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過去の礼拝説教

「見える未来か、見えざる未来か」

2014年02月02日 聖書:創世記 22:1~14

先程読んでいただきました創世記22章は、アブラハムという一人の信仰者を、神様が試みられる物語です。

神様はアブラハムに、最愛の息子イサクを、「焼き尽くすいけにえ」として献げなさい、と命じられました。「焼き尽くす」ということは、完全な死を意味します。

愛する息子を、自分の手で殺しなさい、というのです。

1節に書かれているように、神様はここで、アブラハムを試されておられます。

聖書を読んでいる私たちには、物語の最初に、そのことが知らされます。

ちょうど、推理小説の結末を先に知らされるように、神様の御心は、アブラハムを試みることにあるのだ、という事を最初に知らされています。

神様は決して、本気で、このような無茶苦茶なこと命じておられるのではない。

そのことを知らされていますから、私たちは、この物語の残酷さに耐えられます。

しかし、アブラハムは、そのことを全く知りません。

ですから、アブラハムにとっては、この神様の命令は、途方もなく残酷で、矛盾に満ちたものでした。どう理解したらよいのか、全く分からない命令でした。

昔から、この物語は、アブラハムが見事に神様の試験にパスした、信仰の輝かしい成功物語として語り継がれてきました。

キリスト教においても、ユダヤ教においても、そしてイスラム教においても、アブラハムは、この物語の故に、信仰の父と呼ばれ、私たちの信仰の模範とされてきました。

しかし、私たちは、そんなに簡単に、「めでたし、めでたし」と言って、この物語を聞くことが出来るでしょうか。神様の命令だからと言って、自分の子供を殺そうとする男の物語を、信仰の成功物語として、そのまま素直に受け取ることが出来るでしょうか。

この物語は、私たちが毎日生きている信仰生活から見れば、あまりにも非現実的です。

あまりにも、私たちの日常から、かけ離れています。

考えてみてください。もし、あなたの傍に、信仰の熱心さの故に、息子を殺そうとした人がいたとしたら、あなたはどうするでしょうか。

立派な信仰者だ、として称賛するでしょうか。それとも、必死になって、止めさせようとするでしょうか。

もし、そのことが、マスコミに知られたとしたら、どんなニュースとして流されるでしょうか。

「宗教的熱狂者による息子殺人未遂事件」。恐らく、そのように報じられるでしょう。

それよりも、もし、あなたご自身が、このような命令を神様から与えられたとしたら、どのように応答するでしょうか。2節の「あなたの愛する息子イサク」という言葉を、ご自分の息子や娘の名前に置き換えて読んでみた時、あなたはどのように応答するでしょうか。

そう考えると、この物語は、偉大な信仰者の成功物語どころか、とんでもない非人道的な物語だと思えてきてしまいます。

では私たちは、一体この物語から、何を聴いていけば良いのでしょうか。

この物語は、今から4千年も前の物語で、現代の私たちの信仰生活に、そのまま適用することは出来ない。ここに書かれたアブラハムの信仰は、私たちが到達することのできない努力目標なのだ。そのように捉えてしまえば、話は簡単です。

しかし、聖書は、この物語は古代の出来事だから、今のあなた方には直接関係ない話である、などとは一言も言っていません。

聖書は、いつも、今、ここに生きている私たちに、生きた言葉として語りかけて来ます。

それぞれ生きた時代は異なります。しかし、アブラハムと私たちは、決して異なった人間ではありません。 アブラハムも、私たちと同じように、弱さや、欠けを持った人間です。

同じように、子供を愛し、子供に夢を託していた人間です。

では、そのアブラハムが、どうしてあのような行動を取ることが出来たのでしょうか。

これから、アブラハムの心の奥底にある思いを、ご一緒に探っていきたいと思います。

アブラハムにイサクが与えられたのは、アブラハムが百歳の時でした。

年老いて、もう諦めていた時に、一方的な恵みとして与えられた子でした。

アブラハムにとっては、待ちに待った跡取り息子です。アブラハムの未来は、すべてこのイサクに託されていました。しかし、神様が与えてくださったその未来を、今度は、自らの手で断ち切れ、と命令されたのです。

