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過去の礼拝説教

「新しい創造」

2014年01月12日 聖書:コリントの信徒への手紙二 5:16~21

新しい年2014年を迎えて二回目の礼拝を、こうして皆様と共に献げられる恵みを、心から神様に感謝いたします。

まだお正月気分が抜け切れていない、という方もおられるかと思いますので、今朝は「まことの新しさ」について、ご一緒に考えてみたいと思います。

お正月には、色々なものが改まって新しくされます。しかし、本当の新しさとは何なのでしょうか。そのことを御言葉から、聴いていきたいと思います。

先程、コリントの信徒への手紙二の5章16節から21節までを読んで頂きました。

この箇所の中では、特に17節がよく知られています。

『だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた』。

この御言葉は、昔から多くの人々に親しまれてきました。

今、私たちは、日本語に翻訳された聖書を読んでいます。しかし、元々の聖書は、旧約聖書はヘブライ語、新約聖書はギリシア語で書かれています。

私はヘブライ語もギリシア語も専門家ではありません。極めて初歩的なことを、僅かな期間学んだだけです。ですから、微妙な言葉づかいやニュアンスなどは理解できません。

それでも、辞書や解説書を手掛かりに、原文を読んでいきますと、聖書を翻訳した方々のご苦労が、ほんの少しですが分かるような気がします。難しい箇所に出会った時などは、聖書を翻訳するということは、本当に大変なことなのだなぁ、とつくづく思わされます。

このコリントの信徒への手紙二の5章17節も、翻訳が難しい箇所の一つです。

原文では、この17節の前半はもっと簡潔なのです。

『誰でもキリストの中なら、新しい創造』。これだけしか書かれていません。

「新しく創造された者」とは書かれていないのです。動詞も形容詞もなくて、ただ「新しい」という言葉と、「創造」という言葉。この二つの単語が並んでいるだけです。

英語で言えば、ただ「new creation」 とだけ書かれています。

ですから、「キリストにあるなら、その人は新しく造られた者である」とも読めますが、また、「キリストにあるなら、その人にとって全てが新しい創造」、とも読むことができます。

そのように、広い、そして深い意味を持っている言葉なのです。

この御言葉は、しばしば元旦礼拝において読まれます。暦が新しくなる元旦に相応しい、と考えられているからだと思います。

元旦の朝は、気分が一新されます。外の景色も、いつもと違って明るく見えて、空気までも穏やかで、ゆったりと流れているように感じることがあります。

いつものように一夜明けただけなのに、不思議なことに、すべてが前の日とは違って見える。このような気分を、味わった方は多いと思います。

他にも、似たような気分を味わう時があります。学生時代に期末試験というのがありました。私の経験では、試験期間中は、空がどんなに気持ちよく晴れ渡っていても、少しも気分は晴れ晴れしくなりませんでした。しかし、試験が終わった途端に、周りの景色が一変して、一挙に明るく輝いて見えたのを覚えています。皆さんは如何でしたでしょうか。

では、今日の御言葉が語っている「新しい創造」とは、そのようなことを言うのでしょうか。

お正月や試験明けの日のように、空気も、陽の光も、昨日とは全く違うように感じる。

そういう新しさを言っているのでしょうか。そうではないと思います。

コヘレトの言葉1章10節はこう語っています。『見よ、これこそ新しい、と言ってみても、それもまた、永遠の昔からあり、この時代の前にもあった』。

この御言葉は、すべて太陽の下にあるものは、所詮は繰り返しであって、何一つ新しいことはない、と語っています。

元旦の朝に、外の景色が全く新しく見える、試験が終わった時に、周りの景色が一変する。

そのような新しさは、所詮は一時的な気分の問題で、長く続くものではない、と言っているのです。しかし、今日の御言葉は、「そうではない新しさ」があると語っています。

単なる気持ちの切り替えから生じる新しさではなく、違った新しさがあると語っています。

別に、暦が変わった訳でもない。或いは、試験が終わった訳でもない。

そのようなことが全くないにも拘らず、全てが新しくなる。そのような新しい創造があるのだ、と言っているのです。それはどのような新しさなのでしょうか。

ここで御言葉は、「古い」と「新しい」の違いをはっきりと述べています。

『キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです』、と言っています。

「古い」か「新しい」かの違いは、時計の針やカレンダーの問題ではありません。

或いは、時流に乗っているか、いないかの問題でもありません。

「キリストに結ばれている」かどうか。それが、決定的なことだと言っているのです。

「キリストに結ばれている」ならば、「新しい創造」が起こるというのです。

まさに、キリストが「古いもの」と「新しいもの」を分けるポイントに立っておられるのです。

分水嶺という言葉があります。どちら側に雨の水が落ちるかによって、その水の行く先が大きく変わってしまう嶺のことです。

アメリカのロッキー山脈に「偉大な分水嶺(The Great Divide)」と呼ばれている嶺があります。その嶺に降った雨は、一方は大西洋に流れ、もう一方は太平洋に流れて行くそうです。

