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過去の礼拝説教

「主よ、救ってください」

2014年04月06日 聖書:マタイによる福音書21章1節

今朝の御言葉は、主イエスが、最後にエルサレムに入城された時の出来事を記しています。この時、主イエスは、十字架にかかられるという、ただそのことだけのために、エルサレムに入城されました。

そして、この入城からわずか数日後に、十字架にかかられて、地上でのご生涯を終えられています。

マタイによる福音書は、主イエスの、地上における、三十数年のご生涯を記したものです。

しかし、その内容は、著しく偏っています。最後の、たった数日間の記述に、三分の一以上が割かれているのです。

それは、マルコ、ルカ、ヨハネの他の福音書でも同じです。エルサレム入城から復活までの1週間の記事が、どの福音書においても、三分の一以上の分量を占めています。

このことは、この最後の一週間こそ、福音書が最も語りたかったこと、そのメッセージの中心である、ということを示しています。

先ほど私たちが唱えた、「使徒信条」を想い起してください。「おとめマリアより生まれ」と、神の独り子の誕生について語った後、直ぐに「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と、十字架の受難へと飛んでいます。

その間の、30数年間の地上での働きについては、全く触れられていません。これは、私たちの救いの核心が、主イエスの十字架と復活にある、ということを明確に示しています。

