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過去の礼拝説教

「幸いな人」

2014年01月05日 聖書:詩編 1:1 ~ 6

皆さん、新年おめでとうございます。

新しい年、2014年を迎え、皆様方の上に、主の恵みと祝福がますます豊かにありますように、心からお祈りいたします。

昨年6月の教会総会におきまして、今年度の年間標語聖句として、イザヤ書30章21節の御言葉が与えられました。そして、その御言葉が三橋兄によって素晴らしく揮毫され、聖壇の左側正面に掲げられています。

『あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け/右に行け、左に行け」と。』

私たちにとって最も大切なことは、私たちが「背後から語られる主の御言葉を聞く」ことである。そのように、この御言葉は語っています。

私たちは、よく道を見失います。どちらに行ったらよいか分からず、右往左往します。

そんな時、必死になって自分の知恵や経験に頼むのでなく、まず静まって、主の御言葉を聞くように、と勧めているのです。主の御言葉は、いつも、必ず与えられています。

それは、スピーカーを通して語られるような、大きな声であるとは限りません。

背後から語られる細き御声であることが多いのです。静かな、細き御声であるかもしれません。しかし、主の御言葉は、いつも私たちに与えられています。

聖書の御言葉を通して、主はいつも私たちに語り掛けてくださっています。

新しく与えられたこの年、私たちは、何よりも主の御声を、しっかりと聞き取っていきたいと、願わされます。そのためには、常に聖書の御言葉に親しみ、聖書の御言葉に熱心に聴いていくことが大切です。

先程、読んで頂きました詩編一編2節の御言葉のように、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ」。そのような生活を、目指して行きたいと思います。

この詩編一編は、「幸いな人」とはどのような人か、について語っています。

そして、その第1節は、喜びの叫びから始まっています。

原文では、「幸いだ!」という言葉が、1節の冒頭に置かれています。

150編にも及ぶ膨大な詩編。その詩編は、「幸いだ、このような人は!」という言葉をもって始められているのです。

主イエスも、ご自身の最初の説教である山上の説教を、「幸いだ、心の貧しい人」という言葉をもって、語り始められました。

旧約聖書の中で最も親しまれている詩編と、新約聖書で最も良く知られている山上の説教。そのどちらもが、「幸いだ!」という言葉から語り始められているのです。

神様は、私たちに「あなた方は幸いな者となれ。幸いな者であって欲しい」と語りかけているのです。

ある神学者は、この詩編の冒頭部分を、『アァ、この人のなんという幸い』と訳しました。

『アァ、なんという幸い』。詩人はこのような喜びの叫びをもって、詩編を歌い始めています。

では、この幸いは一体どこから来るのでしょうか。それは、この人が愛し、昼も夜も口ずさんでいる主の教えからくるのだ、と詩人は言っています。

「主の教え」とは、主の御言葉と置き換えても良いと思います。

主の御言葉を愛し、主の御言葉を昼も夜も口ずさむ人。その人は、うらやむほどの幸いに生きることができる。詩人はそのように歌っています。

しかし、この詩編一編が描き出す「幸いな人」のイメージは、世間一般が描く「幸いな人」のイメージとは、少し違っているように思われます。

スイスの有名な心理学者のユングという人は、「幸せになるための条件は何ですか」と訊かれて次のように答えています。

「1番目に健康、2番目に自分がこれでいいと思うぐらいのお金、3番目は人間関係、4番目に美しいものが解る能力、5番目に朝起きた時、しなくてはいけないことを持っていること、6番目は人生の障害にぶつかった時、それを解決できる能力」。

