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過去の礼拝説教

「慕わしき神の家」

2014年03月16日 聖書:詩編 84:1~13

今朝はご一緒に、詩編の御言葉に聴いてまいりたいと思います。

昔から詩編は多くの人に愛され、多くの人の口に歌われてきました。なぜ詩編はこれほど多くの人に愛されてきたのでしょうか。

詩編が愛される理由。それは、詩編が、人生の様々な困難の只中で、苦しみ悩む人間の姿を、ありのままに映し出しているからです。

そして、その苦しみが、やがて賛美へと繋がる希望を、指し示しているからです。

北森嘉蔵という神学者は、「詩編は、人生のいかなる場面にも『間に合う』書物だ」、と言っています。

「間に合う書物」という言葉は、ちょっと分かりにくいですが、「詩編は、人生のどんな時にも『出番を持っている』書物である」、と言い換えても良いと思います。

苦しみや、悲しみの只中でも、詩編は私たちの心に「間に合う」、ピタッとフィットする書物です。人生のすべての局面で、詩編は出番を持っています。

深い孤独に悩む時にも、或いは、耐え難い苦しみの中で、祈る事も出来ないような時にも、詩編を読む時、私たちは決して一人ではありません。

同じように悩み、苦しんだ詩人が、先輩として私たちに語り掛けてくれます。

「私は、お前よりも前に、もっと悩み、もっと苦しんだのだよ」、と言ってくれるのです。

或いは、誘惑に負けて主を裏切り、どうしようもない自己嫌悪に陥った時にも、詩編の中には、同じような経験をした先輩がいて、涙ながらの悔い改めの詩を歌っています。

また、主の恵みに迫られて、大声で賛美したいと思った時も、高らかに主を賛美し、ハレルヤ!と叫んでいる詩人と、私たちは詩編の中で出会うことが出来ます。

詩編は頭だけで考えた詩ではありません。現実の生活の只中における、神様との活きた交わりを、ありのままに歌った詩なのです。

だからこそ、三千年近い時を経ても、現在の私たちに「間に合う」書物として、慰めや、励ましを与えてくれるのです。

150編からなる詩編。今朝は、その中から、84編の御言葉に、ご一緒に聴いてまいります。

この84編は、エルサレム神殿での礼拝を、心から慕い求める、巡礼者の詩です。

1節に、「指揮者によって。ギティトに合わせて。コラの子の詩。賛歌」、と書かれています。

ギティトというのは、当時、神殿の聖歌隊が歌う時に、伴奏として用いられていた、弦楽器の一種ではないか、と考えられています。

「コラの子」という、面白い響きの言葉が出てきます。「コラ」というのは、レビ族に属する人の名前、つまり固有名詞です。

「子」と書かれていますが、これは「子ども」というよりは、子孫と言った方が良いと思います。「コラ家の子孫たち」という意味です。

この詩は、「コラ家の子孫たち」が、神殿で、聖歌隊の指揮者の指導の下に、ギティトの音色に合わせて、歌った詩である、というのです。

コラ家の子孫たちは、エルサレム神殿の門衛として、或いは聖歌隊員として、いつも神殿にいて、奉仕をしていたようです。

彼らの先祖の「コラ」という人は、民数記の16章に出てきます。しかし、立派な信仰者としてではなく、神様の使者であるモーセに反逆した、罪人として登場しています。

イスラエルの民が、モーセに率いられてエジプトを出て、荒野を旅していた時のことです。

コラ、ダダン、アビラムという、モーセと同じレビ族の指導者たちが、徒党を組んでモーセに反逆しました。モーセに代わって、自分たちが指導者になろうとしたのです。

窮地に陥ったモーセは、神様に祈りました。すると、神様はこう言われました。

「モーセよ。明日、神に反逆するコラ、ダダン、アビラムたちを、皆、会見の幕屋の前に集めて、私がそこに現れるまで待たせなさい」。

翌日、コラ、ダダン、アビラムたちは、天幕の前に集まってきました。

彼らが集まった途端に、天から火が降り、大地震が起きて、地が割れて、コラ、ダダン、アビラムらが、生きたまま地の底に飲み込まれていってしまったのです。

この時、コラの部族の一部の人々は、悔い改めて、主に立ち返り、辛うじて助かりました。

