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過去の礼拝説教

「神の愚かさ 人の愚かさ」

2013年07月14日 聖書:ルカによる福音書 10:25~37

遠藤周作の作品の中に「わたしが・棄てた・女」という小説があります。

いわゆる純文学と呼ばれる作品ではなく、通俗的な、軽い小説です。

しかし、その内容は大変豊かで、遠藤周作が一貫して追い求めていた、「愛の愚かさ」について感動的に語られています。

他者の弱さや苦しみを、自分のこととして悲しみ、苦しむ生き方。そのような生き方の中に、純粋な愛を見い出し、愛の砂漠のような現代に、愛の回復を訴えていく。

遠藤周作の作品に共通する主題が、この小説でも採り上げられています。

主人公は森田ミツという女性です。田舎から出て来て、製薬会社の工場で働く平凡な娘です。その森田ミツを、ただ欲望のはけ口として弄んだあげく、紙屑のように捨てた吉岡努という大学生。その吉岡が綴った手記の形式で物語は進んで行きます。

地味で、無学で、貧しくて、何処と言って取り柄のない森田ミツ。しかし、彼女は人の悲しみ、人の苦しみを見過ごすことが出来ない女性でした。

そんなミツの性格を利用して吉岡は、自分が如何にも不幸な男であるかのごとくに演技します。そのわざとらしい言葉をミツは本気で信じて、吉岡に同情し、自分の体を吉岡に与えてしまうのです。吉岡は、ミツを一度抱いただけで、あっさりと棄ててしまいます。

しかし、吉岡がミツを棄てて、他の女性に行っても、ミツは吉岡を愛し続けます。

ミツは毎晩のように夜勤をして、苦労してお金を貯め、吉岡に贈る靴下と、実際には実現することのない次のデートのために、ちょっと洒落たカーディガンを買いに行こうとします。

その途中で、いつも嫌がらせを受けている職場の田口という男が、妻と言い争っているのに出会ってしまいます。

田口は、酒や賭博で給料の大半を使ってしまうような男でした。その日も、妻は、子どもの学校の給食費を払わなければならないので、何とかして欲しいと田口に頼んでいるところでした。しかし、田口は「駄目なものは駄目だ」と言って去って行ってしまいます。

呆然と立ち尽くす妻と子供を見ているミツの心は、その妻と子供の方に傾いていきます。

この小説を読んでいる私は、そこでうすうす気づいてしまうのです。

きっとミツは苦労して貯めたそのお金を、可哀そうな親子に上げてしまうだろう。

そして私は、心の中でこう叫びます。「ミツ、止めておきなよ。あの親子の問題は、彼らが解決すべき問題じゃないか。お前は、一生懸命夜勤をして、そのお金を稼いだんじゃないか。自分の願いを叶えるために、そのお金を使いなよ」。

しかし案の定、ミツはそのお金を田口の妻に上げてしまいます。その時ミツは、心の中に、ある声を聞くのです。その声は、こう言っています。

「私はお前がどんなにカーディガンが欲しいか、どんなに働いたかも、みんな知っているよ。だから、そのお前に頼むのだ。カーディガンの代わりに、あの子と母親とに、お前が持っているお金を使ってくれないか。この人生で必要なのは、お前の悲しみを、他人の悲しみに結び合わすことなのだ。そして、私の十字架はそのためにある」。

ミツはクリスチャンではありません。ですから、最後の言葉の意味は分かりません。

しかし、この声に促されて、ミツは必死になって働いたお金を、その親子に上げてしまうのです。ミツは、他人の苦しみを見過ごしにできないお人好しの「おばかさん」でした。

そんな彼女は、手首にちょっと変わった痣がありました。ある時、病院で見てもらうと医者たちの顔つきが変わります。彼女は、ハンセン病と診断され、直ぐに御殿場にあるハンセン病の保養施設に行くことを指示されます。