なかなか面白い答えだと思います。

一番目の健康と、二番目のお金は、常識的に人々が願うものです。

しかし、3番目以下は、心理学者らしい、精神面を考えた答えとなっています。

しかし、これだけで本当に人間は幸福でしょうか。

「これだけで本当に人間は幸せか」。これは、時代を超えて人間が問い続けてきた、「古くて新しい問い」です。

お金が幸せを保証すると考える人は多いと思います。

勿論、生活をしていく上で必要なお金が与えられる、ということは大切なことです。

ですから、私は、そのことを否定したり、軽んじたりする積もりはありません。

しかし問題は、「それだけで本当に人間は幸せだろうか」、ということなのです。

ある人は、お金の代わりに、と言いますか、お金に加えて、名誉とか、地位とか、学歴とか、権力とか、さまざまなものに幸せの根拠を置いています。

そのようなことを考えながら、先程の、二節の「主の教え」という言葉を、他の言葉に置き換えてみたいと思います。果たして、どうなるでしょうか。

まず、「主の教え」と「お金」を入れ替えてみましょう。

「アァ、何と言う幸い。お金を愛し、お金、お金と昼も夜も口ずさむ人」。

どうでしょうか、幸せそうな人のイメージは浮かびましたでしょうか。

ちょっと違うような気がしますね。

では、名誉では如何でしょうか。「アァ、何と言う幸い。名誉を愛し、名誉、名誉と昼も夜も口ずさむ人」。やはり、ピンと来ませんね。

それでは、学歴はどうでしょうか。「アァ、何という幸い。学歴を愛し、学歴、学歴と昼も夜も口ずさむ人」。どれも、あまり幸せそうな人のイメージは浮かんできません。

では幸せを得るために、私たちが追い求めるものは何なのでしょうか。

1節では、幸いを得るために、してはいけないことが、先ず書かれています。

『神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず』。

「神に逆らう者」、「罪ある者」、「傲慢な者」。これらは、神様に対して正しく生きようとしない人です。これらの人を、サタンに置き換えてみますと、意味が一層明らかになります。

置き換えて読んでみますと、『サタンの計らいに従って歩まず、サタンの道にとどまらず、サタンと共に座らず』、となります。

サタンの目的は、人を神様から引き離すことです。そして、そのために為すサタンの誘いは極めて巧妙です。

御言葉は、「歩まず」、「とどまらず」、「座らず」、という三つの言葉をもってサタンの手口を警告しています。

最初の「歩む」という言葉は、ふとした一時的な交わりを暗示する言葉です。たまたま道で出会って、歩きながら短い話をする、というような、ごく短時間の交わりです。

次の「とどまる」という言葉は、歩きながらではなくて、立ち止まって、暫くの間、交わりに没頭する状態を示しています。

そして、最後の「共に座る」という言葉は、立ち話ではなく、どっかりと座り込んでの交わり。つまり、完全に馴染んでいる状態を表しています。

他の聖書の箇所では、この「共に座る」と訳された言葉は、「暮らす」と訳されています。

つまり、一つの場所に定住して暮らすほどに、どっしりと腰を落ち着けて、神様に逆らう生活に浸ってしまっている状態を示しています。

サタンは巧妙な誘いによって、人間を知らない内に罪の道に段々と深入りさせていきます。

救世軍の山室軍平中将は、そのことを興味深い譬え話をもって警告しています。

「らくだがアラビヤ人の天幕を覗いて、前足を一本中にいれさせろと言う。一本だけなら良かろうとそれに同意すると、更に一本、また一本と、遂にはその大きな体を全部天幕の中に入れて、主人のアラビヤ人は外に押し出されてしまった」という譬えです。

