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柏牧師:過去の礼拝説教

「傷ついた者を抱きかかえられる主」

2017年12月10日 聖書:マタイによる福音書 12:9~21

多くの教会の玄関には、聖書の御言葉が、掲げられています。

茅ヶ崎恵泉教会では、その週の礼拝で読まれる御言葉の中の、一節が掲げられています。

当然、御言葉は毎週変わります。ですから、そのご奉仕を担当してくださっている方は、毎週、御言葉を印刷し、濡れないようにラミネートして、掲げてくださっています。

大変なご労です。本当に感謝なことです。

毎週変えるのは大変なので、いつも決まった御言葉が、掲げられている教会もあります。

そういう御言葉の中で、恐らく、一番多いのは、マタイによる福音書11章28節の御言葉ではないかと思います。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

何故、この御言葉が、多いのでしょうか。それは、誰もが、それぞれの人生の重荷を負って、疲れているからではないでしょうか。誰もが、安息を求めているからでは、ないでしょうか。

私たちは、誰もが、疲れて、安息を求めています。

そういう私たちに、主イエスは、「かわいそうに、疲れているのだね。私のところに来なさい、休ませてあげるよ」、と招いてくださっているのです。

マタイによる福音書の11章の最後で、主イエスは、まことの安息へと、私たちを招いてくださいました。

そして、それに続く12章には、主イエスとファリサイ派の人々の間の、安息日をめぐる、激しい論争が記されています。これは、まことの安息とは何か、という論争でもありました。

当時ユダヤでは、旧約聖書の律法には、書かれていませんが、言い伝えによる、安息日の厳しい掟が、定められていました。

ファリサイ派の人々は、これを厳格に守るように、人々に要求していました。

安息日には、してはいけない労働として、39の禁止規定が作られていました。

例えば、安息日には、800メートル以上は、歩いてはならない。安息日には、新しく調理をしてはならない。けれども、前の日に作った料理を、温めることは構わない。

そのような、細かな規定が定められていました。

そして、この細かな掟は、他人の行動を監視し、批判する道を、開くことになったのです。

一体、安息というものは、規則で人々を縛り上げて、得られるものなのでしょうか。

規則違反をしていないかと、人の目を恐れて、びくびくしながら暮す。そんなところに、真実の安息があるのでしょうか。

今日はもう既に、定められた距離を、歩いてしまった。けれども、どうしても、行かなければならない用事ができた。規則違反を見つけられずに、こっそりと行けるだろうか。

ご飯が足らなくなってしまった。こっそり料理しても、見つからないだろうか。そのように、人の目を恐れて、びくびくしながら、暮しているところに、まことの安息があるのだろうか。

安息日は、人のためにあるのであって、人が、安息日のためにあるのではない筈だ。

まことの平安を失い、本当に人間らしい生活を、回復しないままで、いたずらに安息日の掟だけを守る。そんなことに、意味があるのか。主イエスは、そのように問われたのです。

歩くのを制限したり、料理を禁じたりすることではなく、神様の憐れみの中に、憩うことこそ、本当の安息ではないのか。旧約聖書の律法の心は、そこにあったのではないか。

それなのに、あなた方は、その憐れみを、どこに捨ててきてしまったのか。

主イエスは、深い悲しみをもって、問いかけておられます。そして、私こそが、そのような安息を与える者なのだ。だから、私の許に来なさい。休ませてあげよう、と言われたのです。

