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過去の礼拝説教

「あなたは誰のものですか」

2013年07月07日 聖書:マタイによる福音書 22:15~22

ある哲学者が、「生きる目的とは何か。自分はいったい何者なのか」と考え出しました。

しかし答えが出ず、一日中思い悩んだ末に、夜更けの公園のベンチに一人座って、尚も悶々として思い巡らしていました。

それを見た警官が不審に思って尋ねました。「そこで何をしている。お前は何者か」。

するとその哲学者が言いました。「その答えこそ、私が今、必死に求めていることなのです」。「自分は何者か」。とても単純ですが、また、とても大切な問いです。

この問いに対する答えを、私たちは持っているでしょうか。

その答えを与えてくれる御言葉が、先ほど読んで頂きました、マタイによる福音書の22章15節から22節の御言葉です。

この箇所のテーマは、皇帝に税金を納めることが律法で許されているのか、いないのか、ということです。

一体、この御言葉からどうして、「私たちは何者なのか」という問いに対する答えが得られるのでしょうか。これから、ご一緒に御言葉に聴いてまいりたいと思います。

十字架に架かられるために、エルサレムに入城された主イエスを待ち構えていたように、人々が、入れ代わり立ち代り質問を投げ掛けました。

言葉じりを捕えて、主イエスを陥れるためです。

その中の一つが、皇帝への税金を納めるべきか、或いは、納めてはいけないのか、という質問でした。この問いを仕掛けたのは、ファリサイ派と、ヘロデ派の人たちでした。

ヘロデ派というのは、当時、ガリラヤの領主であった、ヘロデ・アンティパスの勢力に便乗して、様々な利得を得ていた人たちのことです。彼らは、現体制を支持していましたから、ローマ皇帝に税金を納めるのは当たり前だと考えていました。

それどころではありません。ローマに反逆するような人たちを見つけたら、直ぐに摘発して、ローマの権力に媚びるというようなこともしていました。

一方のファリサイ派というのは、それと全く反対に、ローマの支配から解放されて、イスラエルが神の民として独立し、繁栄することを、願っていました。

当然、ローマ皇帝への納税には反対の立場に立っていました。

納税に、賛成と、反対の両方の意見を持つ人たちが、結託して問い掛けることによって、主イエスの答えがどちらに転んでも、陥れられるように計ったのです。

普段は、この二つのグループは対立していて、お互いに反目し合っていました。

しかし、主イエスを捕らえるために、日頃は犬猿の仲であったこの二つのグループが、一時的に手を結んだのです。

もし主イエスが、納税しなさい、と言ったら、ファリサイ派の人々はそのことを言いふらすつもりでした。そうすれば、ローマへの納税に苦しみ、それを苦々しく思っている、民衆の支持を失うことになります。そして、多くの人々が、主イエスから離れていくでしょう。

また、もし主イエスが納税しなくてもよいと言ったなら、ファリサイ派の人たちはスッと姿を消して、代わってヘロデ派の人たちが主イエスを捕らえることが出来るように計ったのです。

この当時、ユダヤにはいくつかの税金がありましたが、今、ここで問われているのは人頭税です。

この人頭税は、成人した男女が、毎年一人一デナリオンを納めなくてはいけない、というものでした。その家の収入に拘わらず、一律一人当たり一デナリオンでした。

ですから、金持ちには楽であったでしょうが、貧しくて、家族が多い家にとっては、重い負担でした。

そのように、税そのものも大きな問題でしたが、更に深刻な問題は、宗教的なものでした。

この税金は、ローマの貨幣であるデナリオン銀貨で支払わなければなりませんでした。

19節で、主イエスは、「税金に納めるお金を見せなさい。」と言っておられます。

ローマのデナリオン銀貨には、皇帝の像が刻まれていました。

そのことを、ユダヤ人たちは、「いかなる像も作ってはならない」という戒めを破るものだと考えていたのです。

更に、デナリオン銀貨には、「崇拝すべき神の、崇拝すべき息子、皇帝ティベリウス」という銘が刻まれていました。

更にその裏には、息子と共同の支配者となった皇帝の母の像が、神々の座に座っている姿で描かれており、「大祭司」という文字が刻まれていました。

ですからこの銀貨は、ただの貨幣というだけでなく、宗教的な主張を持っていたのです。

ユダヤ人たちは、この銀貨を使うときには、貨幣から目を逸らせて、肖像を見ないようにしていたと伝えられています。この貨幣を見るだけで、偶像礼拝に結びつくと考えたからです。