ハンセン病に罹った事実に、ミツは打ちのめされます。施設には、既に、病に罹った人たちが入居し共同生活をしていました。

顔や手が崩れてしまっている人たちの姿を見て、ミツの絶望感は更に深まります。

しかし、自分を温かく受け入れてくれる彼らの優しさに慰められながら、ミツは支えられていきます。やがて、この人たちのことを嫌悪していた自分を、恥ずかしく思うようになります。

施設に入所してから3週間ほど経った時、彼女は施設の中で受けた精密検査の結果を知らされます。検査の結果は驚くべきことでした。

何と、彼女はハンセン病ではなかったのです。ミツは、直ちに施設を出ることになりました。

「ハンセン病のミツ」を温かく迎えてくれた患者たちは、「ハンセン病でなくなったミツ」に羨望の眼差しを向けます。その眼差しを背に受けつつ、ミツは施設を出て御殿場駅に向かいます。しかし、何故か、その足取りはのろのろしています。

ミツは、用もない御殿場の町をさまよい歩きます。ここでも、本を読んでいる私は、また心の中でミツに語りかけます。「ミツ、もしかして、施設に戻る気じゃないだろうね。止めなさいよ。あなたは病気じゃないんだから。早く東京に帰って、自分の幸せを探しなさい」。

しかし、その私の声を振り切って、案の定、ミツは施設に戻っていきました。

そして、修道女たちの手伝いを始めるのです。ミツは何という愚かな女性なのでしょう。

ハンセン病患者ではないのに、その施設に戻って行き、そこで患者のために働く生き方を選び取ったミツ。しかし、ある日、ミツは、患者さんたちが一生懸命に作った卵を売るために、町に出て行った時に、交通事故に遭って、あっけなく一生を終えてしまいます。

卵を放り出せば助かったかも知れないのに、卵を守ろうとして命を落としてしまったミツ。

本当に愚かなミツ。しかし、私は、この愚かなミツの生き方に激しく心を揺さぶられました。

長々と小説の紹介をしてしまいました。なぜこんなに長く、この小説の話をしたかと言いますと、今日の御言葉の注解書として、この小説が最適であると思ったからです。

今日の御言葉は、有名な「善きサマリア人」の譬えの箇所です。

物語の筋書きは簡単です。聞いただけで、誰にでも良く分かります。

ある人がエルサレムからエリコに下っていく途中に、追いはぎに襲われて、殴られ、衣服を奪われ、半殺しにされます。

その道を、祭司、続いてレビ人が、たまたま下ってきます。しかし、二人とも、その人を見ると、道の向こう側を通って行った、というのです。

襲われた人は明らかに、祭司やレビ人と同じユダヤ人です。そして、祭司もレビ人も、ユダヤにおける宗教上の指導者たちです。

しかし、彼らは、その人を助けようとはせず、道の向こう側を通って行ったのです。

それに対して三人目のサマリア人は、当時ユダヤ人とは敵対関係にありました。

その敵対関係にあったサマリア人が、「近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」のです。

その上、翌日には、宿屋の主人に2デナリオンを渡し、「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」と言ったのです。

祭司やレビ人は、なぜその人を見たのに、道の反対側を行ったのでしょうか。

挙げようとすれば、色々な理由をあげることが出来たと思います。

もしその人が死んでいるなら、死体に触れることは汚れることになると律法に書いてある。そうなると汚れを清めるために、面倒な手続き踏まなければならない。それは避けたい、と思ったかもしれません。

そうではなく、単に先を急いでいただけかもしれません。

或いは、関わり合いを持つことで自分の身に危険が及ぶことを恐れた、とも考えられます。

その他、様々な理由をあげることが出来るでしょう。しかし、どんな理由を挙げても、その理由のすべてを、サマリア人もまた挙げることが出来た筈です。

いずれにしても、祭司とレビ人は、助けなかったのです。

一方、敵対関係にあったサマリア人は、その人を見ると、直ぐに近寄って介抱しています。

聖書には、この時、サマリ人が躊躇したとか、暫し迷った、などとは書かれていません。

極めて、自然に近寄って、介抱したのです。

この箇所を読んでいる私たちは、何となく、このサマリア人はかなり裕福な人であると、勝手に想像してしまいます。2デナリオンを、惜しげもなく宿屋の主人に渡し、足らなければ帰りに寄って払います、と言っているから、きっとお金持ちなのだろうと思い込んでしまいます。

