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過去の礼拝説教

「人にはできないが神にはできる」

2013年10月13日 聖書:マタイによる福音書 19:23~30

先ほど、マタイによる福音書19章23節~30節の御言葉を読んで頂きました。

この御言葉の直前の16節~22節には、皆様が良くご存知の、主イエスと富める青年の会話が記されています。

一人の青年が、主イエスに近寄ってきて、「先生、永遠の命を得たいのですがどうしたらよいでしょうか」、と尋ねました。

主イエスは、この青年に対して、「命を得たいのなら、掟を守りなさい」と答えられました。

するとこの青年は、誇らしげに「そういう掟は皆、守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」、と更に問い掛けました。

これに対して、主イエスは、大変厳しいお言葉を返されました。

「あなたが、もし完全になりたいのなら、持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから、わたしに従いなさい」。

このお言葉を聞いて、この青年は悲しみながら立ち去りました。永遠の命を得るためなら、何でもしようと思っていたのです。そのためなら何でもできると思っていたのです。

でも、主イエスから、そのためには財産を捨てなさいと言われて、自分にはそれが出来ないことを初めて知らされました。

信仰者としての誇りを粉々に打ち砕かれて、この人は悲しみながら立ち去ったのです。

この青年は、たくさんの財産を持っていた。だから、それを捨てられなかったのだ、と御言葉は語っています。それなら、財産が少なかったなら、それを捨てられるのでしょうか。

私たちは、自分をそんなに大金持ちだとは思っていません。では、自分たちの方が財産を捨てるのが簡単だと、果たして言えるでしょうか。必ずしもそうではないと思います。

少なければ少ないなりに、むしろそれにしがみつくということが、実際にはあります。

財産などと言えないほどの僅かなものであっても、それに固執して、それを手放せない、という私たちの現実があるのです。

ですから、この青年の姿は他人事ではありません。むしろこの人は、私たちの代表です。

では、もし、私たちが、主イエスから同じことを言われたなら、私たちもまた、悲しみながら立ち去ることになるのでしょうか。

確かに、この青年の姿は、私たちと重なっています。しかし、私たちは、この青年のように立ち去ることはしません。立ち去らないで、毎週こうして礼拝に出席しています。

どうして私たちは立ち去らないのでしょうか。

私たちがこの青年よりも優れているからでしょうか。そんなことはありません。

実は、私たちには、立ち去らなくても良い訳があるのです。ですから、主イエスのもとに留まっているのです。そのことを、これからご一緒に聴いてまいりたいと思います。

主イエスは、富める青年が立ち去って行かれるのをご覧になりながら、「金持ちが天の国に入るのは難しい」と仰いました。

「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と仰ったのです。

このお言葉をきいて、弟子たちは非常に驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」、と言いました。

弟子たちは、全てを捨てて主イエスに従って来ました。ですから、あの青年とは違って、自分たちは大丈夫だと思って、安心していたのでしょうか。実は、そうではなかったのです。

「金持ちが、天国に入れないなら、一体誰が入れるのだろうか」。そう言って不安に駆られていたのです。何故、弟子たちは、こんなことを言ったのでしょうか。

それは、この当時、こういう考え方があったからです。

金持ちであるというのは、神様の祝福を受けている、ということだ。長生きをして、子どもにも恵まれ、財産も豊かであるということは、神様から祝福されているという徴である。

地上で、そのように祝福されている者は、天の祝福をも豊かに与えられるに違いない。

そう考えられていたのです。

ですから、あれほど神様に祝福されている人が、天の国に入れないとしたら、一体誰が入れるのだろうか。弟子たちはそう思って、不安になったのです。

あの人が駄目なら、自分たちも救われないに違いない。そう思ったのです。

主イエスは、そんな弟子たちを、慈しみの眼差しを持って、じーっと見つめられました。

主イエスは、その時の弟子たちの不安を、しっかりと受け止めてくださったのです。

一体誰が救われるのだろうか。あなたがたは、そのことを思って、不安になっているのだね。そのような憐みの眼差しで、弟子たちを見つめられました。そして、続けてこう仰いました。

「それは人間にできることではない。しかし、神は何でもできる」。

直訳して言えば、それは人間に関して言えば不可能なことだ。しかし、神に関して言えば、全てが可能だ。主イエスは、そう仰ったのです。

これは、採り様によっては、当たり前のことである、とも言えます。

人間に出来ないことも、神にはできる。そんなこと当り前だ。

神が全能だというのは、そういうことではないか。そんなこと位、私たちでも分かっている。

そのように思われる方もいるかもしれません。

しかし、この時の主イエスのお言葉は、その様な常識的なことを言っているのではなくて、もっと深い意味を持っているのです。

確かに神様は全能のお方です。何でもお出来になるお方です。

でも、その何でもお出来になるお方が、どんなことをしてでも人間を救いたいと思われたら、一体何が起こるでしょうか。

全能の神様が、それだけの決意をされて、人間を救おうとされたら、何が起こるか。

そのことを一番よく知っておられたのは主イエスです。

だから、主イエスは、十字架にかかられたのです。どんなことをしてでも、私たち人間を罪から救おうとされたのです。

この時、主イエスは、父なる神様の御心に従って、エルサレムへの道を進んでおられました。それは、十字架への道でした。私たちを罪から贖い、救ってくださる唯一の道でした。

