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過去の礼拝説教

「主のまなざしの中で」

2014年06月15日 聖書:創世記 16:1~16

先ほど、司式の關兄弟に、創世記16章を読んで頂きました。

ここに書かれている出来事は、大変分かり易い物語です。一度読んだだけでも、荒筋はスーと頭に入ってきます。

登場人物も、アブラムと、サライと、ハガルの、たった3人です。主の御使いを、登場人物に加えたとしても、4人だけです。

アブラムというのは、アブラハムのことです。この箇所の直後の17章で、神様は、アブラムに対して、名前をアブラハムに変えなさい、と命じられます。

アブラムという名前は、「父は尊い」という意味でしたが、これを、アブラハム、「多くの人の父」、という意味の名前に、変えるようにと、命じられたのです。

同じように、アブラムの妻のサライの名前も、サラに変えるように、命じられました。

以前、教会学校で、子どもたちに、こんな質問をしたことがあります。

「名前を変えたアブラハムさんとサラさん。この二人の内、どちらが長生きしたでしょうか」。

ある子が、答えました。「はい、アブラハムさんです」。「そうですね。では、どうして、アブラハムさんの方が、長生きしたのでしょうか」。誰も答えられません。

そこで、私が、得意になって、「アブラハムさんは、歯を入れたでしょう。でも、サラさんは、胃を取ったでしょう。だから、アブラハムさんの方が、長生きしたのです」。

全く反応がありませんでした。誰も、笑ってくれませんでした。おやじギャグが、子どもたちに通じなった、典型的な例となってしまいました。

今朝は、アブラムとサライではなく、慣れ親しんだアブラハムとサラという名前でもって、お話しさせて頂くことを、お許しいただきたいと思います。

神様は、アブラハムに、あなたの子孫は、空の星のように増える、と約束されました。

しかし、この約束は、なかなか実現しませんでした。

子どもが与えられないままに、アブラハムとサラは、高齢となりました。

神様の約束は、私たちの思った時に、思ったように、実現するとは限りません。

私たちの考える時と、神様のご計画の時とは、違うことが多いのです。

その時、私たちがすべきこと。それは、どこまでも神様の約束を信じて、待つということです。しかし、この、「待つ」ということが、とても難しいのです。

約束が、なかなか実現しない時、私たちは、戸惑い、悩み、苦しみます。

そして、しばしば、人間の知恵に頼って、何か行動を起こさなければならない、と考えます。神様の約束の実現のために、私たちが、何かしらの行動を起こす。それは、必ずしも間違っている訳ではありません。行動を起こすことが、必要とされることもあります。

