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過去の礼拝説教

「愛に苦しまれる主」

2013年07月21日 聖書:ホセア書11章1~11

もう随分前のことになりますが、「冬のソナタ」という韓国のテレビドラマがありました。韓流ブームのきっかけを作ったといわれている大ヒット作品です。

何故このドラマがこんなに人々に愛されたのでしょうか。ある人が、その人気の秘密は、このドラマが「純愛」をテーマとしているからだと言っています。確かに、純愛物語は、時代や文化の相違を超えて、人々に愛され支持されてきました。

聖書の中にも純愛物語がいくつかあります。その中の一つが旧約聖書のホセアの物語です。ホセア書の舞台となっているのは、今から2700年も前の時代です。

ダビデ、ソロモンの時代に大いに栄えたイスラエル王国は、ソロモンの死後、北王国イスラエルと南王国ユダに分裂してしまいます。

その後、北王国イスラエルは、アッシリアによって滅ぼされてしまうのですが、ホセアは、その北王国滅亡の直前まで、預言活動をした預言者です。

北王国最後の10年間は、5人の王が次々に立っては倒れ、政権を奪い合うという混乱の時代でした。宗教的にも、異教の神々に対する偶像礼拝が公然と行われていました。

特にカナン地方の土着宗教である、農耕の神「バアル」に対する礼拝が、イスラエルの民の中に深く食い入っていました。

主なる神様は、このようなイスラエルの民の不信仰を、どんなにか悲しまれた事でしょう。

神様は、ご自身の悲しみの深さ、痛みの大きさを、預言者ホセアに知らせるために、考えられないような辛い家庭生活を、ホセアに求められました。

ホセア書の1章から3章までに、ホセアの家庭生活が記されています。

ホセアは神様から「淫行の女」と分かっている、ゴメルという女性を妻として迎えるように命じられます。この淫行の女は、主なる神様から離れ、他の神々を礼拝しているイスラエルの民の象徴です。「淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ」。

常識ではとても従えないような命令であるにも拘らず、ホセアは主に命じられた通りに、ゴメルを妻として迎え入れ、彼女を愛します。

しかし、ゴメルは、ホセアの愛を裏切り、他の男性に走り、姦淫による子を3人も宿してしまいます。ところが驚いたことに、ホセアは、この3人の不義の子供を、すべて自分の子として受

-++け入れて育てるのです。しかし、ホセアのこのような誠意にも拘らず、ゴメルは愛人たちの後を追って、とうとう家を出て行ってしまいます。

ここまで聞かれて、きっと皆さんは、ゴメルと言う女はなんとひどい女だろう。とんでもない女だ、と思われていると思います。

でも、神様の愛を豊かに受けているのにも拘らず、毎日繰り返して、その神様の愛を裏切っている自分自身の姿と、ゴメルの姿を重ね合わせて見る時、私たちは、ゴメルを人ごととは思えなくなるのではないでしょうか。

預言者ホセアは、このような自分の家庭生活の痛みを通して、神様のイスラエルの民に対する、悲しいまでの愛と苦悩を知らされます。

ホセアがゴメルに、食べ物や飲み物を豊かに与えて愛したように、神様はイスラエルの民に、豊かな恵みを与えられました。しかし、神様が恵みとして与えた金や銀を使って、人々は何とバアルの偶像を造り、神様に反逆したのです。

「その金銀を与えたのはこの私ではないか。何故それを私に対する背きのために用いるのか」。神様の悲痛な嘆きの声が、ホセアの口を通して語られています。

そして遂に神様の裁きがゴメルに下ります。ゴメルは愛人に捨てられ、とうとう奴隷にまで転落してしまいます。これは、アッシリアの圧迫を受けて滅亡寸前のイスラエルの姿を表しています。神様に背き続けるイスラエルは滅んで当然なのです。

ところが、神様の御心はその民を滅ぼす方向には向わなかったのです。それどころか、何とかして人々を、もう一度立ち帰らせようとする熱心へと向うのです。

神様はイスラエルを捨て去る事が出来ず、ホセアに驚くべき事を命じます。

「行け、夫に愛されていながら、姦淫を行う女を愛せよ」。

これはすごい命令です。自分の真実な愛を裏切り、他の男性のもとに走った妻を、それでもなおも愛し、迎え入れよ、と神様はホセアに命じられたのです。この時、ホセアの心のうちに起こった苦悩、葛藤は想像を絶するものであったでしょう。

しかし、驚いたことに、ホセアはそのことを実行するのです。しかも、考えられないような大きな犠牲を払ってまでそうするのです。何とホセアは、全財産をはたいて、ゴメルを家に連れ戻したのです。持ち物すべてを使い果たして家に連れ帰ったゴメルに対して、ホセアは考えられないような優しい言葉を掛けます。「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間私のもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる」。

ホセアは、連れ帰った妻に対して、一言も恨み、辛みを語っていません。妻の過去の行状を一切とがめることをしないばかりか、これからはどこにも行かず、一生私のもとで暮らすようにと述べ、自分もゴメルのもとにとどまり、誠意を尽くす事を約束するのです。

