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過去の礼拝説教

「主が約束される希望」

2014年01月19日 聖書:エレミヤ書 29:10~14

今朝は、主が、私たちに与えてくださっている「希望」について、ご一緒に、エレミヤ書29章10節~14節の御言葉に、聴いてまいりたいと思います。

特に11節の御言葉が、今朝の中心聖句です。

11節には、「主が、将来と希望を与える平和の計画を、私たちのために用意してくださっている」と書かれています。

神様が、預言者エレミヤを通して、ユダヤの民に語られた、素晴らしい言葉です。

このような言葉が語られているのですから、その背景には、きっと大きな喜びの出来事があったのだろうと、私たちは思います。

しかし、実際は、それとは全く逆なのです。この言葉が語られた時、ユダヤの民は、将来と希望がどこにも見えないような、悲惨な状況の中にいたのです。

この言葉は、預言者エレミヤが、今から2,600年も前に書いた、古い手紙の中の一文です。

29章の4節~23節までが括弧で括られていますが、その部分が手紙の全文です。

その当時、エレミヤの祖国ユダ王国は、バビロニアという超大国に攻められていて、まさに崩壊寸前でした。

この手紙が書かれる数年前に、既に、一回目のエルサレム攻略がありました。

その時、バビロニアの王ネブカドネツァルはエルサレムを占領して、ユダ王国の主だった人たちを、およそ1000キロも離れた、バビロンに連行していきました。

これが1回目の「バビロン捕囚」です。この時エレミヤは、エルサレムに残りました。

バビロンに連れて行かれた人たちは、彼らの拠り所でもあったエルサレム神殿から遠く引き離され、全く将来の見通しが立たない状況に置かれていました。

将来の見通しが立たない時、人は、絶望と無気力に覆われます。

遠いバビロンの地で、絶望的になっている同胞に対して、エレミヤは、神様から託された希望のメッセージを、手紙にして書き送ったのです。エレミヤはこう言っています。

バビロン捕囚は、永遠に続くのではありません。それは70年で終わります。

70年経ったら、神様は、ユダヤの民を捕囚から解放してくださり、再びエルサレムへと帰してくださいます。確かに70年間は試練の日々であるかも知れません。

しかし、それは、あなた方が神の民として回復されるのに必要な時なのです。

神様は、あなた方のために、災いではなく、平和の計画を持っておられます。だから、あなた方の将来には、確かな希望があるのです。

あなた方は、希望を持って、捕囚の地で、落ち着いた生活をしなさい。

異教の地で、神の民としての証しの日々を送り、その地の平安を祈りなさい。

家を建て、作物を収穫し、子供を産んで育てなさい。

エレミヤは、そのように、神様から託された言葉を、語り伝えました。

これは、大きな苦しみと不安の中にいる民に与えられた、希望の約束です。幸いどころか、災いしか感じることができない。そんな状況の中で与えられた、希望の約束なのです。

人生が、これから直ぐにバラ色になるという約束ではありません。困難な状況は、これからも暫く続きます。むしろ、困難は増すかも知れません。

しかし、あなた方は尚もそこで、希望を持って生きられるのだ、と言っているのです。

私たちは、生きていく時に、様々な困難、試練に遭います。

どうして、こんなに辛い目に遭わなければならないのか、その理由が分からないような困難に遭うこともあります。

また、いつまでこんな苦しいことが続くのか、先行きが見えない苦しみに遭うこともあります。そんな時、私たちは、絶望的な気持ちに陥ることがあります。

困難や苦しみは、その理由が分かっている時には、まだ何とか耐えることができます。

この苦しみは、あのことのためだ。だから、仕方がない。そう納得できる時に、私たちは、何とか苦しみに耐えることができます。

また、この苦しみは、もうすぐ終わる、と先が見えている時には、耐えることができます。

しかし、どうしてなのかという、苦難の意味が分からない時。またいつまでこの苦難が続くのか。それも全く分からない時には、本当に辛くなります。耐えることが難しくなります。