サタンは、言葉巧みに人の心に侵入し、その心を占領してしまう術を心得ています。

ですから、大切なのは、その初めをしっかりと防ぐことなのです。

2節で御言葉は、幸いを得るためになすべきことを語っています。

『主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ』。

これが、幸いを得るために為すべきことだと言っています。

聖書が言う「幸いな人」は、主の教えを愛する人です。御言葉を愛する人です。

ここにある「愛する」という言葉は、元々は「喜んで求める」とか「それにかかりっきりになる」という意味です。

御言葉に夢中になっている。御言葉にかかりっきりになっている。もう心の全部が御言葉によって占領されてしまっている。そのような人の事です。

英国のある大学に、いつも笑顔を絶やさず、温厚そのもののような一人の教授がいました。

ある時、学生が「先生には悩みは無いのですか」と尋ねたところ、その教授は「とんでもありません。私は弱い罪人です」と答えました。

「では、どうしていつもそんなに笑顔でいられるのですか」と、学生が更に質問すると、その教授はいつもの笑顔でこう答えました。

「私は誘惑に会った時には、いつも『もう満員です』と言っています。するとサタンは入ってこられないのです」。 この教授の心は、御言葉でいつも満員だったのです。

ですから、先ほどの譬え話のように、サタンというらくだが、足を一本だけちょっと入れさせてくれと言って来ても、「もう満員なのです」と言って断ることが出来たのです。

他のものが入り込む隙が無いほどに、御言葉を愛し、御言葉にかかりっきりになる。

そのような人は、主の教えを昼も夜も口ずさみます。

ここで「口ずさむ」と訳された言葉ですが、面白いことに、この言葉は、元々は、ライオンがゴロゴロと喉を鳴らして吼える様子や、鳩がグルッ、グルッ、グルッと鳴くことを表す言葉です。

美味しい獲物の上で満ち足りて喉を鳴らすライオンのように、また愛する者を求めてしきりに喉を鳴らす鳩のように、御言葉を味わい、御言葉を慕い求める。

そのような人の姿がこの言葉から浮かび上がってきます。

クリーニング会社の白洋舎を創立した五十嵐健治さんは、一日に一章ずつ聖書を読む「一章会」という会の提唱者で、熱心に聖書に親しんだ方です。

五十嵐さんが「一章会」を提唱した、その動機となったのは、一枚の写真でした。

それは、一人の人が舌で聖書をなめている写真でした。別に、聖書の上に何かをこぼしたので、なめていたわけではありません。

その人は、マック・ファーソンというアメリカ人で、炭鉱夫でした。ある時、ダイナマイトが爆発して、彼は両手・両足を失い、目も失明してしまいました。

胴体だけが残って、辛うじて生き残ったのですが、彼は、そのことを通して信仰に目覚め、どうしても聖書を読みたいと願ったそうです。

しかし、失明しているし、その上、両手が無いので点字も読めません。

それで、点字を舌で読む練習をして、とうとう聖書を読めるようになったということです。

文字通り、聖書を一字一句、舌で味わいつつ読んだのです。

その姿に感動した五十嵐さんは、それからは彼に見習って聖書を読み、御言葉に従って生きていこうと決心したそうです。

翻って、私たちはどうでしょうか。私たちは、どれ程深く、御言葉を味わっているでしょうか。

どれ程の飢え渇きをもって、御言葉を慕い求めているでしょうか。

飛び切りのご馳走を味わうにもまさる喜びをもって、御言葉を味わっている人。

愛する人を慕い求める以上に、御言葉を慕い求めている人。

そのような人こそ「幸いな人」なのだ、と詩人は語っています。

そして、そのような人は、緑の葉を茂らせ、豊かな実を結ぶ木のように、大きな恵みを得るのだ、と御言葉は約束しているのです。

たとえ荒れ野にあっても、或いは日照りの中でも、御言葉を愛する信仰者という木は、枯れることはありません。なぜなら、その木は、流れのほとりに植えられているからです。

御言葉という、尽きることのない恵みの泉に、深く根を張って生きているので、枯れることがないのです。そして、やがて、時が来ると、神様の栄光という、豊かな実を結ぶのです。