しかし、聖書には、この人がお金持ちであるなどとは、一言も書かれていません。

もしかすると、この人は貧しい人であったかもしれません。2デナリオンは、この人が一生懸命働いてやっと貯めたお金であったかも知れません。もしそうであれば、この人は、とんでもないお人好しです。愚かとも思えるほどのお人好しです。

先ほどの小説を読んでいるとき、私は何度も、「ミツ、そんなことしなくて良いよ。止めておきなよ」と心の中で呼び掛けました。

もし、私が、このサマリア人の友人であったなら、きっと同じ思いを抱くと思います。

「よしなよ。ほっとおきなよ。同胞のユダヤ人の祭司やレビ人でさえ見捨てた人じゃないか。

それを何故、敵であるサマリア人のお前が助けるのか。そのお金だって、苦労して稼いだお金じゃないか。それで、家族にお土産でも買って帰りなよ」。

きっと心の中でそんなことを言うと思います。しかし、このサマリア人は、傷付いた旅人を助けてしまうのです。人間的に見れば、損な生き方です。愚かな行為とも言えます。

このサマリア人の生き方は、小説の中の森田ミツの生き方と重なります。

二人とも愚かです。何故そんなことをするのか、と言われたら返す言葉もないと思います。

でも、主イエスは、このサマリア人のことを愚かであるとは言っておられません。

却って、この人と同じようにしなさい。そうすれば、永遠の命という宝が得られる、と言っておられるのです。

一方、主イエスが愚かだ、と言われた人の話が、同じルカによる福音書の12章16節以下に書かれています。ここに出てくるのは、人生に成功した大金持ちです。

一生遊んで暮せるだけの財産を得て、それを大きな倉に納めて、これからの人生を贅沢に、楽しく暮そうとしている人です。人間的に見れば成功者です。賢い人であるとも言えます。

しかし、主イエスは言われました。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、一体誰のものになるのか」。

こうして見て来ると、人間の考える愚かさと、主イエスの言われる愚かさは、違うようです。

私たちは、森田ミツやサマリア人のような生き方は、賢い生き方ではない。損な生き方であると考えます。

確かに立派かもしれないけれども、愚かとも思えるほどのお人好しだ。そんな生き方をしていたら、この厳しい世の中を渡っていくことはできない。そう考えます。

でも主イエスは、そのような生き方こそが、賢い生き方なのだと言われるのです。

なぜなら、それによって永遠の命の救いを得るのだから、と言われるのです。

ここで、もう一つ考えたいことがあります。それは、この物語の主人公のサマリア人とは、一体誰のことであるか、という事です。

一般的には、このサマリア人は、隣り人として生き方のモデル、或いは目標として示されていると捉えられています。

隣り人としてのあるべき姿が、ここに示されている。そのように捉えるのが一般的です。

しかし、私は、このサマリア人は、主イエスご自身のことである、と捉えても良いのではないかと思っています。そこで、注目していただきたい言葉があります。

それは、「その人を見て憐れに思った」という言葉です。

これは、サマリア人が旅人を助けた唯一の理由として書かれている言葉です。

なぜサマリア人は助けたのか。その理由は、「その人を見て憐れに思った」。

ただ、それだけだったのです。その他に理由はありません。

この「憐れに思った」と訳されている言葉は、もともとは「はらわたが痛む」という意味の言葉です。自分の腹が痛むほどの深い憐れみの心を表わす言葉です。

傷ついた人を見ると、たちまちに自分のはらわたが痛む。だから、通り過ぎることが出来なくなる。お腹が痛くなるということは自然のことです。思わず痛くなるのです。

ですから思わず近寄って、助けたのです。それだけのことであったのです。

実は、この「憐れに思った」という言葉は、福音書の中では、父なる神様と主イエスにしか使われていない言葉なのです。譬え話の中で使われている場合でも、父なる神様か主イエスのことを表わしている場合だけです。