嶺のどちら側に落ちるか。それは僅か数センチの差、いえ数ミリの差であるかもしれません。しかし、そのどちら側に落ちるかによって、ゆくゆくは数千キロも離れて行ってしまうのです。僅か数ミリの差が、数千キロの差になってしまう。

そのように、主イエスは、私たちの人生を、分水嶺のように、二つに分けてしまうお方なのだ、と御言葉は語っています。

わたしたちの人生だけではありません。人類全体の歴史も主イエスが来られる以前と、来られた後は大きく二分されています。

そのため、キリスト以前をBC(ビフォア・クライスト)と呼び、キリスト以後をAD(アンノ・ドミネ、主の年)と呼んで、時代を大きく分けています。

御言葉は、「キリストに結ばれるなら新しい創造が起こる」、と語っています。

では、「キリストに結ばれる」とはどういうことでしょうか。

「キリストに結ばれる」という言葉は、原語では「キリストのうちに(エン クリストー)」という二つの単語だけです。

~の中にという前置詞 (エン) と、キリストの(クリストー)という言葉だけです。

この「キリストのうちに(エン クリストー)」という言い方は、パウロの手紙の中に非常にたくさん出てきます。

以前の口語訳聖書では、この言葉は、「キリストにある」と訳されていました。

しかし、新共同訳聖書は「キリストに結ばれて」と訳しています。

でも、良く考えれば、「キリストのうちにある」ということと、「キリストに結ばれている」ということは、同じことだと言えるのでないでしょうか。

私たちが、キリストという飛行機に乗っていると想像してみてください。その時、私たちは完全にキリストに信頼し、キリストに委ね、キリストに導かれ、キリストと運命を共にしています。その時、わたしたちの命は、キリストに結ばれているのではないでしょうか。

そのように、キリストに信頼し、キリストに委ね、キリストの命に結ばれている時に、新しい創造が起こるのだ、と御言葉は語っています。

キリストの救いに与った者は、誰もが、多かれ少なかれ、皆、このような新しい創造を経験しているのではないかと思います。

9年前に、天に召された田原米子さんという方もその一人です。

田原米子さんは七人兄弟の末っ子として生まれました。しかも、男の子二人、女の子一人を亡くしたあと、お母さんが42歳の時に与えられた子供でした。ですから、溺愛といってもよいほど可愛がられて育ちました。

ところが、米子さんが15歳の時に、そのお母さんが突然脳溢血で亡くなりました。

生きる拠り所であったお母さんを突然失った米子さんは、自暴自棄になって遊び歩くようになりました。そして、18歳の時に、新宿駅で発車直後の小田急線の電車に、発作的に飛び込んでしまったのです。

たまたま救急医療の知識を持った駅員がいて、見事な処置を施しました。また、運び込まれた病院も素早い、適切な治療を行ったので、田原さんは奇跡的に命を取り留めました。

しかし、左手と左足は切断、右足も足首から先を失い、残ったのは右手だけでした。

その右手も、小指と薬指の2本が切断され、指が3本だけになっていました。

やがて、病院のベッドで気がついた米子さんは、「死のうと思ったのに余計なことをされて、私は何て運が悪いのだろうか」、と助けてくれた人たちを恨みました。

もう一生涯、人の面倒にならなければならない。そう思った米子さんは、再び死んでしまおうと思って、痛み止めの睡眠薬をこっそりと溜め込んで、いつでも死ねる用意をしました。

多くの人がお見舞いに来ました。でも、その人たちにも徹底的に悪態をつきました。

ところが、その中で、どんなに悪態をつかれても、いつも変わらず、笑顔で訪ねてくる二人組がいました。アメリカ人の宣教師と宣教師志願の日本人の青年でした。

彼らは米子さんの病室を何度も訪れて、讃美歌を歌い、聖書を読んで励ましてくれました。

最初の内は、ベッドの中でかたくなに二人を拒否していた米子さんでした。

しかし、二人があまりにも生き生きとしていて、楽しそうなので、いつしか米子さんは、あの二人のような生き方が出来たらいいなぁ、と思うようになっていきました。

そして、ある日、二人が置いていったカセットテープを、何気なく聞いてみたのです。

そのカセットテープには、こういうメッセージがふき込まれていました。「神様は、あなたにどんな欠点があっても、そのままのあなたを愛しているのです。そして、あなたを生かしたい、助けたい、幸せになってほしいと願われて、独り子イエス・キリストをお遣わしになったのです。主イエスは、神様に背を向けていた、私たちの罪の身代わりとなって、十字架の上で死んで下さいました。それほどまでに、私たちを愛して下さっているのです」。

この言葉は、米子さんの心を激しく揺さぶりました。

「キリストは、命を賭けて私を愛してくれている。信じる者に新しい命を与えると言っている。自殺するのはいつでも出来るのだから、キリストが神かどうかは分からないけれど、この人たちの言うことに賭けてみよう」。米子さんはそう思ったそうです。

