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柏牧師:過去の礼拝説教

「十字架のキリストが目の前に」

2017年10月29日 聖書:ガラテヤの信徒への手紙 3:1~14

今朝は、ご一緒に、宗教改革記念礼拝を守っています。

私たちは、毎年10月の最終聖日に、宗教改革記念礼拝をささげていますが、今朝は、例年とは、チョット違った、特別の礼拝です。

なぜなら、宗教改革運動の、第一歩が踏み出されてから、今年がちょうど、500年目に当たる節目の年だからです。

マルティン・ルターは、ローマ・カトリック教会の改革を願って、95ヶ条の提題を掲げました。その提題が、ヴィッテンベルグ城の門に、貼り出されたのが、1517年10月31日と言われています。そして、その日をもって、宗教改革がスタートした、とされているのです。

ですから、今朝は、宗教改革500周年の記念礼拝なのです。言ってみれば、プロテスタント教会の、500歳の誕生日を祝う礼拝なのです。

ルターは、当時のカトリック教会が、人が救われるのは、信仰と行いによる、と説いていたことに反論しました。

人が救われるのは、十字架の贖いを信じる、信仰のみである、と主張したのです。

十字架の贖いは、この私のためである。このことを信じる時、私たちは、罪あるままに、義と認められて、救われる。これが、「信仰義認」と言われている、教義です。

ルターは、この信仰義認の教義を守るために、命を懸けて戦いました。

今朝の週報の【牧師室より】に、ルターの言葉が、いくつか紹介されています。

その中に、「私は聖書の中にただ、十字架に付けられたキリストのみを理解する」、という言葉があります。この言葉は、信仰義認の教義に命を懸けた、ルターの決意を、言い表した言葉です。始めは、たった一人で、巨大なローマ・カトリック教会に、立ち向かったルター。

そのルターの戦いを、支えたのが、先ほど読んで頂いた、ガラテヤの信徒への手紙に書かれている、パウロの言葉です。ルターは、この手紙の御言葉によって、励まされ、慰められながら、戦いを続けていったのです。

今朝の御言葉の冒頭で、パウロは、ガラテヤの教会の人たちに、「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」、と呼びかけています。

ここにある「物分りの悪い」、という言葉は、かなり控えめな訳です。原文のギリシア語は、もっと厳しい意味を含んだ言葉です。

他の聖書は、この言葉を、「愚かな」と訳しています。原文のギリシア語を、もっと平たく言えば、「馬鹿だ」という意味の言葉です。

ですから、ほとんどの英語の聖書は、この言葉を、ズバリ「foolish」と、訳しています。

パウロは、ガラテヤの人たちよ、あなた方は、愚かだ、馬鹿だ、と言っているのです。

この手紙を書いた当時、ほとんどの手紙は、口述筆記によって、書かれていました。

紙もインクも、大変高価なものでしたから、書き間違いを避けるために、口で語った言葉を、専門の筆記者が、一語一語丁寧に書いていったのです。この手紙も、そのようにして、書かれたものでした。パウロの語る一語一語を、筆記者が、心を込めて書いていったのです。

筆記者自身も、パウロの語る言葉に、感動を覚えつつ、書いていったのだと思います。

ところが、パウロが、突然、「ガラテヤの人たちよ、あなた方は馬鹿だ」、と言ったのを聞いて、筆記者は思わず筆を止めて、パウロの顔を、見上げたのではないかと思います。

「パウロ先生、こんなことを書いて、本当に良いのですか」、という思いを持って、パウロの顔を、見上げた。見上げたパウロの顔は、どんな顔だったでしょうか。

きっとその顔は、悲しみを湛えていたと思います。もしかしたら、涙を流していたかもしれません。しかし、同時に、溢れるばかりの愛に、満ちていたのではないか、と思います。

