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過去の礼拝説教

「憎しみから赦しへ」

2013年08月18日 聖書:コロサイの信徒への手紙 3:12~17

アメリカのある墓地に、ちょっと珍しい言葉が刻まれているお墓があるそうです。

そのお墓には、ただ一言、「Forgiven、赦された!」と刻まれているのだそうです。

そのお墓に葬られている人は、きっと何か大きなことを赦されたことがある人なのでしょう。赦される筈がないと思っていた自分が赦された。

それは、言葉に言い表せないほどの喜びであり、感謝であったと思います。

自分の人生を一言で表すなら、それは「赦された」という喜びに生かされた人生であった。

だから、その思いをお墓に刻むようにと、遺族に頼んだのではないかと思うのです。

赦されるということは、それほど素晴らしいことなのです。

しかしそれは、裏を返せば、赦すということがどれほど難しいか、ということでもあります。

赦したつもりでいても、何かの折に、その時のことが思い出され、心に嵐が吹き荒れる。

そういう経験を、誰もが持っているのではないでしょうか。

心から人を赦すということは、本当に難しいことです。

人間に対して深い洞察力を持っていたパウロも、そのことをよく知っていた筈です。

しかし、そのパウロが、先ほど読んでいただいたコロサイの信徒への手紙3章13節で、赦し合うことを勧めています。

「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい」。

パウロは、コロサイの教会の信徒たちに対して、互いに赦し合いなさいと言っています。

しかも、相手に責めるべきことがあったとしても、赦しなさいと勧めています。

赦すことの難しさを十分に知っている筈のパウロです。

そのパウロが、それでも尚、赦しなさい、たとえ相手に明らかに責めるべきことがあったとしても、赦しなさいと言っているのです。

なぜパウロは、こんなことが言えるのでしょうか。

注意深く御言葉を読みますと、パウロは、ただ闇雲に「赦しなさい」と言っているのではないことが分かります。

私たちには赦す根拠があるのだ。いえ、赦さなければならない根拠があるのだ、と言っているのです。

その根拠とは、「主があなたがたを赦してくださった」、ということなのです。

先ず、主が、あなたがたを赦してくださった。あなた方は、既に赦されている。

だから、そのように、あなた方は赦し合いなさい。相手に責めるべきことがあったとしても、赦し合いなさい。パウロは、そう言っているのです。

そのような生き方は、世間的に見れば、「損な生き方」、「お人好し」な生き方であると見られます。しかし、パウロは、敢えて言うのです。

「あなた方は、お人好しでいなさい。損と思われるような生き方をしなさい」。

なぜなら、あなた方は、キリストによって、無条件に、無制限に、赦されているのだから。

背き続けるあなた方のために、キリストは十字架にかかってくださり、あなた方の罪を代って負ってくださったではないか。

そんな桁外れのお人好しによって、あなた方は赦されているのだ。

しかも、その大きな恵みを、“ただ”で頂いているのだから、あなた方は、とんでもなく得をしているのだ。

だから、「赦しに生きる」という損な生き方をしてご覧なさい。それでも尚、有り余るほどのお釣りが来る筈だ。パウロは、そう言っているのです。

パウロは、いつも、主の恵みが、まず先にあることを語っています。

今日の箇所の12節でもこう言っています。

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」。

まず、主が、あなた方を選んでくださり、聖めてくださり、愛してくださった。

その恵みの事実が、既にあなた方に与えられている。だから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい、とパウロは言っているのです。

あなた方を選び、聖め、愛してくださる主の恵みに、本当に生かされる時、あなた方に憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容という御霊の実が与えられるのだ、と言っているのです。

自分で頑張って、努力して、このような御霊の実を獲得しなさい、と言っているのではありません。

主の恵み、主の赦しがあってこそ、私たちは赦すことが出来るし、御霊の実が与えられるのです。そうでなければ、私たちの内には、赦す力はないのです。

更にパウロは、14節で、私たちの信仰生活の要になるような言葉を語っています。

「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」。

ここでパウロは、すべてを完成させる絆である愛を欠いたなら、どんな善い行いも、むなしいと言っています。

たとえ、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」を身につけたとしても、もし愛がなければ、一切は無益であり、むなしいというのです。

絆と訳された言葉は、「共に結ぶもの」という意味の言葉です。帯のようなもののことです。

どんなに善い着物を身につけていても、帯が無いと着物が身体から離れて、バラバラになってしまいます。

そのように、愛という帯がなければ、信仰も、知識も、善い業も、身体から離れて、身に着きません。

この愛の帯で結ばれていないと、形だけの「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」となってしまいます。形だけの赦し合いになってしまいます。

愛を欠いた赦し、愛を欠いた憐れみ、愛を欠いた謙遜、柔和、寛容は、知らず知らずの内に、自分中心の行いになって行きます。

そして、いつしかそれを誇りとする傲慢な心へと繋がっていきます。

そうではなく、十字架の主イエスを見上げつつ、愛をもって全てのものを結び合わせなさい。パウロはそう言っているのです。

その時に「キリストの平和があなたがたの心を支配するように」なる、と続けて語っています。ここに出てくる「支配する」という言葉は、元々は「審判者の如くふるまう」、という意味の言葉です。

