MENU

過去の礼拝説教

「史上最強の弁護者」

2014年06月08日 聖書:ヨハネによる福音書 16:7~15

「追っかけ」という言葉があります。ある人の熱烈なファン、或いは支持者で、その人を追って、どこにでもついて行く人のことを、「追っかけ」と言います。

私の兄は、ある意味では「追っかけ」でした。兄は、報知新聞というスポーツ紙の、巨人軍担当の記者でしたが、長嶋茂雄さんにすっかり心酔してしまって、仕事だけでなく、私生活でも長嶋さん中心の生活になっていました。

公私ともに、まさに、長嶋さんの「追っかけ」をしていたのです。

人気タレントや歌手を、「追っかけ」ている人もいます。かつて、人気ロック・グループのメンバーの一人が死んだ時に、後追い自殺をしたファンがいました。

「追っかけ」ていた対象が、突然いなくなると、人は一時的にせよ、人生の目標を失ったような、喪失感に襲われ、ひどい時には、生きる力を失うことさえあります。

長嶋茂雄さんが病に倒れた時、私は、長嶋さんより、兄を心配しました。兄が、生きる力を失ってしまわないか、と心配したのです。

主イエスに従っていた弟子たちも、極めて俗っぽく言えば、「主イエスの追っかけ」であった、と言えるかもしれません。

彼らは、主イエスから、「私についてきなさい」、と言われて、全てを捨てて、従っていったのです。

主イエスは、ガリラヤ、ユダヤの町々、村々を巡り歩かれ、神の国の福音を語られました。

泊まる宿もなく、野宿されたことも、しばしばあったと思います。

そんな主イエスに、弟子たちは、どこまでもついて行ったのです。主イエスと、いつも共にいて、身近にお言葉を、聞くことができる。そのことが、何よりも嬉しかったからです。

そういう意味では、究極の「追っかけ」であった、と言えるかもしれません。

主イエスは、ご自身の十字架の死が近づくにつれ、そのような弟子たちのことを、深く心配されました。

ご自分が去られた後、残された弟子たちが、大きな喪失感に襲われ、生きる気力を失ってしまうのではないか、と心配されたのです。

ですから、主イエスは、十字架にかかられる前に、愛する弟子たちに、心を込めて、励ましのお言葉を語られました。

ヨハネによる福音書の、14章から17章までには、主イエスの、弟子たちに対する告別説教と、弟子たちのための、執り成しの祈りが、記されています。

それは、慈しみに満ちた、励ましの言葉で満ちています。

その中で、主イエスは、「私は、あなた方をみなしごにはしておかない」と言われています。あなた方を、みなしごにすることは、決してない。あなた方を、決して一人ぼっちにはしない、と言われたのです。

間もなく、あなた方は、私を、目で見ることはできなくなる。手で触ることもできなくなる。

私の声を、耳で聞くこともできなくなる。

でも、あなた方は、決して一人ではない、というのです。一体、どういう意味で、一人ではないのでしょうか。それは、別の弁護者が、来るからだ、というのです。

主イエスという弁護者が去った後に、父なる神様は、主イエスの名において、別の弁護者を送ってくださるというのです。

だから、あなた方は、一人ではない。そう言われているのです。

今朝の御言葉は、そのことを、更に一歩進めて、語っています。

16章7節では、「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなた方のためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなた方のところに来ないからである」、と語られています。

