MENU

柏牧師:過去の礼拝説教

「すると鶏が鳴いた」

2017年10月01日 聖書:ヨハネによる福音書 18:15~27

教会で、しばしば、こういう質問を、受けることがあります。「先生、私のような者も、天国にいけるのでしょうか。私は、失敗ばかりしているから、心配です。」。

皆さんは、どうでしょうか。こんな心配をされたことはないでしょうか。

「いや私は、そんな心配は、一度もしたことがない」、と言われる方は、おられるでしょうか。

私たちは、主イエスの、十字架の贖いによって、罪救われたから、天国に行ける、と信じています。その希望に、生かされています。でも、弱さの故に、失敗を繰り返してしまいます。

そんな自分の姿を見つめる時、「本当に、私のような者も、天国に行けるのだろうか」、と心の片隅に、チラッと不安を、感じることは、ないでしょうか。

今朝の御言葉は、ペトロが、主イエスのことを、三度も否んだ出来事を、記しています。

ペトロは、数々の失敗を、犯しています。でも、主イエスのことを、三度も知らないと言った、あの夜の出来事は、その中でも、最も深刻な失敗です。まさに、痛恨の出来事です。

「私は、あんな人知らない。あの人とは関係がない」と、ご丁寧に、三度も言ったのです。

三度も言ったのですから、これは、衝動的な行為ではなく、確信犯です。では、そんなペトロは、天国には、行けないのでしょうか。

翻って、自分を見つめる時、自分にもペトロの弱さがあります。いえ、ペトロよりも、もっと弱い自分がいます。失敗を繰り返すペトロは、私たちの代表であると言えるかもしれません。

では、もし、ペトロが、天国に行けないなら、私たちも、天国に行けないのでしょうか。

今朝は、そのことについて、ご一緒に、御言葉から、聴いていきたいと思います。

このペトロによる、主イエス否認の出来事は、四つの福音書の、すべてに記されています。

主イエスの、十字架の死と、復活の出来事は、もちろん四つの福音書の、すべてに書かれています。しかし、それ以外で、四つの福音書のすべてに、書かれている出来事は、実は、それほど多くはありません。教会にとって、極めて大切な事柄だけです。

皆さん、ちょっと考えてみてください。この出来事は、ペトロしか知らない、出来事の筈です。それなのに、なぜそれが、四つの福音書のすべてに、書かれているのでしょうか。

考えてみれば、おかしなことです。どうしてでしょうか。

それは、ペトロが、この出来事を、何度も、何度も、教会の中で、語って聞かせたからです。

普通であれば、こんなに弱くて、みっともない、自分の姿は、隠しておきたい、と思う筈です。

しかし、ペトロは、それを、繰り返して、語ったのです。なぜでしょうか。

それは、この出来事が、私たちの救いにとって、大切なことを、語っているからです。

この出来事の中に、キリストの恵みが、込められているからです。

ペトロは、教会の歴史における、最大の功労者の一人です。そのペトロについて、誰もが必ず語るのが、このペトロの否認の物語です。もっとはっきり言えば、ペトロの裏切りの物語です。では、それは、一体、何を意味するのでしょうか。

主イエスは、ゲツセマネの園で、捕らえられ、アンナスの屋敷に、連れてこられました。

その時、ペトロは、暗闇に紛れて、群衆の影に身をひそめながら、こっそりと後について行ったのです。

しかし、そこにいた人々に、「あなたもあの人の弟子ではないか」、と言われたとき、三度も「違います。あんな人知りません。私とは何の関係もありません」、と言ってしまったのです。

ペトロは、つい数時間前の、最後の晩餐の席では、「私は、あなたのために命を捨てます。あなたに、最後まで、ついて行きます」、と豪語しました。

しかし、その時、主イエスから、「ペトロよ、鶏が鳴く前にあなたは三度、わたしを知らないと言うだろう」、と予告されたのです。そして、実際に、その通りになってしまいました。