すべての判断を、審判者であるキリストに委ねる時、真の平和が実現する、というのです。

何事においても、キリストに審判者になってもらう時に、まことの平和が実現するのです。

「こういう時、イエス様、あなたならどうされるでしょうか」、と審判者であるイエス様に、いつも問い続けるのです。

愛の主、平和の主であるキリストに、審判者になってもらうなら、争いが起こる筈がありません。ここにまことの平和を実現する鍵があります。

そのためには、16節にあるように、キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしていなければなりません。

イエス様ならどうなさるだろうか。その問いに対する答えは、聖書の御言葉の中にあるからです。ですから、答えがいつでも与えられるように、聖書の御言葉が、いつも豊かに心に宿っていることが大切なのです。

他のものが入り込む余地がないほどに、主イエスのお言葉で心が満たされている。

もし、私たちが、そういう者であるなら、争いと憎しみではなく、平和と赦しに生きることが出来る筈です。

もし、私たちの心が、主イエスの言葉で満たされているなら、主イエスの平和が私たちの心を支配し、周りの人たちとも平和に生きることが出来る筈です。

しかし、私たちの心が自分中心の思いで満ちている時、私たちは人を赦すことができません。平和に生きることができません。

憎しみの連鎖、或いは、報復の連鎖という言葉があります。

報復、つまり仕返しです。やられたらやり返す、やり返されたら、再びやり返す。

私たちの心に、自分中心という思いがある限り、仕返しという鎖が延々と続きます。

世界の歴史は、この繰り返しでした。

一体、憎しみの連鎖、報復の連鎖はどうすれば断ち切ることが出来るのでしょうか。

答を出すのはとても難しいことです。でも、考えようによっては、簡単であるとも言えます。

それは、延々と繋がる憎しみと報復を、誰かが、どこかで止めればよいのです。

でも、その簡単なことが、実際には不可能と思われるほどに困難なのです。

しかし、私たちの主、イエス・キリストは、十字架によって、この憎しみの連鎖、報復の連鎖を断ち切る道を開いてくださいました。

主イエスは、十字架のうえで、自分を十字架につけた人たちのために祈られました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