この22章は、アブラハム物語の初めである12章1節以下と対応しています。

12章は、神様がアブラハムに直接語られた最初の箇所です。そして、22章は、最後に、神様が、アブラハムと直接語られた箇所です。

12章の初めで、神様はアブラハムに、ハランの地における、過去を絶つために「行きなさい」、と命じられています。

そして、ここでは、イサクという、未来を絶つために「行きなさい」、と命じられているのです。

それを聞いたアブラハムは、どうしたでしょうか。聖書は、次の朝早く、アブラハムは、息子を献げる準備を整えて出発した、と記しています。

もし、私たちが、そんなことを命じられたら、どうするでしょうか。

普通に考えられる、第一の反応は、「いやです」と答えることです。いくら神様の御命令でも、こればかりは従えません、と拒否することです。

第二の反応は、「あれは、空耳だった。神様の声ではなかった」と言って、自分をごまかすことです。

そして、第三の反応は、「そんなことを要求する神様なら、そんな神様なんか要らない」と言って、神様を切り捨てることです。

しかし、この時アブラハムは、そのいずれも選ばなかったのです。

では、アブラハムは何をしたのでしょうか。アブラハムは、苦しんだのです。悩んだのです。激しく苦悩したのです。

この物語は、アブラハムの信仰の、輝かしい成功物語ではなく、苦悩に満ちた信仰の戦いの物語なのです。アブラハムは、ひたすら苦悩しました。

宗教改革者のルターは、こう言っています。「アブラハムは真っ青になった。彼は、息子を失うばかりではない。神までが嘘つきに思えたのである。神は『あなたの子孫はイサクによって伝えられる』と言われた。ところが、今度は『イサクを殺せ』と言われるのだ。そんな残酷な、矛盾している神を、誰が憎まないでいられるだろうか」。

アブラハムが、朝早く出発したのは、きっぱりと起き上がって、決然として出発した、ということではないと思います。 きっと、アブラハムは眠れなかったのです。

苦しみ、悩み、まんじりともせずに夜を過ごしたのです。そして、眠れないままに、夜が明けると、深い苦悩を胸に秘めて、アブラハムは、出発しました。

モリヤの地まで、三日間。その間、アブラハムは、沈黙しています。恐らく、語る言葉を持っていなかったのだと思います。

この沈黙は、アブラハムの足取りが、どれほど重いものであったか、を示しています。

実際、この物語の中で、アブラハムは、誰にも相談していません。妻のサラにも、勿論イサク本人にも、そして旅に同行した二人の若者にも、一言も相談していません。

誰にも相談できなかったのです。アブラハムは、三日間、たった一人で苦悩し続けます。

そして、その三日の間、アブラハムは、今までの自分の歩みを、一つ一つ想い起こしていたに違いありません。

ハランの地を旅立ってから今まで、神様は、変わることのない愛と真実をもって、自分を導いてくださった。

自分は、何度も神様を裏切ったけれども、神様が自分を裏切ったことは一度もなかった。

神様の命令を無視して、勝手にエジプトに渡って、挙句の果ては、自分の身を守るために、妻のサラを妹と偽ったことがあった。しかし、あの時も、神様は、自分の犯した罪を赦してくださり、却って恵みをもって、それに報いてくださった。そんなことが、何度もあった。

また、甥のロトが戦争に巻き込まれた時も、僅かな手勢で敵の大軍を打ち破り、ロトを救出することができた。あれは、神様の恵み以外の何物でもなかった。

そして最後に、人間的には全く望み得ない年齢になっていたにも拘らず、約束されして、イサクを与えてくださった。

今、自分は、多くの家畜と、多くの僕を有する遊牧民の長として、こんなに恵まれている。

これらすべては、神様からの一方的な恵みによるものだ。

もし、神様の祝福がなかったなら、一体自分はどうなっていただろうか。

そのように、今まで、神様から頂いた恵みと祝福を、一つ一つ想い起こしていたと思います。ところが、今、すべての恵みの源である、その神様が、事もあろうに約束の子イサクを献げよ、と言われている。とても、同じ神様のお言葉とは思えない。

しかし、あれは、確かに神様の御声だった。聞き間違えでも、幻覚でもない。間違いなく、はっきりと聞いたのだ。

今まで、この私に、祝福を約束し続けてくださった、神様の御声、そのものだった。

今まで、その御声に聞き従って、後悔したことは、一度もなかった。

逆に、その御声に聞き従わなかったために、後悔したことは、何回もあった。

だから、今回も、あの御声に従わなければ、きっと後悔するに違いない。そして、聞き従った時に、思いもかけない恵みを、きっと経験させられることになるのだろう。

あの時もそうだったし、またあの時もそうだったではないか。

神様は真実なお方だ。試練と共に逃れる道を、いつも備えていてくださったではないか。

アブラハムは心の中で、このような自問自答を、繰り返していたのではないでしょうか。

今までも、そうであったように、神様は、必ず自分の思いを超える恵みを、今回も用意されている筈だ。

そう信じる戦いを、アブラハムは三日の旅の間、ずっと続けたに違いありません。

しかし、その戦いは、容易なものではありませんでした。

アブラハムにとって、イサクは自分の未来そのものでした。その未来を、断ち切って、献げよ、というのです。

その先に、何があるのか。確かに何かが用意されているだろうけれども、全く分からないのです。今は、全く見えないのです。

イサクという見える未来を断ち切って、見えざる未来を選び取れ。神様はそう命じられています。

実は、神様は既に、イサクに代わって、一匹の雄羊を用意されていました。しかし、今、アブラハムには、それは見えません。ですから、アブラハムは激しく苦悩し、戦ったのです。