今、私たちが住んでいる世界にも、様々な規則があります。それらは、共同生活を営んでいく上で、必要なものです。

しかし、一旦、規則が出来上がってしまうと、規則だけが、一人歩きしてしまって、それが作られた元々の意味を、見失ってしまうことが、多く見られます。

以前、遅刻をしてはいけない、という規則を守らせるために、始業時間になると、正門を閉めていた学校があって、閉めかけた門に挟まって、生徒が死亡した事件がありました。

生徒を生かすための規則が、生徒を殺してしまったのです。

教会でも、そのようなことがあるのではないでしょうか。教会とはこうあるべきだ。信仰とはこうあるべきだ。このような確信を持つことは必要なことです。

しかし、自分の持っている教会観や、信仰観を、他の人にも押し付け、強制しようとするなら、教会は安息の場ではなくなります。

「自分は正しい」、「自分は間違っていない」、という思いから、御言葉の剣で、人を傷つけていることがあります。

しかし、主イエスが求められているのは、憐れみです。神様の憐れみが、教会に満ち溢れ、その神様の憐れみを、受けることによって、私たちも、お互いに、憐れみに生きることです。

安息日の主であるイエス様は、私たちを殺すような、掟から解放してくださり、私たちを生かす、憐れみへと導いて下さるお方です。

今朝の御言葉には、安息日に、主イエスが、片手の萎えた人を、癒された出来事が記されています。その奇跡が行なわれたのは、多くの人々が集まっている、会堂でした。

人々は、主イエスが、安息日にも、人を癒すことを、知っていましたので、格好の機会であると考えて、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」、と尋ねました。

これは、一種の誘導尋問です。安息日の癒しについての、ファリサイ派の考え方は、症状が命に関わる場合にのみ、癒しを行なってもよい、というものでした。

この人の場合、手の麻痺は、命に関わることではなく、翌日まで待てるものであることは、明らかでした。

ですから、もし、その場で癒しを行ったなら、安息日の掟を、破ることになります。

主イエスは、これに対して、穴に落ちた一匹の羊の譬えで答えられました。

譬えの中の人は、羊を一匹しか持っていない、貧しい人であったと思われます。かけがえのない、その一匹の羊が、穴に落ち込んでしまった。

その場合、安息日であっても、あなた方は、その羊を助けるであろう。

もし、そうだとすれば、この片手の萎えた人の悩みに、心を留めて、今ここで癒すことこそ、安息日に相応しいことではないだろうか。主イエスは、そう問い掛けられたのです。

そして、主イエスは、羊より遥かに大切である、この人を癒されました。

そして、「安息日に善いことをするのは許されている」という、最も基本的な教えを、語られたのです。

この時、会堂には、たくさんの人がいたと思います。しかし、この片手の萎えた人の、癒しを祈る人は、誰もいなかったのです。

誰一人として、「イエス様、どうか、この人を癒してください」、と言わなかったのです。

この人が、どんなに辛い思いをしているか、誰も分かろうとしなかったのです。

人々の心にあったのは、主イエスに対する、好奇心だけです。ファリサイ派の人たちの頭にあったのは、主イエスを罠に陥れて、訴えることだけでした。

主イエス以外には、神様の憐れみを、求める人は、一人もいなかったのです。

まことの安息日を、味わっている人は、誰もいなかったのです。

しかし、主イエスは、このたった一人の男のために、命を懸けられました。

主イエスが、この人を癒した結果、ファリサイ派の人たちは、その癒しを喜ぶよりも、かえってそれによって、主イエスへの殺意を、高めていったのです。

それらをすべて、ご承知の上で、主イエスは、癒しをなさいました。

その人のために、ここで、命を懸けられました。この片手の萎えた人については、今ここで直ぐに癒さなくても、安息日が終わってから、癒してやっても良かったかもしれません。

その方が、波風が立たなかったでしょう。しかし、主イエスは、ここで人々の挑戦を、まともに受けて、多くの人が見ている、会堂の真ん中で、癒されたのです。

なぜでしょうか。主イエスは、人々に、分かって欲しかったのです。

安息日とは、あなたがたが、真実に、神様の愛の中に、憩う日であることを。

そして、それ故に、あなたの傍にいる、仲間の痛みに、深く心を尽くす日である、ということを。主イエスは、そのことを分かって欲しい、と願われたのです。

ここで視点を変えて、この片手の萎えた人に、注目してみたいと思います。

主イエスは、この人に、「手を伸ばしなさい」、と言われました。この時、大勢の人の視線が、この人に注がれました。ここで癒される、ということは、安息日の掟を、破る行為となります。