16年程前に召された、ヴィクトール・フランクルという、オーストリアの心理学者がいます。

この人は、第二次世界大戦中、ユダヤ人であるために、ナチスによって強制収容所に送られ、九死に一生を得る様な苦しい経験しました。その体験をもとにして書かれた「夜と霧」という本の中で、フランクルはある出来事を記しています。

ある年のことでした。強制収容所の中に、その年のクリスマスに、全員が釈放される、という噂が、まことしやかに流されました。

別に根拠がある訳ではありませんでしたが、苦しみの極限状態に置かれていた人たちは、その噂に縋りました。

その噂を、ともかく信じ、その噂を、一筋の希望として、必死に生きていこうとしました。

ところが、クリスマスが来ても、何も起こらなかったのです。誰一人として、釈放されなかったのです。たった一筋の希望が、空しく消え去ってしまったのです。

その時、人々は生きる気力を失いました。そこで、一体何が起こったでしょうか。

考えられないほどの人が、死んでいったのです。その年のクリスマスから年末までの僅か一週間の間に、その年の年初からクリスマスまでの死者を上回る数の死者が出たのです。

どんなに辛くても、人は希望があれば生きていかれます。

しかし、希望を失った時に、人は生きる力を失ってしまいます。

そのフランクルが確立した、ロゴセラピーという心理療法があります。

ロゴセラピーとは、「人生の意味」を見出させることによって、心の病を癒そうとする心理療法のことです。

フランクルは、人間の一番の関心事は、快楽を探すことでも、苦痛を軽減することでもない。それは、「人生の意味を見出すことなのだ」、と言っています。

人生の意味を見出している人は、苦しみにも耐えることができる、というのです。

逆に、人生の意味を失ってしまった時に、人は生きる力を無くしてしまいます。

人は、皆、生きる意味を見出したいのです。生きる意味を見出した時に、生きる希望が湧いてきます。

エレミヤが、バビロン捕囚の人たちに伝えたのは、この生きる意味です。生きる希望です。

ユダヤの人たちは思っていました。自分たちは、神様から、見捨てられてしまった。エルサレム神殿からも、遠く引き離されて、礼拝することもできない。そんな人生に、生きる意味があるだろうか。生きる希望をどこに見出せばいいのだろうか。

そのような、絶望の中にいた人々に、エレミヤは言うのです。いや、あなた方は、決して、神様から見捨てられてはいない。神様は、あなた方のために、確かなご計画を持っておられる。それは、災いの計画ではなくて、平和の計画なのだ。

将来と希望を与えられるご計画なのだ。だから、あなた方は、生きて行きなさい。

いや、生きなければならない。その地に住み着いて、希望を持って、生きていきなさい。

エレミヤは、そのような神様のお言葉を伝えたのです。

ただし、それには、一つの条件がある、と言っています。

それが、12節以下に書かれています。

この希望の計画を信じて、生き抜いていくには、神様を呼び続けなければならない。

神様に、祈り続けなければならない。何処までも神様を尋ね求めていかなければならない。

そうすれば、神様は、必ずあなた方の声を聞いてくださり、あなた方と出会ってくださる。

あなた方は、どこにいても神様を礼拝できる。エルサレム神殿がなくなっても、神様は、あなた方と共にてくださる。

どんな時にも、神様から目を離さず、神様の声を聞き続けているなら、あなた方は、絶対に神様の平和のご計画から漏れることはない。将来と希望を与えてくださる神様の恵みの中に、居続けることができるのだ。エレミヤはこのように言っているのです。

本当に、エレミヤの言う通りだと思います。まさに、「アーメン」なのです。

しかし、ここに一つ問題があります。それは、本当に耐え難い苦難の中にいる時、神様のご計画を信じたくても信じられない。希望に生きたくても、そのように生きる力が湧いて来ない。そういう現実も、また一方にある、ということです。