そのようにして、滅びから免れた人たちが、後に、神様から聖別されて、神殿聖歌隊として用いられるようになったのです。

ですから、コラ家の子孫たちは、「自分たちは、本来滅ぶべき者であったのに、神様の憐れみによって救われた者なのだ。そればかりか、神様に聖別されて、神殿において主を賛美するという、尊い務めまで与えられた。何という感謝なことか」。このような大きな喜びをもって、賛美を献げたのです。

これは、私たちの姿でもあります。私たちも、本来は、滅ぶべき罪人でした。

しかし、主イエスの十字架の贖いによって、罪赦され、聖別されて、主を賛美することを赦されている者です。

ですから、私たちも、礼拝において、コラの子たちと同じように、心からの感謝と喜びをもって、賛美を献げる者でありたいと願います。

コラ家の子孫たちは、巡礼者たちの、神殿礼拝に対する熱い思いに、自分たちの心を重ね合わせて、この詩を詠っています。

2節です。「万軍の主よ、あなたのいますところは/どれほど愛されていることでしょう」。

神様の住まわれる場所と信じられていた、エルサレム神殿。その神殿を愛する熱い思いが、力強い歌声となって、巡礼者の口から、ほとばしり出ています。

ここにある、「愛されている」という言葉の、原語のヘブライ語は、「麗しい」とも訳すことができる言葉です。

ですから、以前の口語訳聖書では、「いかに麗しいことでしょう」、と訳されていました。

美しさにも色々あります。愛すべき美しさ、心惹かれる美しさ、大好きと叫ぶ程の美しさ。

そういう美しさを、神殿が見せている。そのように、この詩は詠っています。

この茅ケ崎恵泉教会の会堂は、決して豪華絢爛で、近寄りがたい壮麗さに満ちている、という訳ではありません。

しかし、私たちにとっては、愛すべき美しさ、心惹かれる美しさ、大好きと叫ぶ程の美しさを、見せてくれている筈です。

苦しみの時、悩みの時に、私たちがいつも想い起す、麗しき神の家である筈です。

この詩を詠んだ巡礼者は、神様を礼拝できる幸いを、何物にも替え難い、最も尊い贈り物であると捉えています。

礼拝において、愛する主を賛美する喜びが、どれほど大きなものであるか、主よ、あなたご自身が、よくご存じです、と言っているのです。

果たして私たちはどうでしょうか。私たちは、この会堂を、この巡礼者のような、愛と喜びをもって、見上げているでしょうか。

礼拝に加わることができる幸いを、この巡礼者のように、何物にも替え難い尊い贈り物として、感謝しているでしょうか。

先日、礼拝の前に、あるご婦人とお話しさせていただきました。そのご婦人は、その日の礼拝に来られたことが、嬉しくて嬉しくて堪らない、といったお顔をされていました。

なぜ、そんなに嬉しく思われたのでしょうか。お話を聞いて、納得しました。

そのご婦人は、2月の初めに風邪を引かれて、礼拝を欠席せざるを得なかったそうです。

やっと風邪が治って、さぁ、礼拝に行こうと思ったら、今度は大雪のため、2週続けて、礼拝に行くことができなかった。結局、3週間も、礼拝を休まざるを得なかったそうです。

そうしましたら、心だけではなく、体全体が、何か重く、憂鬱な気分に襲われて、何をするにも力が出なくなってしまったそうです。

「礼拝が、私の心だけでなく、体全体をも、支えていたことが良く分かりました」、とそのご婦人は語っておられました。

礼拝における、神様との生きた交わりは、心だけでなく、体をも活き活きと生かすのです。

そのことを詠っているのが3節です。

「主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます」。

とても心に迫る言葉です。特に、「絶え入る」、と訳されている言葉は、大変美しい日本語だと思います。

神殿を恋い慕う思いが、あまりにも強いため、巡礼者は、あたかも気力が吸い取られていくかのように感じているのです。

「絶え入りそうです」、という言葉を、「疲れ果てた」とか、「やつれ果てた」と訳している聖書もあります。礼拝したい、という思いが募って、もうやつれ果てるほどだ、というのです。