私たちも、愛する人に、「馬鹿だね」、ということがあります。例えば、雨が降っている夜、妻が、傘を持って、夫を駅まで迎えに行きます。

雨に濡れて、寒さに凍えている妻を見て、夫が「そんなに無理して、迎えに来なくてもいいのに。馬鹿だね」、と言います。この時の「馬鹿だね」は、愛情のこもった言葉です。

パウロの、「ガラテヤの人たち、あなた方は、馬鹿だ」、という言葉も、激しいながらも、愛のこもった言葉です。あなたたちは、何というお馬鹿さんなんだ、どうか、目を覚まして欲しい。そういう切なる思いから出た言葉です。

パウロは、自分が命懸けで開拓した、ガラテヤの教会の人たちに、そう言わざるを得なかったのです。あなたたちは、何と馬鹿なのか、何と愚かなのか。

これは、ガラテヤの人たちの、理解力が乏しい、と言っているのではありません。

そうではなくて、豊かな知識を持っているにも拘らず、あなた方は、見るべきものを、見ることが出来なくなっている、と言っているのです。

一体、何が見えなくなってしまった、というのでしょうか。

「十字架につけられた、イエス・キリストのお姿」が、見えなくなってしまったのです。

あなた方の目の前に、十字架につけられたキリストが、はっきりと示された筈ではないか。

あなた方は、その十字架につけられたキリストを、信じた筈ではなかったか。

それなのに、なぜ、それが、見えなくなってしまったのか、とパウロは言っているのです。

「はっきり示された」という言葉は、口語訳聖書では、「描き出された」と訳されていました。

その方が、原語の意味に近いと思います。描き出された、と言っても、パウロが、実際に、十字架につけられた、キリストの絵を描いて、ガラテヤの人々に、見せた訳ではありません。

パウロは、十字架につけられたキリストを、言葉をもって、語り伝えたのです。

私が命懸けで語ってきた、そのキリストが、その十字架のキリストが、あなた方には見えなくなってしまっている。パウロは、ここで、悲痛な叫びを、上げています。

パウロは、十字架につけられたキリストだけを、ひたすらに語り伝えてきました。

「十字架につけられた姿で、はっきり示された」、とあります。この言葉を、原文の順序の通りに、直訳しますと、「あなた方の目に向かって、イエス・キリストがありありと描き出された。十字架につけられたままで」、となります。

「十字架につけられたままで」が、最後に来て、強調されています。しかも、完了形で書かれています。

完了形で書かれている、ということは、「主イエスが十字架につけられた」ということが、過ぎ去った過去の出来事でなくて、現在にも繋がっている、ということを、意味しています。

今、この時も、主イエスは、十字架につけられたままでおられる。そのことを、強調するために、敢えて最後に、書かれているのです。

皆さん、私たちは、今、十字架につけられたままのキリストを、はっきりと見ているでしょか。

二千年前の、遠い過去の出来事としてではなく、今、自分の目の前に、十字架につけられたままのキリストが、ありありと描き出されているでしょうか。

私の罪のために、今もなお、十字架において、新たな血を、流し続けておられるキリストを、はっきりと見ているでしょうか。

「目の前に、主イエスが、十字架につけられたままの姿で、はっきりと示されている」。

今朝、私たちは、そういう思いをもって、礼拝をささげていきたいと思います。

福音とは、「私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いによって、無条件で救われる」、という喜びの知らせです。