憎しみに対して、愛をもって応える。それも、命懸けの愛をもって応える。

この主イエスのお言葉こそが、延々と繋がる憎しみの連鎖、報復の連鎖を断ち切る唯一の鍵です。私たちが、平和に生きるための唯一の道筋です。

人間は、平和のためと言いながら争い、お互いに自分中心の正義を振りかざして、憎しみや報復の連鎖を生み出しています。

ですから、まことの平和は、人間の力では作り出すことはできません。

平和運動の働きは、もちろん尊いものだと思います。

私は、それを否定している訳ではありません。

しかし、私たちに本当に求められていることは、平和を作り出すために、自分の力に頼ることではありません。

そうではなくて、キリストの平和が、先ず私たち自身のうちに実現することを、祈り求めることだと思います。

ご自身の命を十字架に献げてまで、憎しみの連鎖、報復の連鎖を断ち切ってくださった主イエス

その愛を、私たち自身に、そして私たちの周りに、実現していくことなのです。

真珠湾攻撃の中心人物、淵田美津夫海軍大佐は、戦後クリスチャンとなり、伝道者として献身の道を歩みました。

彼は、信仰を持ったきっかけについてこのように証していま

淵田は、戦勝国アメリカによる一方的な軍事裁判を憎んで、何とかして報復してやろうと、日本人捕虜に対するアメリカ人による虐待の事実を一生懸命に取材して歩きます。

アメリカ人による非人道的な虐待の事実を出来るだけ多く集め、それらを軍事裁判の時に示して、アメリカに対するしっぺ返しの材料に使おうと思ったのです。

ところが、ユタ州の収容所にいたという日本人捕虜から、思いがけない話を聞きます。

その収容所に、20歳くらいのアメリカ人の娘さんが毎日のように通ってきて、日本人の捕虜たちを親身になって世話してくれたというのです。

捕虜たちは、初めのうちは、何か売名的な意図でもあるのだろうと思っていました。

しかし、二週間、三週間と日が経っても、この娘さんの行為にはいささかの邪心も見られなかったのです。

病人には特に優しく、肉親でも及ばないような看護をしてくれました。

捕虜たちが何か不足していると、翌朝には買い揃えてくるという徹底した世話の仕方でした。その姿勢に心を打たれ捕虜たちは、彼女に質問します。

「あなたは、敵国の捕虜のために、何故こんなにまで親切にしてくださるのですか」。

娘さんはなかなかその理由を話しませんでしたが、あまり問い詰められるので遂に口を開きました。 その返事はなんとも意外でした。

「それは、私の両親が、あなた方日本の軍隊によって殺されたからです」。

両親が日本の軍隊によって殺されたから、日本軍の捕虜に親切にしてやるというのは、話が逆です。つじつまが合いません。一体、どういうことなのでしょうか。

その娘さんは、マーガレット・コヴェルという名前でした。

彼女の両親は、日本に遣わされていたバプテスト教会の宣教師だったのです。

神戸や横浜で宣教し、関東学院の宗教主任も務めたことがあったそうです。

日米関係が危うくなってきたので、引き上げ勧告に従ってコヴェル宣教師夫妻はマニラに移りました。

間もなく日米開戦となって、マニラも日本軍の占領するところとなったので、コヴェル夫妻は北ルソンの山の中に隠れました。

やがてアメリカ軍の反撃が始まり、追われて北ルソンの山中に逃げ込んだ日本軍が、コヴェル夫妻の隠れ家を見つけ、夫妻は捕えられました。

コヴェル夫妻が小型のラジオを持っていたことから、スパイであると疑われます。

「いや、自分は戦闘員ではない。日本のために尽くした宣教師である」、と言っても聞き入れられませんでした。夫妻は、裁判にかけられることもなく、その場で、日本刀によって首を刎ねられ処刑されてしまいました。

暫くして、そのことが、ユタ州で留守を守っていたマーガレットさんに伝えられました。

非戦闘員の両親を、調べもせずに処刑したと聞かされて、マーガレットさんの心は、胸が張り裂けるような憎しみと怒りに覆われました。

しかし、処刑の現場を目撃した現地の人の報告を読んで、彼女は考え直すのです。

その報告によると、コヴェル夫妻は、両手を縛られ、目隠しをされて、日本刀の下に首を差し出しながらも、心を合わせて熱い祈りを献げていたというのです。

やがて静かな夜がマーガレットさんを訪れたとき、彼女は「殺される前の三十分に、両親は何を祈ったのだろうか」と考えました。

そして、「おそらく両親は日本のために祈っただろう」との思いに至りました。

もしそうであるなら、私がすべきことは、日本人に憎しみを返すことではない。

憎いと思う日本人に対してこそ、両親の志を継いで、イエス・キリストを伝えることだ、と思ったのです。

しかし、未だ戦争は終っていなかったので、日本には行くことができませんでした。

ですから、自分が住んでいる町の近くの収容所にいる日本人捕虜に、こうして仕えているのだと話してくれたそうです。

淵田美津夫はこの話を聞いて激しく感動し、自分も憎しみに終止符を打たなければならないと思いました。そして、アメリカ人による捕虜虐待の調査を即刻止めました。

更に淵田は、コヴェル宣教師夫妻が最後に祈った、その祈りの言葉を知りたいという思いに駆られました。

暫くして淵田は、聖書を買い求めて、読み始めました。

一ヶ月ほど読み進んで、ルカによる福音書23章に入りました。そして、34節の御言葉に出会ったのです。 「父よ、彼らを赦したまえ、その為す所を知らざればなり」。

この御言葉を読んで、淵田はハッと、マーガレットさんの話が頭にひらめきました。

あぁ、これだ!コヴェル夫妻が祈った最後の祈りの言葉は、これに違いない!

淵田はそう確信しました。

「天の父なる神様、今、日本兵が私たちを殺そうとして日本刀を振り上げています。

どうか、この人たちを赦してあげてください。

この人たちは何をしているか分からずにいるのです」。

コヴェル宣教師夫妻はこのように祈ったに違いない。そう示されて、淵田の目から涙が止め処もなく流れました。

この御言葉に出会って、淵田は主イエスを信じ、クリスチャンとなり、やがて伝道者となったのです。

「彼らをお赦しください」という「彼ら」の中に、この私も含まれている、と示されたからです。

淵田は、この祈りに立たなければ、憎しみと報復の連鎖は断ち切れない、と悟りました。

憎しみを捨てない限り、憎しみは、新たな憎しみを生み、憎しみの連鎖は途絶えることなく繋がっていきます。そして、それは、報復の連鎖を呼び起こします。

しかし主イエスは、その憎しみの連鎖を、十字架の赦しによって断ち切ってくださいました。

主イエスは、私たちが、憎み合うのではなく、互いに愛しあうこと、互いに赦し合うことを、ご自身の十字架によって示してくださいました。

ご自分に敵対する人をも、限りなく尊い存在として、最後まで愛し抜かれました。

「父なる神様、彼らを赦してあげてください。この人たちは何をしているか分からずにいるのです」。

このような愛は、人間の中にはありません。神であられるお方だけがお持ちです。

これは、人間には語れない言葉です。生来の人間の心の中には、このような言葉を語る資質はありません。

もし、人間がこのような言葉を語れるとすれば、それは主イエスの愛に覆われた者だけではないでしょうか。

私たちは、主イエスが与えてくださった、この平和を、このキリストの平和を、心から喜び、日々の生活の中で、少しでも実現していく者でありたいと切に願います。