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過去の礼拝説教

「愛を追い求めなさい」

2014年03月23日 聖書:コリントの信徒への手紙一 12:31b~14:1a

今朝の箇所は、「愛の賛歌」とも呼ばれ、多くの人に愛され、親しまれている御言葉です。

美しい詩のような文章。そして、読む者の心を揺さぶらずにはおかない、心に沁みる言葉の数々。この御言葉を、愛誦聖句にしておられる方も多くおられます。

この御言葉は、単に美しいだけでなく、人を変える力を持っています。

皆さんも、それぞれお宅に帰られた後、もう一度、この御言葉を、じっくりと味わっていただきたいと思います。たとえ小さくとも、きっと何か変化が起こると思います。

そのことを証明するようなエピソードがあります。ジョン・ドレッシャーという、アメリカ人の牧師が書いた本に出ている話です。引用させていただきます。

『とても頭が良くていろいろな賜物に恵まれた若い指導者が、ある宣教地に送り出された。

しかし彼は批判的で支配的な性格の持ち主であった。また気が短く忍耐に欠けていた。

彼はその地の人々を怒らせ、人々と争った。

とうとう、そこの人たちは、宣教委員会にこの宣教師を召還してほしいと頼んできた。

彼がしたことは、援助というよりも妨害であったからである。

宣教委員会は手紙を書いた人たちに会った上で、その若い宣教師に一通の手紙を書いた。

「あなたが、一つの条件をのむなら宣教地にとどまることができます。その条件とは、これからの一年間、毎日コリント人の信徒への手紙一の13章を読むことです。」

その手紙が送られて半年後、変化が起きた。

かつてこの宣教師を解雇してほしいと委員会に手紙を書いてきた人たちが、彼の働きの継続を願い出たのである。数年後、その同じ人たちが、今度はこの宣教師を教区の監督にしてほしいと依頼してきた。

そして、この宣教師は50年以上、キリスト教会の有能な指導者として奉仕したのである。』

どうか皆さんも、人間関係で行き悩んだ時、この若い宣教師がしたように、今朝の御言葉を毎日読み続けてみてください。きっと、私たちの思いを超える出来事が起こる筈です。

さて、昔から、この御言葉は、神様の愛を言い表している言葉だと、理解されてきました。

私たちの愛は、愛する理由があるから、愛する愛です。あの人はハンサムだから愛する。

私を養い、支えてくれるから愛する。優しくしてくれるから、喜びを与えてくれるから、或いは、安らぎを与えてくれるから愛する。

このように、私たちが人を愛するには、何かしらの理由があります。

その理由が存在している限り、持続する愛なのです。ですから、それは、「条件付きの愛」である、とも言うことができます。

これに対して、神様の愛は、無条件の愛です。理由なしに愛する愛です。

どんなに自分に背いても、いくら自分を裏切っても、或いは、自分に悩みや苦しみをもたらすような存在であっても、それでもなおも愛する。そういう愛です。

一般に、この13章は、そのような神様の愛を、私たちに示している言葉である、と捉えられてきました。

そうした理解から、よく試みられることがあります。それは、この箇所の「愛」という言葉の代わりに、自分の名前を入れて、この箇所を読んでみる、ということです。

特に4節から7節の御言葉で、それを試してみるのです。

「私は忍耐強い。私は情け深い。ねたまない。私は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

これを、自信をもって読むことができる人がいるでしょうか。恐らく、誰もいないと思います。

私たちが、どれほど真実の愛から遠い存在であるかが、良く分かります。

しかし、この愛という言葉を、「イエス様」と置き換えて読んでみます。「イエス様は忍耐強い。イエス様は情け深い。ねたまない。イエス様は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。これは、ぴったりと合います。

このように、この箇所を、神様の無条件の愛を言い表している、として読むことは決して間違ってはいません。そのように読むことは許されると思います。

しかし、パウロが、この13章の御言葉を書いた本来の意図が、ここで神様の愛を解き明かすことにある、と捉えるなら、それはちょっと違う、と言わざるを得ません。

すべて聖書の御言葉は、文脈に沿って読んでいくことが大切です。

この御言葉を読む時も、これを独立した文章として読むのではなく、この手紙全体の、文脈の中で理解しなくてはいけないのです。

パウロが、この手紙全体を通して言いたかったこと。それは「教会の一致」ということです。

教会が一つとなることが、どれほど大切か。教会が一つとなって歩むとはどういうことか。

そのことを、パウロが、切々と語っているのが、この手紙です。その文脈の中で、この箇所も語られているのです。

ですから、この箇所も、「教会の一致」という、全体の主題に沿って読まないと、正しく理解することはできません。

パウロは、今朝の御言葉の直前の12章で、教会員一人ひとりに与えられた、様々な賜物について語っています。教会には、様々な賜物を与えられた人たちがいる。それぞれが、素晴らしい、賜物を頂いている。

しかし、それらの賜物が活かされ、教会が一つとなるためには、それらすべての賜物を超える、最も大きな賜物が必要とされる。パウロはそう言っているのです。

だから、あなた方は、その最も大きな賜物を受けるように努めなさい。

12章の最後で、そう語ったのに続いて、パウロは、「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」、という言葉をもって、今朝の御言葉を語り出しています。