これほどの純愛物語があるでしょうか。これはもう「冬のソナタ」を遥かに超える純愛物語ではないでしょうか。

ホセア書1章から3章には、人間ホセアの愛の葛藤のドラマが記されています。

しかし、ホセア書は更に続きます。先程読んで頂きました11章では、人間ホセアの純愛ドラマに替わって、神様の純愛ドラマが語られています。

ホセア書11章は、「旧約聖書が神様の愛について語った最も偉大で、最も美しい詩である」と言われています。

この11章では、親と子の譬えを通して、神様の愛が語られています。

1節で神様は、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」、と言われています。

私は、お前たちイスラエルを、その幼いころより愛し、お前たちを「わが子」としてエジプトの地、奴隷の家から救い出した。

どうか、そのことを思い出して欲しい。私は、その時の麗しい関係を取り戻したいのだ。

このように、神は熱い思いをもって、民に呼び掛けています。

しかし、続く2節の御言葉は悲しく、また残酷です。「わたしが彼らを呼び出したのに、彼らはわたしから去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたいた」。

ここで、神様は、こう言っておられるのです。「私は預言者や使者を遣わして、何度も何度もイスラエルの民に呼び掛けた。それなのに、私が呼べば呼ぶほど、彼らはますます私から離れ、バアルに犠牲をささげ、偶像を礼拝することを止めなかった」。

これは、まさに神様の悲痛な嘆きの言葉です。

親にとって最も辛いこととは何でしょうか。それは、最愛の子に呼び掛けても無視され、「お前なんか私の親じゃない」と罵られることではないでしょうか。

主なる神は、まさにそのような悲しみを、ここで味わっておられるのです。神様の悲しみの言葉は更に続きます。

3節です。「エフライムの腕を支えて、歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった。」

エフライムというのは北王国イスラエルの別の名前です。ですから、エフライムと言う言葉は、イスラエルと置き換えて読んでも良いと思います。

親が幼な児にするように、イスラエルの腕を支えて、歩くことを教えたのは私ではないか。病気の時に看病し、癒したのは私ではないか。それなのに彼らはそのことを知ろうともしない、と神様は嘆きの声を漏らしています。

親なら誰しも、わが子が歩き出した時に、心配しながらも喜んで、手を取って歩くことを教えた経験をお持ちだと思います。また、赤ちゃんが病気の時は、夜も寝ずに看病した経験をお持ちだと思います。

私は、赤ちゃんを育てる親のような愛をもって、イスラエルを愛したのに、イスラエルの民はそのことを知ろうともしないと、神様は嘆きの声を挙げておられるのです。

このように、全く幻滅するような民の背きにも拘らず、神様の愛の訴えは尚も続きます。

4節では、神様は、家畜を世話する優しい主人のように語ります。

「わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎からくびきを取り去り、身をかがめて食べさせた」。

ここでのイスラエルは、まるで愚かな家畜のように描かれています。そのようなイスラエルの民を、神様は、憐れみと愛の手綱をもって導き、顎のくびきを取り去って、身をかがめて必要な食物を与えられたのです。まことに慈愛溢れる神様のお姿がここに描かれています。

この4節の後半の部分を、ある人は、次のように訳しています。

「私は彼らに対して、赤子を抱え挙げて、頬ずりする者のようであり、私は身をかがめて彼に食べさせた」。

この訳によれば、神様は、赤ちゃんを抱き上げ、頬ずりしながら食べ物をあげる、父親の姿と重なっています。イスラエルの民が可愛くて可愛くてたまらない、と言った神様のイメージが描かれています。

しかし、そのような父親の想いにも拘らず、子であるイスラエルは、父のもとに立ち帰って来ません。悔い改めようとしない民に、神様は遂に深い嘆きと怒りを覚えます。

愛の神様は、また同時に義なる神様でもあります。神様の正しさは人の背きの罪をそのままにしておくことができません。とうとう神様は、イスラエルに対して裁きの言葉を告げます。

5節~7節には、神様のイスラエルに対する厳しい裁きが語られています。

しかし、ホセア書11章は裁きの言葉では終わってはいません。

続く、8節、9節はホセア書全体の頂点とも言うべき言葉です。ここでの神様のお姿は、単なる裁きの神ではなく、裁きと赦しの間で葛藤し、苦悩する神です。

背き続ける人間は裁かれ、罰を受けなければならない。

かし、人間を裁かなければならないという、まさにそのことの故に、裁かれる人間よりも、裁く神様ご自身の方がもっと深く苦しまれる。8節は神様の悲痛な叫びです。

「あぁ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか」。

「自らの背信の故に、審かれようとしているイスラエルよ!しかし私はそのようなお前を見てはいられない。どうしてお前を見捨てることができようか」。

神様はこのような言葉をもって、人間に臨まれるのです。

アドマとツェボイムとは、ソドムとゴモラと共に滅ぼされた町の名前です。イスラエルの人々にとっては、裁きを想い起こさせる地名です。

「あのアドマのように、あのツェボイムのようにお前を突き放すことはできない」、と神様は苦しみの声を挙げています。

皆さん、ここでエフライムやイスラエルの代わりに、それぞれご自分のお名前を置き換えてこの箇所を読んでみてください。

「ああ柏よ、お前を見捨てることができようか。明史よ、お前引きを渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。」