しかし、ここで主イエスは、意図的にその銀貨を持ってこさせました。

主イエスは、持ってこられた銀貨をはっきりと人々に見せ、そして尋ねられました。

「これは、だれの肖像と銘か」。

この、主イエスの問いに、人々は、「皇帝のものだ」と答えざるを得ません。

そこで、主イエスは、直ちに言われました。

「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

この言葉は、大変有名な言葉です。クリスチャンでない人にも良く知られています。

そして、教会と国家との関わりを問う時に、必ずと言ってよいほど、引用される御言葉です。

昔から、この箇所を引用して、主イエスは、政治は政治、信仰は信仰と、それぞれを、別のものとして切り離されたのだ、と説く人たちがいます。

そのように読むことは、必ずしも間違ってはいないと思います。

しかし、この御言葉を、ただ、そのようにだけ受け取ることは、大変危険です。

「皇帝のものは皇帝に返しなさい」、と主イエスも命じられたではないか。

歴史を振り返りますと、そのように言って、時の権力者たちが、この御言葉を悪用した事が、過去に何回もあるからです。

この御言葉が、私たちに語り掛けているのは、政治と宗教の分離という問題よりも、もっと深いものです。

ここで、大切なことは、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」という言葉ではありません。

そうではなくて、「神のものは神に返しなさい」。この言葉の方が、遥かに重要なのです。

主イエスが、関心を注がれたのは、「神のものを神に返すこと」でした。

それが第一のことである、と言われたのです。

主イエスは、「神のものは神に」と言われました。

しかし、ここで言われている「神のもの」とは、具体的には何を指すのでしょうか。

主イエスは、ここで、ローマの貨幣を手にして見せながら、「これは、だれの肖像と銘か」と問われました。その貨幣には、皇帝の像が刻まれていました。

主イエスは、それを人々に示しつつ、皇帝の像が刻まれているこの貨幣は、皇帝のものだ。だから、皇帝のものは、皇帝に返しなさい、と言われました。

同じように、神様の像が刻まれているものがあるではないか。

それは、神様のものであるのだから、神様にお返しすべきなのだ。

「あなた方は、それが何だか分かるか」、と主イエスは問いかけておられます。

神様の像が刻まれているもの、一体それは、何なのでしょうか。

そう問われて、皆さんの中には、もう既に、創世記の1章を想い起しておられる方が、おられると思います。

創世記1章において、神様は、ご自分のお姿に似せて人を造ったと、書かれています。

私たちは、みな、神様のお姿を宿しているのです。神様の像を刻まれ、神様の御言葉が彫り込まれているのです。それが、私たち一人ひとりなのです。

使徒パウロも、エフェソの信徒への手紙の中で、こう言っています。

「あなた方もまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」。

私たちには、神の霊によって、証印が押されているのだ、とパウロは言っています。

ちょうど西部劇で、カウボーイが牛のお尻に、その牛の持ち主の焼印をジューと押すように、「これは私のものだ」、という神様の焼印が、私たちには押されている、というのです。

そのように、私たちは、神様のものとされている。

そうであるなら、最も大切なことは、神様のものである私たちを、神様に返すということではないか。主イエスは、そう言われているのです。

神様にかたどって造られた自分自身を、神様に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として献げること。これこそ、最も大切なことであると言われているのです。

そのように神様のものである自分を、神様にすべてお返ししたときに、私たちは全く自由になります。

この世も、この社会も、すべては神様のご支配の下にあるのです。

すべてを支配されておられる神様に、すべてを委ねていく時、初めて、皇帝のものを、皇帝に返すことが出来るという自由を生きることが可能となるのです。

主イエスは、そのような生き方をここで示されたのです。

このことを示されたファリサイ派の人々は、それ以上何も言うことができず、ただ驚いて立ち去りました。

自分を神様に献げ切っていないことを、主イエスから示されたからです。

神様に、委ね切っていない自分を示されたからです。

だから、まことの自由に生きていないことが、分かったからです。

さて、初めの問いに戻ります。

今朝の御言葉で、主イエスはこのようにして、「私たちは何者か、私たちは、誰のものか」、という問いに対する、答えを示してくださいました。

あなた方は、本来、神様の姿を宿す者として造られた。だから、あなた方は、本来神様のものなのだ。

しかし、罪を犯したために、その神様の姿が消えてしまっている。神様の刻印が消えてしまっている。

今、あなた方に必要なことは、自分自身を神様に献げ、再び神様のものとして頂くことなのだ。それが、最も大切なことなのだ。その時、あなた方は、自由に生きる者とされるのだ。

皇帝に税金を納めても良いのか、悪いのかとか、デナリオン銀貨に刻まれた像を見てはいけないとか、そういうことに捕らわれて、毎日びくびくして生きる必要はなくなるのだ。

すべてを支配しておられる神様のものとされて、その神様にすべてを委ねて、自由に生きられるのだ。主イエスは、このように言われたのです。

あなたは誰か。誰のものなのか。これは、すべての人にとって、非常に大切な問いです。

私が神学生であった時、聖日派遣先の教会で、「みんなのカテキズム」という本を中高生の仲間と一緒に学びました。

この本は、やさしく書かれた信仰問答書です。その第一問は、大変面白い問いです。

問い1.「あなたは誰ですか」。いきなりこう問い掛けているのです。

「あなたは誰ですか」。そして、その答えが直ぐ下に書かれています。

「わたしは神様の子どもです」。

このカテキズムが言いたいこと。それは、信仰を持っているとはどういうことかと言うと、「あなたは誰ですか」、と問われた時に、「わたしは神様の子どもです」と答えられるということだ、というのです。