ゲツセマネの園で、主イエスはご自分を捕えに来た人たちに向かって、「だれを捜しているのか」と、ご自分の方から尋ねられました。

人々が、「ナザレのイエスだ」と答えると、主イエスは、「わたしである」、と宣言されました。

では、ペトロは、どうだったでしょうか。「あなたも、あの人の弟子の一人ではないか」、と尋ねられたときに、ペトロは、「違う」、と答えてしまったのです。

ペトロが答えた、「違う」という言葉は、原文では、主イエスの、「わたしである」、という言葉の、否定形になっています。「わたしではない」、と言っているのです。

主イエスの、力強い「I am」に対して、ペトロは、弱々しく「I am not」、と言ったのです。

主イエスは、「わたしである」と、はっきりと、宣言されました。

主イエスは、ご自分であり続けて、おられます。救い主としての使命に、止まり続けておられます。ご自身が、どのような存在であるかについて、全くぶれることは、ありませんでした。

それに対して、ペトロは、「わたしはそれではない」と、自分を否定して、しまっています。

あなたはイエスの弟子ではないか、と問われたときに、「わたしである、Yes, I am.」と言えば、ペトロは、自分を貫くことが、できたのです。

けれども、ここで、自分を否定してしまっています。自分を殺してしまっています。

「わたしではない」、と言ってしまったのです。

聖書は、なぜ、教会の指導者である、ペトロの過ちを、このように、繰り返して、語ってきたのでしょうか。私たち人間とは、このペトロのように、弱いものなのだ、と言いたいからでしょうか。それもあるでしょう。しかし、それだけではないと思います。

この出来事は、後のペトロの存在を形作る、根源的な出来事であったのです。

そのことを、更に、御言葉から聴いていきたいと思います。

「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った」、と16節に書かれています。

ここにある、もう一人の弟子が、誰であるかは、分かりません。しかし、この弟子は、大祭司の知り合いで、門番がその人の顔を見ただけで、「どうぞ」と言って通すほどの、有力者であったようです。その人の口利きで、ペトロは、アンナスの家の、中庭に入っていきます。

この時、門番をしていた女性が、ペトロに、「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」、と尋ねました。ここでは、とても小さな裁判が、行なわれています。

ペトロが、門番の女中に、裁かれているのです。本当に、小さな裁判です。

一方では、実力者と言われるアンナスが、主イエスに向き合って、主イエスを裁いています。そして、ここでは、門番の女中が、ペトロに向き合って、ペトロを裁いています。

そして、ペトロは、その女性に裁かれて、「違う」と言ってしまったのです。

「違う」と言って、自分を否定してしまったペトロは、中庭で、僕や下役たちと一緒に、炭火にあたっています。いかにも、自分は、群衆の一人に過ぎない、というような顔で、ちゃっかりと、炭火の火を囲みながら、立っています。

炭火を囲んで、暖まっていた人たちは、尋問されている、主イエスについて、色々と噂話を、していたと思います。嘲る者、興味半分の者、或いは、真相を見極めたいと思っている者。

様々な人たちがいたと思います。よく言う人もいれば、悪く言う人もいたでしょう。

ペトロは、そんな会話に、耳を傾けながら、彼らと一緒に、傍観者の一人となっていました。

しかし、このペトロの姿を、私たちは、笑うことが、できるでしょうか。だらしのない奴だと、非難することが、できるでしょうか。この時の、ペトロの姿は、私たちの姿ではないでしょうか。主イエスについて、しっかりと、証ししなければならない時に、ちゃっかりと、この世の一員になって、白々しい顔をしている。私たちも、そんなことをしては、いないでしょうか。

「あなた、神様が、本当にいると、信じているの?それなら、私に、イエスという人のこと、教えてよ」。そう聞かれた時、「いえ、いえ、とても、そんな…」と言って、主を証しする、絶好の機会を、拒否していることはないでしょうか。

