました。

ただ、自分が触わざるを得なかった思いだけを話しました。堂々と信仰告白をしたわけではありません。

主よ、あなたは全能なる神の独り子です。私たちの救い主、キリストです。あなたは、病を癒し、死者を生き返らせることすら出来る力をお持ちの方です。

このような信仰告白をした訳ではありません。

でも、それを、主イエスは、「あなたの信仰」と仰ったのです。

この女性は、癒されたことが分かった時、黙って、そっと逃げて行こうとしていたのです。

そんな身勝手な思いは、けしからん。それでも信仰か、と言われたら一言も返せないと思います。

しかし、主イエスは、そのような女性の思いを、「あなたの信仰があなたを救った」と言って、誉めて下さったのです。

ここから分かることは、主イエスにおいて信仰とは、どうやら藁をも掴む一途な思いであるようです。

私たちは、そういうものが果たして信仰なのか、と思ってしまいます。

そんな信仰は、教理的に間違っている。もっと聖書を読んで、しっかり勉強しなければいけないのではないか。そう思う方もおられるでしょう。確かに、学びは大切だと思います。

しかし、信仰において一番大切なことは、そのような学びではない。最も大切なことは、ひたすらに取り縋る、一途な思いなのだ、と今日の御言葉は教えてくれているのです。

教理をよく学んでいるけれども、この一途な思いに欠けた信仰よりも、少々考えが足りなくても、ひたすらに願い求める、この一途な思いのこもった信仰の方を、主イエスは受け容れられるのです。

もし、教理的に至らないところがあれば、主イエスが教えてくださるでしょう。

理解が間違っていれば、主イエスが正してくださるでしょう。

足らないところがあれば、主イエスが補ってくださるでしょう。

考えが至らない、理解が浅い、知識が足りない。そのようなことは、信仰においては、本質的な問題ではありません。

もっと大事なことは、主イエスに対する、ひたすらな信頼です。主イエスの助けを求める一途な思いです。

この女性にあったのは、「助けて下さい」という一念だけでした。それ以外には何もありませんでした。

そもそも、信仰とは、本来、この「何もない」ということなのです。

自分の中には、誇るべき何物もない。誇れるような正しさもなければ、愛もない、聖さもない、知恵もない。何もないのです。

ただ、「憐れんでください。お助け下さい」という、一途な思いだけがある。

それが、信仰の出発点であり、またゴールなのです。

教理についての知識のないことは、恥じることではありません。

しかし、この一途な思い、救いに対するひたむきな飢え渇きがないならば、信仰者として恥ずかしく思うべきである、と思うのです。

さて、先ほど、この女性が、主イエスから力を奪い取るような仕方で、主イエスの服に触った、と申しました。 そのことに、もう一度、思いを馳せてみたいと思います。

主イエスは、ご自身の内から力が出て行くのを感じられた、と御言葉は記しています。

主イエスは、この時、ご自身の力を消費されたのです。

主イエスは、全能なる神の独り子です。ですから、病を癒す力をお持ちです。

しかし、その御力を使われる時、何のご負担も感じられなかったのでしょうか。何の重荷も担われなかったのでしょうか。そんなことはないと思います。

主イエスは、まことの神としての御力をお持ちであると同時に、まことの人として、様々な人間的な制約も背負われて、この世に来られました。

ですから、人々の病を癒される時に、ご自身の身に、病人の重荷を背負われた筈です。

まことの人として、精一杯の力を注ぎ出された筈です。

力を注ぎ出すというより、命を削り出された、と言った方が良いかもしれません。

主イエスから、癒された人に、力が移動するのです。命が移動するのです。

マタイによる福音書8章17節に、「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った」、という御言葉が記されています。

これは、多くの病人を癒された、主イエスについて語られた言葉です。

チイロバ牧師として親しまれた榎本保郎先生は、慢性肝臓病に苦しんでおられました。

ですから、「主よ、どうかこの病を癒してください」、と熱心に祈られました。

しかし、ある時、このマタイ8章17節の御言葉を読んで、こう思われたそうです。

主イエスが、病を癒される時、その病が、どこかにふっと消えてしまうのではない。

その病は、主イエスが背負い、担ってくださるのだ。

そのことを示されてからは、そんなに気安く、「主よ、癒してください」と祈れなくなった、と語っておられました。

誤解しないでいただきたいのですが、「主よ、どうか癒してください」と祈ってはいけない、などと言っているのではありません。「主よ、癒してください」と素直に祈って良いのです。

榎本先生も、そう祈ってはいけない、などとは言っておられません。

ただ、主イエスが病を癒される時、主イエスは力を注ぎ出されておられる。

ご自身の命を注ぎ出しておられる。そのことを、思わされた、と言っておられるのです。

使徒パウロは、コリントの信徒への手紙二の8章9節でこう言っています。

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。

この御言葉が語っている通り、主エスのご生涯は、豊かさから、貧しさへと向かわれたご生涯でした。

神としての豊かさを捨てられ、貧しい僕の姿を取られて、家畜小屋に生まれてくださり、弱い者、苦しむ者と共に歩まれ、多くの病人を癒され、そして最後は貧しさの極限である十字架の上へと上られました。

それは、ご自身の力を注ぎ出し、ご自身の命をすり減らしていかれる歩みでした。

多くの人の求めに応じて、愛を際限なく注ぎ出し、力を奪われるに任せた営みでした。

豊かさを奪われ、日々貧しくなられていかれる営みだったのです。

しかし、そこで失われる力は、ただ消えていくのではありません。この女性を初めとする多くの人々に移動し、その人たちの内で、生きる力となっていくのです。

主イエスの貧しさは、私たちの豊かさへと変えられていくのです。

自分が豊かさを失って貧しくなり、隣り人が豊かになる。そのように自分の力を用いていくことを、主イエスは「愛」と呼ばれました。

そして、そのことをご自身が、身をもって実践されました。

このような主イエスの愛を、この女性の一途な思いが、強力に吸い取っていったのです。もう一歩も後に引けないという、ひたすらな信仰が、主イエスから愛を引き出したのです。

そして、主イエスは、そのことを喜ばれました。

「私から愛を引き出してしまう程に、ひたすらなあなたの信仰が、あなたを救ったのです。良かったね」、と言われたのです。

「私は神様から愛されていないのではないか」、と呟いている方がおられるでしょうか。

もしかしたら、それは愛されていないのではなくて、神様から愛を引き出す、あの女性のような一途さが足りないのかもしれません。

主イエスは、私たちに語っておられます。私は、自分の命を削り出して、あなたに与えたいのだ。どうか、この私の命を、私の愛を、吸い取ってもらいたい。

私は、そのために、この世に来たのだ。

私の豊かを、あなた方に分け与えるために、この世に来たのだ。

あなた方が豊かになるために、私はどこまでも貧しくなろう。

この主イエスの愛を、ひたすらな思いをもって、引き出していく信仰。

そのような信仰に生きるお互いでありたいと願います。