このことを学んだ後で、私は、中高生に白い紙を渡して、出来るだけ多く「私は、○○です」と書いてみてください、と言いました。

皆、考えながら、次々に書いていきました。

「私は○○です」と、まず自分の名前を書きました。続いて「私は、○○中学の3年生です」。「私は、○○部の部員です」。「私は、○○家の長女です」。「私は、○○市の市民です」。

皆さん、ご自分でなさってみると分かりますが、それほど多く書ける訳ではありません。

自分が何者であるかを、普段あまり考えていないことが良く分かります。

10個位書ければ多い方です。

書き終わったところで、私は皆にこう言いました。「それでは、その後に、『だから、私は死んでも大丈夫です』、と付け加えて読んでみてください」。

「私は○○中学の3年生です。だから、私は死んでも大丈夫です」。これはおかしいです。

「私は、○○家の長女です。だから、私は死んでも大丈夫です」。これもおかしい。

「私は、茅ヶ崎市の市民です。だから、私は死んでも大丈夫です」。これも繋がりません。

皆が、色々考えて、「私は、○○です」と書きましたが、そのどれにも、「だから、私は死んでも大丈夫です」という言葉は、繋がらないのです。

その中で、たった一つ、ピタッと繋がるものがある。

それが、「わたしは神様の子どもです」、という答えです。

「わたしは神様の子どもです。だから、私は死んでも大丈夫です」。

これはおかしくないのです。ピタッと繋がるのです。

このことは、私たちに大切なことを教えてくれます。

「私は、○○です」、という言葉は、私たちの存在を言い表している言葉です。

私たちは、色々な仕方で存在しています。茅ヶ崎市民であるとか、○○会社の社員であるとか、○○学校の生徒であるとか、○○家の主婦であるとか。様々な形で存在しています。

しかし、そのような存在の仕方の、どれ一つを採っても、死を乗り越えられないのです。

死を突き抜けてまで、私は○○です、と言えるものが無いのです。

でもその中で、たった一つだけ、死を超えられる存在の仕方がある。

それが、「私は、神様の子どもです」という存在の仕方なのです。

私は神様の子どもなのだ。私は、神様の子どもにして頂いたのだ。

そのことだけは、死を超えるのです。死を突き抜けるのです。

ですから、私たちは、自分のことを色々と言い表しますけれど、本当は、「あなたは誰ですか」と問われた時に、真っ先に書かなければいけないことは、「私は、神様の子どもです」という答えなのです。

それが、私たちの存在の根底を支えている事実なのです。

そして、その事実を与えるために、主イエスが、救いの出来事を起こしてくださったのです。

本来、神様のものとして造られた私たちが、罪に捕らわれ、罪の奴隷となってしまった。

主イエスは、そのような私たちを、再び神様のものとするために、再び神様の子とするために、十字架に架かってくださったのです。

イギリスに救世軍の運動が起こった頃の話です。

一組の夫婦が救世軍に加わり、集会に参加しました。

すると、皆の着ているシャツに、二つの単語が刺しゅうされているのに気が付きました。

でも、その夫婦は、貧しくて学校に行けなかったものですから、字が読めません。

それでも皆と同じシャツを着て、皆の仲間になりたいと強く願いました。

そう思いながら町を歩いていると、さっき皆のシャツに刺しゅうされていた単語とよく似た単語が、あるお店に掲げてあるのに気が付きました。

二人は、「あー、きっとこの字だ」と思って、その字の形を書きなぞって、家に帰ってシャツに縫いつけました。

翌週の集会にそのシャツを着ていくと、他のメンバーが「わぁー」と言って駆け寄ってきました。そして、口々に「これこそ、私たちの信仰の本質だ」と言って、その言葉を称賛しました。

そこには、何と書いてあったのでしょうか。

実は「Owner Changed」、日本語に訳すと「持ち主が変わりました」、と書かれてあったのです。そのお店は、経営者が変わって、新しい持ち主になった記念のセールをしていたのです。

しかし、これこそが、私たちの信仰の本質なのです。

Owner Changed、持ち主が変わったのです。

主イエスの十字架の救いを信じることによって、私たちの持ち主が変わったのです。

罪の支配から贖いだされて、神様のご支配に入れられたのです。

主イエスは、言われています。

私の十字架によって、あなたは神様のものとされたのだ。もう、あなたは神様のものなのだ。御覧なさい、失われていた神様の刻印が、またはっきりと、あなたに押されているのが見えるではないか。神様の御姿が、あなた方の中に見えるではないか。

もうあなたは、神様のものなのです。

だから、そのすべてを神様にお返しするような生き方を生きなさい。

主イエスは、そのように言われているのです。

この主イエスの恵みを感謝し、この主イエスの招きに応えて、神様のものを神様にお返していくお互いとして、歩んでいきたいと願います。