その福音を聞いて信じるなら、私たちは救われる。それ以外には救いはない、とパウロはひたすらに語り伝えたのです。そのことだけを、語り続けたのです。

ところが、ユダヤ主義者と呼ばれるクリスチャンたちは、そうではなかったのです。

十字架の救いだけでは不十分だとして、それに余計なものを、付け加えようとしたのです。

十字架によって救われた者も、ユダヤ人と同じように、割礼を受けなければならない。

また、食べ物に関する規定や、特定の日を重んじること等の、言い伝えを守らなければならない。そうしなければ、あなたの救いは、十分なものとはならない。

彼らはこう言って、教会の人たちを惑わしたのです。しかし、10節にあるように、私たちは、すべての律法を、絶えず守ることなど、とてもできません。

律法を守ることが出来ない、私たちに出来ること。それは、十字架の贖いによって無条件で赦され、救われるという福音を、信じることだけです。それは、誰にでもできます。

そうであるからこそ、喜びの知らせ、福音であるのです。

でも、なぜ、私たち人間は、昔も今も、律法主義の過ちに、繰り返して陥るのでしょうか。

それは、律法主義に生きた方が確かだ、と思ってしまうからです。

これらのことを、守ってさえいるなら救われる、というのであれば、その方が安心だ、と思うからです。十字架の贖いという福音を、聞いて信じるだけでは、何か心もとない。何か足らないような気がする。もっと確かな、確証が欲しい。

もし、私たちがそう思うなら、その時、私たちは、十字架の出来事を、小さなこととして、捉えているのです。

確かに、単なる歴史的な出来事として見れば、二千年前に、ユダヤの片田舎に住んでいた一人の男が、十字架刑で処刑された。ただそれだけの話です。

しかし、十字架に死なれたのは、一人の男どころではありません。全世界を創造され、支配されておられる神ご自身です。私たちを、愛の対象として、造ってくださったお方なのです。

そのお方が、この私の罪のために、私に代わって、十字架について、死んでくださった。

本来、私がかからなければいけない十字架に、造り主ご自身が、ついてくださった。

到底ありえないこと。およそ考えられないような、ことが起こった。この私を救うために。

私たちの思いを、遥かに超えた、この偉大な出来事に、一体、私たちが、何か付け加える、必要があるでしょうか。私たちが、何か付け加えることが、出来るとでも言うのでしょうか。

まだ、足りないから、私たちが何かをして、補わなければいけない、とでも言うのでしょうか。そんなことはできません。また、そんな必要もありません。

私たちは、この恵みを、ただ感謝して頂くほか、何も出来ないのです。何かできると思う方が、それこそ愚かなのです。私たちの目の前に描き出された、十字架のキリスト。

そこに、そこだけに、自分の救いがある、と信じていくのです。

それを迷わずに、信じていくのが信仰です。

私たちは、救われた時に、自分の知恵も力も、名誉も実績も、すべて捨てた筈です。自分の誇りも、行いも、全部放棄して、イエス・キリストの十字架に、すがった筈です。

ところが、いつの間にか、自分の出来映えを、気にするようになってしまうのです。人の評価を気にするようになってしまうのです。或いは、他人よりも、少しばかりよく出来ると、自分に慢心してしまうのです。そして、足らない他人を見て、批判してしまうのです。

或いは、逆に、足りない自分に失望して、自分を責めてしまうのです。

パウロは、「“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」、と言っています。ガラテヤの信徒たちも、初めは、ただ信仰によって救われる、という福音を,信じていたのです。それなのに、放棄した筈の「行い主義」が、暫くすると、裏口からスーっと、入って来てしまったのです。そして、肉の思いに、捕らわれてしまったのです。

これは、現代のクリスチャンにも、言えることです。いつの間にか、評価や出来映えという、肉の思いによって、人を見てしまうのです。真面目なクリスチャンほど、そうなのです。

ある牧師が、一組のご夫婦のことを、書いておられます。このご夫婦は、戦後、韓国から引揚げて来られた方々でした。

戦前の韓国においては、立派な企業の、リーダー格の人でした。しかし、財産のすべて失って、裸一貫で戻って来たのです。そして、ある工場の、一工員になりました。

韓国の教会では、役員まで務めた人でしたが、日本に帰って来てからは、礼拝に出席しなくなりました。酒ばかり飲んで、酒くさい息を吐いて、夜遅くに、家に帰ってくる毎日でした。

奥さんは、悩み抜いて、牧師の許を、何度も訪ねました。

どうしてこんなに、変わってしまったのか。もう別れたい、と思う位だ、と言うのです。

ある時、牧師が、奥さんに言いました。「なるほど困ったことですね。けれども、奥さん、よく考えてください。あなたは、ご主人がどうして、酒を飲んで遅く帰ってくるか、お分かりですか。あなたの顔を、見たくないから、ではないでしょうか。あなたに裁かれることは嫌だ。しかも、今の自分は、裁かれるに値する者だ、ということを、よく分かっている。だから、飲まずにおれない、と思われているのではないでしょうか。