ご自分の身に起こることを、すべてご存知の上で、主イエスは「それは人にはできないが、神は何でもできる」と仰ったのです。

言い換えるならば、神がしてくださる他に、あなた方が救われる希望はないと仰ったのです。私があなたがたを救う。それ以外に、あなたがたの救われる道はない、と仰ったのです。

この主イエスの言葉に続いて、ペトロがこう言いました。

「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」

このペトロの言葉から感じ取れるのは、財産を捨てられずに、悲しみながら立ち去った青年と比べて、自分たちは財産を捨てたのだ、という思いです。

他の弟子たちが不安を覚えている様子を見て、ペトロは、自分たちはあの青年とは違うではないか。自分たちは財産を捨てたではないか。すべてを捨てて主イエスに従って来たではないか。だから、何かいただけるものがある筈だ。

そういう思いで、「私たちは、何がいただけるのでしょうか」、と尋ねたのです。

でも、この問いは間違いです。明らかに、主イエスのお言葉を、受け損ねています。

主イエスは、人間には出来ないと仰ったのです。

出来ると思っていることが間違いだと仰ったのです。それなのに、ペトロはここで、逆のことを言っています。「私たちはやりました」と言っているのです。

主イエスが、「これは神にしか出来ないことなのだ」と言われたことに対して、「違います、人間にも出来るのです。私たちはやりました」、と言っているのです。

恐らく、こんなことを言ってしまったことを、ペトロは後になって後悔したと思います。

何故かと言いますと、ここで胸を張って、自分たちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりましたと言ったにも拘らず、この後直ぐ、ペトロは、主イエスを見捨てて逃げてしまったからです。従い切ることができなかったのです。

主イエスは、既にこの時、そうなることを存知でした。

それにも拘らず、主イエスは、「すべてを捨ててあなたに従ってまいりました」、というペトロの言葉を、否定されておられません。その言葉をそのまま受け止めておられます。

「そうだね」と仰っています。あなた方は私に従って来た、そして、これからもそうだ。

だから、あなた方は、新しい世になった時、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる、と仰ったのです。どうしてでしょうか。

この時、主イエスは、目の前のペトロだけを見ておられたのではないのです。

ずっと先の先までの、ペトロの姿を見ておられたのです。

当のペトロ本人は、この時は未だ分かっていません。自分はあの金持ちの青年とは違うと思っています。

自分はすべてを捨てて、主イエスに従って来た。そして、これからも、ずっと従い通せると思っているのです。でも、そのペトロは、やがて自分の現実を思い知らされることになります。

従い通せると思っていたことが、どんなに甘い見通しであったかということを、骨身に沁みて分かる時が来るのです。

あの金持ちの青年は、永遠の命を得るためだったら、どんなことでもしますと胸を張った。

けれども、すべてを捨てて従いなさいと言われて、悲しみながら立ち去った。

その同じ思いを、その同じ悲しみを、ペトロ自身が味わう時が来るのです。

ペトロにも、そういう時が来るということを、主イエスはご存知でした。

しかし、主イエスは、そんなペトロを、尚も捕らえて離しませんでした。

だからペトロは、主イエスの許に留まり続けることが出来たのです。

そして、最後は、主イエスに従って殉教の死を遂げるまでに至ったのです。

ペトロは、逆さ十字架に付けられて殉教したと伝えられています。

その殉教の死の時に、ペトロは、「私は、あなたのために、こうして命を捨てました。さぁ、あなたは私に何をくださいますか」、などという傲慢な問いは尋ねなかったと思います。