なんと、主イエスが去ったほうが、弟子たちのためになる、と言われているのです。

これは、弟子たちには、すんなりとは、理解できない、お言葉であった、と思います。

主イエスが、見える形で、ずっと傍に居てくだされば、こんなに心強いことはないと、弟子たちは思っていたと思います。

私たちも、時々、ふと、「弟子たちが羨ましい」、という思いに、駆られるときがあります。

弟子たちは、毎日、間近で、主イエスを見ていた。主イエスのお声を、毎日、直接聞いていた。手で触れることのできる存在として、主イエスと、共に生きていた。

私たちも、そのような経験をすれば、もっと信仰深く生きられるのではないか。

ふと、そう思うことがあります。

しかし、主イエスは、そのような弟子たちの思いに対して、「いやそうではないのだ」、と言われています。

私が死んで、目に見える存在でなくなるのは、あなた方のためなのだ。

なぜなら、私が去った後に、別の弁護者が、あなた方のところに来るからだ。

父なる神様と、私が、あなた方の所に、別の弁護者を送る。

そのほうが、あなた方のためになるのだ。主イエスは、そう言われているのです。

この「別の弁護者」とは、聖霊なる神様のことです。

弁護者という言葉は、他の聖書では「助け主」とか、「慰め主」と訳されています。

元々は、「呼ばれて傍らにいる人」と言う意味の言葉です。

呼ぶと、そばに来てくれて、一緒にいてくれる人、という意味の言葉です。

困ったときに呼べば、そばに来て助けてくれる人。

悩み、悲しむときに呼べば、そばに来て慰めてくれる人。

戦いの中で呼べば、そばに来て一緒に戦ってくれる人。そういう人のことです。

そういう助け主、慰め主として、聖霊が、私たちに送られるのだ、と主イエスは、約束してくださったのです。

そして、その約束の通りに、主イエスが復活されてから、50日目の日曜日に、聖霊が、弟子たちに与えられました。それが、ペンテコステ、聖霊降臨の出来事です。

今朝は、そのペンテコステを、記念するための礼拝を、共に献げています。

では、ペンテコステの日に、与えられた聖霊は、どのように、私たちを、助けてくださるのでしょうか。

聖霊なる神様が、私たちになされる御業。それは、13節で、主イエスが仰っているように、「私たちを導いて、真理をことごとく悟らせてくださる」、ということです。

それでは、真理とは何なのでしょうか。主イエスご自身が、「私は道であり、真理である」、と言われているように、真理とは、主イエスご自身のことです。

14節にあるように、聖霊は、「主イエスのものを受けて、私たちに告げてくださる」お方です。主イエスの御言葉、主イエスの御心、主イエスの愛、それらすべてを受けて、私たちに伝えてくださるお方です。

私たちに、主イエスの御言葉を、悟らせてくださるお方。

主イエスの御業に、気付かせてくださるお方。

主イエスの愛を、喜ばせてくださるお方。

主イエスによる救へと、導き入れてくださるお方。

そして、主イエスによって与えられる、永遠の命に、与らせてくださるお方。

それが、聖霊なる神様です。

13節で、主イエスは語られています。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなた方には理解できない」。

この主イエスのお言葉のように、私たちは、自分の知識や、経験では、主イエスの御言葉も、また、主イエスの御業も理解できません。

人間を、愛の対象として、造ってくださった神様。その神様に背いて、神様との交わりを、自ら断ってしまい、神様と反対の方向を、向き続けている私たち。

造ったものが、意に沿わなければ、それを破棄して、造り直すのが普通です。

でも、この創造主は、ご自身に背き、ご自身に悲しみをもたらしてばかりいる、人間という被造物を、尚も見捨てることができずに、ご自身の命を犠牲にしてまで、人間を救おうとされたのです。

造られたものが、造ってくださったお方に、命をささげるのが普通です。ところが、それが、逆なのです。こんな、天と地が引っくり返るようなことは、私たちの常識に反します。

私たちの常識ではあり得ないことです。

ですから、いくら、主イエスが説明してくださっても、私たちは、自分の頭では、それを理解することはできません。私たちの理解を超えた出来事だからです。

その神様の救いの神秘を、私たちに分からせてくださり、受け入れさせてくださるお方。

それが、聖霊なる神様なのです。

ですから、聖霊なる神様が働かれなければ、私たちは、主イエスによる救いを、自分のものとすることができません。私たちの救いは、完成しないのです。

私たちの救いを、完成してくださる神、それが聖霊なる神様です。

この後、この礼拝において、小林謙太さんが、バプテスマを受けられます。

そのために、何回か、受洗準備会を持ち、日本基督教団の信仰告白を、共に学びました。

その学び中で、恐らく一番難しかったのは、「三位一体の神」をどう捉えるか、という問いだったと思います。

色々と学んだ後で、ある人が語った、こんな言葉を、紹介させていただきました。

「父、子、聖霊の三位一体の神を、極めて単純化して、分かり易く一言で言うと、創造の神、和解の神、完成の神、として捉えられる」。

三位一体の神は、全ての御業において、共に働いておられます。

しかし、父なる神様は、特に、創造の御業において、主たる働きをされ、御子イエス・キリストは、神と人間との和解の御業において、主に働かれ、聖霊の神は、その救いを完成する御業を、主に為されている、というのです。

この、「創造の神、和解の神、完成の神」を、別の角度から捉えて、「上なる神、共なる神、内なる神」、と言い表した言葉もあります。

父なる神様は上なる神、御子は共なる神、聖霊は内なる神である、というのです。

私たち一人一人にとって、内なる神として、働きかけてくださるお方。それが聖霊です。

いつでも、どこでも、私たちの心の奥底に入り込んで、私たちに語り掛け、私たちに主イエスの救いの素晴らしさを、分からせてくださる内なる神。それが聖霊なる神様なのです。

聖霊なる神様は、私たちと、常に一対一の関係を保ってくださるお方です。

私たちと神、ではなく、常に私と神。We と You、ではなく、I と You の関係を、いつも持ってくださるお方なのです。

主イエスが、天に帰られた後、この聖霊なる神様が、私たちの助け主、弁護者として、一人一人の所に来てくださり、共にいてくださるのです。

もし、主イエスが、2千年前に地上に来られて、そのまま未だに、パレスチナの地に生き続けておられる、としたらどうでしょうか。

その主イエスに、直接お目に掛からないと、救いに与れない、ということであるなら、私たちは、それこそ、仕事も、家事も、勉強も、手に着かなくなってしまうのではないでしょうか。