ペトロのように、世の人々と、一緒になって、炭火に身を暖めながら、主イエスを傍観している、というようなことは、ないでしょうか。

誤解しないで頂きたいのですが、いつも、クリスチャンらしさを、プンプン臭わせていなさい、と言っているのではありません。

そうではなくて、ここぞ、という時に、どのような、表情をしているかなのです。

その時に、尚も、傍観者としての顔を、示しているか、それとも、「わたしはあのお方の弟子だ」と、はっきりと言えるかどうか、なのです。

ペトロは、最も大切なところで、「わたしはあのお方の弟子だ」と、言い損なっています。

主イエスは、裁きの中で、「わたしが語ったことは、それを聞いた人々に、尋ねるがよい」、と言われました。

その時、本当なら、ペトロが立って、「私は、この人の弟子です。この方が語られたことは、私が証言します」、と言うべきであったのです。

それなのに、その時に、「違う」という言葉が、聞こえてくるのです。

三度目に、ペトロが、「違う。私ではない。私は、あんな人知らない」、と言った後、直ぐに、鶏が鳴きました。「するとすぐ、鶏が鳴いた」。

この時の鶏の鳴き声は、ペトロにとって、胸を突き刺すように鋭くて、また、限りなく重い響きを持った、鳴き声でした。

主イエスが語られた、裏切りの予告を、想い起させる、一声であったからです。

ルカによる福音書では、鶏が鳴いた時、主イエスが、振り向かれて、ペトロを見詰められた、と書かれています。この時の、主イエスの眼差しについて、昔から二つの見方があります。

一つは、それは、ペトロを、裁くような、厳しい眼差しであった、という見方です。

もう一つは、それは、ペトロを赦す、慈しみの眼差しであった、という見方です。

どちらの眼差しであったのか。私は、その答えは、明らかだと思います。

ペトロを赦す、慈しみの眼差しに、違いないと思います。なぜなら、その眼差しに触れて、ペトロが、激しく泣いた、と書かれているからです。

もし、裁きの眼差しであれば、ペトロは、落ち込むことはあっても、激しく泣くことはなかったと思います。もし、裁きの眼差しであれば、ペトロは、無言の内に、抗議の眼差しを、主イエスに、返したかもしれません。

イエス様、あなたは、私を裁くけれど、私たちの期待を裏切った、あなたにも、非があるのではないでしょうか。あなたは、もっと、賢く振舞えたはずです。すべてを捨てて、あなたに従ってきた私たちを、こんな目に遭わせるなんて、ひどいじゃないですか。

もし、主イエスの眼差しが、裁きの眼差しであったなら、ペトロは、ペトロなりに、それに抗議する眼差しを、返したかもしれません。

しかし、この時の、主イエスの眼差しは、裁きの眼差しでは、ありませんでした。

裏切りを、無条件で赦す、赦しの眼差しでした。弱いペトロを、包み込む、慈しみの眼差しでした。離れていこうとするペトロを、捕らえて離さない、無限の愛の眼差しでした。

弱い自分を、赦してくださり、慈しみの眼差しをもって、捕らえてくださる。この主イエスの愛に、迫られたからこそ、ペトロは、激しく泣いたのです。激しく、心を揺さぶられたのです。

「そんな男は知らない」と言って、ペトロは、主イエスを否認しました。しかし、主イエスは、ペトロに向かって、「私も、そんなお前なんか知らない」とは、決して言われませんでした。

「私のことを知らない」という、弱さを持ったペトロよ。私は、そのお前の弱さを、よく知っている。それにも拘らず、お前は私の弟子だ。私は、そういう弱いお前を、愛している。

私は、そういうお前を、救うために来たのだ。そのために、私は、ここにいるのだ。

私が、ここで、嘲られ、唾かけられ、打たれているのは、そのためなのだ。

私は言ったではないか。私が来たのは、正しい者を招くためではなく、罪人を招くためなのだ。健康な人には、医者は要らない、要るのは病人である、と。

お前は、その言葉を、忘れたのか。この私の言葉は、どんな時にも、変らないのだよ。

主イエスの眼差しは、ペトロに、そう語りかけていました。

そして、弱いお前を、救うために、私は、これから、十字架にかかるのだ、ということを、暗示していました。この眼差しに、ペトロは支えられたのです。

ペトロは、自分がこんなにも弱い人間であったことを、この時、初めて知りました。そして、その弱い自分を、どこまでも赦し、どこまでも慈しんでくださる、主の愛に接して、泣きました。