「私はこんなに頂いています。こんなに大きな恵みを頂き、この恵みに生かされています。この命をもってしても、その恵みにお応えすることは出来ません」。

恐らく、そう言いつつ天に帰ったと思います。

主イエスは、この時、そのようなペトロの生涯の全体を見ておられたのだと思います。

何もかも捨ててあなたに従ってまいりました、という言葉を、最終的にはそうなる言葉として、受け止めてくださったのだと思います。

続いて主イエスは仰いました。「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」。

恐らく、ペトロを始め、初代教会の人たちの中には、この言葉を、その通りに経験した人が大勢いたと思います。

迫害の中で信仰を保っていくために、こういうものを全部捨てなければならなかった人たちが、実際にいたと思います。

そういうものを全部捨てて、主イエスに従う決心をして、教会に繋がった人たちがいた。

でも、その人たちは、教会の中で、それらを取り戻したのです。

家を捨てた自分を迎えてくれる神の家があった。或いは、家族を捨てた自分に、新しい神の家族が与えられた。主の食卓を共にし、必要なものを分かち合う家族がいた。

そして、何よりも、永遠の命という救いの恵み、かけがえのない宝を頂いた。それは、自分が捨てたものの何倍もの価値があった。心からそう思った人たちがいたと思います。

確かに、教会において私たちは新しい家を与えられ、新しい家族を与えられます。

ただ、この御言葉は、そのことだけを言っているのではないと思います。

私たちが、信仰を持った時、つまり、神様を第一とする生活を始めた時、それまで第一であった、家や家族はどうなるのでしょうか。第二、第三になるのです。

では、それは、家や家族を今までより軽んじ、今までより愛さなくなる、ということなのでしょうか。全く違います。その逆です。

ナルニア国物語の著者のC.S.ルイスという人が、こういうことを言っています。

「もし私が、この世で一番愛するものよりも神を愛するようになったら、この世で一番愛するものを、今よりももっとよく愛せるようになるでしょう。…第一のものを第一にする時、第二のものは抑えつけられるのではなく、むしろ、さらに拡がっていくのです。」

神様を第一とする生き方を始めた時、それまで第一としていたものに対する愛は、更に深まり、更に拡がっていくのだ、とC.S.ルイスは言っています。

私たちが、救われて、神様を第一とする時、私たちは、今までよりも、もっと深い愛をもって、家族を愛することが出来るようになる。そのことを発見するのではないかと思います。

偶然出会って、自分で選んで結婚したと思っていた夫や妻が、実は、神様が、私の生まれる前から、私にとって最良のパートナーとして選んでくださって、与えてくださった人であった。

そのことを知った時、私たちの愛は、どんなものにも揺らぐことのないものへと深められるのではないでしょうか。

神様を第一とする時、私たちは、今までより、何倍も深く家族を愛することが出来る者とされます。29節の御言葉は、そのことをも語っていると読むことが出来ます。

今日の箇所の最後で、主イエスはこう言われています。

「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。

ここで、主イエスが言われている、先にいる者とは誰でしょうか。

誰よりも、主イエスご自身ではないでしょうか。

主イエスこそ、先頭に立つべきお方です。しかし、先頭に立つべきこの主イエスが、一番後の者になってくださいました。一番高い所におられるべきお方が、一番低い所に降りて来てくださいました。そして、十字架の上で、命を投げ出してくださいました。

その結果、一番後ろにいた者が、先頭に立つようになったのです。

では、一番後ろの者とは誰でしょうか。

私たちは、悲しみながら立ち去った金持ちの青年のことを忘れることが出来ません。

この青年はこの後、どうなったでしょうか。

私は、この人も、弟子たちと同じ恵みを受けることが出来たのではないか、という思いに導かれています。

なぜなら、後の者が先になると、主イエスが仰っておられるからです。

自分は天国から一番遠い所にいると思って、悲しみながら立ち去っていったこの人。

自分は、一番後ろにいると思っていたこの人こそが、先頭の者になるのだ、と主イエスは仰っているのではないかと思うのです。

ですから、私たちは、この青年についても、希望を持つことが出来ます。

教会の片隅で語り伝えられているある伝説によれば、この青年は、イスカリオテのユダに代わって十二使徒に加えられたマティアではないか、と囁かれています。

この伝説の信憑性は極めて疑わしいとされています。恐らく、この青年に同情する人たちが後になって作り出した、根拠のない話であろうと思います。

しかし、私は、この伝説に心惹かれます。

神様に従えない自分を悲しみ、自分の弱さをよく知っている人。そういう人を、神様は、決して見捨てられることはないと信じるからです。

今日は、神学校日、伝道献身者奨励日です。伝道に献身する人が起こされることを、祈り求める日です。

献身者とは、「すべてを捨てて神様に従った」と言い切れる人なのだろう。そう思っておられる人が多いと思います。

しかし、私は、献身者の一人として、とてもそんなことは言えない自分である、ということをよく知っています。

しかし、そのような私をも、主イエスは受け止めてくださって、何とかして造り変えてくださろうとしておられるのです。それは、人には出来ないけれども、神には出来るのです。

ですから、もし、今日、この中に献身の思いを抱きつつも、ためらっておられる方がいらっしゃるならば、立ち去らずに、一歩踏み出して頂きたいと思います。

自分自身のことも分かっていないペトロのずっと先を見られて、主イエスは、あなたに十二部族を委ねると言われたのです。

献身者だけではありません。私たちすべての者の全生涯を、主イエスは見ておられ、受け入れてくださっています。

そのことを知った時、私たちは希望を持つことが出来ます。

ですから、私たちは、立ち去らないのです。主イエスの許に留まるのです。

望みがあるからです。

神様が、必ず私たちを、救われるに相応しい者にしてくださるという望みです。

それは、私たち人間には不可能です。でも神様はお出来になります。

そこに私たちの希望があります。