このようにエフライムをご自分の苗字に置き換え、イスラエルをご自分の名前に置き換えて、ご一緒に読んでみましょう。

「ああ柏よ、お前を見捨てることができようか。明史よ、お前引きを渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか」。

神様はこのような悲痛に満ちたお声を、今日も私たち一人一人に掛けて下さっています。

私たちは、本当に神様の御心を悲しませることの多い者です。しかし、神様はそんな私たちに、「どうしてお前を見捨てることができようか」、と言ってくださっているのです。

そして、驚くべきことがこの後に続いて語られています。

呼び掛けても、呼び掛けても、向きを変えようとしない人間に替わって、遂に神様の方が向きを変える事を決意されるのです。

8節の後半の御言葉はこのように語ります。「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」。

「激しく心動かされ」と訳されている言葉は、直訳すると、「私の心は、私に反して、向きを変え」となります。これは驚くべきことです。

神様は怒りをもって人間を裁かず、むしろその怒りをひっくり返して、人間を愛される、と言われているのです。

「神、ご自身に対立する神」、もっと言えば「神と戦われる神」のお姿がそこにあります。

裁かなければいけないご自分の心の向きを強引に変えてまで、人間を愛そうとされる神様のお姿です。そのために神様の御心は引き裂かれ、苦しみ、悩みます。

「憐れみに胸を焼かれる」という言葉を、ある英語の聖書は、「my love for you is too strong」と訳しています。

my love わたしの愛は、for you あなたに対する、 is too strong 強すぎる。

「あなたに対する私の愛は強すぎる」というのです。強すぎる愛の故に、神様は苦しまれるのです。背き続ける子供のために、子供よりも親の方が苦しんでいるのです。

善人を愛し、悪人を憎むところには痛みはありません。しかし、悪人を善人と同じように愛することは、簡単にはできません。

日本語で、簡単なことを言い表すのに。「苦もなく」とか、「難なく」と言います。

悪人を善人と同じように愛することは、苦もなく、難なく、出来ることではありません。

そこには、「苦難」が伴うのです。痛みと苦しみが生じるのです。

愛とは、そのような痛み、苦しみを引き受ける力であると言えます。

愛がなければ、そのような痛み、苦しみもないでしょう。しかし、愛があるために、しかも強すぎる愛があるために、神様は苦しまれるのです。

神様の御心を悲しませてばかりいるこんな私のためにも、神様は苦しまれておられる。

この私に、強すぎる愛を注いでくださっているために、この私を見捨てることが出来ずに、神様は苦しまれておられるのです。

私たちは、教会で「神は愛である」という言葉をもう何回となく聞いています。

しかし、神の愛の背後にある、この神の苦しみを理解しないなら、キリスト教は単なる感傷的な宗教になってしまいます。

確かに「神は愛そのもの」です。しかし同時にまた、「神は苦しまれるお方」でもあります。

そして、この神の愛と苦しみは、主イエスの十字架において頂点に達しています。

まさに、主イエスの十字架は、神様が、愛と裁きのジレンマの中で苦しまれた、その究極のお姿を示しています。そこはまさに、神が神と戦われた場所であったのです。

さて、9節で神様は怒りを消し、イスラエルを再び滅ぼすことはしないと、赦しの言葉を語られています。しかし、この赦しは、人間にできることではありません。神様にしかできないことです。御言葉は、そのことを9節後半で語っています。

「わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」。

神が神である、とはこのようなことを言うのではないでしょうか。

神が聖なるお方である、とはこの様なことを言うのではないでしょうか。

そして、その聖なるお方は「お前たちのうちにいる」お方だというのです。神様は、天上の御座に鎮座ましまして、私たち人間を傍観者のように眺めておられる方ではないのです。

罪に満ちたこの世で必死になって戦っている私たちと、共にいて、共に戦い、共に苦しんで下さっているお方なのです。

何という素晴しい恵みでしょうか。この神様の苦しみこそが、人間と神様との和解を実現させる唯一の道筋なのです。

そして、10節、11節の御言葉は、最終的な神様の愛の勝利を高らかに告げています。

ホセア書11章は壮大な神様の愛のドラマです。神様の純愛物語です。本来は、愛するに値しない者を、ご自身を引き裂いてまで愛そうとされる神様の愛。

ある人は、この愛を、バラの花を包む風呂敷に譬えています。バラには棘があります。

この棘は私たちの罪を象徴しています。

バラの花を風呂敷で包むとは、神様が愛をもって、罪ある私たちを覆ってくださることを意味します。バラの花を風呂敷で包み、強く抱き締めれば抱き締めるほど、バラの棘は風呂敷を刺し貫き、抱き締めている方の腕を刺し、血を流させます。

主イエスが十字架で流された血は、私たちの罪の棘によって流された血です。

それによって私たちは赦され、生かされているのです。この主の愛の風呂敷によって包まれ、覆われていることを心から感謝したいと思います。

そして、どの様にして、その愛に応えていけば良いのかを、日々問い続けていく者でありたいと心から願います。