しかし、その時に、最も大切なこと。それは、どこまでも神様の御心を、尋ねつつ、行動する、ということです。そのために、御言葉に聴き、祈ることです。

御言葉と祈りを通して示された、神様の時に、神様の方法を、用いていくのです。

自分勝手な方法で、神様抜きで、行動しない、ということです。

神様は、約束を実現するために、ご自身で定められた、時と方法を、お持ちなのです。

それを無視して、神様抜きで、自分の思いを、一方的に果たそうとする時、私たちは、様々な問題に出会い、苦しみ、悩むことになってしまいます。

この16章の前半では、神様抜きで、物事を進めようとした時に、私たちにもたらされる不幸が語られています。

なかなか約束の子が与えられないサラ。彼女は、自分の奴隷である、エジプト人の女ハガルを、側女として、夫のアブラハムに与え、ハガルを通して、子どもを得ようとします。

当時、奴隷は主人の所有物でしたから、その奴隷の子も、主人のものとなります。

このサラの提案を、アブラハムは、すんなりと受け入れます。

それが、神様の御心かどうか、まず祈ろうではないか、などとは一言も言っていません。

恐らく、アブラハムの心の片隅にも、サラと同じ思いがあったのだと思います。

アブラハムは、ハガルを側女として迎え入れ、ハガルは、アブラハムの子を宿します。

さて、今朝はご一緒に、ハガルの立場に自分を置いて、状況を眺めてみたいと思います。

ハガルは、故郷のエジプトから、遠く離れたカナンの地に、連れて来られた、女奴隷です。

異国から連れて来られた、女奴隷。まさに、社会の底辺に暮らす女性です。

最も弱い立場にいる人間です。

ハガルは、自分の人生を、自分の思い通りに生きる自由を、持っていません。

家族もいません。彼女の人生は、主人のサラのものです。

サラの言う通りに生活し、サラの行くところに、彼女もついて行くほかありません。

いつも、サラの陰となって、生きる女性でした。

そのハガルが、一人の人間として、脚光を浴びる機会が、やって来たのです。

族長アブラハムの、側女となるように、と命じられたのです。

一介の奴隷から、族長の側女に抜擢されたのですから、大変な出世であるとも言えます。

こうして、ハガルは、アブラハムの子をみごもります。

4節には、こう書かれています。「アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。」

女主人のサラは、ハガルがみごもった子は、自分のものになると思っていました。

当時の社会の決まりでは、それが当然のこととされていました。

奴隷のハガルも、そのことは理解していた筈です。

しかし、実際に妊娠し、子どもが大きくなるに連れ、それは自分の子どもであって、サラの子どもではない、と実感し始めたのです。女性は、母親になると、強くなるものです。

そして、更にハガルは、子どものできない女主人を、次第に見下すように、なっていったのです。

私たち人間は、自分の地位や、置かれている状況によって、態度が変化し易いものです。

地位が高まり、財産が増えても、態度が変わらないという人は、極めて稀です。

大衆伝道者であり、またクリスチャンの社会運動家でもあった、賀川豊彦は、「死線を越えて」という、歴史に残る名著を記しました。

今の価値で、10億円もの印税が入ったにもかかわらず、それを一切、自分のことに使わずに、全て福祉事業や、その他の救済事業に献げました。

ですから、生活は、依然として貧しかったのです。

賀川の良き協力者でもあった、妻のハルは、そのことに一言も文句を言わず、相変わらず、みすぼらしい着物を繕って、着続けました。

賀川は、そんな妻を、心から愛し、敬って、「我が妻恋し」、という歌を歌っています。

「千万金を手にしつつ、じゅばんの袖口つくろいて、人にほどこす、妻恋し」。

もし、ハガルが、この時、賀川やハル夫人のように、自分の態度を変えることなく、今まで通り、へりくだって、主人のサラに仕えていたなら、悲劇は起こらなかったでしょう。

しかし、ハガルは、次第に主人に対して、倣慢な態度を見せるようになっていきました。

腹を立てたサラは、夫のアブラハムに文句を言います。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです」。

夫のアブラハムが、ハガルを甘やかすから、ハガルが傲慢になったのだと非難したのです。それを聞いたアブラハムは、「ハガルはお前の奴隷だから、お前の好きにしろ」と答えます。

サラは、「あなたのせいだ」と言って夫を責め、アブラハムは、「もともとはおまえの計画じゃないか」と言い返し、口論になります。責任のなすり合いです。

どちらも、ハガルや、お腹の子のことなど、全く気にかけていません。

アブラハムは、側女としたハガルを、サラの許に帰し、お前の好きなようにしろ、と言います。ハガルを取り戻したサラによる、陰湿ないじめが始まります。

「サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた」、と記されています。

ここにある、「つらく当たった」という言葉は、「虐待した」とも訳せる言葉です。

虐待に耐えかねたハガルは、とうとう逃亡してしまいます。

ここに至るまでの、アブラハム、サラ、ハガル、この3人の行動からは、全く神様が除外されています。神様抜きの行動は、このように多くの問題を、引き起こしてしまったのです。