主イエスがエルサレムに入城されたのは、ユダヤ最大の祭りである、「過ぎ越しの祭り」が数日後に迫っていた時期でした。

祭りのために都にやってきた大勢の群集が、主イエスを迎えました。

人々は、自分の服や、木の枝を道に敷いて、主イエスを迎えた、と記されています。

これは、王を迎える時の迎え方です。主イエスは、王としてエルサレムに入城されました。

このエルサレム入城は、イースターの一週間前の日曜日、今年の暦で言えば、来週の日曜日に起こった出来事です。

教会は、このイースターの一週間前の日曜日を、「棕櫚の主日」と呼んでいます。

マタイによる福音書では、群集は「木の枝」を道に敷いて主イエスを迎えた、としか記されていません。

しかし、以前の口語訳聖書のヨハネによる福音書には、その木の枝が「棕櫚の枝」であるとはっきり書かれていました。そこから、「棕櫚の主日」と呼ばれるようになりました。

ところが、新共同訳聖書のヨハネによる福音書では、この箇所を「棕櫚の枝」ではなくて、「なつめやしの枝」と訳し直しています。

それでは、「棕櫚の主日」も、「なつめやしの主日」に、変えなくてはならないのでしょうか。

そんなことを思って、私たちは、少々困惑してしまいます。

しかし、そんなに杓子定規に考えることはありません。大切なことは、群衆が王を迎えるように、木の枝を道に敷いて、主イエスを迎えたということです。

それが棕櫚であっても、なつめやしであっても、大きな差はありません。

ですから、これからも、慣れ親しんだ「棕櫚の主日」、と呼んでいきたいと思います。

私たちの人生は、主イエスを私自身の王として、毎日の生活の中にお迎えするかどうかによって定まります。

愛する兄弟姉妹、今朝、私たちは改めて、自分自身に問い掛けてみたいと思います。

私は、本当に、主イエスを王としているだろうか。主イエスを、自分の人生を支配する王として迎え入れているだろうか。

そのように改めて問われると、私たちは、一瞬たじろぐのではないかと思います。

それは、主イエスを、王として自分のうちに迎えることに対して、一抹のためらいを持っているからかもしれません。

この時、群集は、自分が着ている上着を脱いで、主イエスの足元に敷きました。

私たちに求められているのは、そのように、今着ているものを、脱ぎ捨てることです。

今までの自分を脱ぎ捨てて、主の足元に置く、ということです。そして、どうぞこの上を、私の王として歩んでください、と言い切ることです。

信仰を持つということは、自分の人生における、主権交代が起こるということです。

私たちは、自分の人生は、自分が支配するものだと、無意識のうちに思い込んでいます。

自分の人生の主権を、握り締めています。

信仰を持った後でも、まだそのように、思い込んでいるところがあると思います。

主イエスというお方は、私たちを助けてくださるお方であって、私たちを支配するお方ではない。そのように、どこかで思い込んでいる、ということはないでしょうか。

しかし、本当に信じるということは、生活のすべての場面において、主イエスを王として迎えることなのです。

私たちは、自分の城を明け渡して、王なる主イエスをお迎えする者でありたいと願います。

マタイによる福音書は、その初めと、終りで、王としての主イエスを語っています。

占星術の学者たちは、ユダヤ人の王として生まれたお方を尋ねて、遠い東の国からはるばる旅してきました。

彼等は、黄金、乳香、没薬を献げました。これらは、王に対する、一般的な贈り物です。

そのように、主イエスは、王としてお生まれになられました。

しかし、粗末な荒布にくるまれて、飼い葉桶の中に寝かされた、幼な子イエス様のどこにも、王としての権威はみられませんでした。

そして、十字架につけられた主イエスもそうでした。そのお姿のどこにも、王としての権威は見られませんでした。

主イエスがかぶられた冠は、王冠のように宝石をちりばめた金の冠ではありませんでした。

それは、茨の冠でした。金の冠と、茨の冠の違い。それは、主イエスがどのような王であるかいうことから来る違いです。

この王は、権力をもって人々を支配するのではなく、人間の罪のために十字架につき、その肉を裂き、血を流すことにおいて王になられたのです。

そのようにして、罪に捕らわれていた人間を救い出し、ご自分のものとされた王でした。

私はあなたを、罪のとりこから贖い出した。もうあなたは私のものだ。そう言って私たちを握り締めてくださっている王なのです。そうなのです。このお方こそ、王の王なのです。

ですから、エルサレム入城の際、主イエスは、王としての儀式をもって、入城されました。

しかし、世の凱旋将軍のように、たくましい軍馬に乗るのではなく、小さなみすぼらしい子ロバに乗ってお入りになられました。

ロバは戦いの役には立ちません。戦いをするのは軍馬です。馬に乗らない王というのは、戦いを止めた王です。軍備を持たない王です。

長い人間の歴史の中で、これまで、軍備を全く持たない王が、存在したことはありません。

また、このとき主イエスに従っていた者たちは、勇ましい軍隊ではなくて、旅に疲れた十二人の弟子たちでした。

ですから、主イエスが王であられるというのは、全く新しい意味における王である、ということなのです。主イエスは、まことに不思議な王として、ここに登場されているのです。

不思議と言えば、3節の言葉もまた不思議な言葉です。

主エスは二人の弟子を向こうの村に遣わして、子ロバを引いてくるようにお命じになりました。その時、「もし誰かが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。直ぐ渡してくれる」と仰いました。

「主がお入り用なのです」。この「主」という言葉は、文脈から解釈しますと、「主イエスの主」というよりも、そのロバの持ち主のことを言っている、と採ることが出来ます。

つまり、そのロバの持ち主が、ロバを必要としている、という意味に採れるのです。

そのように命令されて、きっと二人の弟子は戸惑ったと思います。

何も持たずに、ひたすら宣教活動を続けて来られた主イエスです。その主イエスが、向こうの村にロバを所有している。そんなことはあり得ない。何故こんなことを言えと、お命じになったのか。弟子たちは理解できないままに、しかし、言われた通りに伝えました。

一方、ロバの持ち主は、自分のロバを、無断で持っていこうとする二人に、憤慨したと思います。そして、「私のロバを勝手に持っていくとは、何事か」。恐らく、そう言ったと思います。

それに対して弟子たちが言います。「このロバの持ち主が、これを必要としているのです」。

これを聞いて、ロバの持ち主はびっくりしたと思います。「ロバの持ち主は、この私ではないか。何ということを言うのか」。

一瞬びっくりしたものの、しかし、このロバの持ち主は、言います。「分かりました。どうぞお持ちください」。今度は、弟子たちの方がびっくりしたと思います。

御言葉は、ここで、まことの信仰者の姿を、私たちに示しています。

主イエスを、自分の王として迎え入れるとは、こういうことなのだ、と言っているのです。

王である主イエスは、自分のすべてを支配しておられる。私の持ち物も、いや私自身をも、主イエスは支配しておられる。それが、主イエスを王とする、ということなのです。

そのことを受け入れたならば、そのお方が「必要だ」と言われるなら、「どうぞお使いください」、と答える。それが、主イエスを、自分の王として迎え入れた者の姿なのです。

主イエスは、王として来られました。しかし、権力を誇示しながら入城されたのではありません。柔和で、へりくだった者として、ロバの子に乗られて入城されました。

ロバは、馬やラクダに比べて背が低いので、誰もが簡単に乗れますし、また簡単に荷物を乗せることができます。

そのようなロバに乗られた主イエスご自身も、ロバのように低くなられたのです。

その背に、私たちの罪の重荷を負われたために、主イエスの背は、そこまで低くなったのです。主イエスは、そこまで低くなられて、十字架への道を歩まれました。

ゴルゴダヘの道を、主イエスが担って歩まれた十字架。その十字架の重さを、一体誰が知り得たでしょうか。主イエスは、私たちの罪をその身に負われました。

しかし私たちは、自分の罪の重さを知りません。

私たちの罪の重さは、自分では分からないのです。それは、私たちの物差しでは、正しく測ることが出来ません。なぜなら、私たちは、自分を正しく見つめることができないからです。