主イエスのおられるところは、主イエスの「追っかけ」で、ごったがえし、人ごみであふれ、戦場のようになってしまうと思います。

はるばる日本からやって来た、私たちなどは、その衣に触れることさえ、できないでしょう。

しかし、肉の体を持った存在としての、主イエスは、天に上られましたが、ご自身に代わって聖霊を送ってくださいました。

それによって、誰のところにも、いつ如何なる時にも、神様は、共にいて下さる道を開いてくださったのです。

聖書は、私たちの弁護者は、永遠に私たちと共にいて下さる、と約束しています。

私たちが死んで、父なる神の裁きの前に立たされるときも、そこに共にいてくださり、そこでも私たちの弁護をしてくださる、と約束しています。

ヨハネの手紙一 2:1~2には、このように書かれています。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」

この御言葉によれば、私たちが、父なる神に裁かれる、その時にも、そこには、私たちを弁護してくださるお方がいる。

しかし、その方は、聖霊ではなく、主イエスご自身である、というのです。

ということは、この地上においては、聖霊が弁護者として、私たちを助け、慰めてくださる。

そして、天の父なる神様の御許には、主イエスがいてくださり、裁きの場においては、主イエスが、弁護者として、傍らに立ってくださるのです。

地上における弁護者、聖霊は、私たちに主イエスのことを教えてくださり、救いへと導いてくださいます。しかし、救われた後も、私たちは、罪を犯し続けてしまいます。

ですから、裁きを恐れざるを得ません。でも、天の父なる神様の御許では、主イエスが、私たちの罪を、執り成してくださるのです。

地上にあっては、聖霊という弁護者、天にあっては、主イエスという弁護者が、私たちを助けてくれるのです。これは、まさに、最強の弁護団です。

私たちは、この最強の弁護団によって、守られているのです。

十数年前にアメリカの全国民の注目を集めた裁判がありました。

プロ・フットボールのスーパースターであったO.J.シンプソンという人が、離婚した元の妻を殺害した容疑で、逮捕されたのです。

物的証拠、状況証拠のいずれもが、シンプソン氏による殺害を、十分に立証しているように見えました。ですから、裁判当初は、多くの人が、シンプソン氏の有罪を、予想しました。

ところが大資産家であるシンプソン氏は、優秀な弁護士を何人も雇い、強力な弁護団を結成しました。弁護団は極めて巧妙に、殺人事件を人種問題にすり替えて、全く予想もしなかった論爭へと陪審員を導き、遂にシンプソン氏を、無罪にする事に成功しました。

判決の後、アメリカの世論は、「今やアメリカにおいては、正義までも、お金で買うことが出来るのか」、と反発しましたが、一旦出た判決は、覆される事はありませんでした。

さて、私たちは、終わりの日に、神様の前に立ち、神様の裁きを受ける事になる、と聖書は記しています。

では皆さん、今、あなたが、裁きの場で、神様の前に、立っていると、想像してみてください。私たちは、神様の御心を知りつつ、それに背いたことが、数限りなくあります。

毎日のように、神様のご意志を知りつつも、それを無視して、反対のことをしています。

神様は、それらすべてをご存知です。その神様の前では、私たちは、無罪を立証する物を、何も持ち合わせていません。申し開きをする術を、全く持たない罪人です。

死刑の判決は、間違いないような状況です。

シンプソン氏のように、如何に有能な弁護士を雇っても、有罪を無罪に変えることは出来ません。全く絶望的な状況です。ところが、絶望する事はない、と聖書は言うのです。

あなたには弁護士がいるではないか、というのです。

でも、その弁護士は一見すると、有能であるようには見えません。

人は良さそうですが、非力であるように見えます。

敵対者から攻撃されても、ただされるがままで、全く抵抗も、反撃もしないのです。

しかし、この弁護士は、私たちの有罪が避けられないと知ると、何と、自分が、私たちの代わりに、有罪になると申し出たのです。

「私の依頼人の罪は、明白であり、死刑は避けられません。しかし、私は、私の依頼人を心から愛しています。だから私が、代わって死刑になります」、と申し出たのです。

被告にとって、これ以上に強力で、素晴らしい弁護士がいるでしょうか。この弁護士こそイエス・キリストです。

しかも、更に驚くことには、このイエス・キリストを、弁護士として雇うのに、お金は要らないのです。シンプソン氏のように、大金持ちである必要はないのです。

ただ、自分の罪を認め、イエス・キリストを私の弁護士とします、と言い表すだけで充分なのです。

ただ、私たちは、この弁護士が、どこにいて、どうすれば会えるのか、分かりません。

私たちの、頭で、いくら考えても、お会いする方法が見つからないのです。

私たちの経験に照らして、探し尋ねても、見当たらないのです。

私たちの知識も、経験も、役に立たないのです。全く、お手上げの状態です。

ところが、ここに、もう一人の弁護士がいるのです。そして、この別の弁護士が、いつでも、喜んでイエス・キリストという、桁外れにお人好しの弁護士の所に、私たちを連れて行ってくれる、というのです。

この別の弁護士が、聖霊なる神様です。

救われ難いような罪人の私たちですが、その私たちには、イエス・キリストという弁護士と、聖霊という弁護士、この二人の最高の弁護士が、与えられているのです。

ですから、私たちは大丈夫なのです。私たちは、この史上最強の弁護団によって、守られているのです。

そのことを、心から感謝して歩む、お互いでありたいと思います。