アブラハムとサラは、子供を得る望みを失っただけでなく、女奴隷をも、失うこととなってしまいました。

身重の体で、荒野をさすらうハガルにとって、この逃避行は、死の危険をはらむものでした。

そんなハガルを、神様は放っておかれるのでしょうか。そんなことはありません。

神様は、主人のもとから逃げて、放浪するハガルを追いかけ、彼女が疲れて、荒野の泉のほとりにいるのを見つけ、そこで声をかけます。なんとも温かな瞬間です。

「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」。

この神様の問い掛けに、ハガルは答えます。「女主人サライのもとから逃げているところです」。

ハガルは、自分が、サラの女奴隷で、そこから逃げてきたことは認めました。

しかし、これから「どこに行こうとしているか」については、答えることができませんでした。

もともと、行く宛てなどないのです。そんなハガルに、神様は、二つのことをおっしゃいます。

その第一は、「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」、ということです。

サラの虐待に耐えきれずに、先のことも考えずに、逃げ出したハガルでした。

しかし、そもそも、その虐待の原因を作ったのは、ハガルの傲慢でした。

だから、もう一度謙虚になって、サラに仕えなさい。それが、生きる道なのだ。

子どもを宿した女が、荒れ野で、逃亡生活を続けられると思うのか。

生まれた子どもは、どうなるのか。家に戻って、主人の下で、謙遜に仕えなさい。

それが、生まれてくる子どもにも、あなたにも、一番良いのだ。

神様は、そのように言われたのです。後先も考えずに飛び出してきたハガルを、現実へと連れ戻す、温かくて実際的な助言でした。

第二に、神様は、ハガルに大いなる祝福を、約束なさいました。

「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす」、と言われたのです。

これは、ハガルの主人が受けた祝福と、同じです。

神様は、主人のアブラハム夫婦と同じ祝福を、奴隷のハガルにも約束なさったのです。

更に、神様は、やがて生まれてくる、ハガルの子どもの名前をも、与えてくださいました。

「その子をイシュマエルと名付けなさい」。イシュマエルという名は、「主があなたの苦しみを聞き入れられた」、という意味です。

神様は、ハガルの苦しみの祈りが、聞かれたことの証として、この名をお与えになりました。ハガルは、これまで何度も、苦しみの中で、神様に、祈りを献げてきたと思います。

祈りの中で、自分が受けている虐待を、密かに、神様に訴えていたに、違いありません。

人間の世界では、誰も耳を傾けない、ハガルの祈り。

その祈りを、神様は聞かれていたのです。

そして、その徴として、息子の名は、「イシュマエルだ」、と神様は宣言されました。

その神様のお言葉に従って、ハガルは、主人のもとに帰って、謙遜に仕えます。

誰も、振り返ってくれない、誰も、認めてくれない、誰も、気にもかけてくれない。

そう思っていました。

そんなハガルを、神様は「見つけ」、「語りかけ」、慰め、祝福を与えてくださったのです。

ハガルは、この神様を、「エル・ロイ」と呼びました。

「神」という言葉「エル」と、「見る」という言葉「ロイ」を、合わせた呼び名です。

神様がハガルをご覧になったとも、ハガルが神様を見た、とも解釈できます。実際は、その両方なのです。

ですから、ハガルは「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」、と言っているのです。

私は神様を見た、神様と出会った。そして、そのお方は、「私を顧みられるお方」であった、とハガルは言っています。

私たちは、どんなに困難な時にも、尚もそこで、私たちを見ていてくれるまなざしがある。

そう感じられる時、生きていくことができます。

いじめに関する本を読んでいたとき、ある中学生の告白が心にとまりました。

その子は、クラスのリーダー格の女の子に目をつけられて、無視され続けてきました。

ある日、自分のペンケースに紙切れが入っていました。小さな紙に、こう書いてありました。