若ければ、出直せるでしょう。しかし、年を取った今、一切が奪われてしまった。しかもそれは、自分の責任だとは思えない。日本が始めた、戦争の犠牲者になった、としか思えない。男が財産も地位も、一挙に失うということは、どれほど辛いことか。どんなに苦しいことか。まず、そのことを、理解してあげられる、妻になってもらいたいと思います。

せめて帰ってきた時の、怖い顔つきだけはよしなさい」。

牧師は、こう言ったのです。そして、その奥さんは、これをよく理解しました。

夫に対する態度が、変わったのです。三か月で、夫は教会に戻りました。

酒も飲まなくなりました。奥さんは、律法をもって、夫を裁いていました。そして、この夫のためにも、十字架についてくださった、キリストの姿を、見失っていたのです。

夫も、そして私も、同じように、十字架のキリストによって、赦されている者なのだ。そのことを、見失っていたのです。

私たちは、ついつい、評価や出来映えという、行ないによって、人を裁いてしまいます。

そういう私たちの心を、解き放つためには、ただ一つのことが必要です。

自分の目の前に、十字架につけられたままのキリストを、はっきりと描き出すことです。

そのイエス・キリストを、真っ直ぐに仰ぎ見る以外に、行いによって、人を評価する世界から、抜け出す方法はありません。

4節に、「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……」とあります。「あれほどのことを体験した」、と書かれていますが、一体、どのような体験であったのでしょうか。具体的に、記されていないので、分かりません。

私は、この体験とは、教会員一人一人の、救いの体験のことだろうと思います。

滅びの中にいた者が、一方的な恵みによって救われて、新しい命に生きる者とされた。その驚くべき体験のことだろうと思います。

私は、洗礼を受けた時、説明の付かない、喜びに包まれました。訳もなく、ただ、嬉しくて堪りませんでした。それは、他のどんな体験にもまさる、大きな喜びでした。

そのような体験を無駄にしてはならない、とパウロは言っているのです。

あなた方が、体験した恵みは、それほど偉大なものなのですよ、と言っているのです。

大切なことは、この喜びの体験を、繰り返して味わっていくことです。

礼拝の度に、十字架に付けられたままの、主イエスのお姿を、はっきりと描き出すことです。

11節以下で、パウロは、命懸けで語り伝えた福音を、ハバクク書2:4を引用して説明しています。ハバクク書2:4は、こう言っています。「神に従う人は、信仰によって生きる」。

パウロは、これを少し言い換えて、「正しい人は、信仰によって生きる」と述べています。

「正しい人は、信仰によって生きる」。

この言葉は、かつて、宗教改革の合言葉のように使われました。ルターは、このように述べています。

「何を長く論ずる必要があるのか。ここに、誰も取り消すことのできない、預言者の最も明らかな証しがある。正しい人は、信仰によって生きるのである。」

ルターによる宗教改革は、ハバククがこの言葉を語ってから、二千年も経っていました。

しかし、ルターは、この古の預言者の言葉を、信仰を守る戦いの、武器として用いたのです。神の言葉は、時代を超えて生きているのです。

「正しい人は、信仰によって生きる」。500年前の、ルターによるこの福音の真理の再発見が、世界の歴史を変えました。

皆さん、私たちは、自らの行いによっては、救われません。それでは、私たちには、希望はないのでしょうか。

そうではありません。私たちの罪の只中に、主の十字架が、堅く立つのです。

この十字架から、溢れ流れる、神様の愛と赦しは、信じる者すべてに、及ぶのです。

私たちも、この恵みと祝福の中を、十字架につけられたままのキリストを、仰ぎ見つつ、共に歩ませて頂こうではありませんか。