教会が一つなるために必要とされる、最も大きな賜物、最高の道。それは何か。

それこそが愛である、とパウロは言っているのです。

教会の一致のために、何よりも大切な賜物。それが「愛」なのだ、と言っているのです。

だから、まことの愛とはどういうものか、是非、それを知って欲しい。そういう願いをもって、語りだしたのが、この13章なのです。

ですから、この13章には、「愛しなさい」という言葉は一度も出てきません。

ここでは、戒めが語られているのではありません。ただ、愛とはこういうものだ、と語られているだけです。

しかも、愛について、一般的に論じているのではなくて、私の愛、つまりパウロ自身の愛のことを語っているのです。

13章は、「たとえ私が」という言葉で始まっています。これは、教えとか、戒めとかと言うのではなくて、パウロの心からほとばしり出た告白です。

パウロは、ここで、自分自身の愛の経験を、思わず語り出しているのです。

1節で、「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」であると、パウロは言っています。

「騒がしいどら、やかましいシンバル」と書いてあるのを読んで、もし、私たちが、元々どらやシンバルというものは、やかましいもの、騒がしいもの、と思うなら、それは間違いです。

どらやシンバルが、やかましいもの、騒がしいものとなってしまうのは、その用い方が間違っているからです。

オーケストラが演奏する時、ここぞという時に、打楽器が入ります。それは、やかましいとか、騒がしいとかいうものではありません。その曲を盛り上げるのに、無くてはならない音です。

もし愛をもって演奏するならば、全体を引き立て、ハーモニーがもっと美しく、力強くなるのです。しかし、愛が欠けているなら、それはただのやかましい音、騒がしい音に過ぎなくなってしまう、というのです。

1節に、異言という言葉が出てきます。異言というのは、日本語とか英語とか、普段使っている言葉ではありません。神秘的な言葉です。

信仰が高揚してくると、霊に導かれて、舌が自然に動いて出てくる言葉です。ですから、聞いた者は何を言っているのか分かりません。

コリントの教会では、多くの人たちが、この異言を語ったようです。中には、私は、こんなに激しく、こんなに長く、異言を語ることが出来ると、自慢する人もいたようです。

しかし、パウロは、そのような異言の言葉が、人々の心を喜ばすハーモニーとはならないで、聞いている人にとって、ただ騒がしいとしか聞こえない言葉になることがある。

もし、そこに、愛がなければ、そういうことが起こる、と言っています。

これは、私たちに対して語られている言葉でもあります。

教会において、私たちが、いくら正論を語っても、もし愛がなければ、それが相手にとって、ただ騒がしい音としか聞こえないことがあるのです。

「愛がなければ」と言う言葉が、1節、2節、3節に、繰り返して語られています。

2節では、教会の中で語られる預言について述べられています。

そして、その預言の中で語られる、神秘的な、不思議な知識についても語られています。

更には、山を動かすような強い信仰、ここでは「完全な信仰」とまで呼ばれている信仰についても語られています。

3節を見ますと、全財産を貧しい人に与えてしまう、ということが語られています。

それどころか、自分の身を死に引き渡すような、犠牲的な行為まで語られています。

ところが、そのような預言の言葉にも、完全な信仰にも、或いは命を献げるほどの献身的な行為にも、愛がないことがある。

愛を欠いていて、ただ、自分を誇るために過ぎないような言葉、そのような信仰、そのような献身的な行為となっていることがある、と言っているのです。

それをパウロは、「私は」という言葉で語っています。そういう人間が、他にいると言っているのではないのです。自分自身が、そのような間違いを犯す、と言っているのです。

あなた方ではない。私たちでもない。もし、私に、「愛」がなければ、というのです。

私たちも、これを、自分自身の言葉として、告白しなければいけないと思わされます。

そうでなければ、この愛の賛歌は、私たちのものになりません。

クリスチャン作家の椎名麟三が、ある集会で、このような事を言いました。

「自分が誰かを愛していると思う時、一人で部屋に入って、『本当に愛しているか』、と自分に尋ねてご覧なさい。三度この問いに耐えられる人はないでしょう。私たちの内には、本当のものは、ないのです」。

パウロは、自分の愛の欠けを知っていました。自分自身の中には、完全な愛はないことを知っていました。

ですから、もし、神様が与えてくださる「愛」の賜物がなければ、私は、そのような間違いを犯します、と言っているのです。

そのような真実の愛の特性を、パウロは、4節から7節で、見事に言い表しています。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

ここには、愛の特性について、肯定的な「愛はこうする」という言い方が七つ述べられ、否定的な「愛はこうしない」という言い方が八つ述べられています。

恐らく、多くの人は、否定的な表現の言葉の方に、心が向くのではないかと思います。

「愛は、ねたまない」。この言葉一つを考えてみても、私たちは、どのように、この言葉を捉えるでしょうか。「ねたまない愛」などあるのだろうか、と思うのではないでしょうか。