御言葉を頭で理解していても、それが生きる力に繋がって来ない。それほどに深い苦しみの中に置かれている。そういう現実に出会うこともあるのです。

2,600年前に、バビロン捕囚となったユダヤの人々に対して語られた言葉が、今、この耐え難い苦しみの只中にいる自分に、生きた言葉として迫って来ない。

残念なことに、そして、とても悲しいことに、そのような現実もまたあるのです。

エレミヤが語った神様の御言葉は、現代に生きる私たちにとっても真実な筈です。

生きる意味を見失って、自ら命を絶つ人が、年間3万人近くもいる。そんな日本に住む私たちに対しても、語られている言葉である筈です。

では、私たちは、そのような大きな苦難の中にいる時に、どうしたらよいのでしょうか。

どうしたら、将来と希望の約束を信じられるようになるのでしょうか。

ここで注目したい言葉があります。13節の、「心を尽くしてわたしを求めるなら」という言葉です。この「心」という言葉は、大変広い意味を持った言葉です。

「全人格」を意味する言葉です。ここで語られているのは、ただ頭や感情だけの信仰ではありません。全人格をぶつけていく信仰です。

頭だけでなく、この身体を丸ごとぶつけていく信仰です。全身で体当たりしていくような信仰です。捕囚の民の苦しみ、絶望は、生半可なものではではなかったのです。

その人たちに、エレミヤは言うのです。全身で体当たりする位の思いで、神様にぶつかっていきなさい。神様に喰らい付いていきなさい。

神様の胸倉を掴んで、「あなたはなぜこんな苦しみに合わせるのですか」、と訴えていきなさい。あなた方は、そうしても良いのだ。生半可なところで、自分を無理に納得させなくても良い。とことん神様と対決して良いのだ。それが赦されているのだ。

そして、その時に、あなたは初めて、本当に神様と出会うのだ。

その時に、あなたは、将来と希望の約束を、自分のものとすることが出来るのだ。

エレミヤは、そう言っているのです。創世記15章のアブラハムは、まさに、そのように神様に体当たりしています。喰らい付いています。

「主よ、あなたは、私の子孫は星のように増えると言われました。それなのに、私はもはや90歳に達しています。あなたは、一体私に何をくださるというのですか」、とアブラハムは神様に訴えています。そして、その神様との対決の中で、アブラハムは神様と真実に出会って、神様から祝福の約束を再び頂いたのです。

エレミヤは、あなた方も、あのアブラハムのように、神様に向かっていけば良いのだ、と言っているのです。

但し、どんな時も、ただ神様だけを相手にしていきなさい。他のものを相手にするのではなく、ただ神様だけを相手にして、どこまでも神様に喰らい付いていきなさい。

そうすれば、必ず、神様はあなたと出会ってくださり、あなたのために用意されたご計画を示してくださる。将来と希望の計画を示してくださる。そのことを信じていきなさい。

エレミヤは、そう言っているのです。決して綺麗事だけを言っているのではないのです。

現代でも、この御言葉を信じて、この御言葉を実際に体験した人は、大勢います。

その中の一人をご紹介します。ここに1冊の本があります。『それでも僕の人生は「希望」でいっぱい』という本です。この本を書いたのは、ニック・ブイチチというクリスチャンの青年です。明るくて、ハンサムで、素晴らしい青年です。

しかし彼は、生れつき両手両足が無い「先天性四肢欠損症」と言う障害を持っています。

皆さん、両手、両足がないのですよ。そのような生活、想像できますか。

彼は物心がつくと、自分が他の少年たちと違っているということに気がつきます。

学校では容赦なく彼をからかったり、馬鹿にしたりする少年が出てきました。

彼は将来に希望を持つことが出来ず、何度か自殺を試みるところまで落ち込んでいきます。しかし、それを知った彼のお父さんが、彼の頭を優しく撫でながら、こう言いました。

「神様が君を愛して造ってくださったのだよ。だから、きっとうまくいく。うまくいくのを見届ける前に人生を自分からあきらめてはいけない。うまくいくのに、もったいないじゃないか」。

