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過去の礼拝説教

「主よ、憐れみたまえ」

2013年11月03日 聖書:ルカによる福音書18:9~14

今朝は、主イエスの譬えを通して、祈りについて、御言葉からご一緒に聴いてまいりたいと思います。

「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった」。譬え話はこのように語り始めています。

ファリサイ派の人たちは、当時のユダヤ人社会における宗教的指導者でした。

ファリサイ派という呼び名は、「自分を他の人から区別している」という意味のニックネームです。パリサイ派の人たちは、どういう点で一般の人と区別されていたのでしょうか。

どこが他の人たちと違っていたのでしょうか。

彼らは、極めて厳しく律法を守り、極端なくらいまじめに生きようとしていたのです。

一生懸命に信仰生活を全うしようとしていたのです。

今日の教会で言えば、忠実に教会生活を励んできた、模範的な信徒ということができます。例えば、礼拝では進んで司会をし、祈祷会では堂々とした祈りを献げてくれるような人です。

一方の徴税人は、ユダヤ人たちから取り立てた税金を、ローマ帝国に引き渡す仕事をしていた人です。そして、多くの場合、不正な取り立てをして、その一部を着服するという、律法に違反する行為を行っていました。

主イエスは、当時の社会において、対照的な立場にいる二人の人を取り上げながら、祈りとは何かということについて語られました。

ファリサイ派の人は立って、心の中でこう祈りました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」。

奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でないということは、律法をきちんと守っているということです。律法を守っていない徴税人とは対照的です。

更に、週に二度の断食をしているとあります。律法は特定の日を断食の日として定めていましたが、週二度というのは、律法が定める以上の断食を行っていたということです。

当時、ファリサイ派の人たちは、モーセが律法を受けるためにシナイ山に登ったとされる木曜日と、シナイ山からの下山した日とされる月曜日を記念して、二度の断食をしていました。

その上、全収入の十分の一の献げ物も、きちんとしているというのです。

模範的な信仰生活、或いはそれ以上の驚くべき生活と言ってもよいでしょう。

これに対して、徴税人の方は、遠くに立つしかなかったと語っています。

そして目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言いました。

胸はその人の人格の中心を意味すると言われます。それを打つということは、悲しみを表す行為でした。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。 短い一言です。

その言葉の通り、この徴税人は罪の中にある者でした。

この人の生き方は、蔑まれることはあっても、ほめられることはありませんでした。

後ろ指さされることはあっても、敬われることはありませんでした。

神様の前に立ちながらも、祈るにも祈れないような状態に身を置いていたのです。

どちらが人間として、また信仰者としてすぐれているか、誰の目にも明らかでした。

ですから、この話しの最後に出てくる、14節の御言葉に驚かされるのです。

主イエスはここで、徴税人の祈りを受け入れられ、ファリサイ派の人の祈りを批判しておられるからです。

「言っておくが」と主イエスは言われました。この言い方は、主イエスが、これから言おうとしていることを、特に強調しようとするときに用いられた言葉です。

「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」。

大逆転の言葉です。さらっと聞き流すことのできる言葉ではありません。

どういう意味かよく考えて、私たちの信仰生活に刻み込まなければならない言葉です。

ファリサイ派の人のどこが悪く、徴税人のどこが「義とされる」のでしょうか。

ある神学者が、この誓え話の中の「二人の祈りの違い」について語っています。

「すべての祈りの本質は、神を相手としてなされる対話です。このことから逸らせる意図が紛れ込めば、祈りは世俗化します。それでも神と対話しているかのように見せかけるならば、その祈りは神を冒瀆する偽善になってしまいます」。

祈りとは、神様との対話であって、それ以外の要素が入り込んだ祈りは、たとえ祈りの形を取っていたとしても、それは祈りではなく、偽善的な行為に過ぎない、と言っているのです。また別の人が、同じことを、次のように言い換えて語っています。

「祈りとは、森の中で迷子になって泣いていた子どもが、どこからか自分の名を呼ぶ父親の声に気付いて、『お父さん、僕はここだよ』と言う。それが祈りなのです。祈りとは独り言ではなく、対話なのです」。

ファリサイ派の人の祈りは、自分と周りの人だけに対して語っています。神様と対話していません。そこが問題なのです。

ですから、主イエスは、このファリサイ人の祈りを、祈りと認めておられないのです。

これは、神様に語り、神様に聴かれている祈りではない、と言われているのです。

どんな立派な祈りでも、神様に語り、神様に聴かれる祈りでなければ、祈りにはなりません。それに対し、徴税人の方は、自分の罪を深く悲しみ、憐みと赦しを願って、神様に縋り付こうとしています。神様との結び付きを求めています。