もしそれが嘘であったなら、嘘と解った時に、今までこっそり溜めていた睡眠薬を飲んで死んだって遅くはないと思いました。

そして、米子さんは、生まれて初めて神様に祈りました。「神様、助けてください。もし、あなたが本当に生きていけと言うのなら、助けてください」、と必死で祈りました。

そうしたら、その晩は久し振りにぐっすり眠れたそうです。

そして翌朝、目が覚めた時に、周りの全てが、それまでとはまったく違って見えたそうです。

全てが本当に明るく輝いて見えたそうです。

同じ指でも、3本しかないと思っていたのが、「わたしにはまだ右手が残っている。その上に、親指と人差し指と中指と、この3本がきちんと揃って残っている。だから鉛筆も持てる」と思えて、嬉しくなったというのです。

これは偶然残った指ではない、神様が残してくれた指だ。私は、たまたま、救急病院の処置が良くて、生き残ったのではない、神様に生かされているのだ。

そう思えるようになったそうです。

まさに、その時、米子さんは分水嶺である主イエスに出会い、分水嶺のあちら側からこちら側に移されたのです。古い人から、新しい人への創造を経験したのです。

米子さんは、今朝の御言葉にある5章17節が大好きで、よくこの御言葉を引用して、語っていました。

「指が3本しかないと落ち込みむのは古い人です。キリストを知ることによって、新しく造られて、指が3本もあると感謝できるようになるのです」。

それでは、そのように新しく造られた人は、どのように生きるべきなのでしょうか。

今朝の箇所の直前にある15節の御言葉は語ります。

『その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分のために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。』

新しくされた人の生き方とは、キリストのために生きる生き方であると、御言葉は教えています。

なぜなら、キリストが、私たちの罪のために、代って死んでくださったからだというのです。

先ほど「古い人」と「新しい人」の間には、キリストが立っておられると申しました。

しかし、もっと正確に言えば、キリストの十字架が立っているのです。

「主イエスの十字架」が私たちを新しくしたのです。

なぜ、主イエスの十字架が私たちを新しくするのでしょうか。18節にその答えが記されています。

それは、主イエスの十字架によって、私たちが神様との和解を得たからです。

神様に敵対していた私たちは、その罪の故に滅ぶべき者でした。しかし、主イエスが十字架で、私たちの罪をすべて背負って、代わって死んでくださったことで、神様との和解を得ることができたのです。

罪なき神の独り子が罪人となり、罪人の私たちが神の子とされた。これを、マルティン・ルターは「喜ばしい交換」と呼びました。

確かに、私たちにとっては、喜ばしい交換です。こんなにうまい話はありません。

しかし、この喜ばしい交換を実現すために、神様が、どれほど大きな犠牲を払われたか。

そのことを思うと、私たちは、単純に「喜ばしい交換」などと喜んでばかりいられなくなります

私たちの「古い人」の身代わりに、キリストは死んでくださった。その大きな犠牲によって、私たちは「新しい人」とされたのです。

そうであるなら、新しくされた人は、自分のためにではなく、自分のために死んでくださった方のために生きるようになる筈ではないか。御言葉は、そのように問いかけています。

続いて御言葉は、新しくされた人の、具体的な生き方を示しています。

18節の後半の御言葉です。『和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました』。同じことが、20節の御言葉では、「キリストの使者の務め」と記されています。

キリストにあって新しい創造を経験した者は、自分のために生きるのではなく、キリストのために生きる者とされる。

その具体的な生き方とは、キリストの使者として、神様と人との和解のために奉仕することなのだ、と御言葉は言っています。

キリストの使者の務めを果たす。それは、「キリストの全権大使」になるということです。

これは、まことに光栄ある努めです。しかし、この世にあって、この務めを果たしていくことは、決して容易なことではありません。大きな困難を伴うものです。

それにも拘らず、私たちをそのような務めへと押し出すものがあります。それは主イエスの愛です。

主イエスの十字架の愛が、全権大使の務めへと私たちを駆り立てるのです。

そしてその時、主は、必ず共にいて支えてくださる、と聖書は約束しています。

主イエスご自身も、私たちが全権大使の務め果たすことを、必要とされておられるのです。

主イエスがこの地上にあって、福音を宣べ伝えられたのは、僅か3年間程度の短い時間であったと見られています。

活動された地域も、極く狭い土地です。パレスチナ全体でも日本の四国程度の広さです。

しかも主イエスの活動の大半は、その狭いパレスチナの、更にその一部のガリラヤ地方に限られていました。

そのように、主イエスの宣教活動は、時間的にも短く、地域的にも狭い範囲に止まっていました。

しかし、主イエスが願われたのは、この世のすべての人が救われて、神の国に招き入れられることでした。では、主イエスは、その願いを途中で諦められたのでしょうか。

そんなことはありません。

主イエスは、諦められたのではなく、その大切な務めを弟子たちに託されたのです。

そして、その務めは、弟子たちから、代々の教会へと引き継がれ、今や、私たち一人ひとりに引き継がれているのです。

ですから、もし、新しく創造された私たちが、主イエスの全権大使としての務めを果たさないなら、主イエスの十字架は無駄になってしまいます。

人々を救いたいと願っておられる、神様のご計画は頓挫してしまいます。

新しく与えられたこの年、私たちは、新しく造り替えられたこの喜びを、主の愛に駆り立てられて、精いっぱい伝えていく者でありたいと心から願わされます。