彼はその言葉に励まされて、自分にできることに次々と挑戦していくようになります。

今、彼は、電動車いすや、携帯・パソコンを上手に使いこなし、水泳やサーフィン、スケートボードなども見事にやってのけています。

彼はあるとき学校で自分のことを話すことになりました。両手両足がない自分がどのようにして生きてきたのかを話しました。そして最後に、こう言ったのです。

自分には他の人と比べると欠けたものがある。けれも、ニック・ブイチチという一人の人間としては、何一つ足りないものはない。そのことに気がついたときから、僕は幸せなのです。

聞いていたクラスメートの女の子の一人が、途中から嗚咽し始めました。

そして彼のスピーチが終わると、彼女は立ち上がって、「ニック、あなたをハグしてもいいですか」、と聞きました。「もちろん」というと、彼女は思いっきりニックを抱きしめてくれました。

そして、彼女が耳元で言った言葉。その一言が、その後の彼の人生を変えていきます。

彼女はこう言ったのです。「あなたのおかげで、私の人生が変わりそうです。」

自分が人の役に立つことが出来るという喜びを、彼はここで経験したのです。

そして、その喜びが、その後の彼を支えていきます。

今、彼は、講演者として、また教会の伝道師として、全世界をまわって多くの人に希望と励ましを与えています。

ニックは言っています。「こんな自分が用いられて、神様の愛を伝えることができるなんて、こんなに素晴らしい人生はありません」。

彼は、小さい時から神様を信じていました。ですから、何度も、奇蹟を起こしてくださるようにと祈ったそうです。

「どうか、私に手足を与えてください」と祈ったのです。しかし、それは、適いませんでした。

しかし今、彼はこう言っています。「私は、奇蹟を今でも信じています。しかし、最も大きな奇蹟は、私が今の自分を神様に感謝できることです」。

ニックは、講演の中で聖書の御言葉をたくさん引用しますが、その中でも、このエレミヤ書の29章11節は必ず出てくる彼の愛唱聖句になっています。

この御言葉を引用した後で、ニックは言います。「私について、神様のご計画があることを知らなかった時、私は自分の人生を愛せませんでした。また、そんな人生を与えた神様も愛せませんでした。しかし、今は愛せます。自分の人生を愛せます。そして、この人生をくださった神様を愛せます。どうか、皆さん、あなたにも神様のご計画があることを知ってください。

たとえ今は、神様のご計画を理解できなくても、神様は、あなたを愛しておられ、あなたに対するご計画を進めてくださっています。私は、ずっと、自分は神様の失敗作だと思っていました。でも今はそう思っていません。今は、私という人間は、神様がご計画に従って造ってくださった自信作だと思っています。」

ニックだけではありません。私たちすべてが、神様の自信作なのです。

神様は、私たち一人一人にご計画を用意してくださっています。それは、災いの計画ではなく、平和の計画です。将来と希望を与えてくださる計画です。

それは、私たちが考えていた計画とは違うかもしれません。しかし、私たちにまことの希望を与えてくれる計画です。

先週の祈祷会で、ある姉妹が星野富弘さんの話をされました。

その姉妹が、最近出会ったお寺のお坊さんが、富弘さんのことを紹介して、富弘さんの生き方は素晴らしいと言ったそうです。

お寺のお坊さんが、クリスチャンの富弘さんに感動するなんて、ちょっと嬉しい話ですね。

私も富弘さんの詩と絵が大好きで、いつも手元に絵葉書を何枚か持って、時々それを見ています。富弘さんが創られた、比較的新しい詩の中に、このようなものがあります。

「あなたは私が考えていたような方ではなかった/ あなたは私が想っていたほうからは来なかった/ 願っていたようにはしてくれなかった/ しかしあなたは私が望んだ何倍ものことをして下さった」

富弘さんが詠っていることも、ニックが言ったことと同じです。

神様のご計画は、私たちの想いとは異なります。しかし、私たちの想いを遥かに超える最善のご計画を、神様は用意してくださっています。それが、私たちの希望です。

私たちも、この神様のご計画の中に生かされていることを、いつも覚えて、希望に満ちた将来を生きていくお互いでいたいと心から願います。