立派な宗教的生活を送っているファリサイ派の人の祈りは、実は神様との対話になっていません。

一方の徴税人の方は、その生き方もほめられたものではなく、蔑まれても仕方のないような人でした。彼は、正面切って、神様の前に出られないような状態にありました。

しかし、その中で神様の憐れみを求め、神様と結ばれることを願い、そして祈ったのです。

いえ、祈ったというよりは、うめいたのです。祈りにならないうめきを上げたのです。

ファリサイ派の人の行為がどんなに立派であっても、自分はこれだけのことをしたという彼の言葉は、言わば業績報告であって、祈りではありません。

彼は、自分の功績を頼みとしていて、神様を頼みとしてはいません。神様の前に立っていながら、実は神様を無視しています。

あの人のような者でないことを感謝しますというのは、神様の恵みに打たれた真実の感謝ではありません。彼は、自分を義人だとして、他人を見下げています。

彼の高慢な心は、神様の赦しを求めず、他者に対する愛をなくさせています。

そのような祈りは、本当の祈りではありません。私たちが献げるべき祈りではありません。

しかしそれでは、私たちは、徴税人の祈りを、自分の祈りとして祈ることができるでしょうか。

彼は、胸をたたいて、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と、うめくように祈りました。

この祈りを、私たちは心から祈ることができるでしょうか。

キリスト教の伝道が難しいのは、事ある毎に「私たちは罪人です」と言うからだ。そのように指摘する人がいます。

誰も自分で、自分は罪人だとは言いたくない。罪人とは思いたくないのです。

まして人から、あなたは罪人だ、などと言われたくない。

「私は罪人です」と言うのは、自分を傷つける自傷行為のようだ、と言う人さえいます。

自己評価が低すぎるのは却って良くない、というのです。

しかし、突き詰めていきますと、そのような思いは、結局、ファリサイ派の人のように、自己評価の高い業績報告をしなさい。それができるように努力しなさい、ということに繋がっていきます。

そして、それは更に、自分の汚れた部分や悪いところを、できるだけ神様に隠しておこう、という気持ちにまで発展していく危険性があります。

祈りの中でさえ、恰好をつけ、自分を取り繕うとする思いに繋がっていきます。

しかしこれは、考えてみれば滑稽なことです。神様は、私たち以上に、私たちのことを、すべてご存知です。その神様に、自分を取り繕っても、所詮は無意味な筈です。

でも、ややもすると、私たちは祈りの中でさえも、神様に対して良い格好をしようと、懸命になることがあります。

インドのある孤児院に、男の子が連れて来られました。その男の子は、いつも左手をしっかりと握り締めていて、決してその手を開こうとしません。

どこで、何をするにも、寝ている時でさえも、左手は握ったままです。

不審に思った職員たちが、夜、その子が寝入った後で、無理やり左手をこじ開けました。

すると、その手の中には、干からびた小さな一かけらの肉片がありました。

その男の子は、飢え死にしそうになったとき、最後にこの肉を食べよう。この肉だけは、どんなことがあっても手放さない。そういう思いで、この干からびた肉片を握り締めていたのです。孤児院には食べるものがいっぱいあって、もう何の心配もないのに、その子は、これだけは人に渡さないと、しっかりと握り締めていたのです。

この男の子のように、私たちも、神様は、すべてをご存知であることを知っていながら、尚も、これだけは明け渡したくない、これだけは隠しておきたい、というものを愚かにも握り締めていることがあります。神様に、完全に明け渡すことができない弱さを抱えています。

自分の中の最も醜い部分、自分でも認めたくない真っ黒な部分をもさらけ出して、赦しを求めて祈る。それは、それほど簡単なことではありません。

このことは、私たちの中にも、ファリサイ人の祈りの要素がある、ということを示しています。

では一体、どうしたら私たちは、徴税人のように祈ることができるのでしょうか。

徴税人は、なぜあのように自分をさらけ出して、神様の憐れみを求めることができたのでしょうか。そして主イエスは、なぜ徴税人の祈りを「義とされた」のでしょうか。

「義とされた」と主イエスが仰ったのは、徴税人の祈りの言葉、それ自体が優れていたからではありません。

もし、この祈りの言葉が義とされる「条件」であるなら、一日に、二度でも三度でもこの祈りを祈っていますと、得意になって業績報告をするファリサイ人が出てくると思います。

私は、主イエスが褒めてくださった徴税人になれた、と自分の業績を誇る人が出てきます。そして、「神様、私はこのファリサイ人のような人間でないことを感謝します」、と心の中で秘かに呟く人が出てくるのです。

そのように私たちは、性懲りもなく、ファリサイ人になりたがる危険性を常に持っています。それが、私たちの罪の深さです。ファリサイ人の過ちを教えられた私たちが、今度はファリサイ人を見下げて生きる徴税人になってしまうならば、本当に悲しいことです。