「何もしてあげられなくて、ごめん。でも私は味方だから」。名前はありませんでした。

でも彼女は発見したのです。温かい目で、自分を見ていてくれる人が、クラスに一人いるんだ。そのことを知って、彼女は、いじめに耐え抜くことができそうです。

不遇な環境に生まれ、不遇な一生を、歩んでいたハガル。

お腹に子どもがいながら、虐待されて、荒野に逃亡をはかり、疲れ果て、呆然と泉のほとりに座っているハガル。

誰からも、顧みられることのないハガル。しかし、神様は見ておられたのです。

神様は、私たちを、決して見捨てられません。神様は、聞いておられます。見ておられます。

その神様のまなざしの中で、ハガルは、人生の戦いの場に、戻っていきます。

現実から逃避することなく、主人の許に、帰っていきます。恐らく、状況は変わりません。

主人たちの態度が、急に変わるとは思えません。

しかし、彼女は変わりました。勇気を得ました。なぜなら神様が見ておられるからです。

『こころのチキンスープ』という本のシリーズの中に、こんな実話が載っています。

話は、こう始まります。

「バスの乗客は、白い杖を持った、美しい若い女性が、慎重にステップを昇ってくるのを、はらはらしながら見守っていた。

彼女は手探りで、座席の位置を確かめながら、通路を歩いて、運転手に教えられた空席を見つけた。座席に腰を下ろすと、ブリーフケースを膝に載せ、杖を脚によせて立てた」

彼女の名前はスーザン、34歳。視覚を失ってわずか一年です。

人一倍独立心の強かったスーザンは、一瞬にして、闇と、怒りと、苛立ちの世界に突き落とされてしまいます。

夫は、なんとか彼女に、もう一度、力と自信を取り戻させよう、独立心を回復させようと、決意します。そして、仕事に復帰できるように、取り計らいます。

でも、どうやって、職場に通ったらいいのでしょう。

初めは、夫が彼女を、職場に車で送っていました。ところが暫くすると、夫は、このままではいけない、と気づいたのです。

スーザンは、一人でバスに乗ることを、覚えなければいけないんだ。

でも、そのことをスーザンに言うのに、躊躇を覚えました。予想通り、一人でバスに乗ると考えただけで、スーザンは怒鳴りました。「私は目が見えないのよ」。

そこで、夫はスーザンに、毎日、朝晩一緒にバスに乗ってあげる、と約束しました。

彼女が一人で大丈夫と思うまで、どんなに時間がかかっても、毎朝、二人は一緒にバスで出かけ、それから夫は、タクシーでオフィスに向かいます。

そしてついに二週間後の月曜日、スーザンは一人でバスに乗る、と言いました。

月曜日、火曜日、水曜日、木曜日……。金曜日の朝、スーザンはいつものようにバスに乗りました。料金を払って、バスを降りようとしたとき、運転手が言います。

「あんたはいいねぇ」。スーザンは、まさか自分に言われたのではないだろうと思います。

いったい誰が、目の見えない女性を、羨むというのでしょう。

しかし、どうやら自分のことのようだ、と感じた彼女は、運転手に尋ねます。

「どうして、いいねぇなんて言うんですか」。

運転手はこう言いました。「だってさぁ、あんたみたいに大切にされて、守られていたら、さぞかし気分がいいだろうな、と思ってさ」。

さらに謎です。「どういう意味なの」。答えが返ってきました。

「ほら、今週ずっと、ハンサムな軍人が、通りの向こうに立って、あんたがバスを降りるのを見守っていたんだよ。あんたが無事に通りを渡って、オフィスの建物に入っていくのを、確かめているんだよ。それから、彼は、あんたにキスを投げて、小さく敬礼をして去っていく。あんたはほんとうにラッキーな女性だよ」。

そのようにハガルも教えられたのです。

どんなに孤独な境遇にある私をも、神様は見守っていてくださる。

私の祈りを聞いていてくださる。

ハガルは、エル・ロイ、見ていてくださる神様に、祈ることを学んだのです。

私たちも、エル・ロイ、見ていてくださる神様のまなざしの中で、共に祈ってまいりましょう。

私たちが、気が付かなくても、神様は、私たちを見守ってくださっています。

それほどまでに、大切にしてくれています。

そんな神様のまなざしの中で、生かされている私たちは、本当にラッキーです。

そのことを、心から感謝しつつ、共に歩んでまいりましょう。