もう本当に、絶え入ってしまうほどに、自分の存在のすべてが、そこに消え入ってしまうほどに、神様の前に出たいのです。生きておられる神様を、礼拝したいのです。

続いて、「命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます」、と詠われています。

この詩編84編を、こよなく愛した宗教改革者のマルティン・ルターは、この詩を、自分の言葉で言い換えて詠っています。

この3節後半は、「今、生きておられる神の中にあって、私の肉体も魂も喜びにあふれる」、と言い換えています。

「あぁ、今、私は、生きておられる神様の御手の中にある。こんな素晴らしいことはない」。

3節後半の言葉は、そのような喜びの叫びである、とルターは捉えているのです。

心だけでなく、私の体も、つまり私の全存在をあげて、命の神を慕って、叫びを上げている、というのです。

心だけでなく、体も慕うというのですから、どうしても神様のおられる所、教会に行こうということになるのです。

百歳を超えておられる中村正義さんや、武信正子さんが、力の続く限り、礼拝に出席されようとしておられるのは、このような思いに迫られておられるからではないかと思います。

武信さんは、礼拝に来られるたびに、満面の笑みを浮かべながら、「幸せです。イエス様にお会いできて」、と仰います。

主にお会いできることが、何よりも幸せです、と仰るのです。

一般に、日本のキリスト者には、この思いが足らないのではないか、と思わされます。

神様とのお付き合いは、心だけ、或いは頭だけだと思っているところがあります。

心だけ、頭だけの信仰で、身についていないため、心は慕っても、体は動かないことが多いのではないかと思うのです。

この巡礼者のように、そして中村さんや武信さんのように、心だけでなく、全身が、思わず叫び出すような、活き活きとした信仰に生きていきたい、と願わされます。

4節の御言葉は、こう詠っています。「あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り/つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ」。

ルターは、4節を、このように言い換えています。

「あなたの祭壇、あなたを礼拝する場所に、鳥は、つまり私は、自分の巣を見つけました。

いえ、私だけではありません。あなたを信じる者であるなら、誰であっても、あなたの傍らに自分の巣を、自分の家を見つけるのです。

ここにこそ、私は住むことができる。なぜかというと、そこに、私は、私自身を見つけたからです」。

ルターは、この4節から、このような思いに導かれているのです。

主の前にひざまずき、主を礼拝する時、私は、自分の巣、自分本来の居場所にいる。

そして、その時、私は、本当の私を見つけることができるのだ、と言っているのです。

私たちは、若い人たちに、「自分探しをしなさい」、とよく勧めます。

若い時に、本当の自分を探し当てることが、決定的に大切ですよ、と言います。

自分探しができないままでいると、将来、どこへ進むべきか分からずに、右往左往します。

そして、自分はこれで良いのだろうか、と不安に襲われます。

ですから、自分探しは大事なのです。しかし、どこで、本当の自分が見つかるのでしょうか。

どこで、自分を探し当てて、平安を得ることができるのでしょうか。

古代教会の優れた指導者であった、聖アウグスティヌスが語った有名な言葉があります。

「主よ、あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。

ですから、私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」。

アウグスティヌスは、私たちが、本当の自分を探し当てて、平安を得られるのは、神様の御前で憩う時だ、と言っています。

言い換えれば、生ける神様に向かって、礼拝を献げている時である、というのです。本当の自分に出会うために、決定的に大切なこと。それは、本当の神様に出会うことなのです。