皆さん、主イエスは、私たちの弱さを、既に、知っていてくださるのです。私たちの弱さは、既に主イエスによって、知られている弱さなのです。

私たちが、自分の弱さに気付くことは、大切なことです。しかし、それ以上に大切なことは、その弱さを、主イエスが、既に、知っていてくださるということです。

主イエスは、私たちの弱さを、私たちが気付く前から、既にご存知なのです。

そして、その弱い私たちのために、主イエスは、十字架についてくださったのです。

冒頭で、失敗ばかりしている、私たちは、天国に行けるだろうか、と問い掛けました。

その答えは、この主イエスの眼差しの中に、既に、与えられています。

失敗ばかりしている、あなたのために、私は来たのだ。あなたを赦し、あなたを救うために、私は、この命を、十字架にささげる。もし、あなたが、この私の愛を、受け入れ入れるなら、あなたは、今日、私と一緒に、パラダイスにいるのだ。あなたは、このことを信じるか。

主イエスは、今も、私たちに、このような眼差しを、向けてくださっています。

ヨハネによる福音書は、この後、主イエスと、ペトロとの、対話を省略しています。

このペトロの、つまずきに対する、主イエスのお取り扱いは、あの復活の後の、ガリラヤ湖畔の出来事として、語られています。

この先の21章に、記されている出来事です。主イエスの十字架の死によって、すべてが終わってしまったと、諦めたペトロは、ガリラヤに帰って、漁師の生活に、戻ろうとします。

そんなペトロに、復活の主が、近づかれます。ここにも、炭火が、登場します。

主イエスは、炭火を起こして、朝の食事を用意して、ペトロを招かれます。

あの夜の、裏切りの炭火の火は、最後の火ではなかったのです。その後に、救いの炭火が、用意されていたのです。

あの裏切りの夜、サタンは、ペトロをズタズタにしました。到底立ち直れないような、挫折を味合わせたのです。

しかし、主イエスは、そんなペトロを、立ち直らせるために、ペトロに近づかれます。

そして、「ヨハネの子シモン、この人たち以上に、わたしを愛しているか」、と三度も尋ねられました。三度も主イエスを否んだペトロに、三度も愛を求められたのです。

そして、三度ともペトロは、こう言いました。「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。ペトロは生まれ変わったのです。

かつてのペトロのように、私は、誰よりも、あなたを愛しています、などという、傲慢な言葉を、胸を張って言うことは、しませんでした。

私のあなたに対する愛は、あなたが知っておられます。それは、本当に小さな愛です。

あなたは、それを、ご存知です。ペトロは、そのように、変えられていったのです。

ペトロは、その晩年、いつも祈りの中で、泣いていたと、伝えられています。

それは、二つの涙であったそうです。

一つは、主イエスを、裏切ってしまったことに対する、深い懺悔の涙です。これは、思い出す度に、身を切られるような、辛い過去の失敗の出来事です。

もう一つは、そのような、駄目な自分を、主が赦してくださり、用いて下さっていることへの感謝の涙です。

私たちは、ペトロのように、いつも泣いている訳ではありません。しかし、このペトロの涙は、私たちの涙でもあります。

私たちも主イエスによって、赦され、主イエスによって、用いられています。そのことに、心からの感謝を、ささげていきたいと思います。

そして、「あなたは、あの人の弟子ですか」、と尋ねられたなら、「はい、そうです。私はあのお方の弟子です。いえ、ただ、憐れみによって、弟子にして頂いた者です」、と応えることが出来る者と、されたいと願います。

あの夜の鶏は、今も鳴いています。しかし、それは、私たちに、失敗や、背きの罪を、想い起させるための、鳴き声ではありません。

それらを超えて、尚も、私たちを、受け入れてくださる、主イエスの愛を、想い起させる鳴き声です。喜びと希望の、夜明けを告げる、鳴き声です。

その赦しと愛によって、生かされていることを、感謝しつつ、共に歩んでまいりましょう。