そのことを、この人も知っていました。手を伸ばすことは、主イエスによる、安息日の掟破りの、手伝いをすることになるのです。

そうすれば、当然、この人も、非難されます。そんな中で、この人は、勇気ある一歩を踏み出しました。手を伸ばしたのです。

その時、この人は、主イエスの恵みの世界に、招き入れられました。

私たちも、この人の様に、衆目の中で、主に向かって、手を伸ばすことを、求められることがあるかも知れません。手を伸ばしてごらん、と求められる時が、あるかも知れません。

しかし、その時こそ、主イエスの恵みに、身を委ねて、勇気をもって、手を伸ばしていく者でありたいと思います。

この後、讃美歌493番を賛美します。世界で最も愛されている、讃美歌の一つ、「いつくしみ深い、友なるイエスは」です。

この歌詞の中に、「悩み苦しみを かくさず述べて」、という言葉があります。以前の讃美歌では、「つつまず述べて」、となっていました。

私たちの、悩みも、苦しみも、隠さずイエス様に、申し上げよう。つつまずに言おう。

そう歌っています。なぜ、このような呼びかけが、人の心を、捉えるのでしょうか。

それは、私たちが、自分の悩み、苦しみを、覆い包んで、隠そうとするからです。

主イエスに対してさえ、隠そうとする。包んでしまおうとするのです。

自分自身に対しても、そうなのです。自分でも、真正面から見ることが怖い。自分でも許せない悩み、自分でも認めたくない苦しみがある。それらを、覆い包んでおきたい。

自分でも、受け止められない、悩み、苦しみ。果たして、主イエスは、それらを受け入れてくださるだろうか。不安だ。確信が持てない。そんな気持ちが、私たちの中にあるのです。

この讃美歌は、そのような悩み、苦しみを、覆っている包みを、主イエスの前で、ほどいてしまおうではないか、と歌っているのです。

大丈夫だよ。隠さなくて良いのだよ。包みをほどいて良いのだよ。主イエスは、そう言ってくださり、必ず受け止めてくださる。だから、つつまず、隠さず、すべて打ち明けよう。

讃美歌は、そう呼び掛けているのです。

この時、会堂中の視線が、片手の萎えた人に、注がれていました。ここで手を伸ばすことは、命懸けの行為です。

でも、この人は、手を伸ばしました、伸ばすことができました。主イエスが、自分のために、命を懸けていてくださることを、知ったからです。

このお方は、命懸けで、私を癒して下さろうとしている。人の目を恐れて、手を伸ばすことをためらっている。そんな私のために、命を懸けてくださっている。

このお方は、決して裏切ることのないお方なのだ。信じて、手を伸ばした者を、踏みにじることは、されないお方なのだ。そのことが分ったから、手を伸ばしたのです。

悩み、苦しみ、悲しみを、包まず、隠さず、さらけ出したのです。

そして、この人は、癒されて、主イエスの、救いの中に、招き入れられました。

この福音書を書いた、マタイは、ここまで書いたとき、主イエスの、命懸けの愛に、強く迫られたのだと思います。そして、思わず賛美したくなったのです。

ですから、イザヤ書の言葉を引用して、主を賛美しています。18節から21節は、マタイによる、主イエスに対する讃美歌です。

この片手の萎えた人を癒す記事は、マルコにもルカにも、書かれています。しかし、イザヤ書からの引用を加えたのは、マタイだけです。

ですから、このイザヤ書の御言葉は、主イエスに対する、マタイの信仰告白である、と言っても良いと思います。そして、信仰告白であると同時に、これは讃美歌なのです。

この讃美歌で歌われているのは、苦難の僕と言われている、一人の僕です。

この僕は、主イエスのことを、指し示しています。

傷ついた葦を折ることなく、くすぶる灯心を消すこともなく、大声を挙げることもせず、静かな愛をもって、この世に正義を知らせる僕。それが、主イエスなのだ、と言っているのです。