もし、このサマリア人が、私たち人間のことを指しているなら、ここが唯一の例外になります。しかし、私はそうではないと思います。

このサマリア人は、主イエスご自身のことをも指しているのだと思うのです。

ですから、この言葉が使われているのです。

主イエスは、苦しむ人、悲しむ人の心に、ご自身の御心を重ね合わせずにはいられないお方でした。人々の苦しみ、悲しみを見ると、自然にはらわたが痛むお方でした。

主イエスは、なぜ神の座を捨てて、この地上に来てくださったのでしょうか。

私たち人間が、罪に苦しんでいる姿を見て、憐れに思われたからです。

人間の傷ついた姿を見て、はらわたが痛んだからです。

ですから、主イエスは私たちの所に、近寄って来てくださいました。

主イエスは、そのようにして私たちの隣り人になってくださいました。

そして私たちの傷を癒してくださいました。御言葉の油を塗ってくださり、救いのぶどう酒を注いでくださり、愛の包帯で私たちを包んでくださいました。

その主の憐れみに生かされる時に、私たちは初めて、このサマリア人の心に生きることが出来るようになるのだと思います。

この「善きサマリア人」の譬えは、ある律法学者が、「わたしの隣人とはだれですか」と質問したことへの答えとして、主イエスが話されたものです。

律法学者は、自分の愛を受けるに値する隣り人とは誰か。それを、限定して欲しいと言ったのです。無制限に他人のことを考えていったら、自分の生活が成り立たなくなる。

そんな愚かな生き方はできない。そう思って、「隣人とは誰ですか」と質問したのです。

まことに賢い質問です。世の中を生きていくのに長けた人の質問です。

しかし、主イエスは、問題は「誰が自分にとって隣人か」ではないのだ、と言われたのです。

そうではなくて、助けを必要としている人に近寄って、自分が隣り人となってあげる。

このことこそが、大切なのだと言われたのです。

私たちの隣り人になってくださった主イエスが、そう言われるのです。

誰が私の隣り人だろうかと、限定するのではなく、「私が、隣り人になる」のです。

主イエスが隣り人になってくださったように、助けを必要としている人の苦しみを、自分の苦しみとして背負って、はらわたを痛めて、隣り人になるのです。

それは、賢い生き方には見えないかもしれません。愚かな生き方に見えるでしょう。

しかし主イエスご自身が、その愚かな生き方を私たちにために選び取ってくださったのです。神であられるお方が、ご自分に背き続ける人間のために、すべてを投げ捨てて僕となってこの世に来てくださり、十字架にかかってくださった。

これは、賢くありません。愚かです。

自分を信じて、自分に尽くしてくれる人のために犠牲を払うということは、あり得ます。

しかし、自分に背き、自分に敵対している者のために、すべてを献げるということは、賢い人のすることではありません。愚かな行為です。

しかし、私たちは、その神の愚かな業によって救われたのです。

そして、その神様が、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われているのです。

隣り人を限定しようとした、賢い律法学者のようにではなく、あのサマリア人のように、あの森田ミツのように、愚かと思えるような愛に生きて欲しい。

私は、あなた方が、無制限に与えられないことを知っている。

だから、あなた方が、出来ることで良いのだ。為し得る限りのことをすれば良いのだ。

サマリア人も、森田ミツも、自分に出来る限りのことをした。それで良いのだ。

私が、愚かなまでにあなた方を愛したように、あなたがも互いに愛し合って欲しい。

主は、このように呼び掛けておられるのです。

「行って、あなたも同じようにしなさい」。

この主の呼び掛けの声を、聞き続けていくお互いでありたいと願います。