「ねたむ」、それは、愛があるからだ、と思うのが私たちの正直な気持ちです。

また、「愛は、自慢する」ものだ、という思いも待ちます。親が、子どもを愛する時、その子どもを自慢するのは当たり前ではないか、と思います。

「愛は、高ぶらない」。しかし、自分の愛するものが、美しいものであれば、高ぶるほどの誇

りに生きてなぜいけないのか、と思わないでしょうか。

「礼を失せず」。この言葉は、口語訳聖書では、「不作法をしない」と訳されていました。

「愛は、不作法をしない」。これは、お互いによく考えなくてはいけないことだと思います。

例えば、夫婦の間でも、随分に不作法なことをしてしまうことがあります。

その時の言い訳として、「妻は私を愛している。私も妻を愛している。だから、これくらいの不作法は、許される筈だ。妻に対する礼儀。そんな他人行儀なことはしなくて良い」。

そのような思いに、ふと捕らわれることがあるのではないでしょうか。

そして、そこで、とても大切なことを見失うのではないかと思うのです。

いらだつこと、恨みを抱くことも、愛にはつきもののように思われます。

愛は、全部愛されないと承知ができないものです。ですから、そうでないと、いつもいらだつのです。それがひどくなれば、恨みさえも持つようになるのです。

ねたむとか、自慢するとか、高ぶるとか、或いは、礼を失しても平気でいるとか。

そういうことは、実は、私たちが神様を知らなかった時に、感じていた愛の特質です。

愛しているからこそねたむ、愛しているからこそ恨みを抱き、愛しているからこそ、これ位は許されると思って不作法をする。それが、一般的に考える愛です。

神様を知らなかった時に思っていた愛とは、そういうものです。

では、まことの愛とは何か。御言葉は続けて語っています。

愛は忍耐強い。その忍耐強さから生まれてくる情け深さ。

相手を尊重して、自分を整えることが出来る愛。真実を喜び、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望む。それが、まことの愛だというのです。

そのまことの愛は、私たちが元々持っている愛ではなく、神様から与えられる愛です。

そのような愛は、決して変わることはなく、不滅であると、パウロは8節以下で語っています。この世のことは、皆変わっていきます。変わるのが当然なのです。

しかし、愛だけは、絶えることはないのです。

そして、13節で、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」、という有名な言葉を語って、13章を結んでいます。

ここに、信仰と希望が、突然出てきていように思いがちですが、実はそうではありません。

既に7節で、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」とありました。そこに、信じ、望む、つまり信仰と希望が、既に語られていました。

そして、信仰と希望を、挟み込むようにして、忍ぶ、という言葉と、耐える、という言葉が語られています。忍び、耐える。つまり忍耐です。

愛は、忍耐することができるのです。なぜなら、今は、不完全な愛が、やがて、主の再臨の時に、完全な愛に変えられると信じ、そのことを望んでいるからです。

今は、裏切られたり、裏切ったりする愛しか持っていないお互いであっても、やがて、神様が示してくださった愛に、生きることが出来るようにされる。

そのことを信じ、そのことを望んでいるから、忍耐できるのです。ですから、その忍耐を支えるものが、信じる心であり、望む心なのです。

愛があるところに、この忍耐があり、信仰があり、希望がある。愛の中に、この信仰も、希望も、すべて含まれるのだ。

これが、13節で語られている、「その中で最も大いなるものは、愛である」ということです。

この言葉を語った後で、パウロは、14章1節で、「愛を追い求めなさい」、と勧めています。

ここで言う、「追い求める」という言葉は、「限りなく追いかけていく」という、激しい意味を持っています。

今日、礼拝後に、教会総会が開かれ、来年度の宣教基本方針を検討します。

総会において、来年度の宣教方針の基となる主題聖句として、この14章1節の御言葉、「愛を追い求めなさい」、を提案させていただく予定です。

教会が一つとされるために、最も大切な賜物である愛を、限りなく追いかけていく一年としたい。そのような願いを込めて、この主題聖句を選ばせていただきました。

以前にもお話ししましたが、私たち一人一人は、ジグゾーパズルの一駒一駒です。

誰一人欠けても、神様が書こうとされている、この茅ヶ崎恵泉教会という絵は、完成しません。ジグゾーパズルの駒は皆、変な形をしています。

同じように、私たちも、どこかが不格好に出っ張ったり、凹んだりした者ばかりなのです。

お互いが、その出っ張ったところを突き出していくなら、収まりません。絵は完成しません。

でも、他人の出っ張った所を、自分の凹んだ所で、受け入れていくならば、共に生きることが出来ます。

なぜなら、自分の出っ張った所も、誰かが凹んだ所で受け入れてくれているからです。

愛とは、他人の出っ張った所に対して、自分の凹んだところを差し出していく力のことです。そうしていく時、神様が望まれている茅ケ崎恵泉教会という絵は完成します。

愛する茅ケ崎恵泉教会の兄弟姉妹。

来るべき2014年度、私たちは、「いい絵が完成したね」、と神様に喜んでいただけるような茅ヶ崎恵泉教会を目指して、共に歩んで行こうではありませんか。