神様に逆らう者は、そうではありません。籾殻のように、外側は膨らんでいて、一見豊かそうに見えますが、中身が空っぽなので、風が来れば、吹き飛ばされてしまうのです。

この御言葉は、私たちキリスト者に、大きな勇気と希望を与えてくれます。

しかし、こう申し上げますと、「そう何もかも上手くいくならまことに結構だが、人生はそんなに甘いものではない」、と仰る方がおられるかもしれません。

確かに、私たちキリスト者が、この世にあって、御言葉を愛し、御言葉に従って生きていくということは、そんなに容易い事ではありません。

御言葉を愛する人生は、いつも順風満帆で、何をしても上手くいく、というような安易ものではありません。

この世にあって、御言葉を真剣に生きていく時、そこには激しい戦いがあります。

聖書の中には、御言葉に従うことに困難を覚えつつも、なお、その戦いを戦い抜いた人達の話がたくさん出てきます。

例えば、マリアです。「聖霊によって身ごもる」という、主の御使いの言葉を聞いた時、マリアは戸惑いました。

婚約者ヨセフの子ではない子を身ごもるということは、当時のユダヤ社会でどんなに大きな困難を招くかを、マリアはよく知っていました。

ですからマリアは、「どうしてそんなことがありえましょうか」、と反論したのです。

しかし、マリアは、戸惑いつつも、「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と、主の御言葉に従いました。その結果、救い主の母として、「その後、いつの世の人からも『幸いな人』と言われる」恵みに与ったのです。

主の御言葉を愛し、主の御言葉に従って歩むということは、決して安易なことではありません。昼も夜も御言葉を口ずさむとは、喜びの中で思わず御言葉が口に上る、という場合だけではないと思います。困難な中での、必死の叫びであることもあると思います。

チイロバ牧師と言われた榎本保郎先生は、この「昼も夜も」という言葉は、「明るい時も暗い時も」あるいは「楽しい時も苦しい時も」、と受け取ることが出来るのではないか、と言っておられます。

楽しい時も、苦しい時も、絶えず御言葉を口ずさみ、命懸けで御言葉を生き抜かれた、榎本先生らしい解釈だと思わされます。

6節では、神様に逆らう生き方は、滅びに至る道であると語られています。

それに対して、主は、神に従う人の道を知っていてくださる、と書かれています。御言葉を愛する人は、常に主によって覚えられており、その歩みは常に主と共にある、というのです。

滅びに至る人生と、主に覚えられ、主と共に生きる人生。

6節には、まことに対照的な、二つの生き方が示されています。

ジョークが大好きなある牧師が、この二つの生き方を「天国の三位一体」の生き方と、「地獄の三位一体」の生き方、と言って対比しています。

天国の三位一体。それは「恵み、憐れみ、慈しみ」、に生きる生き方だというのです。

地獄の三位一体。それは「恨み、妬み、憎しみ」、だそうです。

因みに、柏の三位一体をご紹介しますと、「ゆるみ、たるみ、むくみ」です。

「恵み、憐れみ、慈しみ」の三位一体に生きるか、それとも「恨み、妬み、憎しみ」の三位一体に生きるか。その差はとてつもなく大きいのですが、そのスタートは、ほんの僅かの差です。主の御言葉を喜ぶか、それともそれを退けるか。それだけの差なのです。

この年もまた色々なことがあるでしょう。悲しみや、苦しみに心暗くなることもあるかも知れません。

しかし、主の御言葉を愛し、昼も夜も御言葉を口ずさんでいるならば、時が来れば必ず主は、悲しみを喜びに、苦しみを希望に変えてくださいます。

ですから、愛する者を慕い求める鳩のように、御言葉を慕い求めましょう。

美味しい獲物の上で喉を鳴らすライオンのように、御言葉を深く味わい、御言葉に満ち足りましょう。

この後、今年最初の聖餐式に、共に与ります。聖餐式は、目に見える形の御言葉を味わう時です。御言葉の恵みを、実際に味わい、御言葉の恵みに、心身ともに満たされる時です。

その聖餐式において、そしてまた、信仰の歩みのすべての場面において、私たちは、この詩人のように「アァ、何と言う幸い」と、心から叫ぶことを許されているのです。

愛する茅ヶ崎恵泉教会の兄弟姉妹、新しく与えられた2014年。

私たちは、この年、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ」。そのような信仰の歩みを、共に歩んで行こうではありませんか。

そして、「アァ、何という幸い」、と思わず口にするような喜びを、御言葉から与えられていこうではありませんか。

『いかに幸いなことか。主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人』