私たち一人一人を、掛け替えのない愛の対象として造ってくださった神様。その神様の前にひざまずき、神様を礼拝する時、私たちは、自分が何者であるかが分かります。

そして、自分の巣、つまり自分のいるべき場所を見出すことができます。

私たちが、本当の自分を見出し、平安を与えられる場所。それは、生ける神様の御前です。

言い換えれば、それは、ここ、教会です。

教会において、造り主である神様を礼拝する時、私たちは、鳥が巣に憩うような平安を与えられます。

そしてその時、本来の自分の居場所にいる、本来の自分を見つけることができるのです。

5節、6節は、そのように、神様の御許に安らぐことができる者の幸いを、高らかに歌い上げています。

そのような者は、いつも心に広い道を見ている、と詠われています。

それは、永遠の命に至る、命の大道です。私たちは、その命の大道を、愛する教会の仲間たちと共に、手を取り合い、励まし合って、歩んで行くのです。

7節には、「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう」、と詠われています。

巡礼者の旅は、嘆きの谷と呼ばれるような、渇いた荒れ野をも通らなければなりませんでした。そこには、多くの困難や危険がありました。

しかし、慕わしき神の家を目指す巡礼者たちの信仰は、それらの困難をも克服し、嘆きの谷さえも、泉の湧くところへと変える、というのです。

これは比喩ですから、実際に、泉が湧き出る訳ではないと思います。信仰を持ったからと言って、困難や危険が無くなる訳ではありません。むしろ、増えるかもしれません。

しかし、共にいてくださる神様は、苦難を喜びに、嘆きを歓声に変えてくださるのです。

旅に疲れ、人間の力が尽きようとする、まさにその時、神様の力が働くのです。

松尾芭蕉の弟子の河合曽良が詠んだ句に、「行き行きて 倒れ伏すとも 萩の原」、という句がります。

奥の細道の旅の途中で、病気にかかり、芭蕉の足手まといになることを恐れた、曽良が詠んだ句です。

これから、師匠と別れて、一人で帰らなくてはいけない。途中で、行き倒れになってしまうかもしれない。でも倒れたところに、大好きな萩の花が咲いているなら、思い残すことはない、という意味の句です。

信仰者の歩む道は、厳しい道かもしれません。途中で倒れるようなことがあるかもしれません。しかし、その時にも、主は、必ずそこに共にいてくださいます。

萩の花は、立ち上がるまでの力を与えてはくれません。しかし、主の恵み、主の愛は、倒れた者を、再び立ち上がらせ、歩みだす力を与えてくれます。

嘆きの谷さえも、泉の湧くところへと変える、というのは、そういうことだと思います。

私たちにとっては、「行き行きて 倒れ伏すとも イエスの愛」、なのです。

もう、詩編84編を、最後まで読んでいく時間はありません。

しかし、どうしても読みたい言葉が11節にあります。 「あなたの庭で過ごす一日は、千日にまさる恵みです」。

巡礼者にとっては、神の大庭で過ごす1日は、神に逆らう者たちの所で、無為に過ごす千日よりも、遥かに幸いだ、というのです。

不信仰な者の天幕に住んで、たとえ繁栄して、生き長らえたとしても、それは、過ぎ去る喜びでしかない。

それよりは、貧しくとも、たとえ門衛であっても、神の家の門口に立って、神をほめたたえて生きるほうが、はるかに幸せだ、と巡礼者は言っているのです。

ある人が、「神のない幸福ほど不幸なことはない」、と言っていますが、ここで巡礼者が言っていることも同じです。

神なき繁栄よりも、神と共にある貧しさの方が、幸いだと言っているのです。

「あなたの庭で過ごす一日は、よそで過ごす千日にもまさる恵みです」。

一日が、千日、約三年にもまさるというのです。常識ではあり得ないことです。

しかし、このような告白を、実感として持つということが、信仰ではないでしょうか。

礼拝における恵みを携えて、私たちはまた、それぞれ遣わされた場所へと戻っていきます。

礼拝の時間は、僅か一時間余りです。その後の1週間の、この世における他の時間に比べれば、千日と一日ほどの差があります。しかし、その短い時間に与えられた幸いは、それ以外のすべての時間にまさる恵みである筈です。

そのような素晴らしい恵みに満ちた礼拝を、魂が絶え入るほどに、慕い求めていくお互いでありたいと切に願います。