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過去の礼拝説教

「喜びに満たされて」

2014年10月05日 聖書:ヨハネによる福音書 3章22節~30節

「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」。御言葉は、主イエスの輝きが増し、私たちの輝きは減少していかなければならないと言っています。私たちは、ともすると逆のことをしてしまいます。主イエスの輝きよりも、私たちの輝きを増やそうとしてしまうのです。そのような私たちは、バプテスマのヨハネの生き方に学んでいかなければなりません。ヨハネの弟子たちは、自分たちの活動の先細りを予感し、不安に駆られていました。人間的に見ればヨハネの後輩にあたる主イエスの方が、多くの人を集めている。弟子たちは「先生、何とかしてください」と訴えました。しかし、ヨハネはこう言いました。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花嫁の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」。ヨハネは、自分のことを、花婿(主イエス)の介添え人になぞらえています。花婿の介添え人は、まるで我がことのように結婚式を喜ぶのです。花婿の喜びの声に耳を傾けて、それを自分の喜びとするのです。「介添え人」という言葉は「友」を意味する言葉です。この福音書の15章13節から15節で、主イエスは弟子たちを、友と呼んでいます。私たちも、主イエスの友とされているのです。主イエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われました。そのお言葉の通りに、私たちを友とするために、主イエスが命を捨ててくださいました。「これ以上に大きな愛はない」ことを、身をもって示してくださったのです。本来、栄えるべきお方は主イエスなのです。でも、その栄えるべきお方が十字架にかかって死んでくださった。栄えるべきお方が、私たちを友と呼ぶために、自ら衰えてくださった。私たちが、永遠の命という栄光を得るために、栄光の主イエスが十字架の上で衰えてくださったのです。しかも、主イエスは、そのことを喜んでくださっているのです。主イエスが栄えるとは、この十字架の上に、恵みと勝利を見ていくということです。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」。この言葉は自己犠牲を強いる言葉ではありません。また敗北主義を勧めているのでもありません。この言葉は、活き活きとした喜びと希望に満ちた言葉なのです。私たちが衰えるのは、ただ衰えるのではありません。小さくされていく私たちの中で、主イエスが大きくなってくださることなのです。それが、私たちの希望であり、喜びなのです。ですから、私たちは、喜んで、希望をもって、ヨハネと一緒に大きな声で言うのです。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」。私たちも、そして教会も、そのような信仰者の群れとして歩んで行きたいと願います。