その戦いのさなかに、沈黙に耐えられなくなったイサクが話しかけます。

「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」。

アブラハムは答えます。

「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」。

「きっと神が備えてくださる」。この言葉は、確信に満ちた信仰の言葉ではありません。

苦悩の極みに出た言葉です。 腹の底から絞り出されたような、悲痛な叫びです。

神様が備えてくださらない筈はない。いや、きっと神様は備えてくださっている。

今、私には見えないけれど、神様は必ず何かをされている筈だ。今までもそうだったではないか。そういう必死の思いを籠めた言葉です。

今日の箇所で、「備える」と訳されたヘブライ語は、元々は「見る」という意味の言葉です。

ですから、「神様は備えてくださる」という言葉は、「神様は見させてくださる」という意味を含んでいます。今、私には、神様がされていることは、見えない。

しかし、後で必ず、見させてくださる。

これは、極限状態に追い込まれたアブラハムの、悲痛な祈りの言葉です。

同じようなことを経験された方がおられました。私の信仰の大先輩である一人の姉妹です。

この方の頭文字を取ってI姉妹と呼ばせていただきます。I姉妹は、昨年、99年の信仰の歩みを全うされて、天国に帰られました。

このI姉妹は、戦前・戦後の混乱期に、非常なご苦労をされました。

結婚されて、四人のお子さんを与えられましたが、頼みの綱のご主人が召集され、戦後も長く捕虜として抑留されてしまいました。

そのため戦中・戦後の混乱期を、女手一つで苦労して、四人のお子さんを育てたのです。

やがて、待ちに待ったご主人が帰ってこられ、やっと平穏な生活が送れるようになったのも束の間、ご主人が事故に遭われて、突然召されてしまったのです。

I姉妹は、本当に落胆され、いっそご主人の後を追って死んでしまおうと思われたそうです。しかし、その時、長女のS子さんがこう言いました。

「お母さん、私たちにとって、お父さんはかけがえのない人でしたね。でも、その大切なお父さんを、神様は取られましたね。愛の神様が、無意味に人を苦しめる筈はありません。お父さんに代わる恵みを、きっと用意されている筈です。」

I姉妹は、その長女S子さんの言葉によって、再び立ち上がり、四人のお子さんを立派に育て上げ、多くの教会員にお母さんのように慕われ、幸せな信仰の生涯を送られました。

目に見える未来は、閉ざされているように見える。しかし、目に見えない未来が用意されている。神様が、今、そのために確かに働いていてくださる。

信仰とは、今、自分の手の中にある見える未来ではなく、神様が用意されている見えざる未来を信頼し、それに賭けていくことです。

まさに、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」なのです。

アブラハムは、この信仰に賭けました。この信仰にすがったのです。

きっと何かある。神様は、今、それをなさっている。ただその一点にすがって、イサクを献げる決断をしました。

それは、アブラハムのこれまでの生涯における、神様との深い交わりがあって、初めてなされた決断でした。

アブラハムは、様々な信仰の体験を通して、神様は、すべてを益としてくださるお方であることを、身をもって知らされてきました。

その信仰体験があったからこそ、成し得た決断でした。

いつも、神様の愛の中に留まり続けていたから、踏み出せたのです。

1節で、アブラハムは、神様の呼びかけに対して、「はい」と答えています。

そして、物語のクライマックスの11節でも、神様の御使いの声に、アブラハムは「はい」と答えています。

この物語は、「はい」に始まり、「はい」で終わっているのです。この「はい」という言葉は、原語では「私はここにいます」という意味の言葉です。

アブラハムは、神様に呼ばれた時、いつも「ここにいます」と答えているのです。厳しい、苦しい状況にありながら、彼は神様から逃げなかったのです。

いつも神様の呼びかけに答えられる距離にいました。神の御手の中に、留まり続けたのです。これがあったから、アブラハムは、決断できたのです。

そして、その時、彼は神様の備えを見たのです。一匹の雄羊が備えられているのを、見ることができたのです。

今まで見えなかった、神様が備えられた未来を、見ることができたのです。

私たちの信仰生活にも、様々な試みがあります。時には、イサクのように、かけがえの無いものを、神様が取られることもあります。

その時、私たちは、その瞬間にも、きっと何かをしてくださっている、神様に賭けましょう。

見えざる未来が用意されていることを信じましょう。

では、一体どこに、その見えざる未来が用意されているのでしょうか。

それは、神様の愛の中です。私たちは、十字架に示された、神様の愛の中に、見えざる未来を見ていくのです。十字架の愛の中に、すべてがあるのです。

私たちが見上げるのは、遥か遠くにある山ではなく、主イエスの十字架です。

私たちは、主イエスの十字架を仰いで、神様のこの約束の言葉を聞くのです。

「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。

独り子を与えてくださった神様は、御子と一緒にすべてを私たちに与えてくださる。

私たちには、このような約束が与えられています。ですから、私たちは、未来が閉ざされたと思われるような時にも、なお見えざる未来に目を向けていくことが出来るのです。

「きっと神様が、備えていてくださる。きっと神様が、見させてくださる」。

この信仰に生きていくことが出来るのです。

この信仰の歩みを、手を取り合って、共に歩んで行きたいと願います。