私たちの罪の重さ。それは、主が担われた、十字架の重さでしか、計ることができません。

私の罪を担うために、神の御子の十字架の死という、とてつもなく大きな犠牲が必要だった。私の罪の重さと釣り合う重さは、主イエスの十字架の重さしかない。

その重荷を、主がお一人で負ってくださった。私たちの罪の、一つひとつが、主を苦しめ、主の重荷となったのです。

この後、主イエスは、「顔に唾を吐きかけられ、こぶしで殴られ、あるいは平手で打たれて」嘲りを受けられます。私たちに代わって、徹底的に傷つけられます。

徹底的に低くされます。そして、その低さは、十字架において極限に至ります。

滑稽とさえ見えた、子ロバに乗ってのエルサレム入城。それは、ただひたすらに十字架を目指すものでした。

主イエスは、与えられたその使命に向かって、一直線に進んでいかれました。

使命とは、命を使うと書きます。主イエスは、私たちの罪を贖うという、ご自分の使命にために、文字通りその尊い「命を使われた」のです。

さて、群集は、そのような主イエスの使命を全く理解しないまま、お祭り気分の中で、主イエスを歓喜の声をもって迎えました。9節の御言葉です。

「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」。

この歓喜の叫びをもって主イエスを迎えた人々が、それから僅か数日後に、その主イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、平手で打ち、嘲り、罵る群衆となりました。

私たちは、そのことを知っています。ですから、この時の群衆の歓喜の声を、複雑な思いをもって読まざるを得ません。では一体、主イエスご自身は、この群衆の歓呼を、どのように受け止めておられたのでしょうか。

「お前たちは何も分かっていない。お前たちは自分が何をしているのか分かっていない。

分からないままに、今は、私を王として迎えている。しかし、数日後には、また分からないままに、私を十字架にかける。私の顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、平手で打ち、嘲り、罵るのだ。愚かな者たちよ。」

そういう冷ややかな思いをもって、群衆を見つめ、群衆の声を聞いておられたのでしょうか。

そうではないと思います。

主イエスは、この群衆が罪ある人間の集まりであることを、見抜いておられました。

この人たちによって、自分は十字架にかけられる、ということを見抜いておられました。

しかし、たとえそうであっても、主イエスは、群衆の歓呼を拒否されなかったのです。

訳も分からずに叫んでいる、この群衆の歌を、主は受け入れられたのです。

何も分かっていない群集が、いえ何も分かっていない私たちが、やがて、主イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、平手で打ち、嘲り、罵ることになる。

そのことさえも、主は受け入れてくださったのです。本当に、何も分かっていない私たちです。でも、その私たちに、聞こえてくる、主イエスの御言葉があります。

「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているか分からずにいるのです」。

この御言葉は、十字架の上で、一度だけ語られたのではありません。

主イエスを理解できず、御心に背いてばかりいる私たちのために、何度も、繰り返して、今も語られているのです。

私たちは、この主イエスの執り成しによって、初めて救われるのです。

主イエスこそが、まことの救い主です。私たちは、このお方に、心から「ホサナ」と叫びたいと思います。

群集が、ここで叫んでいる「ホサナ」という言葉は、もともとは「救ってください」という意味の言葉です。

しかし、段々とその本来の意味が薄くなって、やがて、「救ってください」という意味よりも、「万歳」というような意味で、使われることが多くなっていきました。

ですから、ここで群集が叫んだ「ホサナ」という言葉も、「救ってください」という意味ではなく、単に「万歳」という意味であったと思います。

しかし、たとえそうであったとしても、この言葉は、この場面に極めて相応しいものでした。

なぜなら、救い主を迎えるのに、最も相応しい言葉は「救ってください」という言葉だからです。私たちは、教師に対しては、「教えてください」と呼びかけます。医者に対しては、「治してください」と願います。そうであれば、救い主に呼び掛けるのに、最も相応しい言葉は、「救ってください」、という言葉である筈です。

救い主を迎えるのに、最も相応しい態度は、「主よ、わたしを救ってください」と叫ぶことです。この日、エルサレムの人たちは、お祭り気分で、口々に「ホサナ、ホサナ」と主イエスに向かって叫んでいました。

群集は気が付いていませんでしたけれども、この言葉は、父なる神様がご用意なさった、主イエスに対する、最高の計らいであったのかもしれません。

この日から数日間、主イエスは、この群集の叫びに応えるかのように、救いの御業のために戦われました。苦しみをお受けになったのです。徹底的に低くなられたのです。

そのようにして、私たち人間の罪を、滅ぼしてくださり、私たちを救ってくださいました。

そして、この柔和な王は、眞の王になられました。

人々が考えもしなかった、王の王、主の主が生まれたのです。

エルサレムの群集は、訳も分からずに「ダビデの子にホサナ」と叫びました。

しかし、私たちは、心からの感謝をもって、主イエスに対して、「ホサナ、主よ、どうか私を救ってください」と叫びたいと思います。

王として来られた主イエスに対して、私たちの城を明け渡したいと思います。

私たちの上着を脱いで、主の足元に敷いて、どうぞこの上を、私の王として歩んでください、と言える者でありたいと願います。

そして、主イエスに、私たちの内なるエルサレムに、入城していただきたいと思います。

そのような思いを込めて、「ホサナ、主よ、救ってください」と、心から叫んでいきたいと思います。