しかし、よく読むと、ここに歌われていることは、この世の常識に反します。

「彼は異邦人に正義を知らせる」、と言っています。この僕は、正義を愛しているのです。

でも、正義を愛するにも拘らず、争わず、叫ばない、と言っているのです。

これは、この世の常識に反します。この世では、正義を愛する者は、争うのです。

自分が正しいと思っているから、争うのです。自分こそが、正義だと思っているから、争って、大声で叫ぶのです。

昨年の「恵みの集い」に来てくださった、フォトジャーナリストの桃井和馬さんは、ある本の中で、こう問い掛けています。「正義の反対は何だと思いますか」。

ほとんどの人は、「正義の反対は、不正です」、と答えるでしょう。でも、桃井さんは、それは違うというのです。「正義の反対は、正義」なのだ、というのです。

どちらも、自分が正義だと思っている。それがぶつかり合うから、争いが起きるのです。

そして、自分は正しいと思っているから、絶対に引かないのです。力づくでも、自分の正義を、押し通そうとする。お互いにそうするのです。

なぜ、人を殺すことができるのでしょうか。自分が正しいと思っているからです。自分こそが、正義だと思っているからです。

そして、正義のためには、多少の犠牲が出ても、仕方がないと思うからです。正義を貫徹するためには、命が犠牲になっても、仕方がないと思うのです。

でも、この讃美歌に歌われている正義は違うのです。主イエスが、もたらしてくださる正義とは、争わず、叫ばず、その声を聞く者は、大通りにはいないほど、静かな正義なのです。

傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない、そういう正義なのです。

どうやら、正義という言葉を、主イエスは、書き換えてしまった、と言っても良いと思います。

それでなくとも弱い葦が、更に傷ついてしまう。折れかかっている。もう、何の役にも立たない。だから、捨ててしまおう。これが世の中の常識です。

でも、主イエスは、そういうことを、なさらないお方だというのです。

くすぶる灯心。今にも消えそうな灯心。弱い風が吹いたら、直ぐに消えてしまうような灯。

もう、こんなものは、役に立たないから、捨ててしまおう。普通ならそう思うのです。

でも、主イエスは、それを消さないのです。どうしてでしょうか。

主イエスの正義には、愛が含まれているからです。主イエスにとって、愛のない正義、慈しみのない正義、思いやりのない正義、というのはあり得ないのです。

主イエスは、折れかかっている葦を、そっと支えるお方なのです。消えかかっている灯に、両手をかざして、あらゆる風から、守ってくださるお方なのです。

傷ついた葦。それは、本当に弱い存在です。少しの力で、折れてしまうような弱いものです。

消えかかっている灯心。それは、本当にはかない存在です。ほんの少しの風でも消えてしまうような、はかないものです。

主イエスは、そんな葦にも似たような、弱い人の心を、どこまでも支えてくださるお方です。

消えかかっている灯心のように、はかない心を、命懸けで守ってくださるお方なのです。

折らずに、支えるのです。消さずに、守るのです。殺すのではなく、生かすお方なのです。

ですから、神様から最も遠いと見られていた、異邦人ですら、主イエスに希望を置くのです。

ここで癒された、片手の萎えた人は、異邦人ではありませんでした。でも、同じように、病気によって、社会からはみ出して、生きていた人でした。

でも、主イエスの目から、はみ出している人など、一人もいないのです。むしろ、はみ出していると思っている人々こそ、主イエスに、望みをおくことができるのです。

主イエスは、片手が萎えて、傷ついた葦のようになっていた、男の人の手を癒し、消えかかった灯心のようになっていた、その人の心に、光をともされたのです。

そういうお方が、私たちの許に、きてくださったのです。

クリスマスは、そのことを、感謝し、喜ぶ時です。ご一緒に、クリスマスを待ち望みましょう。