それだけに、襟を正して主の御言葉を聞きたいと思います。

10節に、「二人の人が祈るために」とあります。徴税人も祈りに来ていました。しかし、採りようによっては、この徴税人は祈ってもいません。

「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った」。

胸を打ちながら「祈った」とは書いてありません。祈った、という言葉を使うこともできないほどの思いで、神様に向かう姿がそこに描かれています。

徴税人は、自分には祈る資格すらないと思っていたのです。

自分の祈りが必ず聴かれるという確信も持てなかったかも知れません。しかし、他のどこに行くこともできない。その心の中にあるのは、自分についての深い絶望、悲しみだけです。

神様の前に、誇りうるものは何一つもっていないのです。

同じような、悲痛な叫びを詠った詩が、詩編130編にあります。詩編130編の1節から4節までを読みます。旧約聖書の1123ページまたは973ページです。

「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。/

主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。/

主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。/

しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。」

詩人は、「主よ、わたしは深い淵の底からあなたを呼びます」と歌い始めています。

深い淵の底にあるような自分。しかし、その淵の底から、なお天の父を呼ぶ声は与えられているのです。その声が、神様のみもとに届くことを、ひたすらに願っているのです。

なぜ詩人は、深い淵の底にいるような思いに捕らわれているのか。

それは、罪の事実があるからです。

「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう」。

耐えられないのです。真正面から神様の眼差しを受け止められる私たちではないのです。

けれども、その続きがあります。

「しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。」

「しかしあなたには赦しがある」。これは言うことが出来ます。このことは言わせていただけるのです。あなたには赦しがある。ここにしか私たちの望みはありません。

この詩編の心こそ、徴税人の心です。そして、また、私たちの心です。

徴税人は、神様の赦しに、唯一の望みを置いて祈っています。そこでしか祈れない自分を知っています。神様には、赦しがある。神様には、憐れみがある。

彼は、その神様の憐れみを信じています。

だから憐れみを求めて祈ることができたのです。神様の憐れみの中で、徴税人は祈ることができたのです。

憐れみの神様を信じていなければ、彼はそのように祈ることはできません。

その神様の憐れみを、主イエスはこの譬えによって語られたのです。

先ほど、祈りとは、神様との対話だと申しました。しかし、本来は、全き義と聖である神様との対話に、罪の中にある人間は誰も耐えることはできないのです。

しかし、それが耐えられるのは、ただ、神様が赦しの神、憐れみの神であるからです。

主イエスがそれを、十字架の御業によって示してくださったからです。

ですから、私たちは、その主イエスのお名前によって祈ることができます。

主イエスの十字架が、祈りの根拠です。神様の憐れみが、祈りの根拠なのです。

ですから、私たちの祈りの原点は、「主よ、憐れみたまえ」。この短い言葉です。

「主よ、憐れみたまえ」。先日も申しましたが、この短い言葉は、教会長い歴史の中で、キリスト者の祈りのエッセンスとして大切にされてきました。

「主よ、憐れみたまえ」。私たちが、神様の前で祈ることが出来る言葉は、本来は、この言葉の他にはありません。勿論、そのほかの言葉で祈ることも、私たちには許されています。

しかし、私たちのすべてを、私たち以上に御存知の主に対して、私たちが祈ることのできる言葉は、突き詰めていきますと、「主よ、憐れみたまえ」、この一言に凝縮されるのではないでしょうか。

私たちは、先ず、「主よ、憐れみたまえ」と祈る者でありたいと思います。

さて、この徴税人はその後どうしたでしょうか。

「主よ、憐れみたまえ」、と祈りを献げた後は、もう罪を犯さなくなったでしょうか。

そんなことはないと思います。恐らく、この人は、それからも繰り返して罪を犯し続け、そのたびに「主よ、憐れみたまえ」と、同じように祈ったと思います。

それでは、祈ることは、その人に何の変化ももたらさないのでしょうか。

自傷行為を繰り返す若者と同じなのでしょうか。

そうではありません。何度も、何度も、同じ祈りを繰り返していくうちに、人は罪の深さ、罪の恐ろしさを、本当に知るようになります。

「あぁ、私は、また十字架の上で、主イエスに新たな血を流させてしまった。私が、新たな罪を犯すごとに、主イエスは十字架でまた新たな血を流されて、苦しまれる」。

そのような思いに導かれます。

そして、このままではいけない。私は、変えられなくてはいけない、と心から願うようにされていきます。そして、実際に、祈りの中で人は少しずつ変えられていきます。

「主よ、憐れみたまえ」。この短い祈りは、人を変える力をもっています。

私たちは、主の赦しと、憐れみを信じて、この「主よ、憐れみたまえ」という祈りを、祈り続けていきたいと思います。